STARDUST CITY 06

 指一本動かしたくないような深い虚脱感に身を任せたまま、天井をぼんやりと見上げる。
 身体的な疲労感も強いが、それ以上に精神的な部分が大きい。自分がまるで空っぽになってしまったような気さえする。
 それは多分、と臨也はわずかなメモリだけを働かせて考える。
 勿論、魂ごと溶け崩れてしまいそうだった甘やかな歓びの余韻もないわけではない。だが、それ以上に、これまで溜めに溜めてきたものを今夜、全て吐き出してしまったからだ。
 言いたくても言えなかったこと、そして言うつもりさえなかったことを、全て言葉にしてしまった。
 だが、普段の自分なら羞恥に憤死していてもおかしくないのに、何故か、やってしまった感は薄く、心は奇妙に凪いでいる。
 これはアレだ、とぼんやり考えを巡らせながら臨也は思う。
 自分の信者が一番最初、自分に対して何もかもを涙ながらに吐き出してしまった時の気分と、きっと同じものだ。
 誰かに聞いて欲しくて、けれど、誰にも言えなかった悲痛な思いを言葉と涙に変えた時、人はこんな安堵に似た虚脱感を味わうのだろう。
 そして、ほんの少しだけ救われたような気分になる。
 そんな彼女達の気持ちは、心理学上の理屈では分かっていた。だが、身をもって味わうのは全く違う。
 こんな気持ちだったのか、と思う一方で、可哀相に、とも思う。
 彼女達の涙ながらの辛い告白を聞いたのは、自分であり、彼女たちが本当に訴えたかった誰かではない。
 その誰か、に聞いてもらえたのなら、そして受け止めてもらえたのなら、彼女たちは本当の意味で救われただろうに。
 そう思いながら、そっとまなざしを横へと向ける。
 ほんのわずかに指を動かせば届くほどの、触れ合わずとも温もりが感じ取れるほどの距離で、静雄は臨也と同じように天井を見つめていた。
 その横顔を、臨也はじっと見つめる。
 改めて見てみれば、本当に嫌になるほどの男前だった。
 絶世の美青年という形容詞を恥ずかしげも無く身にまとう弟とよく似た、しかし、その数倍は精悍な容貌は、造りだけ見れば整い過ぎているほどだったが、温和でぼんやりとしてすら見える表情が生気とやわらかさを与え、彫刻のように冷たく見えることから遠ざけている。
 出会って以来、九年間、ずっと見つめ続けてきた顔だった。
 多分、この顔が浮かべる全ての表情を、自分は知っている。激怒した顔も、嫌悪に満ちた顔も、そして、やわらかな笑顔も、熱を帯びた男としての顔も。
 そのどれもが、泣きたくなるほどに愛おしい。
 本当に好きだった。
 誰よりも何よりも、この男を愛してきた。
 他の何に対しても使わない、たった一つの意味を「愛」という一文字に込めて。

「シズちゃん」

 じっと見つめたまま、小さく名前を呼ぶ。
「何、考えてるの」
 天井を見上げる横顔は、何かを考えている顔だった。
 そして多分、静雄が考えていることは一つだろう。
 臨也は今夜、心に抱えていたものを全て言葉に変えて、吐き出してしまった。
 その結果、今は不思議なほどに心は凪いでいるが、しかし、それを聞かされた静雄の方はどうだったのか。
 おそらく静雄が思っていた以上に、臨也の想いは重く、深く、粘着質なものだったはずだ。
 それを聞いてどう思ったのか。
 正直、怖い、と思う。
 だが、今度は臨也が聞く番だった。
 聞かねばならないと思った。静雄が言いたいことがあるのなら、その全てを。
「──お前のこと」
 臨也に尋ねられて、どう答えたものか少し考えた風だった静雄は、天井を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「それと俺のこと、だな。どうやったらこの先、もっと上手くお前と付き合えんのかって考えてた」
「──そう」
 それはどういう意味なのか。
 聞きたかったが、何となく聞くのも躊躇われて、臨也は曖昧にうなずく。
 だが、静雄はそこで言葉を終わりにはせず、ぽつりぽつりと続けた。
「お前が何考えてんのかは、大体分かったからよ。じゃあ、どうすりゃいいんかなってよ。──でも駄目だな」
 そう言われて。
 ひやりと臨也の心が冷えた。
「──駄目って、何が」
 そう問い返す声が震えないようにするのが精一杯だった。或いは、震えてしまっただろうか。
 しかし、普段ならその臨也の変調に気付くだろう静雄は、自分の考えに沈んでいるのか、天井を見上げたまま、続ける。
「さっきからずっと考えてっけど、何にも思いつかねぇんだよ」
「……だから、駄目?」
「ああ」
 そういう意味か、と少しだけほっとしながら、臨也は静雄が彼独特の話し方で訥々と呟くように続ける言葉に耳を傾けた。
「お前が、もう少し素直だったらなんて言っても意味ねぇし。そんなん、お前じゃねぇし。もっと早く気付いてやれてたらって後悔したって、昔には戻れねぇし。だからって、今、お前に何がしてやれるかっつっても、全然分かんねぇんだよな」
 そこまで告げて、初めて静雄は臨也を見た。
 深みのある鳶色の瞳が、じっと臨也を見つめる。
「なあ、臨也。お前は俺に、どうして欲しい」
「──え?」
「俺は、お前が目の前でちょろちょろしてりゃ、それでいい。お前と俺が手の届く距離にいて、でも喧嘩にも殺し合いにもならねぇんなら、多分、それ以上に欲しいもんなんかねえ」
「────」
 大真面目に言い切られて。
 臨也は、言葉を失う。
「……シズちゃん、それって無欲なのか欲張りなのか、よく分かんないよ」
「ほっとけ」
 ようよう言い返した言葉は、多分、泣きそうだった。
 それを分かっているのかいないのか、静雄は少しだけ憮然と言い、そしてまた、臨也を見つめる。
「お前はどうなんだ? 俺にどうして欲しい?」
 どうして欲しい、と重ねて問われて。
 真っ直ぐな瞳から目を逸らせないまま、臨也は考える。
 だが、分からなかった。
 どうして欲しい、なんて言われても、考えてみたこともなかったから、咄嗟に思い浮かぶことなど一つもない。
 それでも静雄が答えを待っているから、懸命に臨也は考える。
 静雄は、臨也が目の前をちょろちょろしているのが嬉しいと言った。
 ならば、自分はどうだろう。
 これまでに静雄といて、嬉しいと感じたことは何だっただろう。

 ───シズちゃんと居て、嬉しかったこと、は……。

 霧雨の降る街角で大嫌いなはずのノミ蟲を拾って、看病してくれたこと。礼の一つも言えなかったけれど、仕事を休んでまで面倒を見てくれたことが、本当はメチャクチャに嬉しかった。夢でも見てるのじゃないかと疑った。
 でも、その一方で、初めて向けられた優しさが苦しくて、どうしていいか分からなくて。
 そうしたら今度は、発作的に口走った誘いにうなずいて、この部屋に来て一緒にDVDを見てくれた。何を考えているのかさっぱり分からなくて困ったけれど、でも、チャップリンとカフェオレが好きだということを知って、馬鹿みたいに嬉しかった。
 その後も、精一杯丁寧に淹れたカフェオレを美味いと言ってくれる度に、泣きたくなった。
 プリンや杏仁プリンを買ってきてくれた時は、本当にどうすればいいのか分からなかった。二人で食べるプリンも杏仁プリンも、信じられないくらいに美味しかったから、余計にどうしていいか分からなくて途方に暮れて、でもやっぱり、死にそうなくらいに嬉しかった。
 そして、突然、キスをされて。
 抱き締められて。
 可愛いと言われて。
 本当に爆発するかと思った。あれがアルマゲドンの到来だと……終末のラッパが鳴り響いたのだと言われても、信じられる。否、そうとしか思えない。それほどの衝撃だった。
 そして、それからの日々は、まるで、この上なく甘く儚い夢の中にいるようで。
 多分、静雄は知らないだろう。顔を合わせても喧嘩にならず、やわらかな笑顔を向けられるだけで、息が止まりそうになることも。いつも可愛いと言われる度、どう受け止めればいいのか分からず困り果てていることも。
 そう、一番困るのが可愛いと言われることだ。
 捻くれて憎まれ口だらけの自分のどこが可愛いのか、さっぱり彼の感性が分からないし、そもそも男なのだから褒め言葉にもなりはしない。なのに、言われると、いつも心臓が爆発しそうになる。
 それだけでもどうにかなりそうなのに、声を聞きたいと電話がかかってきて、顔を見て話をしたいと食事に誘われて。
 だから一生懸命、食事する店を探して、駅で待ち合わせをして、店の雰囲気や料理がいいと言われたのが、嬉しくて。
 挙句、夜更けの裏通りで、そのままでいいのだと言われて。
 素直でなくても、捻くれて意地っ張りで、時には悪意の塊のようでも、それでもいいのだと。
 あの瞬間の感情の嵐を言い表す言葉などない。
 どうしようもなく嬉しかった。
 たまらなく幸せだった。
 幸福感で人が死ねるのなら、間違いなくあの瞬間に息絶えていただろう。
 なのに、夢のような時間はそれからも続いて。
 今夜、初めてきちんとした言葉で好きだと言われて、深く深く互いの体を繋ぎ合わせて、魂ごととろけそうなほどの歓びを与えられた。
 本当に死んでいないのが不思議なくらいだと思う。
 恋焦がれた存在が、自分のように歪みまくった人間を丸ごと愛してくれている。そんな夢のような話が、この世に幾つもあるはずがない。
 そして、そんな夢のような幸せをくれる相手に、この上何かを望めと言われても、答えなど見つかるはずが無かった。

「臨也?」
 どうなんだ、と優しく名前を呼ばれて。
 どう答えればいいのか分からないまま、臨也は小さく首を横に振る。
「俺だって……シズちゃんが居てくれれば、もうそれだけで……」
 もしこの先、静雄が居なくなったら、それだけで臨也の世界は終わりを告げるだろう。
 もう二度と、世界に希望も喜びも見つけられず、ただ破滅だけを願うだろう。
 そんな世界は、想像することさえ恐ろしかった。
 逆の言い方をすれば、静雄さえ居てくれたら、全ては満ち足りるのだ。
 他に何一つ、望まない。
 自分がどれ程最低最悪の人間か、自分自身が一番分かっている。だが、それでもこのままずっと愛していて欲しかった。
「──それだけでいいのか?」
 けれど、驚いたように問い返されて、途端に臨也は恥ずかしさに居たたまれなくなる。
 一体今、自分は何を口走ったのか。好きな人が傍に居てくれればいいだなんて、まったくもって自分らしくない。
 こんなのは自分ではない。
 だからといって、本心からの言葉を否定することもできず、臨也は逃げ場を求めて、もそもそとシーツに潜る。
 そして、すっぽりと埋もれたところで、甲羅に潜った亀のように手足を丸めて小さくなった。
「おい、なに潜ってんだ」
「────」
「おい臨也」
「────」
「コラ」
「うるさい! いつでも本音ダダ漏れのシズちゃんに、今の俺の気持ちなんて分かるもんか……!」
 そうなのだ。静雄はいつも本音のみで、決して嘘をつくこともごまかすこともない。だから、誰よりも強い。
 対して臨也は嘘だらけだから、どうしても弱くなる。口先で言い逃れできている間は無敵でも、それが通用しなくなったら薄氷よりも脆い。
 それが臨也が静雄に決して勝てない理由だった。
 策を弄するばかりの卑怯なノミ蟲が、圧倒的に強靭な肉体と精神を持つ正攻法のみの怪獣に勝てるわけがない。
 おそらく勝敗など、出会った瞬間に決まっていたのだ。──臨也がそれを認めたくなかっただけで。
 勿論、今でも認める気など、更々ないのだが。
 けれど。
「──しょうがねぇなぁ」
 溜息と共に、丸まった身体をシーツごとひょいと両手で持ち上げられて。
「!?」
 抵抗する間もなく、そのまま仰向けになった静雄の体の上に載せられる。そして、宥めるようにぽんぽんとやわらかく背中を撫でられた。
「なぁ、臨也」
「な、んだよ。何すんだよ、シズちゃん!」
「俺にしとけよ。この先も、ずっと」
 脈絡なくそう言われて、臨也は固まる。
「──な、にが」
「だから、お前みたいなノミ蟲と九年近くも殺し合った挙句、惚れるような馬鹿は、世界中探したって俺しかいねぇだろうからよ。もう、俺から離れんな。俺もずっと、お前の傍に居てやるからよ」
「……何それ……」
「何って、俺とお前のして欲しいことを両方足しただけだ。間違ってねぇだろ」
「───…」
 確かに間違っていないかもしれない。だが、真面目に言われると、これ以上恥ずかしい台詞もない。
 だが、静雄自身は、どれ程恥ずかしいことを口走っているのか自覚はないのだろう。
 クソッ、と心の中で毒づいて、臨也は静雄の胸に、ひどく熱くてたまらない顔を伏せる。
 すると、素肌の奥に静雄の鼓動を感じた。
 ───シズちゃんの、心臓の音。
 もっとしっかり感じたくて胸に耳を押し当てると、ゆっくりと穏やかなそれは、確かな鼓動を響かせて臨也の鼓膜を優しく打つ。
 そんな臨也の背中を、静雄の手がゆっくりと撫で続ける。
 静雄の温もりと肌の匂いが、臨也の全てを包み込んでいて。
 臨也はそろそろと手足を伸ばして、静雄の体の上に自分の身体をぴったり重ねた。マットレスにするには硬すぎるが、さらさらとした手触りの肌は温かく、触れていて気持ちいい。
「──シズちゃん」
「ん?」
「俺から離れたら、殺すから」
「離れやしねぇよ。お前みたいな死ぬほど憎たらしくて、死ぬほど可愛い奴、手放せるわけねぇだろ」
 仄かに笑みを含んだ、穏やかな声で言われたその言葉に、うん、と臨也はうなずく。
 そして、一分一秒でも長く、この心臓の鼓動と一緒に居られますように、と祈りながら目を閉じて、とろとろと意識を侵食し始めた睡魔に意識を委ねた。

*               *

 目が覚めると、ベッドの上は臨也独りだった。
「……シズちゃん……?」
 手を伸ばしてシーツを探ってみても、リネンは室温と変わらない温度しか伝えてこない。
 まさか帰ったのだろうか、と思いながら、ベッドサイドの時計を見ると、午前十時近かった。
 もうこんな時間かと溜息をつき、全身の具合を確かめながら、ゆっくりと起き上がる。普段からそこそこ鍛えているだけに、思ったよりもダメージは残っていないらしく、ただ身体の奥の違和感だけが昨夜の名残だった。
 ベッドサイドには昨夜、脱ぎ散らかしたはずのパジャマが簡単に畳まれて置いてあり、ひとまずはそれを身に付けて、シャワーを浴びようとベッドを降り、部屋を出る。
 と、階下のキッチンから換気扇の回る音が小さく聞こえてきて。
 思わず臨也は、二階の手摺りから身を乗り出して、そちらを覗いた。
「シズちゃん」
「あー、やっと起きたか」
 声をかけると、すぐに金髪バーテン服が見上げて笑いかけてくる。
 やはり帰ったわけではなかったのだと、声を上げて喜びたいほどに嬉しくなったものの、表情だけはいつもの笑みを取り繕って、臨也は軽い足取りで階段を下り、静雄の傍に歩み寄った。
「おはよ」
「おう」
「何作ってんの? スープ?」
「ああ。お前がいつ起きてくんのか分かんなかったからな。とりあえず、温め直しの利くやつにしとこうと思って」
「ふぅん。確かに温め直すの前提なら、味噌汁よりスープだよね」
 味噌汁は出来立てじゃないと美味しくないし、と鍋の蓋を取って覗き込む。すると、オリーブオイルで下炒めしたらしい野菜とベーコンが、コンソメの中で良い匂いを立てて煮えていた。
 野菜は自ら進んで食べるほどには好きではないが、このスープはとても美味しそうに見える。現金なものだと思いながら、臨也は蓋を元通りに置き、静雄を振り返った。
「俺、シャワー浴びてくるから、そうしたら御飯にしようよ」
「おう」
 臨也の提案にうなずき、静雄は右手を上げて臨也のサイドの髪をさらりと撫でる。
 その昨日までとはまた少し違う親密さの込められた仕草に、臨也の心臓がどきりと小さく音を立てた。
「体、大丈夫か?」
「平気だよ」
 優しい声とまなざしに気遣われて、臨也は小さく笑う。
「俺は、そんなやわじゃないよ。何年、シズちゃんと殺し合いしてきたと思ってんの」
「──まあ、確かにお前は見た目より頑丈だよな」
「だろ」
 情報屋などという商売を十代で始め、裏社会を渡ってきた臨也は細い外見の割りに、打たれ強い。咄嗟の反射神経で相手の攻撃のダメージを逸らして軽減するのは考えなくてもできるし、肉体的な苦痛に対する耐性もある。
 加えて昨夜は、静雄が十分過ぎるほどに気遣ってくれたから、最初から最後まで痛みなど殆ど感じなかった。
 勿論、慣れない行為が終わった直後の疲労感は大きかったものの、この時間までぐっすり眠れば、ほぼ回復できている。
 さすがに今すぐ、池袋の街で静雄と追いかけっこするのは勘弁してもらいたいが、日常生活には何の支障もなかった。
「でもまあ、ダメージがねぇんなら良かった」
 そんな風に言いながら顔を寄せてくるから、まあいいか、と臨也は目を閉じる。
 軽く触れただけで離れていったキスは、それでも十分過ぎるほどに甘かった。
「それじゃ、シャワー行ってくるから」
「おう」
 するりと静雄の傍から離れて、また二階へと戻る。
 バスルームへ向かい、ふと洗面所の鏡を覗いて、むう、と臨也は口元を反射的に曲げた。
 昨夜あれほど泣いたのだから当然だが、瞼がまだ腫れぼったい。冷水と温水を交互に当てればどうにかなるだろうレベルだが、しかしまあ、鏡の中の自分は、はっきり言って不細工だった。
「先に鏡見ときゃ良かったなぁ。こんな顔をシズちゃんに見せちゃったか」
 気にして無さそうだけどな、と思いつつも、面白くない気分でパジャマを脱ぎ捨てて、バスルームに入る。
 そして、熱めのシャワーを浴びながら、改めて自分の体を確認した。
「あー、全然、痕残ってないな。気を遣ってくれたのかな」
 少なくとも自分の目で見える範囲には、傷やあざは勿論のこと、キスマークすら残っていない。見た目は何も変わっていないことに安堵しつつも、少し寂しい気もする。
 だが、外見上に余計な痕があるのは、確かに困るのだ。
 情報屋などという因果な商売をやっている以上、いつどんな目に遭うか知れないし、同性と寝ているというだけで、ノーマルの男からは蔑みの目で見られるのが普通だ。そんな取引相手に舐められるような隙を作ったら、それこそ身の破滅に繋がる。
 もっとも寝ている相手が相手なだけに、直接的な危害は被(こうむ)らないかもしれないが、それでも他人から蔑みの目で見られることは、臨也の性格上、我慢がならない。
 だから、この先も、静雄とのことは公(おおやけ)にするつもりはなかった。
「そこまでシズちゃんが分かってるわけはないけど……単純に、俺が嫌がりそうとか思ったのかなぁ」
 それはそれでありそうだ、と思う。
 ぼんやりしているようで、臨也のことは十分過ぎるほどに理解している節のある静雄のことだ。昨夜も、何らかの勘が働いたのかもしれない。
「ま、それはそれでありがたいけど」
 呟きながら、シズちゃん優しかったな、とほんの少しだけ昨夜のことを思い返した。
 同性同士のSEXなのだから、ある程度の苦痛は覚悟していたのに、何一つ乱暴なことはされず、全身をとろとろに溶かされて、ひたすら気持ち良かった記憶しかない。
「シズちゃんも気持ち良かったかなぁ」
 生物学的に考えれば、突っ込んで動かせば男は気持ちいいに決まっている。だが、女性のやわらかさの無い身体で、本当の意味での歓びを与えられるのかどうか、ずっと不安だった。
 だが、嘘のつけない静雄が気持ちいいとはっきり言い、絶頂に達したのだから、悪くは無かったはずである。
 さすがに、これまでに抱いた中で一番、とまではいかないかもしれないけど、と思いつつ、
「次はいつするのかな……」
 どうしても睡眠時間が削られるし、毎日は体力的に少し辛いが、数日おきなら、と考えて、臨也は我に返り、目の前のタイルにごつと額をぶつける。
 朝っぱらから……というには既に日が高いが、しかし、明るいうちに考えることではない。
 なんかもう恥ずかし過ぎる、やめろ俺、と自分を叱咤して、それから目元に冷水シャワーと温水シャワーを交互に当てて、もう十分かと思えたところでシャワーを止めた。
 そして、バスタオルで手早く全身を拭い、バスローブをまとって髪を乾かす。
 鏡を覗きこみ、目元がいつものすっきりさを取り戻しているのを確認してから、寝室に戻り、いつもよりは少しラフな部屋着に着替えた。
 よし、と部屋を出て、また階下に降り、ソファーに移動して新聞を読んでいた静雄に近付く。
「お待たせ」
「おう。飯にするか」
「うん。飲み物入れるけど、紅茶とカフェオレとどっちがいい?」
「カフェオレ」
「了解」
 本当に好きだよねえ、と心の中で呟きながら、ケトルに浄水器の水を注ぎ、コンロにかける。
 その隣りで静雄は、買い置きのパンを取りして、何やら始めていて。
「? 何作るの? フレンチトースト?」
「いや、フレンチトーストは今から作ったって美味くねぇだろ。シナモントーストにしようかと思ってよ。蜂蜜もあったし」
「それだと、ハニーシナモントーストにならない?」
「まあ、そうかもな」
 言いながら、静雄は手際よくバターたっぷりの食パンを薄めに三枚スライスし、それぞれを対角線で四等分に小さく切って、温めてあったオーブントースターに入れる。
 その間に、戸棚からシナモンパウダーの小瓶と、レモンの蜂蜜のビンを取り出す。その様子はいかにも楽しげで、小さく鼻歌まで聞こえてきたから、臨也は驚き半分、呆れ半分で、シズちゃん、と呼んだ。
「ねえ、何がそんなに楽しいわけ?」
「──ンなもん、決まってるだろ」
 臨也の問いかけに、何を分かりきったことを、と静雄は振り返る。
「昨夜、言ったじゃねぇか。俺は、お前が目の前でちょろちょろしてるだけでいいんだってな」
 さらりと言われて。
 臨也は固まった。
 が、そんな自分を静雄が実に楽しそうに眺めていることに気付いて、大急ぎで自分を取り戻す。
「あのさあ、シズちゃん」
「何だよ」
「朝っぱらから、そういうこと言うの禁止。止めてよ」
「じゃあ、夜ならいいのか?」
「だから、そういう子供みたいな揚げ足取りはするなっての。いつ言われたって、嫌なものは嫌だよ。まあ、夜の方が朝よりはマシだけど。気分的に」
「ふぅん」
「何」
「いいや、可愛いと思ってな」
「──だから!」
 止めろと言ってるのに、と怒鳴ろうとした時、ケトルが沸騰を知らせて甲高い音を立てる。
 舌打ちして臨也は火を止め、用意してあったドリップに湯を注いだ。
「とにかく! 可愛いとかそういう類の単語は禁止! 今度言ったら、このお湯をぶっかけるからな!」
 どうせ熱湯を浴びせかけたところでダメージなどないだろうと思いつつも、とりあえず言ってみる。
 すると、静雄も同じような感想を持ったのだろう。呆れたように肩をすくめた。
「別に減るもんじゃねぇだろ」
「減る! 色んなものが!」
 たとえば自分のプライドだとか、かろうじて保っている心の防御壁だとか。
 これ以上、キャラ崩壊をさせられてたまるものかと、臨也は静雄を睨んだ。
「とにかく、これ以上言ったら本気で怒るよ。殺せようが殺せなかろうが関係なく、ナイフで滅多刺しにするから」
「はいはい、分かったっての」
 臨也がこれだけ言えば、数ヶ月前までの静雄なら青筋を立てて激高していただろう。この部屋など、きっととうに崩壊している。
 だが、今の静雄はあっさりといなし、綺麗な焼き色が付いたパンをトースターから取り出して、シナモンを振り掛ける作業に熱中し始めた。
「……シズちゃんの癖に……」
 静雄の変貌振りが自分たちの関係の変化によるものだと分かっていても、どうにも忌々しくて、臨也は直ぐそこにあるパン切りナイフで刺してやろうかな、と半ば本気で思案する。
 しかし、その間に手元のドリップは雫が落ち切ってしまい、温めていた牛乳もミルクパンの鍋肌がふつふつと粟立ち始めたために、臨也は溜息をついて静雄を刺すことを諦め、それらを二つのマグカップに注いだ。
「ねえシズちゃん、今日も砂糖入れるの? それに蜂蜜かけたら相当甘いと思うんだけど」
「砂糖の入ってねぇカフェオレなんてカフェオレじゃねぇだろ」
「いや、それは無いから。コーヒーと牛乳が半々の時点で、カフェオレ成立してるから」
 言い返しながらも、臨也は砂糖をスプーン一杯、静雄用のマグカップに溶かし込む。
 そして、もう少しがっつり食べたいよね、と冷蔵庫を開け、ハムと卵を取り出した。
「シズちゃん、ハムエッグは卵一つ? 二つ?」
「二つ」
「了解」
 手際よくフライパンに極上のオリーブオイルを少量引き、ハムエッグを見るからに美味しそうな半熟に焼き上げて。
「はい、こっちはできたよ」
「こっちももういいぜ」
「そう。じゃあ、運ぶよ」
 そう告げて、マグカップ二つとハムエッグの皿をトレイに載せ、鍋のスープもスープボウルによそって、共にリビングセットの方へ運ぶ。
 すぐに静雄もシナモントーストを盛ったプレートと、蜂蜜ポットを持ってきてテーブルに並べ、朝食と言うには遅過ぎるブランチの準備が整った。
 いただきます、と手を合わせて──これは、かつて妹たちの手前、マナーにはそれなりに気をつけていた頃の名残の癖である──、こんがりキツネ色の小さなトーストを一枚取り、蜂蜜をかける。
 そして一口、ぱくりと食べるとシナモンの甘い香りと、蜂蜜の甘さが口に広がった。
「シナモンと合わせるのなら、レモンの花の蜂蜜だとちょっと弱いかなぁ。最低ラインでもアカシアくらいの濃厚さがあった方がいいかも」
 でも俺は柑橘系の蜂蜜が好きなんだよねぇ、と勝手なことを呟きながら、臨也は小さめのサイズのトーストをあっという間に一枚、食べ終える。
 昨夜は普通の時刻に夕食を終えたし、その後、散々に泣いたり何だりで体力を消耗したのだから、空腹でないはずが無い。
 おまけに甘い蜂蜜シナモントーストは、スナックのような軽さだから、うっかり食べ過ぎてしまいかねないな、と思いつつ、とろとろ半熟のハムエッグに手をつけ、その芸術的な焼き加減に満足してから、野菜とベーコンの旨味が存分に引き出されたスープを味わった。
「シズちゃんて、本当に料理は上手いよね」
「こんくらい普通だろ」
「いやいや。俺たちくらいの年齢の男なんて、料理をまともにしたりなんかしないよ。コンビニかファーストフードか……」
「俺だって昼は殆どファーストフードだぜ。夜もトムさんと外食が多いし……朝飯くらいだ、まともに作んのは」
「それを言ったら、俺だって似たようなもんだけど。昼は大概、波江が作ってくれるし。彼女も料理は上手いんだけど、好き嫌い言うと怒るんだよなぁ」
「そりゃ当たり前だろ。っつーか、野菜が嫌いとかどこのガキだ手前」
「好きじゃないだけで食べられるってば。現に今もちゃんと食べてるじゃん。それにシズちゃんは彼女に怒られたことないから、そう言えるんだよ。マジで他人の心折る天才だから。といっても、俺は全然気にしないけど」
「……その台詞聞かれたら、それこそお前、殺されるんじゃねぇのか」
「あー。全身の皮を生きたまま剥がれるかも。それくらいのこと平気でやるんだよ、本当に」
 けらけらと笑うと、静雄はどうしようもねぇなと言わんばかりに溜息をついた。
「まあ、そうなったら殺される前には助けてやる。けど、お前も、俺と飯食ってる時に他の女の話すんじゃねぇよ」
「あれ何、シズちゃん、焼餅?」
「その一歩手前だっつったろ。お前だって、俺がこういう時に女の話して楽しいかよ」
「んー、それはムカつくかな」
 楽しい、とは到底言えなかったので、ここは素直に認める。
 すると、静雄は、だろ、と同意を促して、カフェオレを一口啜った。
「お前もカフェオレ淹れるのは、本当に上手いよな。性格はそんなんなのに」
「はぁ? カフェオレ淹れるのに性格が何の関係があるのさ。まあ、豆はいいの使ってるけど。でも特別なことはしてないよ? 単にシズちゃんがカフェオレ好きなだけじゃないの?」
 そう返すと、静雄の鳶色の瞳がこちらを見る。
「何?」
 別に何ということもないやりとりをしていたはずなのに、そのまなざしに妙な居心地の悪さを感じて、臨也は眉をしかめて問い返す。
 すると、静雄は何を考えているのか読みにくい表情で、言った。
「別に俺は、カフェオレは好きじゃねぇよ」
「──は?」
 好きじゃない、と言い切られて、臨也は思わずきょとんと静雄を見つめる。
「え、でも、シズちゃん、いつもカフェオレ淹れろって言うじゃん」
「まぁな。でも俺は、普段はコーヒー系は殆ど飲まねぇよ。缶コーヒーみたいに甘くしてありゃ別だが」
「……じゃあ、なんで」
 ここではカフェオレばかりリクエストするのか、と臨也が素朴な疑問を呈すると、静雄はふっと目を微笑ませる。
 反射的に嫌な予感に駆られた臨也が眉をしかめるのと、静雄が口を開くのは同時だった。
「お前の淹れるカフェオレだけは好きなんだよ。一番最初に飲んだ時、あんまり美味くてびっくりしたんだぜ」
 そう言い、静雄は思い出すように、くつりと小さく笑う。
「お前を本気で可愛いと思ったのは、一番最初にプリン持って来た時だけどよ。今から考えてみたら、あの時のカフェオレも、きっかけの一つだったのかもな」
 そんな風にさらりと告白されて。
 臨也は、また堅ゆで卵のように固まる。
 顔にじわじわと熱が集まるのを感じて、思わず右手を上げ、手の甲で頬を擦る。と、声には出さず笑いながらこちらを見ている静雄と目が合って、臨也は手を下ろし、まなざしに険を込めた。
「シズちゃん、面白がってるだろ」
「当たり前だろ」
「悪趣味。ていうか、シズちゃん、いつからそんなキャラになったわけ?」
 君は誰かをからかうようなキャラじゃなかっただろ、と険悪に指摘すると、静雄は悪びれもせずにうなずく。
「お前と付き合い始める前の俺がどうだったかなんて、お前が一番良く知ってんだろ」
「……俺のせいとでも言いたいわけ?」
「百パーセントな」
「そういうのを責任転嫁って言うんだよ! 自分勝手な豹変振りを他人のせいにしないでよ。ていうか、そのドヤ顔なんなわけ? 超ムカつくんだけど!!」
「だーから、お前のせいだっての。お前相手でなきゃ、こんな風になんねぇよ」
「その言い方がムカつくんだってば……!」
「お前が特別だって言ってやってんのにか」
「……っ…!」
 その言い方は卑怯だ、と思う。
 だが、思わず言葉に詰まった臨也に、静雄はのんびりとした仕草で、新たに手に取ったシナモントーストに蜂蜜をたっぷりとかけながら言った。
「そもそも誰かと付き合うなんざ考えたことなかったけどよ、お前以外の誰相手でも、俺は駄目だっただろうな。特に、その辺の普通の女と付き合ったら、あれこれ遠慮しちまって、言いたいことの半分も言えねぇ気がする。そういう意味じゃあ、昔っからお前は、俺の特別は特別だったんだよな」
「……何だよそれ」
「だって俺は、お前に遠慮したことなんか一度もねぇからよ。お前のことは本気で嫌いだったけど、その『嫌い』は、いつでも掛け値なしの全力だったしな。そういうこと考えても、俺に本当の意味での『普通』をくれんのは、世界中探したって、多分、お前だけだ」
「────」
「家族より俺のことを良く分かってて、なのに喧嘩売ってくるような馬鹿なんて、お前しかいねぇもんな」
 当たり前のことのようにそう言い、蜂蜜たっぷりのトーストを口に運び、ほんの数口で食べてしまう。
 そして、指に付いた蜂蜜をぺろりと舐め取った。
 その一連の仕草を臨也はただ、言葉を失ったまま見つめるしかなく。
「──シズちゃんのそういうとこ、本当に嫌い。なんでそういうことを、さらっと言っちゃうわけ?」
「俺はお前のそういうとこ、結構好きだけどな」
 眉をしかめて吐き捨てるように言えば、またもやさらりと切り返される。
「あー、でもやっぱりウゼぇか。半々ってとこだな」
 まあ腹は立たねぇけど、と言いながら、臨也の作ったハムエッグをぱくつく様子が最高に憎らしい。
 そう思いつつ、臨也は何か反撃のネタはないかと思考を巡らせ、カフェオレのマグカップを傾ける。
 すると、一つだけ、しかし最高のネタを思いついた。
「そういえばさ、シズちゃん」
「ん?」
「俺、明日の夕方、仕事で池袋に行かなきゃならないんだけど」
 告げた途端、静雄の眉が不機嫌にしかめられる。
 その見慣れた表情に、臨也は満面の笑みを浮かべて見せた。
「来るなとか駄目だとか言われても、聞かないよ? 仕事だし、俺も食べていかなきゃいけないからさぁ」
「ノミ蟲が一丁前に仕事とか言ってんじゃねぇよ」
「シズちゃんには言われたくないね。いっつも仕事してんだか、街を破壊してんだか分かりゃしないじゃん」
「──臨也」
「何かな」
「俺が本気でキレる前に、その口を閉じろ。じゃねぇと、泣かせるだけじゃすまねぇぞ」
「あー、無理無理。少なくとも俺は暴力じゃ泣かないよ。腕を切り落とされたって、笑ってやる自信があるね」
「よし、外に出ろ」
「やだなぁ、シズちゃん。そんな怖い顔したら、折角の男前が台無しだよ?」
 こめかみに青筋を引き攣らせた静雄に、にっこりと笑いかけ、そろそろ潮時かな、と臨也はタイミングを図る。
「それよりさ、俺と賭けしない?」
「───賭け?」
「そう」
 どうやら気を逸らすことには成功したらしい。
 いかにもこちらを信じていなさそうな、訝(いぶか)る表情で見つめてくる静雄を笑顔で見つめたまま、臨也は告げた。
「明日、シズちゃんが俺を見つけられるかどうか。見つけられたらシズちゃんの勝ち、見つからずに用事を済ませて新宿に帰れたら、俺の勝ちってことでさ」
「手前、俺がお前を見つけらんねぇと思ってんのか」
「だから、賭けする価値があるんだろ。シズちゃんは絶対、俺を見つけて新宿に返品できると思ってるし、俺は、自分はそんな間抜けじゃないと思ってる。お互い、自分が勝つと信じてなかったら賭けにならない」
「──で、何を賭けようってんだ」
「そうだねぇ」
 考えるような素振りを見せて。
「朝御飯でどう?」
「朝飯?」
「そう。君が今度うちに泊まったとき、負けた方が朝御飯を作る。罪が無くていいと思わない?」
 提案すると、静雄は顔をしかめたまま押し黙る。
 そして五秒後、手を上げて後ろ髪をうざったそうに掻き上げた。
「……っとに手前はめんどくさいな」
「何がだよ、失礼な」
「朝飯くらい、いつでも作ってやるっての。シナモントーストと野菜スープのどっちがツボだったのか知らねぇけど、わざわざ賭けするほどのもんじゃねぇだろ」
「自惚れないでよ、シズちゃん。俺だってその気になれば、これくらい幾らでも作れるんだからさ。ハムエッグだって、とろとろ半熟で美味かっただろ」
 言いながら、シズちゃんはやっぱりどこか抜けてるなぁ、と臨也は心の中で呟く。
 そもそも、シナモントーストか野菜スープかという選択肢が有り得ない。そうやって列挙するのなら、静雄が作る味噌汁も卵焼きも好きなのだ。余程嫌いな食材で無い限り、多分何でも美味しく食べられる。
 ただ、自分のために毎回静雄が朝御飯を作るという構図は、臨也としては少々いただけないのである。
 勿論、嬉しくないわけではないが、一方で、そんなのは自分たちらしくない、面白くないと思うのだ。
 何をするにしても、ただ甘いだけではなく幾許かの緊迫感が欲しい。その方がきっと楽しいはずだと、持ち前の天邪鬼な性格で思った結果が、この馬鹿げた賭けの提案だった。
 そして静雄は、臨也のハムエッグが美味しかっただろうという言葉に、まんまとうなずく。
「……まぁな」
「ね。つまり、お互い、相手が作る朝食には文句無いわけだよ。だからといって、毎回自動的にシズちゃんに作ってもらうのも俺としては気色悪いし、俺が毎回作るのも御免だし、交代で、なんてのも俺たちらしくないだろ」
「ンなもん、一緒に作れば済む話なんじゃねぇのか。さっきみたいに」
「それもつまんないんだよねぇ。やっぱりさぁ、スリルとかわくわく感とか、楽しさがないとさ」
「……やっぱりウゼぇ」
 溜息をつき、そして静雄は、仕方がないとばかりにうなずいて見せた。
「明日の夕方だな?」
「そう」
「来るっつって来ねえとかはナシだぞ」
「そこまでせこくないって、幾ら俺でも」
 本当はちらりと思ったのだが、しかし、仕事があるのは事実である。もっとも、メール一本で時間と場所を変えることなど造作ないのだが、それでは面白くない。
「じゃ、賭け成立ね」
「おう」
 不承不承応じた静雄に微笑み、やっと自分のペースが戻ってきたと満足しながら、臨也は朝食の残りを食べ始める。
 そして、明日はどんな道順で行こうかと思い巡らせつつ、正面に目をやると、静雄は、いつものどこかぼんやりした印象の素の顔でカフェオレのカップを傾けていて。
 ───ああ、ものすごくらしくないなぁ。
 改めて考えてみると、二人で一緒に朝食を作り、向かい合って食事だなんて、あまりにも自分たちに似合わなさ過ぎて、思わず笑いが込み上げてくる。
 すると、それに静雄は目敏く気付いたらしく、こちらを見て小さく眉をしかめた。
「何笑ってんだよ」
「あー、いや。やっぱりおかしいなぁと思ってさ」
「何が」
「色々全部だよ。俺たちがこうしてること、丸ごと全部」
 別に、嫌だって言ってるんじゃないよ、と付け加えて目の前の相手を見つめる。
 こちらを真っ直ぐに見つめてくる瞳の澄んだ鳶色が、ひどく綺麗だった。
「まあ、現状には色々言いたいこともあるんだけどさ」
 たとえば、よりによって自分たちが仲良く食事だなんて、ぬる過ぎて脳味噌が溶けそうだとか。
 とっくに溶けて、ゾウリムシ以下の思考能力しかもう残ってはいないのではないか、とか。
 あれやこれや甘ったる過ぎて、全身がむずむずして転がり回りたいような気分だ、とか。
 多分、それらは言葉にしてしまえば、たった一言、幸せとかいう単語で片付けてしまえるのだろう。
 それがまた、滑稽で、甘ったるくて、おかしい。
 『平凡な幸せ』なんて、自分には全くもって似合わない言葉だと分かっているのに、それをこのまま延々、叶うなら一生味わっていたいと思う自分の心も。
 あまりにもおかし過ぎて。
 この何気ない一時と、目の前の相手とが愛し過ぎて。
 どうにかなってしまいそうだ、と蕩けた思考で思いながら、静雄に笑みを浮かべる。
「ねえ、シズちゃん。昨夜、君が最後に言ったこと覚えてる?」
「──忘れるわけねぇだろ」
「うん、それならいいんだけど」
 うなずいて、臨也は、ちょいちょいと指先だけで静雄を手招きする。
 すると静雄は、あからさまに訝りながらも、少しだけ身を乗り出してくれた。
 ───多分、こういう時に、素直に好きだと言える性格をしていれば良かったんだろうけど。
 そんなのは自分じゃないし、といつもの自分らしい笑みで静雄を見つめる。
「俺はこんな性格だし、それを直す気もないし、この先も、こうやって面倒くさいことばかり言い続けるけど。あんな風にカッコつけたこと言った以上、逃げないでよね、シズちゃん」
「──逃げるわけねぇだろ。バーカ」
 憮然として、と形容するには少々甘い声で言われて、臨也は微笑む。
 ほんの数ヶ月前、自分の感情に疲れ果てて街を彷徨っていたのが、遠い夢のようだと思いながら、自分も身を乗り出して唇を重ねれば、シナモンと蜂蜜の甘さがじわりと全身に染みて。
 ───大好きだよ、シズちゃん。
 心の中でそう告げながら、ゆったりと触れるだけのキスを終えて離れると、静雄と目が合う。
「臨也」
 名前を呼ぶ声と、見つめる鳶色の瞳がどうしようもなく優しくて。
「お前ももう、逃げんなよ」
 逃げたって絶対に捕まえるけどな。
 甘く響く低い声で、どこか楽しげに告げられたその言葉に、臨也は、これまで誰にも見せたことの無い笑顔で花が咲くように笑った。

End.

これにてシリーズ完結です。
ここまで読んで下さって、ありがとうございましたm(_ _)m

<< PREV
<< BACK