この青い空の真下で -1-








 何故、あれほどまでにも会いたいと思ったのか。
 国境近くの小さな村の少年から、その人の存在を聞かされた瞬間、『彼』だと直感した。
 トランの大統領から、自分に似ていると聞かされた人。
 三年前の隣国の動乱を知っている誰もが、自分に面影を重ねていた人。
 灼けつくほどに会いたいと思った。
 会って何をしたかったのか、何を言いたかったのかは分からない。
 ただ、その人に……と、あの瞬間それだけを願ったのが、自分の中の……たった一つの真実。









       *           *








「…………」
 呆然とした瞳で、カザミは隣りに立つ人物を見つめた。
 年齢は幾つか年上、その分、背も高く大人の体格に近い相手は、何事も無かったかのように巨大なポイズンモスの消え去った空間にまなざしを向けている。
 と、こちらの視線に気付いたように、瞳だけをこちらへと向けた。
「何?」
「──いえ……」
 自分でも気付かないまま、その端正な横顔と、薄手の皮手袋に包まれた右手とを交互に見つめてしまっていたカザミは、そのことに気付いて恥じるように慌てて視線を逸らす。
「コウ君の所に戻らないと……」
「ああ」
 素っ気無い短い一言で彼は応じ、さっさと来た道を戻り出す。その後を慌ててカザミも追い、同行していたナナミやルックたちもその後に続いた。
「………」
 数歩前を歩く、すっきりと伸びた背筋と、その背に揺れる緑と紫のバンダナを見つめながら、カザミは、そっと左手で自分の右手の甲を撫でる。
 未だ痺れたような感覚は消え去っていなかった。
 ──さっきのは何だった……?
 このトラン共和国とジョウストン都市同盟の国境を結ぶ峠道は、巨大なワームの繁殖地となっており、以前にもカザミはそれと戦ったことがある。
 だが、今日はたまたま時期が悪かったのか、戦闘中にワームは羽化し、凶悪な毒燐紛を持つポイズンモスとなってしまったため、自分たちは苦戦を強いられた。
 撒き散らされる毒燐粉と強烈な雷撃に、このままで埒が明かない、と思った時。
 突然、右手の紋章が発動したのだ。
 それも、これまで使ったこともない強大な力が溢れ出し、モンスターを一瞬で呑み込んでしまった。
 そして、それは自分の右手からのみではなく、成り行き上、隣りで戦っていた彼の右手からも。
 彼の右手から膨れ上がった黒い輝きと、自分の右手から膨れ上がった淡緑の輝きは、そのまま相乗するように世界をまばゆく染め上げて。
 それが消えた時には、もう何も残っておらず、戦闘で疲弊していた自分たちの体力も完全に回復していた。
 何故そんなことが起こったのか。
 考えられる理由は一つしかない。
 ──共鳴……した?
 三年前、トラン地方を三百年近くに渡って統治していた赤月帝国を倒し、新しくトラン共和国を興した若き英雄が真の紋章を宿していたことは、広く知られている。
 もっとも、その紋章がいかなるものなのかまでは明らかではなく、語る人によって様々に異なっていたが、強大な力を持つ紋章だということでは衆口は一致していた。
 ──でも、どうして?
 己の右手に宿るのは、輝く盾の紋章。
 これが本来はどういうものなのか、詳しいことはカザミ自身も知らない。紋章の継承へと導いたレックナートも、具体的なことは何一つ、語ってくれたことがないし、その弟子という少年も同様だ。
 だが、この紋章に最も近い存在は、共にトトの村の祠に封じられていた、黒き刃の紋章に違いないことだけは理解している。
 だからこそ何故、彼の紋章と自分の紋章が共鳴したのか不可解だった。
 紋章を宿した後、ジョウイと共に戦ったのは決して長い期間ではなかったが、それでも窮地に陥ったことは何度もある。しかし、紋章が共鳴したり、勝手に発動したりすることは一度もなかった。
 真の紋章同士ならば、組み合わせに関わらず共鳴するのか、それとも、彼の持つ紋章とだけなのか。
 答えを求めるように、カザミは斜め横にいるルックを振り返る。
 が、視線に気付いているのかいないのか、ルックはちらりともこちらに目を向けようとはしない。
 困惑と疑問を抱えたまま、しかし口を開くこともできずにカザミは黙々ときつい山道を早足で歩く。
 と、
「坊ちゃん!」
 少々切羽詰った響きの青年の声が、こちらへと届いた。
 見れば峠道の途中で、ぐったりと力を失った幼い少年を腕に抱いたまま、バナーの村で彼と共にいた青年が、優しげな面輪(おもわ)にけわしさを加えて、こちらを見上げている。
「毒のせいだと思うんですが、熱が高くて……」
 見た目通りに気の優しい性格なのだろう、おろおろと言葉を紡ぐ青年と、その腕に抱かれた少年をしばし見つめていた彼は、静かに口を開いた。
「リュウカンに診てもらうのが一番確かだろう。ここからなら直ぐだ」
「え、でも……」
 心配げに主人の顔を見上げた青年の表情の意味は、カザミには分からない。
 背中しか見えない彼の表情も同様だった。
「仕方ないだろう。この場で見殺しにするわけにもいかない」
 そう言いながら、ちらりとこちらを振り返った彼の漆黒の瞳に、カザミはひやりと背筋に冷たいものが走るのを感じる。
 ──もし今、自分たちがいなかったらどうしたのか。
 まさかコウの家族とも顔見知りの彼が、このまま毒熱にあえぐ少年を見捨てるとは思えないが、しかし、あまりにその瞳に浮かぶ光は無情で。
 カザミは知らず、自分の身体を片腕で抱きしめる。
 と、青年の声がこちらへと向けられた。
「カザミ君、この先のグレッグミンスターには私たちが懇意にしていたリュウカンという名医がいます。その人にコウ君を診てもらうのが一番確実だと思うのですが……」
「あ、はい」
 一二もなく、慌ててカザミはうなずく。
 バナー峠の山道は既に国境を越えており、ここからならデュナン城に戻るよりも、グレッグミンスターの方が遥かに近い。グレミオの提案に否やはなかった。
「では急ぎましょう」
 青ざめ、ぐったりとした少年を背に負って、グレミオは急ぎ立ち上がる。
 何の表情も浮かべないまま、青年から荷物を受けとって歩き出した彼の背を、複雑な思いを抱えたまま、カザミも追って歩き出した。










 コウの治療が一段落し、好々爺然としたリュウカンがもう大丈夫だと請け負ってくれた頃には、既に日は傾いていた。
 これから峠道を越えるのは危ないと、宿泊を勧めてくれたグレミオの厚意を断り切れず、招かれたマクドール邸はトラン共和国の首都グレッグミンスターの目抜き通りにあり、歴史ある街並みに恥じない風格を備えたたたずまいは、カザミたちを圧倒した。
 先日訪れたグレッグミンスターの宮城は、どんなに豪壮華麗でもそれが当たり前だと受け止められたのだが、こちらは個人の邸宅なのである。
 旧赤月帝国時代に建てられたという石造りの屋敷は、将軍家の邸宅らしい質実剛健さと、首都にふさわしい瀟洒な意匠とが見事に調和しており、招かれた一行の中で唯一冷静だったのは、かつて解放戦争にも参加し、グレッグミンスターなど見飽きたと放言するルックのみで、カザミは屋敷の壮観さに目を奪われ、ナナミはひたすらにはしゃいだ様子を見せて、グレミオに微笑ましがられた。
 そして更には、先代の頃からこの屋敷に住み込んでいるという二人──いずれもまだ三十歳になるかならないかの若さでありながら、勇名を馳せた武人であるパーンとクレオも夕食の席には加わり、自然、場は随分とにぎやかになった。
 そんな和気藹々とした雰囲気の中で、屋敷の家政婦役も務めていたというグレミオが腕によりをかけた美味に嬉しい驚きを覚えながら、カザミはそっと隣席の相手を盗み見る。
 この屋敷の主である彼は、よほど無口なたちなのか積極的に会話に加わることはなく、パーンやクレオが投げかける言葉に短い返答を返すのみで、あとは黙々と食事を続けていた。
 旅装から緑を基調にした衣服に着替えた彼は、どの仕草をとっても全く無駄がなく、灯火の下で端正さが際立っている。
 その様子に思わず見惚れていると、不意に彼のまなざしがこちらへと向けられた。
「何?」
「い、いえ……」
 慌ててかぶりを振り、カザミは自分の食事を再開する。
 何か食事の席にふさわしい気の利いた言葉を、と思っても咄嗟には何も浮かばない。
 だが、そんなカザミを咎めることなく──あるいは関心がないのか、彼もまた、何も言わずに自分の食事を続けて。
「…………」
 目の前に並べられた御馳走は見た目も素晴らしく、味もハイ・ヨーにも勝るとも劣らない。なのに、どこか居心地の悪さを覚えてカザミはうつむく。
 と、
「カザミ君、どうしました? 何か、お口に合わなかったですか?」
 心配りにおいても達人であるらしいグレミオが、そんな客人の様子を見逃すはずがない。目ざとく気遣わしげな声をかけられ、カザミは慌てて首を横に振った。
「いえ、全然そんなことないです。特にこのシチューがすごく美味しいから、どんなスパイスが使ってあるのか考え込んじゃって……」
「おや、カザミ君は料理をされるんですか?」
「はい。得意というほどじゃないですけど……」
「えー、そんなことないよ。カザミの御飯はすごく美味しいんですよ。お魚を捌くのも、とっても上手だし」
「ナナミ……」
 口を挟んできた姉に、カザミはどう答えたものかと悩む。が、グレミオは穏やかに笑った。
「そうですか。じゃあ、よければレシピをお教えしますよ。そんな難しいものじゃないですから」
「え、いいんですか?」
「全然構いませんよ。是非覚えていって下さい」
「やったあ! カザミ、お城に帰ったら絶対に作ってね。それで皆にも食べてもらおう!」
 そしてナナミは、思いついたようにグレミオに向き直る。
「グレミオさん、私たちのお城にはハイ・ヨーさんていうすっごく料理上手なコックさんがいるんだけど、その人にもレシピを教えてもいいですか? このシチューを食べられたら、皆すっごく喜んでくれると思うんです」
「いいですよ。そんな風に喜んでもらえたら、私も嬉しいです」
「ありがとうございます!」
 楽しげに話し始めたグレミオとナナミの様子に、ほっと内心胸をなでおろして、カザミはもう一度、そっと隣りを盗み見る。
 だが、彼は周囲の会話は何も聞こえていないかのように、やはり変わらぬ態度で料理を口に運んでいて。
 小さく吐息をついて、カザミは自分の食事を平らげはじめた。






       *       *






「────」
 一夜が明け、華美ではないけれど上質の家具が揃えられたマクドール邸の居間で、ひどく居心地の悪い沈黙に耐えながら、カザミは屋敷の主人と向き合っていた。
 一体、何分が過ぎただろうか。
 応でも否でもいい、とにかく返事をしてくれないかと祈るような気持ちで、向かい側のソファーに悠然とくつろいだ相手の胸元の辺りを見つめる。
 無理な頼み事をしているのはこちらの方なのだし、本当ならば相手の目を見つめるべきなのだろうが、どうしてもその勇気が出ない。
 物怖じしない性格の自分が何故と言われても、彼の漆黒の瞳だけは別なのだ。
 これまで多くの人々やモンスターとも向き合ってきたが、視線を合わせるのを怖いと思ったことはない。だが、鋭いまでに静寂の深遠をたたえた彼の瞳だけは、正面から見つめるのが何故か怖かった。
 すべてを見透かされているような、非難されているような、そんな気がして。
 相手は昨日初めて顔を合わせた間柄であり、おそらくは気のせいに違いないのだけれど、それでも何故か萎縮する自分を抑えられない。
「──協力、ね」
 小さくうつむいていたカザミの耳に、低い呟きが届く。
「できないとは言わないが……幾つか条件がある」
「それは……?」
 その条件を君が呑むのなら、と散々焦らした後の言葉に、カザミははっと顔を上げた。
 彼の傍らで心配げな顔を隠そうともしないグレミオの姿が目に入ったが、それ以上に表情の浮かばない彼の顔に目が惹きつけられる。
 だが、そんなカザミのまなざしを受けても、彼は眉一つ動かさず。
「一つ目は、ハイランドとの戦争において僕の名前を絶対に表に出さないこと。
 僕に公的地位はないが、それでも僕が君たちの争いに首を突っ込んでいることが知れると色々な方面に厄介だし、どういう形でもいいから然るべき地位に就いて欲しいとわめくトラン政府の連中を勢いづかせることになる。今はレパントがそいつらを抑えてくれているが、これ以上彼に迷惑はかけたくない」
 耳に心地よい低さで透る声は、淡々と明るい日差しの差し込む居間に響いた。
「それから僕は、何に対してであれ余計な首を突っ込む気はない。だから、僕の助力が必要だと判断できる最低限の用が済めば、グレッグミンスターに帰らせてもらう。君たちの城に僕の部屋を用意してもらう必要はない」
「……はい」
「そして僕が協力するのは、トランと君たち都市同盟軍の友好関係が維持されている間だけだ。レパントが友好同盟がトランに不利益になると判断した時には、僕も協力を中断する。その時、そちらがどういう状況にあってもだ」
「坊ちゃん、それは……」
「グレミオ、これは正当な取引だ。僕はこの国の不利益になることは絶対にしない」
 断固とした口調で、口を挟みかけたグレミオを黙らせる。
 自分に向けられたその漆黒の瞳を、カザミは言葉もなく見つめた。
「僕が助力するのは、君たちの要請に応じて、あくまでも僕個人の意思に拠ってのことだ。僕の言動をトラン政府及び大統領の思惑にまで拡大解釈されたら困る。それが最低限のルールだ」
「……それを守れば、僕たちに協力してもらえますか?」
 相手の毅さに目の眩むような思いを感じながら、カザミは問いかける。
 果たして自分は、これほど毅さを抱いて故郷のハイランドを思ったことがあるだろうか。
 同盟軍のことを……仲間のことを思えているだろうか。
「マクドールさん、僕たちにはどうしても力が足りない。それでも負けることができない以上、この戦いを終わらせるためには、あなたの力が必要なんです」
「──もう一つ」
 低い声がカザミの耳を打つ。
「家名で呼ばれるのは好きじゃない。ラシスタか、呼びにくければラスでいい。皆そう呼んでいる」
 その言葉に、カザミは目をみはった。
「……ラス、さん……?」
「そう」
 無表情にラシスタはうなずく。
「僕に用がある時は呼びに来ればいい。君たちの所にはビッキーがいるから、ここまで来るのもそう苦労じゃないだろう」
「ありがとうございます!」
 思わずカザミは立ち上がる。はらはらしながら見守っていたグレミオとナナミもまた、安堵の笑みを交し合っており、室内の緊張は一気に緩んだ。
「良かったね、カザミ」
 肩を叩くナナミに小さく笑って見せながら、カザミは、むしろ物憂げにも見えるラシスタの感情の浮かばない端正な顔を、そっと見つめる。
 決して彼は乗り気ではない。なのに、どうして断ることなく助力の請願に応じてくれたのか。
「あの、ラスさん……」
「何?」
 愛想のない返事に、内心かすかにカザミはひるむ。
「これから、よろしくお願いします」
「ああ」
 軽くうなずいて、再び彼の漆黒の瞳は物憂げに伏せられる。
 その内側にあるものは何なのか。
 彼は彼であり、何を思っていても自分には関係がないし、また踏み込むべきことでもない。
 なのに何故か、それがひどくカザミには気になった───。

...to be continued.

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