- over the dream -










 彼のすぐ側で、新たな爆発が起きるのを目の端で捕らえていた。
 飛び出して援護しようと思えば、決して間に合わない距離ではなかった。
 けれど、自分は。
 それに背を向けるようにして、自分の近くに居た兵士を庇う形で、拳銃を乱射しながら逃走しようとしたテロリストの前へと、鋼の腕を盾にしながら飛び込んだ。
 それこそが、自分の役割だったから。







          *          *







 コンコンコンコン、とひそやかに叩かれたノック音に、ロイはかすかに眉を上げた。
 誰だ、と誰何(すいか)するよりも早く、細めに開けられたドアから小さな人影が滑り込んでくる。
 廊下の非常灯だけを光源とした薄闇の中でも、それが誰であるのかは直ぐに分かった。

「大佐。起きてる?」
「ああ」

 低めた声での問いかけに短く答えると、そっとドアが閉められた。
 そうして、できるだけ物音を殺そうと努めているらしいかすかなスリッパの足音とともに、ベッドの傍らに小柄な人影が寄ってくる。

「どうした」

 つい十分ほど前に消灯時の見回りが済んだばかりの今、看護婦が病室にやってくる可能性は、大きな物音を立てでもしない限り低いだろう。
 なかなかいいタイミングで行動する、と相手の戦術に感心しながら、ロイはベッドから少しばかり苦労して身を起こしつつ、穏やかに問いかけた。

「──何となく、さ。こんなに早く電気消されても眠れねぇし、あんたの病室は隣りだったし」
「なるほど」

 少しばかり困ったように答えながら、エドワードはベッドの脇にあったパイプ椅子に、半ば手探りで腰を下ろす。
 明かりが乏しい室内では、彼の金色の髪も瞳も、はっきりと輝きを捉えることが出来ない。そのことが少しばかり残念だと思った。

「確かに、二ヵ月半ぶりに会ったのにゆっくり話す暇もなかったからな。どうせなら二人部屋にしてもらうべきだったか」
「……そこまではいいよ」

 それはそれで困る、と呟かれた声に、ロイは口元に浮かんでいた笑みを深める。
 確かにエドワードの言う通りだった。
 心の中に抱えている想いを互いに知っている状況で二人部屋は、少しばかり距離が近すぎる。佐官待遇の個室が隣同士という今の状況が、おそらくは一番、居心地が良いに違いなかった。

「……痛むか?」

 薄闇の中で手を伸ばすと、さらさらと流れる金の髪を押さえ込むように巻かれた包帯の感触に触れた。
 他にも左腕を始め、何箇所か手傷を負っていたはずだった。
 一見した限りでは、さほど出血も多くなく深手ではなさそうだったし、今もこうして人の病室を訪ねてくるくらいだから、身動きには支障がない程度の傷ばかりなのだろう。
 とはいえ、無茶や痩せ我慢の得意な子供であるから、心配でないと言えば嘘になった。

「それは俺が訊くことだろ。肋骨にヒビ入ったって聞いたぜ」
「二本ばかりな。だが、痛みは大したことない。これくらい、すぐに完治する」
「大したこと無くったって、肋骨や腰をやると後からじわじわ来るぜ。知ってるだろ」
「勿論だ」

 職業軍人である自分はともかくも、どうして自分の半分も生きていない子供が、肋骨や骨盤を痛める感覚を知っていなければならないのか。
 他にも、この子供は、本来ならば知る必要のことばかり知っている。
 そのことを少しばかり憐れに思いながら、包帯に触れていた手を離した。

「すまなかったな」
「別に。いいよ。俺も大して怪我したわけじゃないし、アルフォンスは無傷で済んだし」
「怪我をさせたことには変わりない。だが、助かった。君たち兄弟がいてくれたおかげで、こちらの被害は最小限で済んだよ」
「……そっか」

 なら良かった、と呟く声は小さかった。
 今、どんな表情をしているのか、この薄闇では定かに分からない。
 だが、複雑そうな顔をしているのだろうということは、声の調子から判別が付いた。
 大きな被害を出さずに済んだという安堵、自分が役に立ったという仄かな充足感、テロリストへの憤り、軍属であるという事実を新たに噛み締める哀しさ。
 そんなものが今、この子供の胸の中ではマーブル模様を描いているのだろう。 

 そのまましばらく沈黙が落ちる。
 何かを思っているらしいことは分かったから、ロイもまた黙って沈黙に付き合う。
 こうして改めて二人きりになった時、エドワードが寡黙になるのは珍しいことではなかった。
 言葉自体を選びあぐねてしまうのか、自分の中にあるものを間違いなく伝えるために正しい言葉を探しているのか、普段の小憎たらしいほどの饒舌さは綺麗に影を潜め、かすかな困惑を滲ませてまなざしを伏せ気味にしたその横顔が、ロイは好きだった。
 こんな時のエドワードは、無垢で幼い子供にも、自制と誠実さを持ち合わせた大人にも見える。
 消灯時間を過ぎて、室内に明かりが乏しいことを改めて惜しいと思った。

「──あのさ、大佐」
「何だね?」

 やがて、溜息をつくように自分を呼んだエドワードを、ロイは薄闇の中で見透かすようにまなざしを向ける。
 と、エドワードはぽすんと音を立てて、ベッドの掛け布団に顔をうずめた。

「鋼の?」
「……あんたさ、とっととやる事全部やって、隠居しろよ」
「……鋼の?」

 発言の意図が見えず、説明を求めて銘を呼ぶ。
 それが聞こえているのか聞こえていないのか、羽毛布団に顔を伏せたままのくぐもった声で、エドワードは訥々(とつとつ)と言葉を紡いだ。

「楽隠居になっちまえば、後は何をしようと自由だろ。──あれからずっと考えてたけど、理屈で分かっててもやっぱり嫌なんだよ。あんたがすぐ近くに居ても、庇うことも出来ないなんて」

 呟くような自嘲交じりの言葉が、今日の昼間の出来事を指していることは直ぐに分かった。
 ───倉庫街に立てこもったテロリストの包囲作戦中。
 互いに存在を目の端に捕らえていながら、庇うことも援護することもかなわなかった。
 テロリストが一人二人であれば、どちらかが切り込んで、どちらかが援護する。そういう体勢も取れただろう。だが、爆弾を大量に抱えた十人を超える集団が相手では、それぞれが兵士を率いて分散して攻撃をかけるしかなかった。
 もし今日、互いが互いの背を守っていたら。
 それぞれの瞬間に持ち場を離れて相手を庇う行動を取っていれば、二人ともに怪我を負うことは無かったかもしれない。
 その代わり、互いではなく兵士たちが、ともすれば死に至るような酷い傷を負っていただろう。ロイの腹心たちも無傷ではいられなかった可能性が高い。
 それは決して、許されないこと──選べない道だった。

「エドワード」
「俺も一日でも早く、生身に戻れる方法を見つけるから、あんたもさっさとやる事やって、引退してくれ」

 さっさと終わらせてしまえと繰り返す子供に、ロイは手を伸ばす。
 やわらかな包帯の感触と、さらさらと流れる髪の感触が、指先に優しかった。

「──二人揃って目的を果たしたら。それからどうするのだね?」
「……分かり切ってる事、訊くなよ。あんたの悪い癖だぞ」
「それはすまないな」

 ふてくされたように返る声に、苦笑する。
 そうしてロイは、子供を宥める言葉を考えた。

「そうだな。隠居するなら、やはり東部がいいだろうな」

 ゆっくりと指先で癖のない髪を梳くと、さらさらと端から零れ落ちてゆく。
 もし今、ここに明かりがあれば、細い金糸の一本一本がきらきらと輝いて眩しいほどだろう。
 滅多に触れる機会などないその金色を見ることができたらいいのに、と思った。

「私もこちらの生まれだし、正直、都会よりも田舎暮らしの方が馴染む。リゼンブール辺りは特に静かで、隠居生活には相応しそうだな」
「……あそこはきっと、あんたが想像してるよりずっとのんびりしてるよ。人より羊の数の方が多くて、電話なんて村に3、4台しかなくてさ。余所者が訪ねて来ることなんて、滅多にないんだ」
「どこまでも緑の丘が続いていて、空気が綺麗で、空が広い。私が訪れたのは一度きりだが、風景の美しさはまだ良く覚えているよ」
「うん。小さな雑貨屋兼本屋があるだけで、図書館も何にも無いけどな」
「イーストシティまでは列車で2時間半だ。定期的に本の買出しに出かけるのも楽しいだろうさ」
「村の人たちは、皆親切で、ちょっとだけお節介なんだ。雨が降り出したら、人の家の洗濯物まで取り込んでくれるし、畑で取れた野菜を台所に置いといてくれるし。慣れるまでは鬱陶しいかも」
「だが、それはそれで楽しそうだ」
「うん。……いい所だよ、リゼンブールは」

 静かに、けれど万感の想いを込めたように呟いて、エドワードは顔を上げる。
 そして、ずっと髪を梳いていたロイの手に左手を重ねた。

「……た…」
「エドワード」

 おそらくは自分を呼びかけたのだろう声を遮って、ロイはその名を呼ぶ。
 これ以上、エドワードにばかり言葉を紡がせるわけにはいかなかった。
 互いに同じ想いを抱えているのに、片方ばかりが請うのは不公平に過ぎる。
 対等であろうと思うのであれば、今度はロイが想いを言葉にする番だった。

「君が好きだよ」

 飾り気も何もなく告げた言葉に、重ねられていたエドワードの手が小さく震えた。

「先のことは分からないが、もし君の方が先に目的を果たしたら、君は私がすべてをやり遂げるまで待っていてくれるか?」
「当…たり前だろ。そんなの……」
「私が望むものは簡単な事じゃない。全てが終わるまでには十年や二十年、かかるかもしれない。言ってみれば、君は君の青春を棒に振ることになる。それでも?」
「だから、分かり切ったこと訊くなって言ってるだろ」

 少しばかり苛立ったように、エドワードの少しばかり体温の高い小さな手が、ロイの手をきつく握り締める。

「十年だろうが二十年だろうが、その間は無理だっていうんなら、全部が終わるまで平行線のままでいいよ。あんたがその平行線から降りてくるまでの間くらい、俺は待っていられる。あんたが手に入るなら、それくらい何でもない。それともあんたは、俺を待たせるのが怖いのか?」

 怖いほど真っ直ぐな言葉に、ロイは苦笑した。
 まったく厄介な子供だった。
 大人が越えるのは不可能だと理性的に考える壁を、怖いもの知らずの無鉄砲さで、あっさりぶち壊そうとする。
 その壁を壊すために必要な時間や、心身の痛みなど、まるっきり無視するような無謀さには呆れるしかない。
 だが、その一途さがひどく愛しかった。

「怖くないわけが無いだろう」

 苦笑を滲ませたまま、ロイはエドワードの手を握り返して自分の方に引き寄せる。

「私よりもずっと若い君の忍耐力を試すような真似をするのに、平気でいられるわけがない。待つ方も辛いだろうが、待たせる方だって辛くないわけではないのだよ」
「それでも、一生叶わないって思うよりは、ずっとマシだろ」
「エドワード」
「俺だって一度は、諦めて割り切るしかないと思ったよ。でも、好きなものは好きなんだ。今は無理でも、やっぱりいつかは、あんたと一緒にいられるようになりたい。あんただって、そう思わないわけじゃないだろ?」
「──否定はしない」
「だったら、あんたも信じろよ。あんたは絶対、目的を果たすって決めてるんだろ? なら、その後、悠々と引退して、田舎でのんびり暮らすとこまで確信しとけ。そういうふてぶてしくて図々しいのが、あんたの良い所だろ?」
「……褒め言葉としては微妙だが、君が私を認めてくれているのは分かるよ」

 笑いながら、エドワードの指先に口接けを落とす。
 小さな手だった。
 いまだ成長途中の手は細く、皮膚は少し荒れていて、だが温かい。

「まったく、君には困らされてばかりだ」
「お互い様だよ。それにあんたは嫌がってなんかないだろ」
「君もだろう?」

 揶揄するように言うと、肩をすくめる気配がする。
 それを、もっと近くにおいでと呼ぶように、更に手を引き寄せる。
 すると、エドワードは小さな音を立てて、椅子から立ち上がった。

 左手をも伸ばすと、やわらかな頬に触れる。
 伝わる温もりのすべてが、何にも代えがたく愛おしいと思った。

「───…」

 優しく触れるだけのキスだったが、エドワードの鼓動が速まっているのが指先から伝わる。

「約束だ」

 低く囁くと。

「……も…う一回、駄目……か?」

 躊躇いがちに返ってきた思いがけない言葉に、ロイは思わず苦笑した。
 つくづく、この子供は素晴らしく可愛らしくて、面白い。何が飛び出すか分からない、びっくり箱のようだった。
 最初から手放せるわけがなかったのだ、と思う。

「エドワード」

 笑いを納めて、望まれた通りに名前を呼び、唇を重ねる。
 親愛のキス以外を知らなかっただろう相手の経験の無さを思って、無理にキスを深めることはしなかった。
 やわらかな唇を数回ついばみ、先程よりも長く温もりを分かち合う。
 そして最後に、悪戯のように薄い下唇を軽く甘噛みして、そっと離れた。

「続きはまたいつか、だ」

 わざと甘く耳元で囁くと、エドワードが困惑気味に肩を震わせる。
 が、そこに拒絶や嫌悪の気配は無い。
 良い傾向だった。

「そろそろ戻りなさい。寝不足だと怪我の治りも遅くなる」
「……うん」

 名残惜しげに、ゆっくりと繋いでいた手が離れていく。
 自分のものではない温もりが失せるのはロイにとっても惜しかったが、引止めはしなかった。
 そうして、おやすみ、と告げようとした時。

 軽い衝撃とともに、エドワードがロイに抱きついた。

「……good night, Roy」

 一瞬ぎゅっと首筋を抱きしめて耳元で囁き、ロイが反応を返すよりも素早く離れる。
 そして、そのまま駆け足で病室を出て行ってしまった。
 物音を忍ばせなければならないことも忘れたらしく、バタンと隣りの病室のドアが閉まる慌しい音が聞こえて。

 残されたロイは一人、込み上げてくる笑いに肩を震わせた。
 ゆっくりと仰向けにベッドに横たわり、胸の辺りを片手で押さえて天井を見上げる。

「まったく……。君は私が肋骨を痛めていることを忘れているだろう?」

 安静にしていればともかくも、不意打ちのように抱き付かれたら、はっきりいってかなり骨に響く。
 本当に仕方のない子供だと、痛みをこらえながら笑って目を閉じる。

 ───子供であるからこそ。
 ああまでも真っ直ぐに想いをぶつけてくることが出来るのだろう。
 大人なら躊躇い、足を止めてしまう壁を目の当たりにしても、恐れるどころか壁をぶち破る算段を始めてしまう。まったく無謀で、そして痛快だった。

 その子供が信じると……信じて欲しいというのならば、自分もまた、これまで自分の未来を信じていたように、更にその先にある二人の未来をも信じるしかない。
 今はあまりに遠く見える星であっても、叶わぬものなどないと信じて願い続ければ、彼の言う通り、いつかは手が届くだろう。
 後は、一途な子供に、どうかその日まで変わらないでいてくれと祈るだけだ。

「……愛しているよ。本当に君だけだ」

 口に出すことはもうないだろうと思っていた言葉を囁いて、あと何度、この言葉を告げることになるだろうと考える。
 その数が多ければ多いほど、数え切れないほどであれば、そんな良いことはない。
 あの子と二人、絶対に幸せになってやる、と、これまで微塵たりとも考えることすらしなかったことを、まるで子供のように心に誓って、胸部の痛みが治まるとともに押し寄せてきた睡魔に身を任せる。
 明日の朝、薄闇にまぎれて大胆なことをしでかしてくれた子供と顔を合わせるのが、今は何よりも楽しみだった。











「報われない恋」その後編・ver.A。

この話の大佐は優柔不断なわけじゃなくて、
大人の感覚で割り切ってるだけなので、
理詰めで説得されたら受け入れる人なのです。
きっと二十年後には、楽しくて幸せな田舎暮らしをしてることでしょう。
難攻不落の大佐を、力技で寄り切ったエドに乾杯(*^_^*)



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