05 カフェ







 オープンカフェのテーブル席で、空を見上げている横顔は。
 まるで、子供のようだ、と思った。




 こういう顔を一度だけ、前にも見たことがある。
 あれは、群島での騒乱が終結を迎えて、間もない頃だ。
 自分と共にゼーランディア軍の捕虜となった部下たちと今後のことを話し合い、祖国クールークへ帰ることを決めて、その決断を伝えるためにシュリを探しに行った。
 だが、シュリはオベルの王宮内にも、港に係留された旗艦の中にもおらず、仲間や住民に目撃情報を尋ねながら、シュリの足跡を追っていくと、遺跡を迂回して島の一番西端にある岬に、シュリは一人、佇んでいた。

 その時のシュリの横顔を、どう言えばいいだろう。
 何もなかった、というのが一番近いかもしれない。
 無表情という意味ではなく、どんな表情も洗い流されて浮かばない、そんな印象だった。
 遠く水平線を……空と海を見つめる横顔には、見慣れた鋭さも険しさもなく、いつも裡に抱えていたはずの冷たい鋼のような決意の色さえ消えて。
 初めて空を見た子供のように、ただ遠くを見ていた。

 自分も船乗りであるから、視力には自信がある。
 海から吹き付ける風のせいもあって、シュリがまだ気付かない距離に立ち止まったまま、しばらくその横顔を見ているうちに、彼は途方に暮れているのではないか、と思い当たった。
 途方に暮れているという表現は適当ではないかもしれない。
 とにかく、全てが終わったことに──自身の生命を奪うはずだった紋章の呪いまでもが封じられたことに戸惑い、突然目の前に広がった未来という風景に圧倒されている。遠くを見つめる横顔に、そんな印象を受けたのだ。
 そして、その感覚は自分にも覚えのあるものだったから、しばらくの間、シュリから目をそらして自分も遠く広がる水平線を見つめた。




 自分が、突如目の前に広がった世界に圧倒され、途方に暮れたのは、敵軍の軍主である人物──つまりはシュリの一言がきっかけだった。
 ───ありがとう。
 捕虜となった自分に、開口一番、シュリが言ったのはそんな台詞だった。
 呆気にとられる自分に対し、シュリは真っ青な瞳でこちらを真っ直ぐに見つめたまま、続けて言った。

「貴方の決断のおかげで不要な血を流さずに済んだことは勿論ですが、そればかりでなく貴方は、フィンガーフィート伯の行動によって混乱したラズリルに対し、公正かつ温和な占領策を敷いてくれた。ゼーランディアの軍主として、また元ラズリルの一市民として、僕は貴方に心から感謝を申し上げたい」
「貴方と貴方の部下の今後については、お好きなようにして下さい。祖国に帰られるもよし、ここに留まるもよし。いずれにせよ、僕の名において必要なだけの便宜を図ります。それが貴方の信義と勇気に対する、僕からの返礼です」

 真夏の海そのものの瞳を明るく笑ませ、敵国の士官に告げる言葉には欺瞞の欠片もなく。
 その言葉を聞き終えた時、自分は言葉にならない何かを感じた。

 たとえるならそれは、厚く垂れ込めた雲間から一条の光が差してきたような。
 暗い洞穴の中を彷徨い続けた後、ようやく出口の明かりを遠く見つけたような。

 手が伸ばせば届くほど間近にというわけではない。
 ただ、少しばかり遠くても確実に、間違いなく、自分の行く手には光がある。
 ───長く、自分の進むべき道に迷いを覚えていたことは事実だった。
 祖国の政治は一部の大貴族が形成する貴族議会によって専横され、羅針盤を失った船の如く、迷走を続けている。
 耕作に向かない貧しい国土を抱えているのであれば、中継貿易をするなり工業を興すなり、それなりのやり方があるだろうに、国土の伸張ばかりを考えて、南北に征旅を起こしては国費を消耗し、また、信義の知れない北の大国に尾を振りもする。
 そんな祖国に忠誠を誓いこそすれ、皇国騎士として誇りを抱くことは難しかった。
 騎士の家に生まれ、当然の如く、自分もまた騎士となったが、そんな自分の在り方、そして行く末に対し、心が芯底から晴れたことは一度もないといっていい。
 それなのに、よりによって敵軍の軍主の言葉に、初めてそんな感覚を覚えたことが何よりも驚きで。
 目の前に広がった新たな世界に、圧倒された。

 その感覚に背を押されるようにしてゼーランディア軍に留まることを選んだ後は、シュリを軍主として仰ぎ、祖国と戦う日々が続いて。
 その間、部下たちは自分の判断を是として従ってくれたが、しかし、自分のしていることに迷いがなかったわけではなかった。思い悩むあまり、決戦前夜には、捕虜となった父親に問いかけすらした。
 それでも、クールーク皇帝に忠誠を誓った身としてはあまりにも苦い答えではあったが、群島紛争の最初から最後まで、祖国が正しいとは自分には一度も言えなかった。
 だが、正義がいずれにあったにせよ、自分が祖国を裏切ったことは事実であり。
 一度、任務を拝命した以上、たとえどんな謗(そし)りが待っていようと復命するのが筋だと思ったから、祖国に戻ることを決断したのだ。





 そして、あの時シュリを探しに行き、見つけた横顔と、今、オープンカフェの席で空を見上げている横顔は、寸分違わず同じもので。
 まだ惑っているのだろうか、と思う。
 無論、戸惑うのが悪いというつもりは微塵もない。
 自分も散々に迷い、悩んだ。だから、今のシュリに対しても、ただ一日でも早く、新たに目の前に広がった無限の自由を当然の事と思えるようになったらいいと思う、それだけである。
 長年、背負い続けてきた色々なものが不意に消え失せ、重い枷が外れて自由の身になったとしても、即座に新たなバランスに馴染めるわけではない。
 おそらく戦乱の終結以来、シュリの中には、有自覚無自覚の違和感が幾つも生じているのだろう。
 シュリ自身は何も言わないし、自分も何も言う気はない。
 ただ、シュリにとってそれらの違和感が辛いものでなければいいと、そう思うだけだ。

「待たせたか?」
 近付き、そう声をかけると、ふっと意識を引き戻されたかのように表情に笑みが浮かぶ。
 それすらも、あの時と変わらない。
「少しね。ヘルムートも座ったら? ここのお茶、結構美味しいよ」
「……朝から甘いものか?」
 飾り気のない木のテーブルの上には、ティーセットと共に素朴なケーキの皿も乗っている。
 だが、朝からケーキを食べたいと思うほど甘いものを好む性質ではなかったから、それには断りを入れて自分もまた、テーブル席に腰を下ろす。
 そうして給仕の娘に茶を頼むと、シュリもまた、便乗して茶のお代わりを頼んで。
 市場で仕入れたものについて、あれこれと喋り始めた。

 ───何故、彼と旅することを選んだのか、と少しばかり前に自問したことがある。
 もとから共通点のある自分達ではない。
 更に言えば、今のシュリは真の紋章の宿主であり、不老という点では人間の範疇すらはみ出してしまっている。
 大して自分は、ただの人間──今では何の地位も身分も持たない、流れの剣士でしかない。
 だが、シュリは、そんな自分に共に行こうと誘ったのだ。
 一人よりも二人の方が楽しいよ、とそんなあまりにも簡単な言葉で。
 そして、その何の飾りもない言葉で、今や剣以外の何物も持たない自分を望んでくれたことが。
 何よりも自分には響いた。

 ───あの時。
 呼びかけて振り返ったシュリに、祖国に戻ることを告げながら、それを悔しく思う自分がいた。
 だが、紛争が終結して、ゼーランディア軍は解散されることが決まっており、それ以上、彼の傍で自分ができることはなかった。
 だからこそ、祖国に戻って、自分自身の進退に決着を付けることにしたのだが、それでも、その場を去らなければならないことが酷く惜しかった。
 そして、自分の決断を聞いたシュリが、いつになく静かに笑んで、君のことだからそうするだろうと思っていた、と小さく言ったから。
 余計に感情は揺れた。

 仕方のないことだと割切りはしたものの、そのもどかしさは、祖国に戻る船に乗り込んだ後も、その祖国を出奔した後も、自分の中に密かに息づいていたのだろう。
 そうでなければ、一緒に行こうと言ったシュリの言葉が、あれほど響くはずがない。
 ───そう。
 自分は嬉しかったのだ。
 初対面の時も、そして再会した時も。
 本来ならば全く違う立場も価値観も、何もかもを飛び越えて、自分という存在そのものを認め、求めてくれるシュリの言葉が何にも変えがたく、千金以上の価値を持って心に響いた。
 だから。
 かつても今も、共に行くことを選んだのだ。

「本当にいい天気だよねぇ。なんだか陽だまりの猫みたいな気分になってきた」
 その言葉に我に返り、見ると、本当に空を仰いだシュリの瞳が少しばかり眠たげにまばたきしている。
「……昼寝なら宿屋に戻ってからにしろ」
 反射的にまだ昼前だろうと思ったが、しかし、あてのない旅とはいえ、自分とシュリの性格上、こんな風に怠惰に過ごす機会は案外に少ないとも思い至って、そう言うと、シュリの方もそれは考えていたのだろう。怠惰な案に珍しく同意して、うなずいた。
「うーん。昼寝は、さすがにのんびりし過ぎて勿体無い気もするけど……でも、たまにはいいかな」
「いいだろ」
「じゃあ、このお茶を飲み終わったら宿に帰ろう」
「ああ」
 うなずくと、シュリは半分ほど残っていたケーキを崩しにかかる。
 その様子は、やはりどこか子供めいていて、自由になったことにはしゃいでいるような戸惑っているような曖昧さが、かすかに潜んでいるように自分には感じられて。
 気付かれないように、そっと視線を市場の雑踏へと移す。

 これまで聞いた限りでは、シュリは幼い頃から自由に振舞うことを許されない立場に置かれていたようだった。
 身寄りのない小間使いとして貴族の館で養われた歳月が、そして軍主として人々を導かねばならなかった日々が、シュリが持っていた本来の性情をどれくらい変えたのかは分からない。
 ただ、シュリ自身は、それを不幸としておらず、何事に対しても、時には呆れるほどに前向きに立ち向かってゆく性分の持ち主である。
 おそらくは天性のものだろうその強さがあれば、今は降って湧いたような自由に戸惑っていたとしても、いずれはそれに馴染んで、彼なりに望むこと、行きたい所を必ず見つけ出すことができるはずであって。
 ならば自分は、彼が共に行こうと言ってくれる限り、傍に在ればいい、とそう思う。
 時間の経過と共に自分は老い、いつか別れの日が来ることは避けようのない事実だが、それでもシュリがいいというのであれば、天が許す限り、共に行くだけだ。
 それこそが、自分もまた望むことなのだから。

「行くか?」
「うん」
 ケーキ皿が空になったのを見計らって声をかけると、シュリは荷物をまとめて立ち上がる。
 自分もまた、同じように立ち上がり、オープンカフェを離れた。
「宿屋に戻ったら、とりあえず荷物の整理しなきゃね」
「あと剣の手入れだな」
「あ、磨き砂、いいのあった?」
「ああ。さすがにこの辺り一番の定期市だけあるな。品揃えは中々だった」
「良かった。僕の方もねー」
 楽しげに話すシュリの横顔をちらりと見やって。
 できる限り……彼が望む限り、そして人の身で叶う限り、この旅が長く続けばいい、と。
 心の底から、思った。
 





end.







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