ある晴れた日に 07

「───…」
 ぼんやりと目を開けた臨也は、自分の視界に映っているものが何であるのか、理解することができなかった。
 しばらくぼうっとしているうちに、ひどく心地いい感覚が頭部を滑り降りては戻ってくることに気付いて、もしやこれは頭を撫でられているのか、と思い当たる。
「……シズちゃん……?」
「起きたのか」
 自分の頭を撫でる人間など、この世界広しと言えど、一人しか心当たりはない。そして、そうと気付いてしまえば、目の前に移っているチェック柄の布地は、彼が羽織っているフランネルシャツであることも自然と知れた。
 同時に、自分が今、ベッドに腰を下ろした彼のジーンズを履いた大腿を枕にしているということも。
 シズちゃんってこんな恥ずかしい性格してたっけ、と考えながら、目の前にあるフランネルの生地に手を伸ばして、そっと握ってみる。
 洗いざらしのそれは気持ちの良い手触りで、じんわりと指先が温かくなった。
 その間も、一旦動きが止まっていた静雄の手は、再び臨也の頭を撫で始めていて。
「……シズちゃんさぁ、っ、けほ…っ」
 俺の頭なんか撫でて楽しい?、と尋ねるつもりだったのに、かすれた声が喉に引っかかって噎せてしまう。
 その原因は考えるまでもない。
 からからに渇いてがさついた喉の感触に空咳を繰り返していると、おい、と頭を撫でられた。
「起きられるか?」
 何、と見上げれば、愛飲しているミネラルウォーターのペットボトルが目の前にあって。
 そんなものを寝室に持ち込んだ覚えはなかったから、この体勢になる前に静雄が冷蔵庫から取ってきたのだろう。そう思いつつ起き上がろうとすると、支えにした腕にろくに力が入らず、ぐらりと体が揺れた。
「おいっ」
 咄嗟に静雄が抱き止め、そのまま起こしてくれたために無様に顔からベッドに突っ込むという醜態は避けられたが、全身の筋肉が疲弊しきって根を上げていることには変わりない。
 快感を得れば筋肉が緊張するのは自然の摂理であり、長々とSEXをすれば長距離を走ったような倦怠感が生じるのは当然のことなのだが、ここまで憔悴したのは、もしかしたら静雄と一番初めに関係を持った時以来かもしれなかった。
「シズちゃん、無茶し過ぎ……」
 やたらと重い腕を持ち上げてペットボトルを受け取りながら、臨也は眉をしかめてなじる。そして、既に蓋が開けてあったそれに口をつけて、ごくごくと飲み干した。
 人心地ついてから、改めて目の前の男にまなざしを向ける。
「そりゃ俺も気持ち良かったけどさ、限度ってものがあるだろ。こっちが気絶するまでやるなんて……」
「あー、まぁ、それは悪かった」
 静雄とのSEXで臨也が意識を失ったのは、実はこれが初めてである。彼自身も飛ばし過ぎたという自覚はあるのだろう。少しばかり気まずげに後ろ髪を掻き揚げながら、ぼそぼそと謝罪した。
 その様子を横目で見つつ、もう一度ミネラルウォーターに口をつけながら、まったく、と臨也は心の中でぼやく。
 これまでで一番気持ちのいいSEXだったことは間違いないし、あれほど満たされて幸せな気持ちで抱き合ったのも、生まれて初めてのことだった。
 だから、今のこれが幸せな倦怠感であることは否定しないが、しかし、行為の最中にあれやこれやの暴言を吐かれた記憶もまた、それなりに残っている。
 だが、
「俺が可愛いとか、綺麗だとか……本当にどうかしてる…よ……」
 なじるためにそう口に出してはみたものの、失敗だと悟るには最後まで言い終える必要もなかった。途中からぼそぼそとした声しか出せず、語尾は細って消えてしまう。
 何だこれ、と八つ当たりするように思うものの、ひどく顔が熱くなって上げられない。
 最中にも思ったことだが、外見を褒められるのは臨也にしてみれば日常茶飯事で、面と向かって言われることも珍しくも何ともないことである。
 だが、今はどうにもならないほど恥ずかしかった。今更ながらにSEXの間中、そんな目で見られていたのかと思えば思うほど、静雄の顔を見ることができない。
 なんで俺がこんな初心な小娘みたいな反応を、とうろたえていると、静雄の深い溜息が聞こえて。
「自爆してんじゃねーよ」
 そんな言葉と共に、二の腕をぐいと引き寄せられて、臨也の体はぼすんと静雄の胸の中に正面から納まった。
「ったく……ノミ蟲のくせに、そんな可愛いなんて反則だろ」
「っ……! だから、可愛いって言うな!」
「可愛いもんを可愛いっつって何が悪い」
 どうやら完全に開き直っているらしい静雄に、臨也は全身が沸騰しそうになりながらじたばたと暴れる。が、元より激し過ぎたSEXで消耗している身が静雄の腕の力に叶うわけもない。
「こら、暴れんな」
 ぎゅうと苦しくない程度に抱き締められて、臨也はぐったりとなりつつ諦めて肩の力を抜いた。
「……もーヤだ。シズちゃんなんか嫌い」
「はいはい」
 臨也の罵言にもキレることなく、あやすように背中を撫でてくるのは、臨也の声が完全に拗ねた子供のようになっているからだろう。
 シズちゃんのくせに、と思いつつも、子供にはモテる性格をしていたよな、と今更ながらに思い出す。キレやすい部分を棚上げすれば、本来の彼は細かいことに拘らず、あるがままに物事を受け止めるのんびりとした青年なのだ。
 そしてその包容力は、臨也相手であっても、条件さえ変われば発揮され得るものだったということなのだろう。
(──なんか、滅茶苦茶恥ずかしいんだけど……)
 悔し紛れに静雄の肩口に、ぐりぐりと額を擦り付ける。端から見れば、甘えているようにしか見えないその仕草も、彼にとってはツボだったのかもしれない。臨也の腰の辺りに回された腕にぎゅっと力が入り、ひどく優しく頭を撫でられて、臨也はほとほと自分が嫌になった。
(なんで俺、こんな甘えてんの……)
 こんな風に猫が飼い主に甘えるようにデレデレになっている自分が嫌なら、突き放して離れてしまえばいいのに、現実としては大人しく静雄の腕の中に納まっている。
(でも、あったかいし、気持ちいいし、シズちゃんの匂いがするし……)
 離れたくないし、と拗ねたように思いながら、小さく手を動かしてフランネルのやわらかな生地をぎゅっと掴む。
 その間も、静雄の手はゆっくりと臨也の頭から背中を撫で続けていて、まるで本当に猫にでもなったような気分だった。
 心地良い温もりに浸っているうちに、またとろりと眠気が差してくる。
 ぼんやりとまばたきをして、そういえば、と臨也は確認することを忘れていたことを思い出す。
「シズちゃん、今、何時?」
 すると、少しの沈黙の後。
「……七時」
 短い答えが返った。
「七時!?」
 ぎょっとして臨也は思わず顔を上げる。そして、サイドテーブルの小さな置き時計を見れば、確かに長短の針は七時過ぎを形作っていて。
「俺、何時間寝てたわけ……?」
「三時間くらいじゃねぇか。お前が気を失った時は、ちょっとビビったけどな。気持ち良さそうに寝てたから放っておいた」
「……あ、そう……」
 つまりはオルガスムが深過ぎて気絶した挙句、そのまま寝こけていたということであるらしい。
 三時間も寝顔を晒していたのかと思うと居たたまれなかったが、考えてみれば、既に昼前にもSEXの後、眠ってしまっている。今更かと考えることを諦めて、静雄の顔を見上げた。
「三時間も、シズちゃんは何してたの」
「別に。俺も少しうとうとしちまったしな。起きたのは……一時間くらい前か」
「ふぅん」
 そして起きて、冷蔵庫に水を取りに行き、戻ってきてからは膝枕で人の頭を撫でていたということなのだろう。
 恥ずかしい奴、と思いながら軽く睨み上げれば、静雄がふっと笑った。
「何だよ、その顔」
 言葉と共に、左頬をむにっと摘ままれる。
「いひゃい」
「痛くねーだろ」
 くっくと笑いながらも静雄は指を離し、その指の背で摘まんでいた箇所を優しく撫でてくる。彼の言う通り、全く痛くはなかったが、撫でられる感触は心地良かった。
「──意外」
 そんな静雄と自分の反応に溜息をつきながら零すと、何が、という表情をされる。
「シズちゃんが、こんなスキンシップ好きだとは思わなかった」
「……そうか?」
 思いがけないことを言われたというように、静雄はきょとんとまばたく。その表情は、少しだけ可愛かった。
「そうだろ。今日は、ずっと俺に触りっぱなしだしさ」
 自覚がなかったのかと指摘してやると、困った顔になる。どうやら本当に無自覚というか、本能のままに行動していただけらしい。
 そして、そのままの顔で、
「嫌か?」
 などと聞いてくるものだから、改めて臨也は静雄のことが嫌いになった。
「あのさぁ、シズちゃん」
 腹の底からの溜息をつきつつ、右手の人差し指で静雄の胸をとんと突く。
「もう少し考えてから、物言ってくれないかな。俺を誰だと思ってるわけ? どんな不本意なことでも甘んじて受け入れる健気な性格をしてるとでも? 君が知ってるノミ蟲は、そんな奴だった?」
「……その真逆だな」
「そうだよ。俺は自分が嫌なことなんてしない。嫌だと思ったら、ナイフは今ここにないけど、君を引っ叩くくらいのことはするよ」
 場合によっては、目潰しくらい食らわせてやってもいい。そう思いながら告げれば、静雄は小さく笑んで、臨也の頬に手を沿え、目元に触れるだけのキスを降らせてくる。
 その感触は嫌ではなかったから、臨也もおとなしく目を閉じて受け止める。
 そしてそのまま、唇にも軽く触れられるのを感じて、自ら薄く唇を開き、静雄の首筋に両腕を回した。
「──っ、ん…ふ……」
 まるで夜の始まりのような濃厚で甘いキスに、唇の間から零れる吐息が熱を帯びる。
 ゆっくりと唇を離した後、臨也はひどく甘ったるく感じる溜息をつきながら、静雄を至近距離で見つめた。
「もう一回、っていうのは勘弁してよ? さすがに疲れてるからさ……」
 お手軽なSEXであれば日に複数回でもどうということはないが、気を失うほど激しく長いSEXの後は、さすがに足腰がガタガタになる。無理な体勢や緊張を強いられていた腰も背中も腹も大腿も、筋肉が張りを訴え始めていて、だるいことこの上ない。
 この状態で更にもう一回求められたら、たとえ一時でも心底この男が嫌いになりそうで、釘を刺してやれば、静雄は呆れた顔で臨也の額に額をぶつけてきた。
「そこまで無茶言うわけねーだろ。手前こそ、俺を何だと思ってやがる」
 どれ程の加減をしているのか、こつんとする程度の頭突きであるから痛みはない。だから、臨也もこつんとやり返してやる。
「本能に忠実な野生動物。っていうより、むしろ恐竜辺り?」
 ゴジラでもいいかも、とわざとらしく思案してやれば、このノミ蟲野郎、と低く呻るように静雄が懐かしい呼び名を口にする。
 だが、身の危険を感じるような響きでは全くなかったから、臨也は小さく笑いながら、大して抗いもせずにベッドの上に仰向けに押し倒された。
 そのままぎゅうぎゅうと抱き付かれて、臨也もまた両腕を静雄の背に回して抱き締める。
 全身を包む自分のものではない体温と、抱き潰さないように加減していてくれる体重が、ひどく心地いい。
「……何だったら、俺が抜いてあげてもいいけど……?」
 もう一度SEXをするのは体力的にお断りしたいが、触れ合うだけなら、それほどは消耗しない。そう思って提案したのだが、静雄は、いい、と首を横に振った。
「何もしなくていい」
 その言葉と共に、更に体が密着するように抱き寄せられる。
 臨也は先程目が覚めた時に毛布こそかけられていたが全裸のままで、静雄もまた、下はジーンズを身につけているものの上半身はシャツを羽織っただけの半裸だ。
 だが、そんな状態でぴったりと体を重ね合わせているのに、何故か性の匂いのしない抱擁に、臨也も静雄を抱きしめる腕の力を強める。
「──うん」
 もう少しだけ、このままで。
 そんな想いを込めてうなずき、静かに目を閉じた。

*               *

 二人が起き上がったのは、今回もまた、空腹が原因だった。
 成長期はとうに過ぎたものの、健康な成人男性である以上、前回の食事から六時間以上の間が空けば、必然的に空腹は限界に近付く。
 空っぽになった胃に急かされて、渋々ながらも二人は互いから手を離し、身支度を整えてキッチンへと向かった。
 外へ食べに行く、という発想は、何故か浮かばなかった。それはどちらも一応の料理ができるからだと臨也が気付いたのは、並んでシンクの前に立った時である。
 二人で冷蔵庫の中身を覗き込み、米を炊く間にハンバーグと野菜スープでも作るかと決めて、静雄が当たり前のように玉葱を手に取り、鮮やかにみじん切りを始めた時には、臨也は唖然とその手元を見つめるしかなく。
「……なんか、すごく慣れてない?」
 半割にした玉葱の芯の部分を残して縦に包丁を入れ、それから横に包丁を入れて、あっという間に荒みじんを作り上げてしまう。その手際はセミプロか、熟練の主婦のレベルだった。
「今の仕事に落ち着くまで、色々やったからな。厨房系の仕事も何度かやってるうちに覚えちまった」
「……そうなんだ」
「お前、だるけりゃ座ってていいぞ。ハンバーグと野菜スープくらいなら、そんな手間かかんねぇし」
 飯が炊ける間にできる、と言われて、少し考えたものの、臨也は首を横に振る。
 体がだるいのは事実だが、そんな風に気を遣われるのは、あまり気分の良いものではない。虚勢ではあっても、静雄の目の前ではしゃんとしていたかった。
「料理作るくらいはできるよ。俺は野菜スープやるから、シズちゃんはそのままハンバーグお願い」
「おう」
 それぞれ調理時間は三十分程度の料理である。二人掛かりでやれば何ということもなく、余った時間で臨也はマカロニサラダまで作り、四十分後には、炊き立て御飯とハンバーグ、野菜スープ、マカロニサラダにお茶という、シンプルではあるものの至極健全な食卓が出来上がっていた。
 いただきます、と向かい合って手を合わせ、箸を手に取る。
 静雄の作ったハンバーグは、塩と胡椒、ナツメグの加減がやわらかく、炒めた玉葱の甘みが生きている優しい味だった。
 これが静雄の慣れ親しんだ家庭の味なのだろうかと思いながら、一口一口、味わいつつ口に運ぶ。
 そうしながら、臨也は胸に湧き上がる不思議な感覚と必死に戦っていた。
 こんな風に自分の部屋で向かい合って、一緒に作った食事を、一緒に食べている。
 先程抱き合っていた時に感じたものとはまた違う、豊かな泉がこんこんと溢れて心の隅々まで潤し、満たしてゆくような感覚に心が震えそうになって、慌てて思考を逸らす。
 そのまま浸っていたら、また何かとんでもない醜態を晒してしまいそうで、無難な話題を探して切り出した。
「シズちゃんは普段、料理するの?」
「しねえ」
 返事はあっさりとしたものだった。
「あ、そうか。君のアパート、そんなに台所を使ってる感じしなかったもんね」
「ああ。朝飯にトースト焼くか、茶を淹れるか……そんなもんだな」
「ふぅん」
「お前は?」
「俺? 俺もしないね」
 料理はできるが、一人暮らしでそう熱心にやるものでもない。どちらかと言えば、駅ビルに入っているお気に入りのデリカデッセンで出来合いのものを買ってくる方が多かった。
「そうなのか? 包丁がすげぇ使いやすかったから、もっとやってんのかと思った」
「あー、うん。あれは結構いい奴だから」
 形から入る癖のある臨也は、調理器具もそれなりのものを取り揃えてある。宝の持ち腐れと言われても仕方がないのだが、包丁もまた、関の刀匠による銘の入った上物だった。
「プロ用の奴じゃねぇの? そういう感じしたぜ」
「うん、正解」
 何故分かるのかと思ったが、その答えは先程もらっている。高校卒業後、色を転々としている間に、プロの調理器具に触れる機会もあったのだろう。
 そんな風にどうでもいいことを話しながら食事をしているうちに、食卓の上の料理も大半が片付く。
 その頃合になって、ぽつりと静雄が言った。
「なんか、変な感じだよな。俺とお前が、向かい合ってこんな風に飯を食ってるなんてよ」
「──今更?」
 思わず眉をしかめてしまった臨也に罪は無いだろう。昼間に続いて、二度目の食事なのである。それも、そろそろ終わろうとしているのだ。のんきなのにも程があるというものだった。
 俺はさっき、そのことについて結構必死だったのに、と白い目で静雄を睨む。
 だが、静雄には静雄の言い分があったらしい。
「仕方ねぇだろ。なんかすげぇ自然だったんだからよ」
「……俺と御飯食べるのが?」
「おう」
「……あ、そう」
 他に何と答えればいいというのか。
 つくづく、この怪獣との会話は嫌いだと思いながら、臨也は野菜スープを飲み干す。
 その間にも、静雄はのんびりと食事を続けて。
「でも、悪くねぇよ」
 マカロニサラダをつつきながら、そんなことを言った。
「悪くねえ」
 皿の上に目線を落としたその表情は、ひどく穏やかで満足そうで。
 どう返したものか、言葉を散々に探した挙句、
「──そう」
 臨也はそんな返事しかすることができなかった。

*               *

 食事の後片付けをしてしまえば、あとはもうすることはなかった。
 タオルで濡れた手を拭き、キッチンの時計を見れば、もう九時を回っている。そのことを確かめてから、臨也は隣りでシンクに軽く寄りかかって、ぼんやりした表情をしている静雄を見上げた。
「……そろそろ帰らなきゃ駄目だろ。明日も仕事だろうし」
 その言葉を切り出すのは、ひどく辛かった。
 そして、静雄の沈黙も、また同じだったのだろう。
「ああ」
 軽く眉をしかめ、憂いを含んだ表情でうなずく。
 その表情から彼の気持ちが全て伝わってくるようで、臨也はひどく切なくなった。
 少しだけ迷ってから、半歩の距離を詰め、手を伸ばしてぎゅっと正面から抱き締める。
「臨也?」
 呼ぶ声には答えず、じんわりと伝わってくる温もりに身を任せていると、同じようにぎゅっと背中に両腕を回される。その温かな感触に、臨也はそっとまばたきした。
 こんな真似をせずに、あっさりと送り出した方が辛くなかったかもしれないとも思う。
 だが、もう一度触れ合いたかったのだ。
 世間一般の想い想われる恋人たちと同じように、こんな風にぴったりと寄り添って、別れを惜しみたかった。
「また、会いに来て。俺はもう、どこにも行かないから。いつでも、ここに居るから」
「──ああ」
 うなずく静雄の腕の力が強くなる。
 このまま攫って、連れて帰りたい、と言われているような気がして、一層切なくなる。たまらずに肩口に顔を埋めれば、彼の匂いがして目の奥が熱くなった。
 別に今生の別れというわけではない。
 ここはさほど東京から離れているわけではなく、一時間半も電車を乗り継げば、池袋に辿り着く。
 だから、次の静雄の休みには、またこんな風に会えるだろう。
 そうと分かっているのに、ひどく切ない。
 叶うことなら、このままずっと一緒にいたくて、閉じた瞼の裏に涙が滲む。
「臨也」
 名前を呼ばれ、頬に触れる手に顔を上げるように促されて、渋々と目線を上げれば、じっとこちらを見つめる鳶色の瞳が少し驚いたようにまばたきして、それから切なげに細められた。
 自分がどんな表情を晒しているのかは、彼の目に映る自分の顔を見れば分かる。
 だが、静雄は、なんて顔をしてんだよとは言わなかった。
 ただ黙って、臨也の目元にキスを落とし、そのまま幾つもの触れるだけのキスを繰り返す。
 そして重ねられた唇の温かさとやわらかさを、臨也は、次に会うまで絶対に忘れるまいと心に刻み付けた。
「次の休みに、また来るからよ」
「うん。……待ってる」
 こんな殊勝な台詞は、全くもって自分らしくない。だが、今この場面で嘘はつけなかった。
 そして、見つめ合ったまま、ゆっくりと抱き締め合う腕を緩める。
 ぴったりと寄り添っていた体が離れ、絡み合った腕がゆっくりと離れて、それぞれの体の脇に落ちる。
 最後に視線が離れ、二人は無言のまま玄関へと向かった。
 履き慣れた風合いの革靴に足を通し、静雄は臨也を振り返る。
「それじゃあな」
「うん」
 気をつけて、などという台詞は、池袋自動喧嘩人形には必要ない。ただ小さくうなずいて、臨也は出て行く静雄を見送った。
 名残を振り切るように、静雄はゆっくりとドアの方を向いて、重い金属製のドアを軽々と開けて、その向こうに姿を消す。
 ばたんと音を立てて閉まったドアを、その場でしばらく見つめていた臨也は、不意に、激しい感情の塊が体の奥からせり上がってくるのを感じた。
 思わず口から、嫌だ、とかすれた呟きが零れる。
 何が嫌なのか。
 考えるまでもない。
 そのまま感情に突き動かされるように、ダイニングに戻って部屋の鍵を掴み、パーカーを羽織って自分も革紐を結び直すのももどかしく靴を履いて、外に飛び出す。
 追いかけても、仕方がない。
 このまま泊まってくれというわけにはいかない。自分のために仕事を休ませたり遅刻させたりするわけにはいかない。それくらいの理性も矜持も残っている。
 けれど、嫌だった。
 一分一秒でも長く、共に居られるのなら、その機会を逃したくはなかった。
 忙しなくエレベーターのボタンを押し、苛々と上がってくる筐体を待って、ドアが開くと同時に中に滑り込む。
 そして、一階に着くと同時に、そこを飛び出した。
 マンションのエントランスを抜けて、海沿いの道を歩く背の高い後姿をさほど遠くない距離に見つける。
「シズちゃん!」
 馬鹿みたいに走って、驚いたように立ち止まった静雄に追いついたものの、今度は言葉に詰まってしまう。
「どうした? 何か忘れもんでも……」
「──そうじゃないよ」
 感情に任せて行動してしまったものの、どう言い繕えばいいのか。
 だが、この場で言えることなど一つしか──真実しかない。
 だから、思い切って告げた。
「駅まで一緒に行くよ。迷うような道でもないけど……」
 ここから駅までは、徒歩で十五分程度のほぼ一本道だ。海岸沿いであるだけに見通しもよく、駅舎の明かりも道の向こうに小さく見える。
 女子供ならともかくも、桁外れに喧嘩に強い成人男性を送る必要があるような道程ではない。
 だから、臨也の行動の意味など、たった一つしかなかった。
 そして、それが分からないほど静雄は鈍くはない。驚いたような顔をしたものの、小さく溜息をついて右手を伸ばし、臨也の左手を取る。
「え……」
「行くぞ」
 歩き出した静雄に手を引かれて、臨也もそのまま歩き出す。が、頭の中は混乱に満ち溢れていて、それが引いてくると、今度はどうにもならない羞恥が湧き上がってきた。
 人通りの多い道ではないから、こんな夜に男が二人、手を繋いで歩いていても、誰かに見咎められる危険性は殆どない。
 問題は、その手を繋いでいるのが自分たちだということだった。
 らしくない。本当にらしくない。
 うろたえ、もぞりと控えめに掴まれた左手を動かしてみるが、逆に静雄の手の力が強くなっただけで解けることはなく。
 逃がさないと無言のうちに言われているようで、臨也は途方に暮れる。
 シズちゃん、と心の中で名前を呼び、半歩前を行く彼の夜風に小さく揺れる金の髪を見つめて、それからまた、繋がれた手に視線を落とす。
 そして、多分、と半ば現実逃避するように臨也は考えた。
 臨也が本気で嫌がれば、静雄は手を離す。でなくとも、ここにナイフはないが、ポケットの中にある玄関の鍵でも握り締めて彼の手に突き立てれば、この手を振りほどくことはできる。
 だが、そうしないのは臨也の意志だ。
 なりふり構わず、駅に向かうだけの静雄を追いかけて飛び出してきたのも、臨也の意志だ。
 だったら、仕方がなかった。
 これが望んでいた結果なのだ。
 そう認めるのは、ひどくむず痒かったが、仕方がない。
 気持ちを紛らわせるように、繋いだ手にぎゅっと力を込めれば、同じように返されて余計に気恥ずかしさが増し、本当に嫌になったが、それも仕方のないことだった。
「……シズちゃんて、結構恥ずかしい性格してたんだ」
「鏡見て言え」
「シズちゃんよりはマシだよ」
「同じ台詞を返してやる」
 そんな悔し紛れなのか照れ隠しなのか分からない言葉の応酬も、多分、第三者にはじゃれているだけとしか聞こえないのだろう。おそらく痴話喧嘩とも認定してはもらえないに違いない。
 何だこれ、と今日何度も思ったことをまた思いながらも、手を引かれてただ歩く。
 そして、いよいよ駅舎が近づいてきた所で、ゆっくりと手が解かれた時には、思わず、嫌だと口走りそうになって慌てた。
 戻ってきた手が、ひどくすうすうとして失われた温もりがどうしようもなく恋しい。
 けれど、これもまた、仕方のないことだった。
 明るい駅舎に入り、改札口で向き合ってしまえば、本当にもうどうすることもできない。人目を憚らずに抱擁したりキスしたりできるほど、臨也は世間体を捨ててはいなかった。そして、それは静雄も同じだ。
 だから、ただ向かい合って視線を合わせる。
「じゃあな」
「うん」
 別れの言葉にうなずいても、静雄は直ぐにはその場を動かない。
「シズちゃん……?」
 問うように名前を呼べば。
 静雄は目を伏せて、どこか重い溜息をついた。
 どうしたのかと思った臨也の耳に、低く抑えた静雄の声が響く。
「本当は、このままお前を連れて帰っちまいてぇよ。でも、お前は嫌だろ?」
「──え…」
「東京に戻ってくる気があるのなら、とっくにお前は戻ってる。なのに戻ってこねぇのは、あそこに戻りたくない理由があるからだろ?」
「……俺は、」
 言い当てられて、思わず声が震える。
 静雄の言う通りだった。
 これまでは、静雄をはじめとするかつての知り合いに会いたくなかったから、東京には決して足を向けなかった。
 そして、静雄との関係が劇的に変わった今も、東京に……池袋に戻りたいとは思わない。
 あの街に戻ってしまったら、また自分が戻ってしまうような気がするからだ。
 生まれ持った性分は、なかなか変えられない。情報屋の仕事こそ辞めたものの、街を行き交う人々をつい観察してしまう癖は今も残っている。
 そんな自分が、あの大都会に戻れば、きっとまた、様々な意図を持って人間と関わりたくなるだろう。つまりそれは、静雄が嫌い抜いた『ノミ蟲』の復活だ。
 それだけは絶対に嫌だった。
 再会した時から今日まで何日も考え続けたが、答えは他に見つからないまま今日になってしまって、まさか今頃それを問われるとは。
「俺はもう、池袋には……」
「いい。言わなくていい。お前の考えてることくらい、大体分かる」
 うろたえ、混乱しつつも言い訳を唇に上らせようとした臨也を、しかし、静雄は静かに遮る。
 そして、臨也を真っ直ぐに見つめて告げた。
「だから、池袋に戻って来いなんて言わねえ。代わりに俺が会いに来る。距離なんて関係ねぇよ。だから、お前はここに居ろ。もう俺に何も言わず、どこかに行ったりするな」
「──そう、言っただろ……」
「ああ、聞いた。信じるから、お前も俺を信じろ」
 そう言われて。
 静雄を見上げたまま、もう次の言葉が紡げなくなる。
 真っ直ぐに臨也を見つめる静雄は、どうしようもないくらいに格好良かった。顔貌だけの問題ではない。その潔さや心の強さが表情に表れているからこそ、誰よりも精悍で、そして、優しく見える。
「……うん」
 ようよううなずくのが精一杯だった。
 余計なことを一言でも言えば、何もかもが溢れてしまいそうで、水を満々と湛えたガラスの器を捧げ持っているような気分で、臨也は静雄を見上げる。
 すると、静雄はひどく優しい顔で笑った。
 右手を上げて、するりと臨也の左耳にかかる短めの髪を梳き上げ、そこに顔を寄せる。
「え……」
 人前での親密な仕草に、臨也が驚いて一歩引き下がるよりも早く、ぼそりとした低音で一言、言葉が落とされた。
 ぽかんとして、元通りに離れた静雄を見上げれば、彼は面白げに目を細める。
「ンな間抜けな顔してんじゃねーよ」
 そして、ぽんと臨也の頭を一撫でして改札の向こうへと行ってしまう。
「──シズちゃん!」
 慌てて金属製の柵に手をかけ、名前を呼べば、静雄は振り返ったものの、またな、と男っぽく笑ってそのまま階段を上がっていってしまって。
 一人残された臨也は、呆然としながら静雄が最後に触れた左耳に、自分の手を当てる。途端に、かあっと顔が熱くなるのが嫌というほど分かった。
 居たたまれずに、左耳を押さえたまま踵を返して足早にその場を立ち去る。
 駅舎を出て、人影のない海岸沿いの道でやっと歩く速度を緩め、耳からそろりと手を離した。
「な…んなんだよ……」
 馬鹿みたいに鼓動が逸り、呟いた声も耳を押さえていた手指も震えている。
 だが、静雄の言葉にはそれだけの威力があった。今日のうちで一番に臨也の理性を崩壊させるくらいの、それはとどめの一言だった。
「好きだ、って……」
 声に出した途端、ぼろぼろと涙が零れ出す。その場にしゃがみこんでしまいたかったが、それだけはかろうじて堪えた。
 ───好きだ。
 先程、静雄は確かにそう耳元で囁いた。
 だが、まさかそんな言葉を聞けるとは思っていなかったのだ。
 臨也自身、今日も何度も彼を好きだと思ったが、もういい歳をした自分たちであるし、そんな子供じみた告白など必要ないだろうと思っていた。
 わざわざ告げなくとも、互いに馬鹿ではない以上、仕草や身体同士の触れ合いで十分に伝わっていると思っていたのだ。
 それなのに。
「卑怯者…っ…」
 こんな去り際に、わざわざ耳元で囁いていくなんて。
 卑怯以外の何物でもなかった。
 悔しくて、それ以上に馬鹿みたいに嬉しくて。
 涙が止まらない。
 言葉を欲しいと思ったことなどなかったのに、自分を見つめるまなざしや抱き締めてくれる温かな腕だけで十分だったのに、たった一言でこんな大惨事になっていることが信じられない。
「シズちゃんの馬鹿っ!!」
 罵り、そのまま、自分も好きだと言いかけて。
 臨也は、ぐっと唇を噛む。
 声を喉の奥に押し込めるのは苦しかったが、この場所では、まだ言うわけにはいかなかった。
 目の前には、静雄はいない。
 いない相手に告げても、それは意味を成さないのである。海に向かって愛を叫ぶような馬鹿な真似をするくらいなら、舌を噛んで死ぬ方がましだった。
「次に会った時は、絶対に俺から言ってやる……!」
 昔から本当は好きで好きでどうしようもなかったのだと。
 ずっと自分だけのものにしたくてたまらなくて、居なくなったら、もう生きてはいけないのだと想いの丈を告げてやったら、一体どんな顔をするのか。
 驚くかもしれないし、知っていると笑うかもしれない。
 そのどちらでも良かった。
 ただ、好きだという言葉に、自分も同じ言葉を返したい。
 そう心に決めて、臨也はぐいと濡れた目元や頬をぬぐう。そして、一つ深呼吸して呼吸を整えた。
 目を上げれば、黒々とした夜の海が街明かりに波頭を光らせつつ、どこまでも広がっている。少し冷たく感じる夜風が、熱を孕んだ目元に心地良い。
 遠い波の音を聞きながら、ここで生きてゆけばいいのだ、と不意に初めて臨也は思った。
 一年半前に居住を決めた時は、単なるこの港町の佇まいが気に入っただけだった。だが、今は違う。
 いずれはどこかに居を移すこともあるかもしれないが、今はここに居ればいいのだという強い確信がある。
 それもまた、静雄がくれたものだった。
「……本当に、シズちゃんって馬鹿だよね」
 ふふっと小さく笑って呟けば、また涙が滲みそうになって、そのことにまた仄かに笑う。
 散々に傷付け、遠回りをしたのに、それでも尚、自分を求め、愛してくれる存在が、どうしようもなく愛おしくて。
 そして、同じくらいに幸せで。
 尽きることのない想いを抱き締めながら、帰ろう、と臨也はゆっくりと歩き出す。
 今は一人きりでも、もう一人きりではない。
 そのことが、ただ嬉しかった。

The End.

この作品を書くきっかけとなったあの震災の日から、ほぼ半年が経ちました。
その間、辛いことが次々に明らかになって、今も幾つものことが辛いまま継続しています。
一方で、少しずつ復興してゆく被災地の姿もあります。

この半年間、色々なことを考えました。
まだ何一つ終わっていません。
終わってはいませんが、いま私にできる精一杯として、この作品を全ての方々に捧げます。

この先、皆様の行く手に、決して消えることのない光がありますように。
心からの祈りと共に、『いつかどこかで』『ある晴れた日に』、これにて閉幕と致します。
最後までお付き合い下さって、ありがとうございました。m(_ _)m


2011.9.4.
古瀬晶 拝

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