Yesterdayを歌って 02

 ピアノの音が聞こえる、と臨也が気付いたのは、問題集に一段落が付いて、そろそろ帰ろうかと思った時だった。
 集中していた時は気付かなかったのだが、細めに開けた教室の窓から、細く遠いピアノの音が聞こえてくる。
 明日から中間試験だというのに悠長なことだな、と思いつつ、荷物を片付けた臨也が音源と思しき音楽室に足を向けたのは、その呑気な奴の顔を拝んでやろうと思ったからだった。
 進学校であるだけに、全ての部活動は試験の一週間前からテスト休みに入る。つまりは、この時期に音楽室から楽器の音が聞こえるはずがないのだ。
 物好きの正体は誰だろうかと、光に惹かれる羽虫のように特別教室の集まる西館の三階にある音楽室へ近づけば、音はますますはっきりと聞こえてくるようになる。
 だが、ビートルズだろうか、と曲名が曖昧な断定になったのは、そのメロディーがずいぶんと破調なせいだった。
 聞き覚えのある曲調ではあるのに、まるで別の音楽になってしまっており、それでいて元曲の哀愁は残している。
 人によって好き嫌いはあるだろうが、それは見事なジャズアレンジで、うちの学校の生徒にこれだけ弾ける人間がいたのかと感心しながら、臨也はそっと音楽室を出入り口のガラス越しに覗き込む。が、その教壇横に据えられたグランドピアノに人影はなく、臨也は小さく首をかしげた。
「……音楽準備室の方かな」
 ピアノの音はより一層クリアに聞こえてきているのだから、音源はここのはずなのだ。
 余計な音を立てぬよう気遣いながら音楽室の引き戸を開れば、更に音は鮮やかになり、臨也は誘われるように教室の奥にある小さなドアのガラス窓を覗く。
 そして、そのまま絶句した。
「え……?」
 女生徒ではないだろうと思っていた。音の力強さやリズムの刻み方から、十分過ぎるほどに男性的なものは感じ取れていた。
 だが、しかし。
「……シズちゃん?」
 驚愕に駆られたまま、ノックも無しに準備室のドアを開く。
 と、古ぼけたアップライトピアノに向かっていた静雄が、びくりと手を止めて振り返った。
「折原?」
 臨也の姿を認めた途端、静雄のまなざしが険を含んで鋭くなる。だが、臨也はそんなものに構ってはいられなかった。
「シズちゃん、ピアノ弾けたんだ」
「……悪いかよ」
「ううん、悪くない」
 まだ驚愕から逃れられないまま、臨也は吸い寄せられるようにピアノの傍まで歩み寄る。
 そして、鍵盤の上に置かれたままの静雄の手をしげしげと眺めた。
 指の長い、大きな手だ。
 爪は白い部分が見えないぎりぎりまで摘んであって、指先はやや不自然に丸い。確かに、幼少時からピアノを弾き続けてきた人間の手に見えた。
「……何だよ」
 いつも挑発的な臨也が大人しいからだろう。静雄は居心地が悪そうに、怪訝な表情を浮かべる。
 だが、構わず臨也は、湧き起こる衝動のままに尋ねた。
「さっき弾いてたのって、The Long And Winding Road?」
「――ああ」
 問えば、静雄は戸惑った顔ながらもうなずく。
「ビートルズ、知ってんのか」
「有名なのだけね。赤盤と青盤はうちにあるから」
「へえ」
 その臨也の受け答えで、静雄は肩の力を抜いたようだった。
 右手が小さく動いて、数音のコードを奏でる。
「シズちゃんはビートルズ、好きなの?」
「だから、シズちゃんって呼ぶな」
 臨也が嫌がらせでつけた仇名に顔をしかめながらも、静雄はぽつりぽつりとピアノの鍵盤に指を滑らせて、メロディー未満の音を響かせた。
「好きっつーより、ガキの頃から聞かされてたから身に染み付いてる感じだな。うちは母親がビートルズ好きなんだ」
「へえ」
「で、父親はジャズマニア。両方足したら……分かるだろ」
「ああ、だからジャズアレンジだったんだ」
 メロディーがずいぶんと破調だった理由が分かって、臨也はうなずく。
「楽譜とか、あるの?」
「ビートルズのか?」
「じゃなくて、さっき弾いてたやつ」
「ああ、それはない」
「ないの?」
「ジャズに楽譜なんてねぇよ。まあ、元曲の楽譜はあるけどよ、楽譜通りに弾いたらジャズじゃねぇし」
「――じゃあ、さ」
 最も気になっていたことを、そっと唇に上らせる。
「シズちゃんのオリジナル?」
「あー、まあ、そういうことになるかな」
 何の気もなさそうに、静雄は鍵盤に指を置きながら答えた。
「楽譜があっても、つい好き勝手弾いちまって駄目なんだよな。だから、ピアノも基礎しか習ってねぇんだよ。クラシックは基本、楽譜通りだろ。勿論、曲の解釈はそれぞれなんだけどよ。音の長さを変えたり装飾音符をつけたりのアレンジは御法度だから」
 ピアノ教室を追い出されちまったんだよな、とわずかな自嘲交じりに静雄は言う。
「でも、一応、楽譜の読み方と運指法は覚えたから、あとはうちのピアノで好き勝手弾いてるんだよ」
「……そうなんだ」
 うなずきながら、臨也は会話しながらも自動書記のように鍵盤を押している静雄の手指から視線を外し、その横顔にまなざしを向けた。
「ねえ、シズちゃん」
「だから、俺は平和島静雄だっつってんだろ」
「もう一回弾いてよ。て言うか、他のも聴いてみたい」
「は……」
 臨也がねだれば、静雄は呆気にとられた顔になる。
「なんで……」
「だから、ビートルズは嫌いじゃないんだってば」
 その物言いで納得したのか、静雄は戸惑いながらも合点した表情になり、それなら、とピアノに向き直る。
 そして、自己流のThe Long And Winding Roadを弾き始めた。
 ポールとジョンの間に生じた亀裂が決定的になった頃の憂いに満ちたメロディーは、静雄の指によって力強い響きと新たな切なさを孕みながら、狭い音楽準備室に溢れ出してゆく。
 その音に耳を傾けながら、やっぱりカッコいいな、と臨也は思った。
 何がと言われても、上手く説明できない。
 だが、その音楽は静雄そのものだった。力に満ち溢れていて、傍若無人で、それでいて時折甘い響きが混じって、聞いている臨也をどこか切なくさせる。
 ピアノを弾く横顔、滑らかに動く長い指。
 眺めているうち、じわりと溢れてくる感情が何であるのか。
 気付きたくない、と臨也は反射的に思う。
 けれど。
 曲調をアップテンポに変えて、Lady MadonnaやOb-La-Di, Ob-La-Da を自由自在にアレンジしつつ弾いた静雄が、次で最後な、と言い置いて弾き始めたYesterdayの最初のフレーズを耳にした時。
 臨也は、そのどうにもならない感情に完全に囚われた。
 ―――窓から差し込む夕日に染まった狭い音楽準備室。
 その隅に置かれた、うっすらと埃をかぶった古いアップライトピアノ。
 切々と情感たっぷりに、それでいて不意打ちのように強い音が混じりながら紡がれるメロディー。
 完璧、という言葉が現実に存在するとしたら、まさにこの瞬間だった。
 だが、時はあっという間に過ぎ去り、深い余韻を残して静雄が最後の一音を引き終え、こちらを振り返る。
「――折原?」
 呆と立ち尽くしている臨也を不審に思ったのだろう。怪訝そうに苗字を呼ばれたが、咄嗟に反応することができなかった。
「……あ、うん」
 そんな曖昧な相槌を打ち、どうしよう、と臨也は言葉を探す。
 言うべき言葉は、ある。
 だが、あまりにも自分には……これまで彼に向けてきた言動にはそぐわない。
 けれど、言いたい。
 そんな風に葛藤していると、静雄が不意に肩をすくめるようにして、小さく笑んだ。
 そして、ピアノの蓋を閉めながら口を開く。
「手前って、本当に妙な奴だよな」
「……どこが」
「全部だろ。初対面で喧嘩売ってくるわ、変な仇名つけるわ、一から十まで張り合ってくるわ……。そのくせ、俺のピアノの音を聞きつけてこんなとこまでやってきて、もっと弾けとか言ってみたりよ」
「俺は、明日から中間なのにピアノなんか弾いてる馬鹿の顔を見に来ただけだよ」
「聞いてる奴だって馬鹿だろ」
 くくっと低く笑う。その声が不思議なほど臨也の耳に響いた。
「帰るぜ。そろそろ五時だ。玄関が閉まっちまう」
「あれ、もうそんな時間?」
「気付いてなかったのかよ」
 呆れたように言いながら、立ち上がった静雄はピアノの足元に置いてあった学生鞄を取り上げる。臨也の鞄と同じく、問題集が数冊と筆記用具くらいしかまともに入っていないのだろう。そんな薄さだった。
 歩き出した静雄に何とはなし付いてゆきながら、臨也は、ねえ、と声をかける。
「また弾くの?」
「ピアノか? まあ、今日みたいに音楽室が空いてる時だけ、気が向いたらな」
「そう」
 普段ならば当然、吹奏楽部が音楽室で活動している。今がテスト期間中だからこそ、準備室にも自由に出入りしてピアノを触れたということなのだろう。
「家にもピアノあるんだろ? なのにテスト期間中に学校でも弾くって、シズちゃん、どれだけピアノ馬鹿なわけ?」
「うっせ」
 ピアノ馬鹿、の自覚はあるらしく、静雄は少しばかり拗ねたようにそっぽを向いて言い返した。
 これまでひたすらに険悪な口論ばかりしてきたために、その反応はひどく新鮮で、臨也はまた胸が小さくざわめくのを感じる。
「じゃあさ、なんで音楽室のグランドピアノ使わないの。あっちの方が断然、音はいいんだろ」
「あー、まぁな。準備室のアップライトはずっと調律されてねぇから、少し音も狂ってるし……。でも、やっぱ気が引けるんだよ。俺は吹奏楽部や合唱部でもねぇし」
 この学校は課外活動にはさほど熱心でないため部活動も強制ではなく、静雄も臨也も、どこの部にも所属していない。放課後は教室や図書室で勉強し、夕方になれば帰宅する。毎日がその繰り返しだった。
「遠慮なんてシズちゃんに似合わないよ。気持ちわるーい」
「――てめ…っ」
「ははっ、怒った? 鬼さんこちら、手のなる方へ」
 節をつけて歌いながら臨也は駆け出す。
「待ちやがれ!」
 猛然と追撃し始める静雄の足音を背後に聞きながら、臨也もまた俊足をさらに加速して廊下を駆け抜け、階段を駆け下りるのではなく手摺りに手をかけて階下へ飛び降りる。その後を静雄も同様にして追い、二人は正面玄関へ向かってひたすらに校舎を走り抜けてゆく。
「待て、折原あああぁ!!」
 頭脳も運動神経も臨也と互角以上に張り合う静雄に欠点があるとしたら、このキレやすさだった。
 性格自体は温厚なのに、どこがどうスイッチが入るのか、感情の沸点が異様に低い。
 もっとも怒りが冷めるのも早いため、ひとしきり怒鳴り、暴れれば落ち着くのが常で、それを承知している臨也は、敢えて正面玄関の下足箱の前で足を止めて、くるりと振り返った。
「シズちゃん」
「だから、その名前で呼ぶなっつってんだろ!!」
「やだ」
 振りかぶられる拳をするりとかわし、懐に入り込んで、いつになく近い距離から静雄を見上げる。
「ねえ、シズちゃん。明日もまたピアノ弾く?」
「――は?」
 そう問いかけると、静雄は目を丸くして動きを止めた。
「明日から中間試験だから、しばらく吹奏部も休みだろ。明日も弾く?」
 重ねて問えば、静雄は感情のスイッチが切り替わったのか、戸惑ったような顔をした後、目を逸らして後頭部の髪を掻き上げる。
「……弾くっつったら、また聞きにくんのかよ」
「さあ? もっとも、シズちゃんが試験中でもピアノを弾いちゃうような馬鹿かどうかについては興味あるけど」
「――手前な……」
 茶化すような臨也の言葉に静雄は眉をしかめたものの、キレはしなかった。そして、小さく息を吐き出して自分の下足箱に向かい、上履きと革靴を取り替える。
「ピアノの音が聞こえたら、弾いてるってことだろ」
 ぶっきらぼうにそう言い、じゃあな、と玄関を出て行く。
 え、と自分の革靴を取り出していた臨也が振り返った時には既に遅く、その後ろ姿は既に開け放たれたガラス戸の向こうだった。
「……じゃあな、って……」
 まるで友人のような挨拶だ、と臨也は思う。
 自分たちが親しかったことなど、出会ってこの方一度もない。あの一番最初の試験結果発表の日から半年間、ひたすらにいがみ合い、張り合ってきたのだ。
 なのに。
「何だよ、これ…っ」
 頬がひどく熱い。
 思わず手の甲で顔を擦る間にも、先程の音楽準備室の光景が脳裏に蘇る。
 完璧だと感じた、オレンジ色に染まった空間。
 ひたすら叙情的に、切なく流れたYesterdayのメロディー。
 自らの作り出す音の世界に没頭していた静雄の横顔。
 驚くほどなめらかに動く長い指。
「俺は……別に、シズちゃんのこと何とも思ってないし、嫌いだし」
 逸ったままの鼓動が居心地悪くて、自分に言い聞かせるように声に出して呟いてみる。
 が、それは自分でも呆れてしまうほど、負け惜しみに良く似ていた。

(結局は、あれが始まりだったんだよね)
 映画館の一番後ろの席──背の高い静雄は、背後の人の視界を気にして、いつも一番後ろを選ぶ――で静雄と並んでスクリーンを見つめながら、臨也は全く別のことを考えていた。
 否、全く別ではないかもしれない。スクリーンの中の女主人公の弾く荒々しくも美しいピアノの音は、ほんの少しだけ静雄の弾くピアノの音に似ている。
 でもシズちゃんのピアノの方がずっといい、と思いながら臨也は、そっと隣りを盗み見たが、静雄は真っ直ぐなまなざしをスクリーンに向けており、臨也の密やかな視線には気付かない。
 心の中で溜息をついて、臨也は再びスクリーンに目を向けた。
 本当に静雄はピアノが絡むと、周りが見えなくなる。そういう所も含めて好きになったのだし、今も好きなのだが、時々寂しいと感じることは止められない。
(だってさ、シズちゃんは俺よりピアノの方がずっと好きだろ)
 静雄なりに臨也を大切に思っていることは、一応は分かっているし、言動の端々からも感じ取れる。
 だが、現実に三年前に静雄に捨てられたのは、ピアノではなく臨也なのだ。
 もっとも、静雄としては臨也を捨てたつもりはないのかもしれない。それでも臨也を失う覚悟でピアノを選んだには違いないし、あの受験の日の夜以来、一度も臨也に連絡をしてくることもなかった。
 そういう意味では、臨也にとって見ればピアノは憎い仇でしかない。
 だが、一方では静雄との距離を縮めてくれた恩人でもある。
 高校の音楽準備室の古いアップライトピアノ。あれがなければ、臨也は本当の意味では静雄に惹かれなかっただろうし、自分の感情を認めることもできなかっただろう。
 あの日以来、臨也は静雄のピアノの音が聞こえる度に、音楽準備室に足を運ぶようになり、急速に静雄と親しくなった。
 静雄も最初の頃こそ身構える素振りを見せたが、彼は元々、尖った神経の持ち主ではない。
 ごく自然に臨也の存在を受け入れてそのまま一緒に帰るようになり、やがて、放課後は図書室の同じ机で向かい合って勉強するようになり、下校後や休日に互いの家を行き来するようになり。
(そういえば、俺の家に初めて来た時から、俺のことを名前で呼ぶようになったんだっけ)
 きっかけは何ということもない。折原家のリビングでお茶を飲んでいる時に、静雄が何気なく「折原」と呼んだら、傍にいた臨也の双子の妹たちも「「はーい」」と無邪気にサラウンドで返事をしたのだ。
 それで静雄は少しばかり困ったような顔をした後、「俺が呼んだのは臨也だ」と言ったのである。
 その瞬間の面映ゆさと嬉しさを臨也は未だに忘れていない。
 否、覚えていることばかりだ。さすがに何もかもとまでは言わないが、それでも心をざわつかせた数え切れないほどの思い出は、今も胸に鮮やかに焼きついている。
(シズちゃんはどうなのかな。俺の半分でも覚えてる?)
 芸術家肌の静雄は、ピアノに集中してしまったら最後、他のことは全て忘れてしまう。臨也といる時でも思考がピアノに向かってしまったら、臨也の発した言葉は届かなくなる。あの頃も何度、悪い、聞いてなかった、と言われたことか。
 しかし、だからといって、大切にされていなかったとは思わない。
 人付き合いのあまり得意でない静雄が、自発的に声をかけ、傍に居ようとした相手は高校時代では臨也だけだった。単に過ごした時間の長さで言えば、臨也は高校時代の静雄の傍に最も長くいた人間だろう。
 間違いなく好かれていたのだと思うし、当時の臨也も静雄のことを信じ切っていた。
 傍にいると空気が心地良かったし、じゃれあいの延長になった喧嘩も、ただひたすらに楽しかった。
 かといって、恋心の告白はどちらも一度もしなかったのだが、それでも二人の間にふとした拍子に通い合う温かな想いは、どちらも感じ取っていたように思う。
 だから、告白をしなかったというよりも、あの頃の二人にはそれは必要なものではなく、濃密な友情にも似た両片想いを二人して楽しみ、いとおしんでいたという方が正解なのだろう。
 だが、静雄にとっては、それらはどれ程の意味があったのか。
 ずっと好きだったと言われても、つい心の中で、ピアノの次にだよね、と言い返してしまう程度にしか臨也が静雄を信じられないのは、詰まるところは、過去の積み重ねゆえだ。
 静雄の中でピアノはあまりに大きなウェイトを占めていて、臨也の入る余地などほんのちょっぴりしかないのだと、あの頃は分かっているつもりで分かっていなかった真実を、今では嫌というほどによく分かっている。
 もっとも、そんな性分の持ち主に、人間の中では一番好きだと思われているのなら、それはそれで喜ばしいことかもしれない。が、臨也にしてみれば到底足りないのである。
(俺は、シズちゃんがこの世界で一番好きなのにさ)
 再会して、好きだと言われて、こうして一緒に居られることは、多少の複雑さは伴うものの素直に嬉しい。
 けれど、あの凍えてしまうほどに寒く感じられた受験の日からずっと抱え続けてきた寂しさは、幾分薄らぎはしたものの消えることはないのだ。
(ねえ、シズちゃん。俺はさ、シズちゃんの一番になりたいんだよ。昔からずっと)
 でも、この世にピアノがある限り、それは叶わない。
 臨也の立ち位置は、人間の中では一番でピアノの次、にしかなれない。
(それでも好きだなんて、本当に馬鹿だけどさ)
 裏切られたと知ったあの日以来、恨みも憎しみもしたけれど、それでもどうしても恋心を捨てることだけはできなかった。
 どんなに忘れようとしても、他の誰かを好きになろうとしても、心はひたすらに静雄の方へと向かうばかりで、嫌いだと繰り返し呟きながら、夢に見て涙と共に目覚めることを止められなかった。
 それは臨也の内にある掛け値なしの真実だ。
 出会った瞬間に静雄の天衣無縫ぶりに惹き寄せられ、音楽準備室で聴いたYesterdayに打ちのめされて。
 愚かしいほどの想いに心を焦がすことしかできなかった。
 そして、それは今でも変わらない。
 そのことを少しだけ悲しいと思いながら、臨也はラストのクライマックスに向かうスクリーンをただ見つめた。

「すごかったな」
 興奮冷めやらぬ表情のまま、映画館を出るなり静雄は言った。
「そうだね。あんな弾き方もできるんだね」
「鍵盤以外の部分を叩いて音を出すっつーのは、ジャズでもあるプレイなんだけどな。でもあんなすげぇのは初めて聞いたぜ」
「うん。でも、それ以上にすごかった。鬼気迫るって言ったらいいのかな」
「ああ、そんな感じだった」
 普段はあまり口数の多くない静雄が、矢継ぎ早に言葉を重ねる。
 それが何ともおかしいような切ないような気がして、臨也は小さく笑んだ。
「ねえ、シズちゃん」
「ん?」
「お昼御飯食べたらさ、ピアノの弾ける所に行こうか。場所はどこでもいいから」
 そう告げると、静雄はひどく驚いたような顔で臨也を見る。
 その顔がおかしいと思いながら、臨也は笑って見せた。
「ピアノ、弾きたくなったんだろ? 映画見てる間も時々指が動いてたし」
「……あー、そうだったか?」
「うん。主人公が弾く場面で、一緒に弾いてた」
「……悪ぃ」
 指が動いていたということは、ピアノに魂を奪われて、隣りに居る臨也のことなど綺麗に失念していたということだ。
 それを自覚しているからこその謝罪なのだろうと臨也は理解したが、気持ちとしては、謝られても嬉しさ半分悲しさ半分というところだった。
「何で謝るんだよ。今更だろ、シズちゃんのピアノ馬鹿は」
「かもしれねぇけど」
「いいよ。俺としては、シズちゃんに上の空で居られるよりは、ピアノ聞かせてくれる方がずっと楽しいし。その代わり、リクは聞いてもらうけど」
「――分かった」
 少し困ったような顔をしていた静雄は、やがて自分を納得させるようにうなずく。
 彼自身も、臨也の指摘は的を得たものだと分かっているのだ。
 たとえばこの後、駅前のショッピングモールや、その中にあるゲームセンターをうろついたところで、静雄はぼんやりと映画の中のピアニストとピアノのことを考え続けるだろう。
 そんな静雄の隣りで聞いてもらえもしない話をダラダラとし続けるくらいなら、いっそのこと静雄のピアノの音に包まれている方が、臨也としてはまだ幸せを感じられる。
 そう思っての半ば自虐的な提案なのだが、静雄もそんな臨也の心情をを全く察することができないほどの朴念仁ではない。ピアノ馬鹿ではあるが、決して頭が悪いわけではないのだ。
「マジで悪ぃな、俺……」
 すまなさそうな顔をする静雄が嫌で、臨也は高校時代と変わらない、少しばかり皮肉な笑みを形作る。
「いいって。ピアニストの映画ならこうなるだろうと思ってたし。それに一緒に行くって言ったのは俺だよ。あんまり謝られると返って腹が立つんだけど」
「……そうか」
「そうそう。ほら、お昼食べに行こうよ。俺、おなか空いた。あ、勿論シズちゃんの奢りね!」
 映画は割り勘だったのだから、これくらい当然だと見上げれば、静雄は複雑そうな顔で、それでも承知した。
「分かったよ。何食いてぇんだ」
「んー、ピザ気分かな。ボリュームたっぷりのチーズがどーんって載ってるやつ食べたい」
「デリバリーした方が早ぇんじゃねえか」
「きちんとした奴が食べたいんだよ、俺は」
「デリバリーだって、それなりに普通に作ってあるだろ」
「石釜焼じゃないと嫌だ」
「手前、どんどんグレード上がってってるじゃねーか!」
「その通り。さっさと店に向かわないと天井知らずに上がるよー?」
 にんまりと笑ってやれば、静雄はチッと舌打ちする。
 そして、臨也に向かって右手を差し出した。
「……何?」
 自分に向けられた手のひらの意味が分からず、きょとんと問えば、苛ただしげに左手を掴まれる。
「だから、ピザ食いに行くんだろ」
「は、え、シズちゃん……!?」
 臨也の左手を掴んだまま、静雄はさっさと歩き出してしまう。つられて臨也も歩き出すしかない。
(え、え、何これ……!?)
 訳が分からなかった。
 自分の左手が、静雄の右手に掴まれている。
 指の長い、けれど指先だけは丸い、大きなピアニストの手。
 その手の中に、自分の手、が。
(〜〜〜〜っ!!)
 状況を正しく理解した脳が、ぼんと音を立てて爆発したようだった。
(ホンット、何してくれんだよシズちゃん!!)
 平日のこんな真っ昼間に手を繋いで街を歩くなんて、一体何の羞恥プレイか罰ゲームか。
 だが、繋いだ手は間違いなく温かくて、心地良くて。
 離せとも離してくれとも言えないまま、臨也は真っ赤になりそうな顔色を必死に抑えながら黙々と歩くしかなかった。

to be continued...

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