こうなるつもりはなかった、と言ったら君は怒るだろうか。
 けれど、正直に気持ちを振り返ると、そういうことになる。
 君が国家錬金術師となることを選んだ日以来、私は君を庇護し、支援する立場の者として君を見ていたし、それ以外の可能性を……それ以外の立場で君のことを考える日が来るとは、想像したこともなかった。
 無論、それだけではない感情の火花も確かにあったとは思う。
 あのリゼンブールの民家で、大量の血痕に汚された錬成陣を発見した時の衝撃、死んだ魚のような目をした君が私の一言に反応して、別人のように目を黄金に燃え立たせた時、僅か一年で立ち直って自分の足で私の目の前に現れた時、よりによって、あの大総統に刃を向けた時。
 言葉にならない衝撃の火花が、私の中には散った。
 それは他の誰にも感じたことがない種類のもので、君という人間の存在を私の中に焼き付けるには十分に足りるものだった。
 だが、だからといって、それが一足飛びに恋愛感情に届くほど、私は若くはなかったし、君も幼すぎた。
 特に理由があるわけではないが、何かと気にかかる存在であり、目に鮮やかに映る存在であり、行く末の気になる存在であり、大人としての庇護欲と、同じ錬金術師、あるいは大きな目的を持つもの同士としての興味をそそる人間。
 出会った時からずっと、君はそういう相手だった。
 それに変化が生じたというべきか、切り替えのスイッチが入ったのは、今年の春の終わりのあの日、君が何の脈絡もなく司令部にやって来た時だ。
 極端に無駄を嫌う君が、何の報告するでも情報を求めるでもなく、ただふらりと司令部に立ち寄って、またすぐに出ていった。
 その行動が従来の君のパターンからするとあまりにも不可解で、以後、私は真夏になるまで三ヶ月もの間、君のことを考え続ける羽目になったのだ。
 その時間がなければ……あの日の不意の来訪がなければ、少なくとも当面の間、私の感情に変化はなかっただろうし、君の気持ちにも気付かなかったと思う。
 それだけの意味を、あの来訪とその後の三ヶ月間は持っていた。
 逆に言えば、私が本当に君を特別な意味で意識し始めたのは、それからだということになる。
 だが、時間の短さを理由に、私を軽薄だと思わないで欲しい。
 君になら分かるだろうが、誰かを特別に想うこと、それ自体、私にとってはひどく難しいことだ。
 そういうものは持たないようにしてきたし、実際に持ったこともなかった。
 それなのに君に対してこういうことになったのは、君が最初から他の人間とは全く違う位置にいたからだろう。
 よりによって、という気がしないでもないが、だからといって自分の心を否定する気もない。
 これから先、私は私なりのやり方で、君を想い、君を守ろうとするだろう。
 だから、それをどうか否定しないで欲しい。いや、否定しながらでも構わないから、何かある時には私のことを思い出して欲しい。
 私も、何かある時には必ず、君のことを思い出すだろうから。
 どれほど距離が離れようと、お互いに相反する道を歩くことになろうと、心だけは君を裏切らないと約束するから。
 だから。
 エドワード。








 ロイが案内した店は、小さくて賑やかな、ちょっと気の利いた町の食堂という感じの店だった。
 外が薄闇に包まれたこの時間帯、たいして広くない店内はほぼ満席で、沢山の人が気取らない風で楽しげに話したり、食事と軽い酒を楽しんだりしている。
 こういう店にも足を運ぶのかと少しばかり驚きながら、給仕に今夜のお勧めを聞いている目の前の男を見つめると、視線に気付いた相手が、どこか楽しげに笑んで見せた。
「今夜のお勧めは、ポークと木ノ子のソテーと、秋野菜のマリネ、山羊チーズ添えだそうだ。好き嫌いは?」
「あ、平気。牛乳以外なら何でも食うよ」
「チーズも?」
「俺がダメなのは、生の牛乳だけだって。料理に使ってあったり加工してあれば食えるよ」 「……ということだから、お勧めメニューを二つと、料理に合わせたワインを。軽めのさっぱりしたものがいい」
 慣れた様子で注文を決め、さて、とロイはこちらへ向き直る。
「考えてみれば、私は君の好き嫌いも、牛乳以外、良く知らないな」
「それを言うなら、俺だって、あんたの好き嫌いなんか知らないよ」
 言い返すと、ふむ、と今更ながらのことに気付いて考え込むように、首をひねった。
「確かに、これまではそういう事を話す機会がなかったかな」
「ない。全然、一度も」
 すっぱりと言いながら、エドワードは、これが成り立てとはいえ、いわゆる恋人同士、の会話なのだろうか、と思う。
 恋愛の経験も無ければ、恋愛小説の類も読んだことがないので、具体的なことは分からないものの、世間一般の恋人同士の会話というものは、もっと親密なものであるような気がする。
 だが、目の前の男は気にした風もなく、それなら仕方がない、と一人うなずいて見せた。
「知らないなら、これから知っていけば良いわけだ。私も君もまだ若いし、先は長いんだからな」
 わざとなのか、えらく悠長なことを言う相手に、少しばかり呆れる。
 進む足取りは沈着かつ確実であっても、一日でも早く、と逸(はや)る気持ちを、彼もまた内心に持っているはずなのに、こんな風に悠然と構えられることが不思議だった。
 これが大人の自制心というものなのだろうか。
 だとしたら、自分がそれを手に入れられるのはいつのことだろう、とぐるぐる考え始めかけたエドワードの思考を、穏やかなロイの声が制止した。
「手始めに、今夜は互いの食べ物の好みを知ることにしよう。魚、肉、野菜。好みの順で言うと?」
「え…と、肉、魚、野菜?」
 短い質問に慌てて考え、答える。
「それは同じだな。肉なら、牛、豚、鳥、羊の中でどれが?」
「んー? 全部、均等に食べてる気がするな。でも、選ぶんなら絶対に牛。次点は羊」
「私は鳥かな。野鳥が一番いい。基本的に、肉に関しては好き嫌いはないんだが」
 十代の頃に比べれば量も食べなくなった、と三十路近くなった年齢を少しばかり思うような表情で言ったロイに、思わずエドワードはくすりと笑いをこぼした。
 普段は年齢以上に若く見られることを気にしているくせに、身体的に年齢を感じるのは嫌だというのは、エドワードからしてみれば、どこか矛盾しているような気がする。
 でも、大人はそんなものなのかもしれないな、と十代半ばの身では想像するしかない感覚に、もう少し目の前の相手のことを知りたいという欲求がエドワードの中に生まれ、衝動のままにエドワードは問いかけた。
「じゃあさ、肉の料理方法は? 煮込むのとか焼くのとか」
「それはあまり問わないよ。強いて言うのなら、冬は煮込み料理が美味いと思うし、夏はさっと表面を炙ったくらいのものが食欲をそそることは確かだ」
「俺もそうかも。やわらかく料理してあるのもいいけど、締めたての硬い肉を簡単に焼いて、岩塩だけ振ってかじるのも美味いよな」
「そうだな。確かに新鮮な鴨肉なんて、味は最高だが、歯が丈夫じゃないと食えたものじゃない」
「分かる分かる」
 言いながら楽しくなってきた所に、おまたせしました、と言いながら料理の皿を両手に載せた給仕が割り込んでくる。
 手際良くテーブルに並べられた皿から立ち上る湯気と、食欲をそそる匂いに、一時忘れていた空腹を思い出して、エドワードの胃がきゅうっと自己主張をする間に、ロゼのワインもグラスに注がれて、ランプの明かりに美しくきらめいた。
 その色合いの美しさに見惚れながら、エドワードは自分が酒を飲み慣れていないことを思い出して、ロイへとまなざしを向ける。
「……俺、あんまり飲めないんだけど」
 もう何年も前、母親が生きていた頃に村の収穫祭で、興に乗った近所のオヤジにワインを飲まされ、ひっくり返って以来、自分から酒に手を出したことはない。
 おそらくグラス半分のワインでほろ酔いになっていた母親の体質を受け継いだのだろうと、以後は酒に興味を持つ事もなかったのだが、こうして当たり前のようにワインを注がれてしまうと、どうするべきなのか対応に戸惑う。
 だが、ロイは、子供じみたエドワードの言葉を笑わなかった。
「君の年齢なら当然だ。ただ大人になるにつれて、酒につき合う機会は増えるから、今のうちから酒の味に舌を慣らして、自分の限度を知っておくのも悪くないだろう。そして、やはり好きでないと思ったら、無粋にならない断り方を覚えればいい」
「……うん」
 反発してもいい内容の言葉だったが、皮肉の欠片もないロイの声の温かさが、エドワードを素直にうなずかせた。
 認めるのは少しばかり悔しいが、万事につけて卒のないロイの言動や物腰は、いけすかないとも思うものの、さすがだと感心させられることも多い。
 だから、そのための大人の知恵を、こうして分けてもらえるのは、何となくこそばゆい感じで、嬉しくないといったら嘘になった。
「無理せずに舐める程度でいいから、嫌でなければ私との食事の時は、アルコールに付き合ってくれると嬉しい」
「……結構飲むんだ?」
「味は好きだが、強くはないよ。外で飲む時は、グラスで五杯を限度と決めている」
「相場は分かんねぇけど、それって強くないって言うのか?」
「強いと言うのは、瓶を何本も空にしても平然としてる人間のことを言うんだよ。私は標準程度といったところだ。ワインを2本半以上空けると、大概、二日酔いになる」
「そんなもん?」
「ああ」
 ふぅんと思いつつ、エドワードはワインの匂いをかぎ、言われた通りに一口舐めてみて、やっぱりワインはワインだと思いながら、カラトリーを手に取った。
 まずは、と湯気の立ち上るポークソテーを口に運ぶ。
 肉なら牛肉が一番で、羊肉が二番のエドワードだが、木ノ子たっぷりの粒胡椒を利かせた香ばしい味付けと共に、じゅわっと肉汁が口の中で広がり、思わず感嘆の溜息が零れた。
 それから、もう一度グラスのワインを舐めて、目をみはる。
「大佐!」
「うん?」
「何か今、この料理食べてからワイン飲んだら、ものすごく美味かった。さっきワインだけ飲んだ時は、なんかいつもと同じで、そんなに美味いと思わなかったのに」
「それが料理と合う、ということだよ」
 少しばかり興奮気味に告げたエドワードに、ロイは笑う。
「料理と酒が合うのは素晴らしいことだが、難点は、酒が進み過ぎることだ。先に言っておくが、今夜はワインのお代わりはなしだぞ。君の分は、そのグラスの中身だけだ」
「…………」
 何だよそれ、と反射的に思ったものの、確かに酒を飲み慣れていない自分が、グラス一杯以上のワインを飲んだらどうなるのか、保証は何もない。
 ストップがかけられるのは当然のことだと納得したが、それでも、どこか悔しい気がして、自分と相手のワイングラスを眺める。
 と、内心が表情に出ていたのだろう。ロイは仕方がないと言いたげに、だが、楽しそうな笑みを浮かべた。
「悔しければ、さっさと大人になることだ。少なくとも、君は酒嫌いではないということは判明したわけだしな」
「ちっさい言うな!」
「言ってないよ。まったく、君の耳は一体どうなっているんだい?」
「悪口は絶対、聞き逃さねぇんだよ」
「悪口じゃないというのに……」
 笑いながらも、ロイはゆったりと料理を食べ進め、ワイングラスを傾けながら、先程の質問の続きを、とエドワードを誘った。
 当然、エドワードはロイが話を逸らそうとしていると察したものの、不毛な言い争いを続けても意味はない、とそれに乗る。
「料理の味付けの好みは?」
「何でも……かな。トマトソース系も好きだし、クリーム系も好きだし、あっさり塩味も好きだし。そん時の気分と体調によるよ。あ、でもピリ辛はちょっと苦手かも」
「なるほど。私も、特にこれと言うことはないが、味付けは薄めで、素材の持ち味が出ているのがいい。まあ疲れている時は、味の濃い目の物が欲しくなる時もあるがね」
「あー、俺も疲れると甘い物が欲しくなるかも。カフェのすっげえ濃いココアとか、いつもだったら甘すぎて飲めないようなのが美味く感じる時がある」
「……それは疲れ過ぎだ。まったく、君はもう少し自分の身体を大事にしなさい。自分一人のための身体じゃないだろう?」
 それでは本末転倒だ、と言われて、エドワードはむうと押し黙る。
 けれど、ロイが彼なりにこちらの身体を案じてくれていることは、何となく察せられて、喉元まででかかった反論をワインと一緒に飲み下した。
 そうして、秋野菜のマリネの中からニンジンをフォークに突き刺し、口に放り込んだ時、そういえば、と気付いた。
 今夜まで相手の好みなどまるで知らなかったが、一つだけ、自分も知っていることがある。
「あんたって、コーヒーは絶対にブラックだよな」
 そう言うと、予想通りロイは、おや、という表情になった。
「そうか。いつも執務室でも飲んでいるからな。だが、それなら私も知っているよ。中尉が君に入れるのは、絶対にストレートの紅茶だ」
「正解」
 顔を見合わせて、どちらからともなく破願する。
 たった一つだけ、それも、おそらく周囲の人間は誰でも知っているだろう他愛ないことこの上ない事柄なのに、それでも相手について知っていたことが嬉しい。
 まったく、世の中にこれ以上単純な思考があるだろうか。
 馬鹿だな、と自分を思い、そして。
 これが恋なのだ、とエドワードは甘い気持ちで思いながら、優しい目で自分を見ているロイへとまなざしを向けた。
「でも、やっぱり結構好みが違うよな。好き嫌いが少ない所は一緒だけど」
「口に入るものは何でも食べられるのが軍人の取り柄だからな」
 けれど、とロイはエドワードを見つめた。
「私は好みが違うのは、それはそれで面白いと思うがね。好みが違えば、相手が頼んだ物を味見するという冒険が楽しめる。それでまた新しい世界が開けるかもしれないし、そうでなくとも、少なくともコミュニケーションのネタにはなる。そう思わないか?」
「……あんたって、やっぱり欲張り」
 とてつもなく前向きな台詞に、また笑いが零れる。
「君だってそうだろう。私が君の目の前で何かを美味しそうに食べていたら、きっと味見がしたくなるに決まっている」
「否定はしないけど」
 結局、欲張りなのだろう。
 自分も、ロイも。
 欲しい物は一つだけと決めていても、ついつい好奇心が頭をもたげて、見聞きしたもの何もかもを試してみたくなる。
 そんな自分の性分については、それは浅ましいと思うこともあるけれど、ロイがそうすることに関しては、彼らしいとしか思えない。
 好奇心が強い所ばかりでない。とてつもなく大きな物を欲しがる貪欲さも、それを手に入れるためには手段を選ばない狡猾さも。
 どれもこれも、自分にも通じるものなのに、ロイに関することとなると、それは否定的な評価には繋がらないのだ。
 ───もしかしたら、この先、何一つ大佐のことは嫌いになれないのかも。
 だとしたら、何だか悔しい、と思いながら、目の前の男を見上げる。
「何だね?」
「何でもないよ」
 でも、それもいいのかもしれない、と今夜は思えて。
 エドワードはロイに笑みを向け、自分の皿に残っていた料理を片付け始めた。











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