Yesterdayを歌って 03

 久しぶりに食べるピザは、美味しかった。地元でも、そこそこ評判の美味しい店を選んだのだから、当然と言えば当然だろう。
 だが、食べる間に交わした会話といえば、見たばかりの映画のことが少しと、運ばれてきたピザのことが少し。それ以外は、臨也の感覚によれば会話と呼ぶのもおこがましい、話した端から忘れてしまうような断片的な言葉のやり取りばかりだった。
 だが、それも無理からぬことであって、高校時代には問題集や試験といった共通の話題が常にあったのに比べ、今は共通項らしき共通項が何もないのだ。
 今の臨也は理系の大学生だし、静雄はジャズバーのバーテン兼ピアニストであって、社会的な立場は全く違う。臨也が酒好きかジャズ好きであれば、まだ話は繋がるだろうが、あいにくとどちらも嫌いではないという程度で、話題にできるほどの知識は有していない。
 むしろ、それ以前の問題で、諸悪の根源ともいえる音楽の話に自ら水を向けるほど、臨也は親切でも自虐的でもなかったから、只でさえ乏しい話題は更に限られて、貧しさを極めているような状態だった。
(俺って、結構つまんない奴だったのかもな……)
 およそ四十分程度のランチ中に話が途切れたのは、十回か十五回か。
 数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの会話の続かなさに、臨也は食後のカフェラテを傾けながら、ふと、そんな風に感じて考え込んでしまう。
 それは、普段ならば、まず思わないことだった。
 友人と呼べる人間は数えるほどしかいない臨也だが、外面が良くて誰とでも分け隔てなく話すために、男女を問わず知人は多い。どんな相手とでも様々な場でさりげなく話を繋ぐのは、苦手どころか自他共に認める得意技だった。
 なのに、静雄の前でだけは、それが上手くいかないのだ。
 といっても、臨也が話を振れば、それが天気の話でも食べ物の話でも、静雄はきちんと聞いてくれる。臨也が余計なことを言えば鬱陶しそうな顔をすることもあるが、基本的に相手の話は目を見て聞くタイプだ。
 だが、静雄が寡黙な性分であるだけに、話せば話すほど言葉が上滑りをしているような気がして、結局、臨也は適当にお茶を濁して自分から話を打ち切ってしまう。その繰り返しで、まともな会話になる回数の方が遥かに少ないのである。
(シズちゃんは、自分からはあんまり話さないしなぁ)
 静雄は暇さえあればピアノを弾いているピアノ馬鹿であるが、弾けない時は、ぼんやりと本を読んでいることが多く、決して内にある語彙が少ないというわけではない。
 ただ、どちらかといえば内向的な性格で人付き合いが得意でないため、自分から積極的に他人に話しかけることは、あまり多くはないのである。
 人嫌いではないから、水を向ければそれなりに言葉を返すし、楽しそうな表情もする。だが、放っておけば、すぐにピアノの世界へと入っていってしまう。それが静雄の持っているどうしようもない性分なのだ。
(だからって、別にシズちゃんに変わって欲しいとは思わないんだけどね……)
 ピアノ馬鹿でなくなったら静雄ではないということは、臨也は十分に分かっている。
 そもそもピアノを弾いている彼を見て恋に落ちたのだから、たとえ一時といえどもピアノを忘れて欲しいと思うのは、本末転倒もいいところだろう。そういう自戒は、きちんとある。
 だから、静雄に変わって欲しいとは思わない。
 思わないのだが。
 さりげなく目線を落とせば、ぼんやりと窓の外にまなざしを向けている静雄の右手指は、テーブルの上で小さくタップしている。おそらく、先程の映画で触発されたメロディーを頭の中で弾いているのだろう。
 常々何を考えているのか今一つ分からない彼であるが、その程度のことならば、臨也にも容易に察しが付く。
 けれど、そんな静雄を見ているうち、妙におかしいような寂しいような気分に囚われて、ふと臨也は笑い出したくなった。
 結局、こうなのだ。
 いつでもどこでも、静雄は決してピアノのことを忘れられない。彼の心は、常に彼の音楽の世界をたゆたっている。
 目の前にいても、そこにはいないのが、静雄なのだ。
 けれど。
「シズちゃん」
「ん?」
 臨也が意図的にはっきりと発音して名前を呼べば、静雄は直ぐに戻ってくる。
 窓際の明るい席で、静雄の鳶色の瞳が外の光に透けて甘やかな色合いにとろけるのを、臨也は、念入りに翳りを消した綺麗な微笑みを浮かべて見つめながら、告げた。
「そろそろ行く? ピアノ弾きたいだろ?」
「──あー、まぁな」
 質問形で誘えば、うなずいたものの、少しばかりきまり悪げに静雄は視線を彷徨わせる。
 それは本当に小さな仕草だった。
 だが、その仕草だけで、臨也と一緒に居るにもかかわらずピアノに思いを馳せてしまうことを彼が悪いと感じていることが知れて、臨也は胸の奥から、言葉にしようのない切なさが込み上げてくるのを感じる。
 ───いっそのこと、恋人を省みないことに何の罪悪感も抱かないような彼であったならば。
 臨也は、決して低い矜持の持ち主ではない。それどころか、プライドと負けず嫌いの権化だ。そうでなければ、有名進学校の特進クラスで首席を争ってなどいられたはずがない。
 だから、もし静雄がピアノが上手いだけの身勝手な人間であれば、とっくの昔に嫌いになることができていただろう。否、最初から彼に恋などしなかったと断言できる。
 しかし、現実はこうなのだ。
 彼なりに臨也を大切にしたいと思っていることが言動のあちこちに透けて見えるから、どうしても嫌いになれない。それどころか、その度毎に──自嘲めいた感情と抱き合わせではあるが──好きだと思ってしまうのである。
 だが、その苦い思いを綺麗に押し隠して、臨也は皮肉っぽく肩をすくめてみせた。
「なに痩せ我慢してるわけ?」
 静雄のことは、今も昔も、これ以上はなれないほどに好きだった。
 しかし、だからといって、一旦は自分を裏切った静雄に、その気持ちを馬鹿正直に見せようという気にはなれない。
 本当に好きだし、こうして一緒にいられることも本当に嬉しい。だが、それであの日のことを全て許せるかといえば、否だ。
 だから、全てを理解しているような涼しい顔で、臨也は笑ってみせる。
 君がそうしたがっているから合わせてあげるんだよ、感謝しなよね、と。
 高校時代、いつも彼に見せていた、どこか驕慢で悪戯な雰囲気のままに。
「シズちゃんのピアノ馬鹿は死んだって治らないだろ。さっきからずっと指が動いてるのに、俺に気を遣って我慢するなんて、むしろ気色悪いよ」
 ね?、と駄目押しすれば、それ以上我慢しても仕方がないと思ったのか、静雄はうなずいて立ち上がった。
 入店前に、臨也が一方的に昼食は静雄の奢りと決めたが、どうやらその通りにしてくれるつもりらしい。レシートを手に持って、真っ直ぐにレジに向かう彼の後を臨也も追い、支払いを終えるのを待って、一緒に店の外に出た。
「ご馳走様」
「おう」
 礼を言うと、静雄は短く応じてから、ごく自然な動作で右手を差し出す。
 先程の今だから、その意味が判らないはずがない。
 しかし。
「……あのさ、シズちゃん。恥ずかしくないわけ?」
 差し出された手のひらを見つめ、静雄の目を見つめると、あー、と呻りながら、静雄は後ろ髪を掻き上げた。
「……まあ、全然恥ずかしくねぇとは言わねーけどな」
「あ、そうなんだ。良かった」
 恥ずかしくないと言われたらどうしようかと思った、とこれは揶揄ではなく、むしろ本心から呟くと、静雄は嫌な顔をする。そして、臨也の左手を、素早い動きで半ば強引に自分の手の中に収めた。
「シズちゃん……っ」
「お前と一緒に居るのに、ピアノのことばっか考えちまうのは嫌なんだよ」
「は……?」
 抗議を込めて名を呼べば、拗ねたような口調でそんな風に言われて、思わず臨也は絶句する。
 そして、繋がれた手をまじまじと見つめた。
 つまり、これは錨(いかり)なのか、と思う。
 静雄の意識を臨也の傍にとどめておくための錨。そのために、この手は役に立つのか。
 そう思うと知らず知らず、口元に喜び半分切なさ半分の笑みが浮かぶ。
「……変なの」
「うるせぇ。行くぞ」
 口調が乱暴になったのは照れ隠しだろうか。ぐいと軽く引っ張られて、歩き出しながら臨也は絡まる指先にそっと力を込める。
 すると、それよりも少し強い力で握り返されて。
 胸の奥が温かくなるような、少しだけやるせなさが混じるような、何とも言えない気分に臨也は小さく笑った。




 静雄の働くジャズバーは、二人が通っていた高校からさほど遠くない商店街の裏側にあった。
 賑やかな表通りから一本入った角にあるバーは、古い喫茶店のような外観で、木製の壁に塗られたスチールブルーの塗料が年月と共に色褪せているのが、ややみずぼらしい半面、不思議にいい味を出している。そんな建物だった。
 その裏口のドアの鍵を開けて、静雄は中に入る。彼の後について店内に足を踏み入れると、壁や天井に染み付いているのだろう煙草とアルコールの残り香が、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「休みの日は、自由に弾いていいって言われてんだ」
 そんな風に言いながら、静雄はテーブルの上に椅子を上げたフロアの奥へと進み、少ない明かりにも艶々と光っているグランドピアノに手を触れる。
 いかにも大切そうなその仕草に、臨也はそっと目を細めた。
「うちのピアノはアップライトだし、住宅地ん中だからよ。思い切り弾けねぇから……」
 マスターの好意はとてもありがたいのだと、静雄は慣れた手つきで重いはずの天蓋を持ち上げて低い位置で固定し、鍵盤にかぶせられていた深紅のフェルトを器用に小さく折りたたんで端に寄せる。
 そして、ひどく愛おしそうな目をしながら鍵盤に触れて、感触を確かめるようにスケール(音階)を流し引いた。
「リク、あるか?」
「ううん。シズちゃんの好きなの弾いて。その間に弾いて欲しいの考えるから」
「そうか」
 臨也が何でもいいと応じると、静雄は数秒だけ考えるそぶりをしてから、おもむろに白黒の鍵盤に指を走らせ始める。
 決してジャズに詳しくはない臨也には、その曲名は分からなかったものの、何となくクラシックで聴いたことがあるような気がして、首をかしげた。
 勿論、ジャズスタイルに崩してあるから、確かなことが言えるわけではない。だが、先程見た映画に彼が触発されているのは確かだっただから、クラシックがベースの選曲になるのは、別に不思議でも何でもないことだった。静雄にはそういう単純というか素直な部分があることを、臨也は良く知っている。
 照明を絞った薄明るい店内で、静雄が作り出す音の世界に意識を半分浸しながら、臨也は物音をたてないように、テーブルの上に伏せて上げられた椅子を一脚、床に下ろしてそこに座る。
 そして、組んだ足に頬杖をついて、瞬く間にピアノに引き込まれていった静雄の横顔を見つめ、狭い店内を眺めた。
 個人で経営しているだけあって、小さな小さな店だ。バーらしくテーブルや椅子は小さめだが、カウンターを含めても四十人も入ればいっぱいになってしまうくらいのキャパシティーしかない。
 それでもジャズファンというものはどこにでもいるらしく、臨也が店を覗く時には大体、七割から八割の席が埋まっている。
 誰もが長居するために決して回転率は良くないが、何とか経営は成り立っている。そういう印象の小さな店だった。

 静雄がこの店に就職を決めたと臨也が知ったのは、大学の入学直後のことだった。
 臨也が意識的に調べたわけではない。単にお節介な元同級生が知らせてくれたのである。学年トップを臨也と争っていたはずの平和島静雄がジャズバーで働いている。一体どうしたのか、と。
 だが、そんな風に問われても、臨也は答えるべき言葉を一つも持ってはいなかった。
 そもそも何も教えてもらえなかったのに、答えられようはずもないのだ。
 だから、知らないよ、とだけ事実を冷淡に繰り返しているうちに、皆、その話題に飽きたのか、程なく誰も何も問わなくなった。
 あるいは、進路を違(たが)えた元級友のことなど、軒並みこぞって名門大学へ進学した彼らは、どうでもよい話として直ぐに忘れてしまったのかもしれない。
 そんな風に、静雄の名を誰も口にしなくなり、臨也も何も言わないまま、ただ一ヶ月、半年、一年と時だけが過ぎてゆき。
(魔が差した……っていうのが正しいのかな)
 再会は、そうとしか言いようの無いような形で、ある日突然、訪れた。



 その日、臨也は珍しくも酔っていた。
 さほど酒に強い方ではないため、コンパに参加してもビールをジョッキに一杯か、薄いカクテルを二杯程度でとどめるようにしていたのだが、その日は何となく、いつもの倍量近くを体内に流し込んだのだ。
 そんな無茶をしたのは、おそらく天気のせいだった。 
 本格的な春にはまだ幾らか間のあった天気の良くない寒い日で、しんしんと冷え込む空から舞い落ちる雪が、臨也を芯から凍えさせ、過度のアルコールを求めさせたのだ。
 そして、その帰り道。
 ほろ酔いのまま、自宅最寄りの駅で電車を降り、普段ならば選ばない道を、何故か選んで歩き出した臨也は、ぽつりぽつりと街灯のともる商店街の裏通りをそぞろ歩いてゆくうち、不意に明るい光の零れている窓を見つけた。
 その時、その明かりに何を感じたのかは、今もって分からない。むしろ、酔っ払って何も考えていなかったというのが正解だろう。
 ともかくも臨也は、温かそうな光を夜道に投げかけているその窓に、夏の羽虫のようにふわふわと吸い寄せられた。
 そして、窓のほぼ正面に立った時。


 ───とてもよく知っている音が、聞こえた。


 明るい窓の向こうから聞こえる、力強く、それでいて情感にあふれた破調のメロディー。
 なめらかに踊る装飾音符と小気味のいいビート、自由自在なフェルマータが、聴く人間の心までを震わせる。
「シ、ズ…ちゃん……」
 その音の創造主を、臨也は良く知っていた。
 どれほど音楽への造詣が浅かろうと、何年その音から遠ざかろうと、聞き間違えるはずがない。
 間違いなく、三年間聞き続けた音であり、メロディーであり、リズムだった。
 雷に打たれたようにその場に立ち尽くしながら、臨也は無意識に口元を両手で覆った。そうでもしなければ、叫び出してしまいそうだった。
 或いは、大声で泣き出してしまいそうだった。
 ───シズちゃん。
 曲は合間に一呼吸ずつを挟みながら、次から次へと続けざまに演奏されてゆく。
 知っている曲もあれば、知らない曲もあった。
 だが、どれもこれも『平和島静雄』だった。
 彼にしか出せない音で、彼にしか弾けないメロディーだった。
 ───シズちゃん、シズちゃん。
 どうして、と思う。
 あの初春の日以来、臨也はずっと音楽からは遠ざかってきた。とりわけピアノの音は聞きたくもなくて、店舗のBGMでピアノ曲が流れればすぐに店を出るのも、ピアノの練習音が聞こえる道を避けて通るのも、もはや日常の習慣だった。
 それほど聞きたくないと……厭わしいと思っていたのに。
 どうして彼の音が分かってしまうのだろう。
 音楽に興味などないのに、どうしてこんな風に胸が震えてしまうのだろう。
 ───シズちゃん。
 聴きたかった、と軋む胸から絞り出すように、心の一番奥底で凍て付いていたはずの想いが、灼熱の溶岩のような激しい熱を帯びてせり上がる。
 そう、音楽になど興味なくとも、ジャズのことなど何も分からなくとも。
 彼のピアノだけは聴きたかった。
 ずっと自分の傍で弾き続けて欲しかった。
 同じ大学への進学など、本当は口実でしかなかった。どんな形であっても、ただ静雄が傍に居てくれれば、もうそれだけで良かった。
 それだけで満ち足りることができた。
 なのに。
 ───どうして。
 どうして自分達は、離れてしまったのだろう。
 どうして進路について何も言ってもらえず、そして、自分もまた、正直な気持ちをぶつけることができなかったのだろう。
 どうして今、自分は、彼がいる建物の中ではなく、こんな窓の外に立ち尽くしているのだろう。
「どう…して……? シズちゃん……」
 分からない、と臨也はただ窓の外に立ち尽くす。
 凍てた空からはらはらと粉雪が舞い落ち、肩に白く積もってゆくことすら気付かず、ただ明るい窓を見つめ、聞こえてくる音を全身で飲み干すように受け止める。
 だが、そんな魔法のような時間は、ごく僅かな間しか続かなかった。
 六曲ばかり立て続けに演奏された曲目の最後の一音が消えるか消えないかのうちに、わっと拍手が上がる。
 無論、コンサートホールではないのだから、満場の拍手と言ってもささやかなものだった。だが、店中に響くその温かな音が、彼の音楽がこの店に集う人々に愛されていることを如実に臨也に教えて。
 ───シズちゃん。
 温かな拍手に、人々の笑顔に、少しばかり照れながら、ぎこちなくお辞儀をする静雄の姿が目に見えるようで、臨也は一気に自分の体が冷えてゆくのを感じた。
 ───こんな風に沢山の人に愛されて。
 ピアノを愛して。
 彼は、ここで生きている。
 臨也には全く関係のない、縁のない世界で。
 臨也のいない世界で。
 そうすることを三年近く前、彼は選んだ。
 三年間重なっていた二人の道を違えることを。
 臨也から遠く離れてしまうことを。
 こうして目の当たりにしてみれば、確かに、これは臨也には与えられない世界だった。
 元より音楽には興味などない。彼のピアノの凄さも分からない。
 あの頃も、受験生のくせにそんなにピアノばかりに夢中になってどうするの、馬鹿じゃないのと、揶揄半分に常々そう高言していた。
 彼のピアノが好きでも素直にそうとは言えず、その価値も、ピアノと共に生きたいという彼の願望も、かけらも理解できていなかった。
 そんな自分に、どうして進路を違えることへの弁明の言葉が与えられるだろう。
 ましてや、共に来て欲しいと望まれるはずもない。そんなことを期待する方がおかしい。
「そっか……、そうだよね……」
 最初から二人は違う世界の人間だったのだ、と今になって、初めて臨也は悟る。
 同じ高校に在籍していようと、学年首位を争っていようと、静雄は最初から臨也とは同じ次元にいなかった。
 彼は彼の音楽の世界に生きていて、高校時代の臨也は、その世界の一端を垣間見せてもらっただけだった。
 あの頃強く感じていた、彼のことを誰よりも理解し、誰よりも傍にいるという自負も、ただの錯覚──少年時代にありがちな単なる思い上がりに過ぎなかったのだ。
 静雄は確かに臨也を大切には思っていたかもしれない。だが、必要とはしていなかった。
 少なくとも、ピアノに対する想いを理解しない人間など、傍に置いておく必要などなかったのだ。
「今更分かるなんて……」
 何と愚かだったのだろうと、溢れ出す悲嘆と絶望を押し殺して、臨也は唇を噛み締める。
「……でも。それでも、さ」
 俺は君が好きだったし、君のピアノだって好きだったんだよ、と呟く傍から、こらえ切れなかった涙が零れ落ちる。
 理解できなくても、求められなくても。
 素直になどなれなくても。
 裏切られても。
 それでも好きだった。
 どうしようもない、初めての恋だった。
「馬鹿みたいだ……」
 どうやっても届かないのに、今でも彼のピアノを聴いてしまえば、こんな風に胸が詰まる。
 心臓が、一打ち毎に好きだ好きだと訴える。
 ───本当は、ずっと傍にいたかった。
 ずっと彼のピアノを聴いていたかった。
 他愛のないことで言い争っては仲直りし、またピアノを弾いて、傍で耳を傾けて。
 そんな風にずっと過ごしたかった。
 けれど、もう叶わない。
 同じ大学に進むことが大事なのではなく、ただ傍に居たいのだと、あの頃に告げていれば、また何か違っていたのだろうか。
 だが、それすらも、もう確かめる術はない。
 唇を噛み締めて頬を濡らす涙をぬぐい、臨也は窓を見つめて、さよならシズちゃん、と口の中で呟く。
 そして踵を返し、歩き出そうとしたその時。




「臨也!!」




 乱暴な音と共に店のドアが開き、内から背の高い青年が飛び出してくる。
「臨也っ」
 必死に名を呼ぶ、その血相を変えて切羽詰まった表情に、反射的に「何故?」と思う間もなく。
 臨也は、彼の手に左腕を掴まれていた。
「――――」
 言葉も無いままに至近距離で向かい合う。
 彼の吐く息が白い。臨也の吐息もそうだった。
 射殺しそうな鋭いまなざしと、涙の名残をとどめたまま戸惑うまなざしが間近で絡み合ったのは、僅かな間のみのこと。
 直ぐに、ぐいと腕を強く引かれた。
「来い」
 短い言葉と共に大股に歩き出した静雄に引っ張られて、つんのめりそうになりながら臨也は店内に連れ込まれる。
 そしてそのまま、カウンター内の店主らしき壮年の男に、「控え室、借ります。戸締まりは俺がしますから、先に上がって下さい」と声をかけた静雄に、『PRIVATE』と書かれたドアの奥に引きずり込まれた。
「シ、ズちゃん」
 控え室、というより事務室だろうか。狭い室内に、事務机と着替え用のロッカーと古ぼけたソファーが詰め込んである。
 だが、それ以上の確認をする余裕は与えられず、手を離してと言うよりも早く、くるりと振り返った静雄に、臨也はドアを背にした体勢で追い詰められた。
 またもや、先程よりも遥かに至近距離で目と目が合う。
 二年十ヶ月ぶりに見る静雄は、記憶にあるよりも頬や顎の線が削げて、男くさく精悍な印象を増していた。
 加えて、あの頃にはなかった煙草の匂いがほろ苦く彼を包んでいる。
 五感で感じる彼の全てが臨也を圧倒して、心臓を激しく騒がせたが、静雄の方はそれに気付いているのかいないのか。
 色合いばかりは変わらない鳶色の瞳が、じっと臨也を見つめて。
 ゆっくりと上がった静雄の右手が、臨也のこめかみ辺りに落ちかかる髪に、躊躇いがちに触れた。
「臨也、だよな……」
「――他の誰に見えるってのさ」
 確認するような低く小さな声に、返す声が震えないようにするのが精一杯だった。
「――そうだな。お前だ」
 一つまばたきした静雄はそう応じ、前触れなく両腕を臨也の背に回して、その身体を広い胸の中に抱き込んだ。


「――シズちゃん……!?」
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 誰だって理解などできないだろう。あんな別離を経た相手に、二年十ヶ月ぶりに再会した途端に抱き締められるなんて、どうして想像するだろうか。
 かつて恋人同士であったわけではない。思い返せば、互いに何かを感じ取っていたように思えるものの、言葉で気持ちを確認したことも無ければ、ハグをしたこともされたこともない。
 なのに今、臨也は明らかに静雄に抱き締められている。
「臨也」
「……な、に……?」
 状況が良く分からないまま、心臓だけが狂ったように脈打っているのを感じつつ、臨也は辛うじて応じる。
 しかし、次に耳元で響いた静雄の低い声に、全てを吹き飛ばされた。

「好きだ」

 その言葉は、まるで異国の言葉を聞いたかのように理解ができなかった。
 或いは、ファンタジー小説やゲームに良くある石化の呪文を唱えられたかのように、臨也は静雄に抱き締められたまま硬直する。
 だが、静雄は構う様子もなく、告白の言葉を繰り返した。
「好きだ。次にお前に会えたら、絶対に言おうとずっと思ってた」
「――な、に……それ……」
「願掛けみたいなもんだ。もしお前がこの店に来ることがあったら、ってよ。もし、もう一度、お前が俺のピアノを聴きに来てくれたら……そんな奇跡が起きたら、もう絶対にお前を離さないって決めてた」
 何それ、と臨也は心の中で繰り返す。
 さっぱり訳が分からなかった。
 そもそも臨也を捨ててピアノを取ったのは、静雄の方ではないか。
 なのに、何故、願掛けだの離さないだのという話になるのか。
「何、馬鹿なこと言ってるんだよ。一体、何様気取り?」
 口を開き、反論の言葉を紡ぎ出せば、急速に腹立ちが沸き上がってくる。
「ねえシズちゃん、分かってる? 俺は物じゃないんだよ。君の気まぐれで拾ったり捨てたりできる玩具じゃない! そもそも俺と一緒の大学じゃなくてピアノを取ったのは、シズちゃんじゃないか……!」
 言いながら全身に力を込めて、静雄の体を突き放す。が、膂力の差の悲しさで、かろうじて抱き締める腕の力は緩み、互いの顔が見えるようになったものの、静雄の両手は、まだ往生際悪く臨也の背に触れていて。
「離せよ!」
「嫌だ」
 再度の抗いは、一言で却下された。
 好きだと言えば何をしても許されるとでも思っているかのような、あまりの勝手さと理不尽さに、臨也は心底からの怒りを込めて静雄を睨みつける。
「一体、何なわけ? 気でも違ったの、シズちゃん? いきなり人をこんなとこに引っ張りこんで、訳の分かんないことするわ、言うわ……」
「だから、決めてたっつっただろ。すげえ後悔したんだよ、あの後」
「はあ? 後悔って……」
「もう嫌なんだよ、後悔すんのは。だから、離さねえ」
 聞けば聞くほど、訳が分からなかった。
 会話を得意としない静雄が言葉足らずなのは昔からのことだが、どうやら三年弱の時を経て、それに拍車がかかったらしい。
 異星人と会話しているような言葉の通じなさに更なる苛立ちを募らせながら、臨也は険悪に目を眇める。
「勝手すぎるだろ、そんなの。大体、何を後悔したっていうんだよ。おまけに俺の意志は完全無視なわけ?」
 厳しい声で問えば、静雄は何とも言えない表情で臨也を見下ろした。
 その鳶色に瞳に映っている感情が何であるのか、臨也には分からなかった。
 後悔? 切望?
 あるいは、ままならない渇き、だろうか。
 そして紡がれた言葉は、やはり理不尽なものだった。
「――無視って訳じゃねえ。でも、お前が逃げようとしたら無視するかもな」
「なんで!」
「お前が居ないと、ピアノ弾いてても、つまんねぇんだよ」
 初めて静雄の声に苦いものが混じった。
「は…あ……?」
 だが、声以上にその言葉の意味を捉えかねて、臨也は呆然と静雄を見上げる。
 そんな臨也の様子をどこまで理解しているのか、静雄は苦い声のまま、告白を続けた。
「ずっとピアノだけ弾いていられればいいと思ってた。お前と会うまでの俺は、本当にそうだった。ピアノさえありゃ良かったんだ。でも高校の三年間で変わっちまったんだよ。お前が聴いててくれねぇと、どれだけ好き勝手弾いても楽しくねえ」
 痛みを堪えるような表情をかすかに覗かせて言い切った静雄が、ゆっくりと右手を上げる。
 そして、ぎこちない手つきで臨也のこめかみの辺りの髪を、そっと梳いた。
「好きだ、臨也。気付くのが遅かったのは分かってる。でも、遅過ぎたとは言わないでくれ」
「……何、それ……」
 高校時代、ずっと見つめていた、指先の丸い、長い指。
 この指が信じられないくらい器用に動いて、美しい音を作り出すことを知っている。
 この指が温かいことも知っている。
 そして、こんなにも優しく人に触れることも、今、教えられて。
「言うに……決まってんだろ。つまんないって……、願掛けって何だよ。そんなの、気付いた時点で土下座しに来いよ……!」
 引き攣れるように、喉の奥と目の奥が熱く、痛くなる。
「臨也」
「遅過ぎるよ! 俺が許すわけないだろ……っ」
 とうとう堪えきれない涙が零れ、頬を伝って板張りの床に滴り落ちる。
 嬉しいとは思えなかった。むしろ、悔しさや怒りの方が遥かに勝った。
「シズちゃん、勝手過ぎる……!!」
 胸を焼く激情にたまらずにうつむけば、髪を梳いていた温かな優しい指も追いかけてきて。
「悪かった、臨也」
 躊躇いがちに髪を梳き撫でながらの短い、だが、精一杯の想いの込められた謝罪に、もうそれ以上は声にすることもできず、臨也はただ嗚咽を殺して泣き崩れた。
 その様子をどう見たのか、静雄の腕が再び背に回り、強く抱き締めてきて。
「ごめんな。──好きだ。本当は、あの頃からずっと好きだった」
 そう耳元で囁かれて、知らない、と臨也はかぶりを振った。
「俺は、嫌い…っ、シズちゃんなんか、大嫌い……!」
「ああ」
 それでもいい、という静雄の声は、ひどく優しかった。
「傍に居てくれ。もう絶対に手を離したりしねぇから」
 そんなの知らない、嫌だ、と言おうとしたのに、何故か声にはならず。
 静雄の温かな腕の中で、臨也は、ただ泣き続けた。




(でも結局、全部うやむやのまんまだよね……)
 再会の時のことを思い返しながら、臨也はピアノに向かっている静雄を見つめる。
 好きだと言われて謝られもしたが、肝心なこと──何を思ってあの日、受験会場に来なかったのか、そして、どうして臨也に何も言わなかったのかということについての説明は、まだ一言も受けてはいない。
 それに対抗するかのように、臨也もまた、好きだという一言を、これまで一度も口にしたことはなかった。
 大げさかもしれないが、その一言は、自分の心の一部を明け渡すのと同義であるような気がするのだ。おいそれと口に出せるものではない。
 かといって、絶対に言わないと決めているわけではなかった。それどころか時折、衝動的に告げてしまいたくなる瞬間もないわけではない。
 だが、今はまだ言えない、と臨也は思う。
(まあ、言うとしたらシズちゃんが全部白状して、それに俺が納得できたら、かな)
 強情だと言われても仕方がないが、少なくとも自分から全面降伏するような真似は嫌なのだ。
 加えて、今の状況では、やはり静雄を信じ切ることは難しい、というのが臨也の正直な心情だった。
 臨也が居なければピアノを弾いてもつまらないと言われたが、それでも静雄の中におけるピアノのウェイトは重過ぎるのである。比べたら、臨也の存在など、静雄が大切にしているCD一枚程度の重さも、あるかどうか知れたものではない。
 一応は恋人という立場である以上、そこまでは軽くないと信じたいが、もし本当にそうであれば、業腹すぎて到底、素直な気持ちなど口にできるはずもなかった。
(シズちゃんにしてみれば、俺の告白自体、どうでもいいのかもしれないけどさ……)
 言葉では何も言っていないとはいえ、再会の夜、抱き締められても碌に抵抗しなかったのは事実だ。その後、キスをされても大人しく目を閉じたのだから、臨也の気持ちそのものは、とっくに静雄に伝わってしまっていると見ていいだろう。
 それどころか、ピアノ馬鹿な静雄の単細胞さを考えたら、もうそれだけで、臨也は自分のものだと安心してしまっている可能性も低くはない。
 そう考えると、つくづく悔しいと思わざるを得なかった。
 静雄は、おそらく臨也が居なくなっても、ピアノさえあれば生きてゆけるだろう。
 それこそ、臨也が傍に居ない間も、ピアノは弾いていたのと同じ事だ。最初のうちこそはつまらないと感じていても、そのうちにきっと慣れて一人が平気になる。
 或いは、この先、臨也に対して思った以上に、聴いて欲しいと思う人と出会うかもしれない。
 つまりは、静雄が臨也に対して抱いている気持ちは、その程度のもの──水があれば流れていってしまう浮き草程度の感情なのだ。
 静雄は静雄なりに臨也を大切にしようとしてくれているが、どうやっても臨也はピアノ以上の存在にはなれない。
 改めて考えれば、本当にひどい話だった。
 なのに。
(好きだなんて……本当に馬鹿みたいだ)
 言葉にすることなく呟けば、胸の奥がずきりと痛む。
(ねえシズちゃん。俺は、ものすごく欲張りなんだよ)
 ずっと傍に居たかった。
 ずっと彼のピアノを聴いていたかった。
 だが、それだけでは足りないのだ。
 ―――愛して欲しい。
 誰よりも何よりも好きだと、大切だと言って欲しい。
 自分が想う以上に想って欲しい。
 そんな感情は、ただの我儘だと分かっている。たとえ両想いであっても、感情は個々のものであって、同等に釣り合うものではないし、天秤に載せて測れるものでもない。
 けれど、それでも。
 ただ好きだと言うのではなく。
 ただ抱き締めて、キスをするのではなく。
 もっと全身全霊で、自分と同じくらいに。
 彼がとてもとても大切にしているピアノと同じくらいに。
 それ以上に。

 愛して、くれたら。

「――臨也……!?」
 何曲目かの曲を弾き終えて振り返った静雄が、驚いたように目を瞠る。
 そして、慌てたように立ち上がり、臨也の元へと歩み寄った。
「どうした?」
 気遣わしげにうろたえた静雄の表情と、頬を伝う熱いとも冷たいともつかない感触に、ああ、いま自分は泣いているのだと、臨也は他人事のように思う。
 どうして泣いているのかは、自分でもよく分からなかった。
 もしかしたら、あの三年前の初春の日以来、積み重なった感情が胸の内で飽和して、とうとう制御が利かなくなってしまったのかもしれない。
 その証拠に、
「ねえ、シズちゃん」
 自然に唇が動き、決して表に出すつもりの無かった言葉が滑り出す。

「俺って、シズちゃんの何?」

 問いかけた途端、静雄はひどく驚いた顔になる。
 涙を拭うことも思いつけないまま、臨也は、ただその顔を真っ直ぐに見つめた。

to be continued...

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