ただひたすらに、好きだと思う。
 遠く離れていても思い出されてやまなかった人が、今、目の前にいて、話をしている。
 それでどうにかならない方がおかしい。
 相手の声、表情、目の色、何気ない仕草。
 どれもこれもが、神様の悪戯のように胸を打つ。
 離れていても忘れがたかった人なのに、こんな近くにいて、もっと好きにならないはずがない。
 こんな近くにいるのだから、嫌な所が見えてもおかしくないはずなのに、何気ない仕草、笑い声が、どうしようもないほどに心を揺さぶる。
 一秒ごとに恋に落ちてゆく。
 この感情をどう言えばいいだろう。
 愛しくてたまらない。
 けれど、好きになり過ぎて少しばかり怖い。
 そんな気持ちを、目の前の人も抱いているのだろうか。

 ───あんたも。
 ───君も。









 食事を終えて店を出ると、ガス灯の向こう、秋の始めの夜空には、少しばかり寂しい感じのする秋の星座が浮かんでいた。
 西の空に目を転じると、まだ夏の名残の星座も形をとどめていたが、逆に東の空の低い位置には、気の早い冬の星も輝きをあらわし始めている。
 今年の夏も、もう終わったのだと、と十日前に比べると確実に涼しくなった風に、エドワードは無意識に機械鎧の右手を握り閉めた。
 そうして隣りを見れば、落ち着いた一定の足音を石畳に響かせながら、濃青の軍服と薄手のフロックコートを隙なく着込んだ男が歩いている。
「いい店だったな」
 そう声をかけると、彼はわずかに笑んだようだった。
「気に入ったのなら、また行くといい。私が付き合えない時でも、君一人で行っても雑な対応をする店ではないし、いずれアルフォンスが体を取り戻してから二人で行っても、美味い食事と酒が楽しめるだろう」
「───…」
 時々こういうことがある、とエドワードは思った。
 事情を知る人々は皆、当たり障りのないことしか口にしようとしないのに、この男だけは、自分と弟の未来を既定のものとして口にする。
 最初の頃は、それがひどく癇(かん)に障った。
 事情は知っていても、肉体を失い、当てのないものを探すこちらの気持ちなど分かるはずもない、と強い反発芯を抱き、本来なら恩人である彼に対して身構えるようになったのは、そのせいだったと思う。
 なのに、いつの頃からか、彼の言葉は、不思議な温度を伴って感じられるようになったのだ。
 敢えてその感覚を表現するのなら、安堵、だろうか。
 おそらくは誰もが疑いを抱いているだろう自分たちの目標を、ただ一人だけ、揺るぎのない言葉で語ってくれる。そこにエドワードが感じたのは、一つの心強さだった。
 自分の心しか信じるものがないという状況は、逆に言えば、心が休まる暇がないということだ。
 他者に何一つ頼めず、何一つ真情を吐露することもできない。
 そういう状況の中で、一人だけ、当然の未来として自分と弟の在るべき姿を語ってくれる。
 それはつまり、
 ───彼が自分を信じていてくれるということ。
 そのことに気付いた時、エドワードの恋は始まったといっていい。
 自分と同じように、無謀な目標に向かって進み続けている人間。
 普通なら決して手が届かないものを掴もうとあがくことが、どれほど苦しいかを知り尽くしている相手が、本意がどこにあれ、必ず出来るはずだと肯定してくれていることに気づいた時、感じたのは、喜びよりも強い、涙が出るほどの安堵だった。
 それが、素直には言葉に出せない感謝から思慕に繋がったのは、十代前半の感情の幼さが影響したかもしれない。
 けれど、エドワードにとっては弟の存在と同じくらい、ロイの言葉は自分を支えるための杖になった。
 無論、そんな杖を得て、頼ることは、危険なことだというくらい百も承知している。
 万が一、杖が消えてしまった時、改めて自分を支えなおすのは、以前より遥かに困難な作業となるに決まっているのだ。
 だが、そうと分かっていても、一旦、恋となってしまった感情を簡単に手放せるはずがなく。
「……うん。アルフォンスとも行くよ。だから、またいい店があったら教えてくれよな」
「勿論だ」
 これも甘えだろうかと思いながら言った言葉を、ロイは当然の事のように受け止める。
 そこには単なる優しさだけではない、未来を信じる強さが見え隠れしていて。
 ああ、この男のこういうところを好きになったのだ、とエドワードは少しの切なさと共に想いを噛み締めた。
 そして、気を取り直すように、ガス灯に照らされた街並みを眺める。
 夜とはいってもまだ早い時刻、表通りを歩いている人々は多い。
 家に帰るのか、これからどこかに行くのか、足早であったり、ほろ酔い加減によろめいていたり、あるいは、親密な時間を引き延ばそうとするかのように緩やかな歩みであったり。
 色々な人がいる、と思いながらエドワードは、隣りを歩く男を見上げた。
「何だ?」
「……俺たちって、どう見えるのかと思って」
 傷つける質問かもしれない、と言いながら感じた。それでも言葉が止まらなかったのは、グラス一杯分のワインが影響していたかもしれない。
 だが、ロイは顔色一つ替えなかった。
 いつもと同じ表情で考え込み、
「そうだな。私は軍服を着ているし、君のコートには錬金術師の紋が入っている。まぁ保護者と被保護者か、良くて、軍に関することの打ち合わせ相手、というところか」
 淡々と答えて、エドワードを見た。
「だが、それが何だというんだ?」
 あまりにも当たり前のことのように言われて。
 エドワードは答える言葉を失う。
 思わず立ち止まり、見上げるエドワードの瞳を見つめていたロイは、ふと表情を緩めて、自分の官給品のコートのポケットを探った。
「君に受け取って欲しいものがある」
「……え……?」
「プレゼントだよ」
 その言葉と共に差し出されたものは。
 一本の万年筆だった。
 シンプルで滑らかなセルロイド製の本体は、艶やかな黒一色で、キャップの縁の部分にだけ金色のリングが光っている。
 受け取って見れば、重すぎず軽すぎず、ペン先は靱性に優れ、見た目も美しい十八金と知れた。
 滑らかな書き味を想像させるそれは、値段としては高すぎず安すぎず、またサイズも上着の内ポケットにちょうど納まるサイズで、常用されることを前提として選び抜かれたものであることをエドワードは悟る。
「……なんで?」
「前回の報告書を見ていてね、大分ペン先が痛んでいるようだと感じた。余計なお節介かもしれないが、硬めのペン先を選んでおいたから、今のよりも書きやすいと思う」
「……こんなのもらっても、俺は何にも返せねえよ」
 万年筆を握り締めながら言ったエドワードの言葉に、ロイは小さく笑んだようだった。
「電話をしてきてくれたらいい」
 静かに降ってきた言葉に、エドワードは顔を上げる。
 見上げた視線の先で、ロイは優しい瞳でこちらを見つめていた。
「前にも言った通り、今どこに居るのか、元気でいるのかを連絡してきてくれて、時々、今日みたいにこの街に戻ってきてくれたら十分だ」
 どうして、とエドワードは思う。
 貪欲なはずの男が、自分に対して求めてくることは、ささやかとしか言いようのないものばかりだ。
 これまでに言われたことを全て拾い出しても、時々思い出して欲しいということと、今の電話連絡をして欲しいという二点しかない。
 だからといって、想いが軽いわけではなく、彼に出来得る限りの優しさと信頼を傾けてくれていることは、その瞳の優しさや、温かな言葉の端々から窺えて。
「大佐……」
 何と言えばいいのか分からなくなったエドワードの混乱を読み取ったのだろう。ロイは前ボタンを留めていないコートのポケットに手を入れたまま、静かに笑んだままの声で言った。
「恋愛に等価交換は不要だよ。何かをあげたいと思えば、渡せばいい。欲しいと思えば、ねだればいい。一見、不平等に見えたとしても、想う気持ちが一緒なら、長い目で見れば平等に落ち着く。そういうものだ」
「そ…うかもしれないけど……っ」
「エドワード」
 名を呼ばれて、言い募りかけたエドワードの声が止まる。
 呼ばれ慣れない名前に、とうに速くなっていた鼓動が一層せわしなく打ち始める。
 続くはずだった言葉を忘れて見上げるエドワードのまなざしを、まっすぐにロイの夜の闇を映したような瞳が受け止めて。
「私は一兎を得ただけで満足するほど、慎み深い男じゃない。私には野望があるが、それと同じくらいに、君の心も欲しいと思う。そして、手に入れるのなら半端な形ではなく、完全な形で欲しい。そういう貪欲な男なんだ」
 卑下するでもなく、だからといって誇るでもなく、ただ静かにロイは告げた。
「だから、今の君に、今の君が出来る以上のことを望もうとは思わない。君が弟を一番大切に思うのなら、その気持ちごと、私は君が欲しい」
「そんな、こと……」
 言われても困る、と言いたかった。
 丸ごと欲しいと言われても、どうすればいいのか分からない。
 けれど、心のどこかが、ロイの言葉に泣き出したいくらいに喜んでいるのを感じて、エドワードは込み上げるものを抑えるために、ぐっと唇を噛み締める。
「アルが……一番でもいいって言うのかよ?」
「それが君だろう?」
 かすれかけた声での質問に対する答えは、ごく短いものだった。
「家族を何よりも大切に思って、必死になっている君に惹かれたのに、家族より私を選んで欲しいなどと言えるはずがない。それは、私に対して、君と部下のどちらかを選べというのと同じことだよ。とはいえ、私は聖人ではないから、君の家族に対して多少の嫉妬はさせてもらうと思うがね」
 エドワードにとっての家族。
 ロイにとっての部下。
 それは等しい重さを持ち、また互いに対する想いとも等しいくらいにかけがえのないものなのだと言われて。
「大…佐……」
 エドワードは、呼び名を呼ぶことしかできない。
「私は、今の私にできる範囲のことでしか、君に何かをしてやることはできない。そして、いざという時には、おそらく君よりも野望を優先する。その代わり、君が、私より君の望みを選んでも、それは当然の事だと思っている」
 それだけの重さを持っている事だろう、と当たり前のことのように告げる。
 その揺らぐことを知らないような強さに、目がくらみそうだった。
「ただ、そうすることが私たちにとって正しいことであっても、現実にそうせざるを得なくなったら、きっと私も君も、ひどく傷付くだろう。けれど、それは仕方のないことだ。互いにそういう人間だという事を分かっていて、それでも、好きになった。違うかい?」
「…………」
 違わない、と首を横に振ることしかできなかった。
 ロイの言う通りだった。
 望みを、野望を、何があっても捨てられない。自分も相手も、そういう人間だという事を承知していて……否、そういう人間だったからこそ、惹かれ、好きになったのだ。
 それがどんな辛い未来をもたらしたとしても、誰も恨めない。
 自分が、選んで、恋をしたのだから。
「エドワード」
 ロイが一歩踏み出して、うつむいてしまったエドワードの金の髪にそっと手を触れる。
「私はきっとこの先、何度も君に辛い思いや寂しい思いをさせる。それを許してくれとは言わない代わりに、一つだけ、約束をしておくよ」
「約束?」
 見上げると、そうだ、とロイはうなずいた。
「たとえ君より野望を選ぶことがあったとしても、君の知らない所で心変わりをしたり、君を裏切るような真似はしない」
「───…」
 その言葉の意味を、エドワードは考える。
 野望を選んでも、裏切らない。
 そして、自分と相手との関係。
「……つまり、その、色仕掛け、とか、そういうのはしないってこと?」
 口ごもりながら問いかけた単語に、ロイは笑った。
「そう。政略結婚とかね。それが一番手っ取り早いと方法だしても、しないよ」
「……それでいいわけ?」
「君を裏切りたくないし、第一、結婚は一人ではできないから、相手の女性にも不実を働くことになる。その上で得られるものなど、私は欲しくはない」
 きっぱりと言い切る声の強さに、エドワードは聞き惚れる。
 時々、ロイはこんな風に、人間としての潔癖さ、生真面目さを言動に垣間見せる。
 普段は、手段を選ばないと野心家であることを公言しているのに、その下から零れ出る素の言葉は、エドワードにとって感嘆と尊敬の念を湧き起こさせるものであり、また惹かれてやまない彼の一面でもあって。
「だから、その事を、その万年筆を見るたびに思い出してもらえると嬉しい」
 そう言われて、エドワードは握り締めたままだった万年筆を見つめる。
 手の中で、艶やかな黒色が街灯の光を受けて輝いていて。
「──俺とアルは旅烏だし、派手な寄り道もしょっちゅうだから、途中で壊したり失くしたりするかも」
「その時は、また新しいのを贈るよ」
「──そんなんで、いいんだ?」
「それが私の望みだよ」
 短い答えに、揺れていたエドワードの心が定まる。
 ───二ヶ月前、思いがけなく想いが通じて。
 けれど一時の喜びが薄れた時、頭をもたげたのは不安だった。
 どう見ても釣り合う二人ではないし、そもそも恋人と言っても何をどうすればいいのか分からない。何よりも、どうしても諦めるわけにはいけない望みがある。
 そういう状況で、どうやってこの恋を守っていけばいいのか、守れるのかどうか、全く分からなくて、途方に暮れたままイーストシティに戻ってきて、ロイと再会した。
 そうしたら、彼はこちらの思いを全て汲み取ったかのように、何もかも今のままでいいのだと肯定してくれて。
 ───こんな相手には、きっともう二度と出会えない。
「分かった」
 まっすぐに、少し微笑んでエドワードはロイを見上げる。
「俺も約束する。これからはこの万年筆で報告書を書くし、今どこにいるかも連絡する。そんで絶対、何ヶ月かに一回はここに戻ってくるよ」
「ああ。そうしてくれたら嬉しい」
 エドワードの曇りのない笑顔に、ロイも笑んで。
 ごく自然な動きで、自分のシルエットで人目を遮り、エドワードに口接けた。
「好きだよ」
 やはり触れるだけの優しいキスをして、そっと離れながらささやく。
 その言葉に、
「……俺も」
 蚊の鳴くような声で答えて、けれど恥ずかしさにいたたまれず、エドワードはぐいと両手で相手の体を押しやる。
 そして、くるりと体の向きを変え、万年筆をコートの内ポケットに押し込んだ。
「──もう帰るぜ。あんまり遅くなると、アルも心配するし」
「……そうだな」
 笑いを含んだ声に、一層エドワードの頬が熱くなる。
 おそらくは、それさえも気付いているのだろうと思うとどうにも我慢ができず、ずんずんと大股でエドワードは歩き出した。
 が、たいして急ぐ風でもないロイの軍用ブーツの硬い足音も、すぐ後についてきて。
「鋼の。次はどこに行くつもりだい?」
「……西部。プレントリーって街」
「ふむ。聞き覚えはないな。プレントリー、か」
「街中、スズカケの樹だらけだから、そういう名前がついたらしいぜ。小さな田舎町だけど、なんか曰くありげな話を小耳に挟んだから、確かめに行ってくる」
「そうか。何にせよ、気をつけていってきたまえ。君はトラブルを引き寄せる名人だからな」
「てめぇに言われたくねえよ!」
 思わず言い返しながら、ああもう、とエドワードは足を止める。
 そして、ロイが隣りに並ぶのを待った。
「鋼の?」
 呼びかけるのには直接答えないまま、ロイが足を止める前に再び歩き出す。
 自然、二人は店を出た時と同じく、並んで通りを歩くことになって。
「……あと、ついでに回りたい所もあるから、また最低でも一ヶ月くらいはかかる。でも、余程のことがない限り、長くても二ヶ月はかからないと思うから」
「──分かった」
 エドワードがどうしたかったのかを察したのだろう。ほのかに笑いを含んだ声で、ロイは応じた。
「私は私で、この街でやるべきことをやりながら、君に会えるのを楽しみに待っているよ」
「……うん」
 少しばかり素直になってみれば、なっただけ恥ずかしい。
 どうしたものかと思いながらも、ちらりと横目で隣りを窺い、目に映った見慣れた軍服の濃青とコートの黒に、何となく安心する。
 軍事国家のこの国では、掃いて捨てるほどある色の組み合わせなのに、どうして身につけている相手によって、こんなにまでも感じるものが違うのか。
 エドワードは、そんな自分に少し呆れる。
 ───もしかしたら。
 恋というものは、人間をどうしようもなく馬鹿にするのかもしれない。
 そして、
 ───それと同じくらい、強くなれるのかも。
 だったらいいな、と思いながら、エドワードは隣りを歩く足音に合わせて、ガス灯に照らし出された石畳の道を、真っ直ぐに歩いた。







END.




新シリーズ創設です。 自家製本「向日葵恋話」続編。
書きたい事を全部詰め込んだら、予定の倍の長さになりました……。
でもやっぱり、真面目に恋をしている二人が好きです(*^_^*)


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