この青い空の真下で -4-








 その顔を見た途端。
 その声を聞いた途端。

「言い訳できるか!?」

 今すぐ飛び掛って、喉を絞め潰してやりたい。明らかにそう訴えている、激しい憎しみに燃え盛る青年の瞳をまともに受け止めてしまった途端、足元が無意識に一歩、後ずさりしようとした。
 怖い、と思う。
 恐ろしい、と心の底から思う。
 何故これほどまでに憎まれるのか。
 何故こんな瞳で睨みつけられるのか。
 理由は分かっている。
 自分が、自分の知っている事を語らないからだ。彼が信じている『真実』を否定することができないからだ。
 分かっている。
 けれど。
 ───どうして。
 どうして、こんなことに。
 静かに……あの小さな町で、少しばかり町の人々から疎外されながらも静かに、三人で生きていきたかっただけなのに。
 それ以外、望んだ事などなかったのに。
 ───どうして、ジョウイ。









 ぼんやりとカザミは一人、寝台に腰を下ろしていた。
 何一つ得るところのなかった軍議は徒労に終わり、簡素な晩餐の際にも人々の言葉数は少なく、並べられた温かなはずの郷土料理も、ただ味気なさだけを人々にもたらした。
 そうして沈鬱な面持ちで、用意された部屋へ向かうべく市庁舎の二階へと階段を上がってみれば。
 そこにまた、あの青年がいた。
 貴様など信じない、と只、その一言を告げるためだけに。
「────」
 燭台の炎を映していたジェスの深茶色の瞳を思い返して、カザミはうつむく。
 こちらの身を引き裂かんばかりの憎悪の色は、目に焼き付いてしまって忘れようにも忘れられない。
 あのミューズが陥落した夜から半年余りが過ぎ、激変した日々に翻弄されるうちに、常に心に重苦しく沈んではいたものの、まるで現実ではなかったことのように遠くなっていた衝撃が、今、あの時以上の痛みを伴って鮮やかなまでに 蘇ってきていた。

 ───燭台の火が灯されただけの、仄明るい大きな部屋。
 そこの主に似つかわしく、室内に派手な装飾や調度品は見当たらず、重厚かつ質実でありながら、訪れた人をくつろがせる温かな雰囲気があった。
 なのに、その部屋の真ん中には赤黒い血溜まりが広がり、そこに見上げるほどに長身で精彩に満ちていた人が、壊れた人形のように倒れ伏していた。
 そして、その傍らには。

「───っ…!」
 ぎゅっと目を閉じる。
 思い出してはいけなかった。
 考えてはいけない。
 あの夜、何が起きたのか。誰が誰を、どうしたのか。
 恐ろしくて口に出せないのであれば、封印してしまわなければならない。
 忘れてしまわなければならない。
 あの光景は、自分たち三人だけの───。
「……そうだ。ナナミ……」
 はっとカザミは顔を上げる。
 自分が今、打ちひしがれているのならば、彼女もまた、同じに決まっている。今日、糾弾されたのはカザミではあるが、弟と自分を区別して考えるような真似が彼女にできるはずもない。
「ナナミ──」
 呟いて。
 ふらりとカザミは立ち上がった。







 夜も更けた市庁舎の一角、ナナミに与えられた客室の室内で、燭台の炎が震えるように揺れ、じじ…と燈芯が燃える微かな音が、沈黙する二人をまるで責めているかのように響く。
「もうこんな戦いなんか止めようよ……」
 何を言い出すのか、と思う一方で、その言葉はひどく、すとん、とカザミの胸の内に落ちた。
 寝台に腰掛けたナナミは、うつむいたままだった。
 顔を見られることを、あるいは目を合わせることを恐れるかのように矢継ぎ早に言葉を繰り出してゆく。
 だが、その言葉の殆どをカザミは聞いていなかった。
 ───もう止めようよ。
 もう、止めたら。
 どうなるのだろうか。
 軍主であることをやめたら。同盟軍のリーダーであることをやめたら。
 もう誰も、自分の事をカザミ様、とかカザミ殿、とか呼ばなくなる。
 誰かに命令をする必要もなくなる。
 軍の先頭に立って、敵陣に突撃する必要もなくなる。
 ───ジョウイの名前を口にすることすら、憚(はばか)る必要も。
 全てを投げ出してさえ、しまえば。
(こんな思いをすることも、なくなる……?)
 呟いて、本当に?と自問する。
 そうして、本当に自分は自分に戻れるのだろうか?
 あの頃のように、何でもないことでナナミと喧嘩をしては仲直りし、他愛なく笑い転げることができるようになるだろうか?
 ───本当に、僕は戻れる?
 あの、今から思えば眩しいばかりの時間に。
「このままじゃ、このままじゃ、セイとジョウイは……!」
 ぼんやりと思うカザミの目の前で、ナナミは一言口にするたびに声を激しくし、激昂してゆくようだった。
 これまで耐えに耐え、堪えていたものが暴発しようとしていたのだろう。狂乱の色さえ滲んだ飴色の瞳が、必死の形相で自分を見上げた時。

 カザミは、半ば反射的にうなずいていた。

「──そうだね……。ナナミの言う通り、僕じゃなくてもいいのかもしれない」
「カザミ……?」
「このまま、ここに居ても。きっとジョウイとは会えない。同盟軍が、ハイランドと戦っている限り。……僕が同盟軍の軍主で、ジョウイがハイランドの皇王である限り」
 互いが互いの立場を捨てない限り、幼馴染としては再会できない。
 互いが望む望まないに関わらず、剣を交え合うしかない。
 周囲の人々が──国が、同盟が、それを望むから。
 望まれるままに動くしかない。
 それが、人々の上に立つものの責任。彼らを、彼らが望むところへと導いてゆくのがリーダーの存在意義。
 けれど。
 自分が、本当に望んでいることは。
「じゃあ、じゃあ……カザミ……」
「うん……」
 異様な熱を帯びていたナナミの瞳の瞳の色が、ゆっくりとやわらぎ、すがるような色に変化する。それを見つめながら、カザミは自分の上衣の隠しへと手を差し入れ、美しい袱紗に包まれた瞬きの手鏡を取り出した。
 見るからに年代ものだと分かる、古風な、けれど美しい装飾を施された銀の手鏡。
 鏡面を見ていると引き込まれそうになるそれは、トラン共和国との同盟の証。
 隣国からの信頼を託された、同盟軍軍主の証。
 それをカザミは、ゆっくりとテーブルの上に置く。
「行こう……ナナミ」
 そして、姉の顔を見つめて。
 優しく微笑んだ。






 荷物といっても、旅の空の下のことである。自分の部屋に一旦戻りはしたものの、愛用の武器と防水布製のザック以外、持ち出すべきものは何もなかった。
 細かいことを言うのであれば、額や左手に装備している紋章も同盟軍に返却すべきものではあったが、ここには紋章師はおらず、また姉弟だけで行くことを思うと、紋章はあった方が絶対に便利である。だから、いつも通りに革手袋をはめ、カザミは一切の荷物を肩に負った。
 そのまま、音を忍ばせて部屋を出る。
 そして、そこで待っていたナナミと目を見交わすと、そっと階段を下り、玄関ホールを横切って市庁舎の正面玄関ではなく、目立たない位置にある小窓の鍵を外して、そこから身軽に外へと飛び降りた。
 ナナミも同様にして地面に降り立つのを待ち、音を立てないように窓を閉める。内鍵をかけ直すことは不可能だったため、今夜一晩、この町と市庁舎に何事も起こらないことを祈るしかなかった。
 市庁舎の前庭から辺りの様子を窺うと、半月よりも少しばかり細い月が今夜は地上を照らし出している。月光のおかげで馴れない土地であっても足元を見誤る可能性は薄かったが、早く町を出てしまわないと誰かに見咎められる可能性もあった。
 行こう、と身振りだけで隣りのナナミに示し、市庁舎の建物を回りこむ。
 と、そこでぎくりと足が止まった。
 満月に比べれば半分くらいの、しかし冴えた月光の中に二つ、佇む人影がある。
 それが誰なのかは、一目で判別できた。
「……ルック……ラスさん……」
 先程ナナミに与えられた客室で、ナナミの言葉を聞いた瞬間から、どこかぼんやりと麻痺していたような思考が不意に醒めた。
 息を呑み跳ね上がった鼓動におののきながら、無言でこちらを見つめている彼らを、カザミは大きくみはった瞳で見つめる。
 と、ナナミがカザミの腕にすがりついた。
「お願い、見逃して!!」
 小さな叫びだった。
 大声を上げたら、他の誰かが気付くかもしれない。ナナミの声もまた、ひどく怯え、かすれていた。
「私もカザミも、もう嫌なの! もう限界なの! あの頃に戻りたいの!! だから見逃して……! お願い、お願いします……!!」
 滲んだ大粒の涙が、月光にきらめきながらナナミの頬を伝い落ちる。
 腕に爪を立てるほど強くしがみついた姉を見やり、カザミは目の前の二人へと目線を戻した。
 そのカザミの瞳には、どんな色が滲んでいたのか。
「───」
 ふ、とルックが小さく溜息をつく。
 そして。
「──今のティントの状況で二人きりで行くのは危険すぎる。途中までは送ろう」
 月の光にも似た、凛と冴えて艶やかな低い声が、静かにそう言葉を紡いだ。
「え……」
「行くんだろう? さっさとしなよ」
 呆然と目をみはったカザミとナナミを置き去りにするように、ルックが市庁舎前から続く坂道を下り始める。
 戸惑い、まだそこに佇んだままの長身の青年を見上げると、彼は、早く、とわずかに頤(おとがい)を動かすことで示した。
「急いだ方がいい。皆、気配に聡い」
「───…」
 何故、と問うのも憚(はばか)られるような彼の表情の浮かばない瞳を月光の下で見つめ、カザミはしがみついたままのナナミを見やって小さく腕を動かし、歩き出すことを促す。ナナミもまた、大きくみはった瞳でラシスタを見上げたまま、しかし素直に弟の腕から離れ、ゆっくりと歩き出した。
 ナナミにカザミ、そしてラシスタも続き、少し先で足を止めていたらしいルックも合流して、四人は黙々とティント市名物とも言える急な階段道を市門に向かって下ってゆく。
 だが、そのまま行けば市門には見張りがいる。カザミは見咎められぬよう、町の外れにある崖道から抜け出すつもりだったが、一足前を行くルックは頓着する様子もなく先へと進んでゆき、やがて市門が目に入る位置まで来たところで不意に足を止めた。
「ルック?」
 どういうつもりなのかと、ひそやかに名を呼んだが、彼は振り向かない。
 ただ、手にしていたロッドを音がしないほどに軽く地面に衝き、一言二言、呪を唱えた。
 ───眠りの風?
 聞き覚えのある古語に、まばたきする。と、視界の先で、二人いた見張り役のティント市兵が、くたくたと糸の切れた人形のように市門に寄りかかり、あるいは地に伏した。
「──なんで……?」
 脱走しようとしているのは、ルックではない。そして、彼は率先して仲間に手を貸してくれるほど、親切な気質はしていない。それが褒められたことでないのであれば、尚更に手を伸ばすことを拒む潔癖さをも持ち合わせている。
 そうと知っているからこその問いかけだったのだが、少年は振り返りもせずに、月の光にも似た冴え冴えとした声を返した。
「やる気のない軍主なんて、有害なだけだ。どこへなりとでも、とっとと逃げ失せればいい。君がいなくなるのが早ければ早いほど、同盟軍は余裕を持ってまた新しい軍主を選び出し、次の方策を考えることができる」
 カザミが軍主としての主体性を見失ったまま、ぐずぐずしていればそれだけ悪影響が大きくなるのだ、と温かみの欠片もない声に、カザミばかりではなくナナミもまた、怯む。
「さっさとしなよ、元軍主殿」
 ルックがカザミをどう見ていたのかは分からない。だが間違いなく、この少年魔法使いを失望させたのだということは、カザミも悟らざるを得なかった。
 当然のことだろう。
 苦しい戦いが続く中、誰もが歯を食いしばり、そこに足を踏みとどまっているのに、その頂点に立っているはずの軍主が、自分は子供だからという理由で逃げ出そうとしているのだ。
 誰も認めてはくれない。
 誰も許してはくれない。
 裏切り者の養子は、やはり裏切り者なのだと、恥知らずな連中だと一生、言われ続けるだろう。
 カザミとナナミというゲンカクがつけてくれた名すら、この先は名乗ることもできなくなるかもしれない。
 裏切り者の、元同盟軍軍主とその姉である限り。
 誰も、何も知らないどこかへと逃げない限り。
 自分たちには、これまでとは全く異なる意味で安住の日々は訪れない。
「……カザミ…」
 彼女もまた何かを思ったのか、どこか不安げにナナミが名を呼ぶ。
「うん……」
 大丈夫だから行こう、と微笑みかけてやる。が、そんな自分たちの後ろに居るはずの青年を振り返り、そこに浮かぶ表情を確かめる勇気はカザミにはなかった。

...to be continued.

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