09 一番星







 シュリとヘルムートが、その日の宿となる村にたどり着いたのは、東の空に一番星がまたたき始めた頃合だった。
 そろそろ本格的に冬が始まろうとしているこの季節の一番星は、早くも冬の星へと代替わりしている。
 吹き抜けてゆく木枯らしの前触れに首をすくめながら、だが二人は急ぐことなく、村落の雰囲気を確かめるようにゆっくりとした足取りで、村の中心部へと道を歩いていった。

 意図的に、騒乱の起こっている地域を避けていることもあるが、現在、二人が進んでいる街道は人通りが多くもなく少なくもなく、ぼつぼつと近隣の住民や旅人とすれ違う程度の賑わいで、街道沿いの村も五十軒程度の小規模のものが多い。
 険しい地形のない丘陵地では身の隠しようもないためだろう、人々の生活を脅かす山賊の類の噂話を聞くことも滅多にない、珍しいほどに穏やかな地域だから、路銀を稼ぐのは難しかったが、その代わり、一晩の宿を求めることは簡単だった。
 たとえ集落に専門的な宿屋がなくとも、農作業の合間の楽しみを与えてくれる行商人や旅芸人を泊めた経験は、どこの村長の家でも持っている。
 多少の礼金と共に、見知らぬ土地の興味深い話を幾つか披露すれば、比較的快く、屋根と壁のある休息の場を提供してもらうことができた。





 村の宿は大きくはなく、客室も二階の四部屋しかなかったが、夕食は質量ともまずまずで、室内はシュリの目から見ても綺麗に片付けられていた。
 そして、ありがたいのは壁際に暖炉が据えつけてあったことである。
 火事の用心のため、安宿だと火の気のあるものは室内に一切置かれていないことも珍しくないのだが、この宿は気前がいいのか、客に親切なのか、暖炉の横にはちゃんと薪も積み上げてあった。
 もちろん薪を消費すれば宿代に加算されるが、南方育ちで寒さが苦手なシュリにとっては、そんなことは何の問題でもない。
 いそいそと暖炉に火を入れてその前にしゃがみこみ、炎に手をかざして頬をほころばせた。
「あったかーい。やっぱり、これからの季節はちゃんとした宿じゃないと駄目だね。野宿なんかしたら、凍え死にそう」
「そうだな」
 穏やかに答えるヘルムートは、しかし、シュリほど寒さを苦にしているような印象はない。
 おそらくは彼の故国が群島諸国よりも北にあり、国土そのものも北の山岳地域からの季節風と、海からの季節風との影響で、緯度の割に温暖とは言い難い気候だからなのだろう。
 シュリもクールークの領海まで船で行ったことはあるから、あの国の冬場の沿海地域がどれほど冷たい風にさらされるものなのかは、何となく予想がつく。
 だが、だからといってヘルムートの温度感覚に合わせていたら、自分は寒くてかなわない、と割り切って、シュリは気兼ねも遠慮もなく、宿屋に暖炉を発見したらすかさず使用することにしていた。
「シュリ」
「何?」
 ほくほくと火に手をかざしていたシュリは、名を呼ばれても振り向かない。
 が、次の一言で頬に浮かんでいた笑みを消した。

「少し話をしたいんだが、いいか?」

 ゆっくりと立ち上がって振り返り、ヘルムートの顔を見る。
 窓の外が黄昏時の薄蒼に包まれた今、室内の明かりは暖炉と、二台のベッドの間に置かれたテーブルの上のランプだけだった。
 その明かりの中で、こちらを見つめるヘルムートは静かな表情をしていた。
 少なくとも、こちらを咎めたり責めたりする気はないようだ、と思いながらも、シュリはどうしようかと少しだけ迷う。
 ヘルムートが言うところの話したい事が何なのかは、予測がついていた。というよりも、他に思いつかなかった。
「……もしかしなくても、最近の僕の態度の話、だよね?」
「──ああ、そうだ」
 肯定の返事も、やはり非難の響きはなく。
 仕方ない、とシュリは腹をくくる。
 ここで今は話したくないといえば、ヘルムートは引き下がるだろう。だが、引き下がったままではいてくれないはずだ。
 必ず近いうちに、あくまでも冷静な態度で再度何らかの答えを求めるだろう。
 あるいは君には関係ないとでも逆ギレして喧嘩を吹っかけ、うやむやにしてしまうという手段もないわけではない。
 だが、ヘルムート相手にそんなことは天地がひっくり返ったとしても、したくはなかった。
「座ってもいい?」
「ああ」
 小さな部屋には、座る場所といえばベッドくらいしかない。
 クッションでもあれば暖炉の前に座ったのだが、あいにくとそんなたぐいのものは見当たらなかった。
 それぞれ自分用の固い寝台に腰を下ろしながら、シュリは頭の中で言葉をまとめる。
「あのさ、そんなに僕の態度、分かりやすかった?」
「いや、分かりやすくはなかった」
 まずは、と問いかけてみると、それはあっさり否定された。
「何かおかしいと思ったのが十日ほど前で、それから今日まで見ていて確信したというのが正確なところだ」
「……見てた?」
「ああ」
「……気付かなかった」
「それだけ、お前の注意が薄かったということだ。普段なら他人の視線に気づかないお前じゃない」
 だから、おかしいと思ったんだがな、とヘルムートはシュリの青い瞳を見つめ返した。
「俺が聞きたいのは一つだけだ。お前が考えていることは、俺が聞くべきことか、そうでないのか。俺が聞くべきことでなければ、これ以上は聞かない」
 その言葉に、シュリはまた内心、途方に暮れる。

 はっきり言ってくれればいいのだ。
 隣りでぐずぐずと何日も何かに悩み込まれているのは気に障る、と。
 とっとと白状しろと怒鳴られたら、こちらも対処のしようがあるのに。
 こんな風に出られたら、洗いざらい話すしかないと思ってしまうではないか。

「──聞いてもらうべきなのかそうじゃないのか、正直、僕にも良く分からない」
 溜息混じりに、シュリは白状した。
「確かに僕は、このところ、ずっと頭に引っかかってることがあるんだけど、上手くその答えを出すことができないでいる。というよりも、それは、そもそも僕一人じゃ答えが出ないことだと思う。問題はすごく個人的なことだけど、僕以外の人も関わっていることだから」
「それを俺が聞いてもいいのか?」
「聞いて欲しくないのなら、最初から言わないよ」
 あくまでも生真面目なヘルムートの問いに、シュリは半ば諦めの溜息をつく。
「勿論、誰でもいいというわけじゃないんだ。話を聞いてもらうのは、君でなけりゃ意味がない。というより、答えにならない」
 そして、もう一度深呼吸した。
 それからゆっくりと目線を上げ、ヘルムートを正面から見つめる。
「あのさ、二十日くらい前のことだけど、覚えてる? 街道の途中で薔薇の花を見つけた時のこと」
「ああ、勿論。──それが?」
「あの時、僕がした話。あれが僕の子供の頃の話だってことは気付いてるよね?」
「ああ」
 当然のことだった。
 昔話の形も、伝え語りの形も取らなかったのだ。
 いくら他人事のように話したところで、ごまかせたわけがない。
 けれど。

「君が聞いた通り、大した話じゃない。ただの昔話だ。──でも、僕は、ああいう話をこれまで一度も、誰かにしたことがなかった」

 思い切って、一息に言葉を吐き出す。
「話す相手もいなかったし、話したいと思ったこともない。そんな話をする時間もなかった。本当に……あれが初めてだったんだ」
 話したところで、楽しい話題ではない。
 せいぜいが同情されるか憐れまれるか、あるいは蔑まれるか。
 そして、話の中には自然、かつての主人たちの使用人に対する態度がどんなものであったか、その輪郭がにじんでしまう。
 それは長年、彼らに養われた身として、口にするのは許されないことだった。
 少なくとも、主人一家を知っている人々がいる場所──群島諸国にいた間は。
「だから……」
「だから?」
 言いよどんだシュリを促すように、ヘルムートが繰り返す。
 彼はまだ、シュリが何を言いたいのか分からないようだった。
 だが、それも仕方ないだろうとシュリは思う。あくまでもこれは、シュリの内面の問題なのだ。
 そして、シュリはこれまで、自分の本心を積極的に語ったことは一度もない。
 負の部分まで含めて本心を明かしたのは、せいぜいがエレノアの前でくらいだっただろうか。
 あの女傑の前では何一つごまかせなかったし、上辺だけの言葉で納得してもらうこともできなかったから、理詰めで攻められたら、ある程度、正直に語るしかなかったのだ。
 だが、ヘルムートを含む他の人々に対しては、嘘はついたことはないが、それ以上の真実を明かしたこともない。
 何ら手がかりを持たないヘルムートの洞察がシュリの内面にまで届かないのは当然のことであり、シュリが望んだ結果でもあった。
「正直に言うと、困ってるんだよ。僕は」
「何に?」
「口に出す気がなかったことを、君には話してしまったから」
 その言葉に、ヘルムートは少しだけ考え込む。
 そして、短い沈黙の後、言った。
「お前が忘れて欲しいのなら、忘れるが?」
「──いや、いいんだよ、それは。覚えててくれても」
 微妙にずれたヘルムートの反応に少しばかり脱力を覚えながらも、シュリは相手の誠実さに応えようと、もう少し丁寧に己の心情を説明する言葉を探す。
「つまり僕が問題にしてるのは、話した内容そのものじゃなくて、うっかりそういう話を口にしてしまった自分の心理だから」
 そして、最も単刀直入な表現を選んだ。
「君は呆れるかもしれないけれど、僕はあの日から、どうして自分が君にそういうことを話してしまったのかを考えてたんだよ。それで、僕は多分、君に色々なことを話したいんだろう、っていう結論に達した。今のことだけじゃなくて、昔のことも含めて。──でも、それが良いこととは思えなくて、今困ってる」
 ゆっくりと言葉を紡いで、反応を待つ。
 不意に訪れた沈黙に、暖炉の薪がぱちぱちとはじける音だけが響き、少しずつ夜が更けていっているのだという事をシュリに思い出させた。
 この村に着いた時、東の空に輝き始めたばかりだった一番星は、そろそろ天頂近くでまたたいているだろうか。
 あの、蒼く凍てついた天狼星は。
 目の前の現実から逃避するかのようにそんなことを思っていると、
「……すまないが、どうしてそれが良いことと思えないのか、理由が分からない」
 しばらくの間、微動だにせず言葉を噛み砕いていたヘルムートが、おもむろに顔を上げて問いかけてきた。
「どうして、って」
「お前の言ったことを俺なりに解釈すると、お前が自分の昔の話をしたがらないのは、それがあまりいい話ではないから、というのが理由なんだろう。だから、俺にも話すつもりがなかった。それで間違いはないか?」
「──違わない」
「では、お前が判断を下す材料を一つ、俺から追加させてもらいたいんだが、いいか?」
「材料?」
「ああ。俺はお前の話がどんな内容であれ、それを聞くのを嫌だとは思わない。──そう言ったら、お前はどう判断を変える?」
「え……」
 シュリは大きく目を見開いた。
 どくん、と心臓が鳴る。
「嫌じゃない、って……」
「そのままの意味だ」
 そう言い、ヘルムートは、ようやく糸口を掴んだとでもいうように肩の力を抜いて、少しだけ姿勢を楽なように動かした。
「あの薔薇にまつわる女性の話をした時も、俺は別に不愉快だとは思わなかった。俺自身が義姉上の話をしたことも、お前の昔の話を聞いたことも。むしろ、同じ人間と一緒にいれば、折に触れてあんな風に自分の話が出てくるのは普通じゃないのか?」
「それはそうかもしれないけど……」
「シュリ」
 名を呼んだヘルムートの声は、いつもと同じく落ち着いていて。
「俺だって、そんなにいい昔話は持ってない。だが、お前が嫌でないのなら、ささいな思い出話をしたいと思うことは、これまでも時々あった。口に出すべきかどうか分からなかったから、これまでは殆どしなかったがな」
「───…」
 思いもしなかった答えに、呆然とシュリはヘルムートを見つめた。
 こうもあっさりと自分の葛藤を肯定されてしまうと、どう反応すればいいのか分からなくなる。
 だが、すぐに我に返って、そんなものではないのだ、とシュリは訴えた。
「でも本当に、僕の子供の頃の話なんてロクなことがないんだよ。そりゃ女中のおばさんや庭師のおじさんには可愛がってもらってたのは本当だけど、すっごいこき使われてたし、スノウは優しかったけど、それ以上に抜けてたし……!」
「だから? それが何だ?」
 言われて、シュリはヘルムートの声が笑いを含んでいることに気付く。
 見れば、ランプと暖炉の火明かりの中で、オーク材のような色を帯びた彼の瞳は、確かな微笑をのぞかせていて。
 シュリは自分の中から最後の気負いが抜けてゆくのを感じた。
 そして、皮袋がしぼむように肩を落として、まなざしを伏せる。
 それが拗ねてしょげた幼い子供の姿によく似ていることには気付かないまま、次に口から出た声は、いつになく小さかった。
「だから、さ。ヘルムート」
「何だ?」
「そういうのって……全然楽しくない昔話をするのって、つまり、僕が君に甘えてるってことじゃない? だから僕は、」
「それに困り果てて、十日以上も悩んでたわけか」
「……そう」
 すべて暴露してしまえば、そういうことだった。
 だから、シュリは自己嫌悪に陥りながらも、素直にうなずく。
 と、ヘルムートが立ち上がる気配がした。
「ヘル……」
 呼びかけた声は、しかし途中で途切れて。

「意外なところで、お前は不器用だったんだな」

 わしゃわしゃと、だが優しさの感じられる手で髪を軽くかき回され、シュリは心の底から驚く。
 もしかしなくとも、頭を撫でられたのだと気づくまでには、彼が離れていってから数秒の時間が必要だった。
「ヘルムート!」
 暖炉の上においてあった水差しから、二つのコップに水代わりの弱い果実酒を注いでいる後姿に向かって、叫ぶように名を呼ぶと、振り返らないまま答えが返ってくる。
「お前は、俺が十歳近く年上だということを忘れているだろう? 好きなだけ甘えればいい。もっとも、そんな程度のことは甘えのうちに入らないと思うがな」
「だけど……!」
「たまには年上の言うことを聞いても罰(ばち)は当たらないぞ」
 言いながら、グラスを手にヘルムートは戻ってきて、片方をシュリに渡す。
 ひったくるようにそれを受け取ったシュリは、中身を一気に飲み干し、不満を示すようにどんと音を立ててサイドテーブルに置いた。
「僕は納得してないよ!」
「じゃあ、どう言えばいいんだ? お前の昔話なんか聞きたくもないから、金輪際口にするなと言えばいいのか?」
「それは……」
 そうあるべきだと考えていた言葉を言われて、しかし、シュリはその言葉の持つ刃の鋭さに、これまで感じることのなかった痛みを覚える。
 それがシュリの瞳をかすめたのか、シュリを見つめていたヘルムートの表情がふとやわらかみを帯びた。
「シュリ、俺もこれまで親しく付き合った人間は少ない。こんな風に誰かと一対一で、長期間一緒にいたのは初めての経験だ。だから、お前の戸惑いも少しは分かる」
「───…」
「だが、以前にも言ったように、お前の我儘や甘えはたかが知れている。俺にとっては迷惑でも重荷でもない。嫌だとは思わないから、話したいと思ったことは全部話せ。俺も、これからはそうする」
「……それで本当にいいの?」
「それなら逆に聞くが、お前は俺の話を聞くのは嫌だと思うか? 言っておくが自慢話は一つもないぞ。失敗話ばかりだ」
「思わない。失敗話でも何でも、聞かせてくれたら嬉しい」
「だったら、俺も同じだとどうして思えない? あまり物事を難しく考えるな、シュリ。考え過ぎたところでいいことはないぞ」
 その言葉は彼の実感だったのだろうか。
 不思議な重みでシュリの裡にまで届いた。
「──うん。分かった」
 ようやく素直にうなずいて、シュリは大きく息をつき、そのまま仰向けに倒れて寝台に転がる。
「……何だか、悩んでたのが馬鹿みたいだ」
「おい、寝るのならちゃんと毛布の中に入れ」
「分かってる」
 ずっと張っていた気が緩んだせいだろう、どっと眠気が押し寄せてくるのを感じながらも、シュリはもう一度起き上がって上着とブーツを脱ぎ、もそもそと寝支度を整えた。
 そうして毛布にもぐりこみながら、荷物を整理しているヘルムートの姿を眺める。
「……ヘルムート」
「何だ?」

「ありがとう」

 言いそびれていた言葉を告げると、几帳面に荷物を詰めなおしていたヘルムートの手が一瞬だけ止まった。
「これからは、あまり一人で考え込むなよ」
「うん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
 固い枕に頭を預けた途端、シュリの意識はゆらゆらと温かな闇に沈み始める。
 それからしばらくして、初めてお前が年下に見えたな……という呟きと共に、優しく髪を撫でられた時には、既に深い眠りの底に落ち着いていた。








end.







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