DAY DREAM -Sweet Tears 03-

 携帯電話の時刻を確かめ、そろそろかとアパートを出る。
 自宅アパートから駅までは徒歩で十分ほどだが、そこへ行くまでに二箇所ばかり寄り道をする必要がある。まずはと、静雄はレンタルショップへ向かった。
 店内に入ると迷わず、旧作アニメのコーナーへ向かい、二本のDVDを手に取る。
 いい年をしてアニメをレンタルするというのは、少しばかりの気恥ずかしさがあるが、それも繰り返すうちに薄れてきている。毎回借りるのが、どちらかというと硬派なアニメ作品であることも大きいかもしれない。宇宙戦艦とか超時空要塞とかいう単語は、幾つになっても男のロマンを掻き立てるものなのだ。
 ともかくも真っ直ぐにカウンターへ行き、貸し出し手続きを経て青い袋を受け取る。
 そして店を出て、今度は真っ直ぐ駅へ向かうのとは一本違う通りへと足を向けた。
 駅の近くにあるケーキ屋は、こじんまりとした綺麗な造りで、店頭に並んでいるケーキはどれも美味い。特にプリンが美味しいのが、静雄としてはポイントが高くて、気に入りの店の一つだ。
 ショーケースを眺め、さて、としばし悩む。
 前回は月限定のフランボワーズが載った真っ白なレアチーズケーキを買っていったから、ローテーションとしてはプリン、なのだが。
「杏仁プリンの方が好きだって言いやがったからなぁ」
 毎回ではないが、手土産を持って行く時には季節物のケーキとプリンを交互に買って行く静雄に、前回、臨也は少し呆れた口調で、「あの店なら、俺は杏仁プリンが好きなんだけど」と言ったのである。
 それは意味合いとしては、リクエストと言うより嫌味に近かったかもしれない。
 だが、言われたからには、それを買っていってやるべきなのではないか、と思う。人の家を訪ねるのに、相手の好物を持っていくのは基本だという程度の常識は、静雄も持ち合わせている。
 しかし、問題なのは相手が臨也ということだ。
 好物を買っていったところで、果たして普通に喜ぶものだろうか。「なんで俺の言うこと聞いてんの? 下僕志望なの?」とか、「俺の機嫌を取ろうとするなんて気色悪い」とか言われるのが関の山ではないのか。
 それはそれで、非常に腹立たしい。
 しかし、買って行かなかったなら行かなかったで、杏仁プリンが好きだって言わなかったっけ、と肩をすくめて言ってくるだろう。
「──ったく、面倒くせぇな」
 そこまで考えを巡らせて溜息をつくと、静雄は注文を待っていた店員に杏仁プリンを二つ、頼んだ。
「杏仁プリンをお二つですね? 持ち歩き時間はどれくらいになられますか?」
「二十分くらいなんで、保冷材は無しでいいっす」
「はい、ありがとうございます」
 そんなやりとりを経て、代金を支払い、手提げ袋に入った杏仁プリンを受け取って、店を出た。
 そして、店を出たところで手提げ袋を見下ろし、一つ溜息をつく。
「何て言いやがるかな……」
 しかし、買ってしまったものを返品するのも大人気ないし、きまり悪い。諦めて、静雄は駅に向かって歩き出した。



 新宿駅で山手線を下り、西口を出て歩きながら、こうして臨也のマンションを訪ねるのも何回目だろうと考える。
 少なくとも両手に余るだろう。何しろ、ヤマトのTV版を全て見終え、今はマクロスなのである。
 静雄の仕事は不定休であり、平均して週に一度、唐突に休みが決まる。そして、この二ヶ月余り、そのほぼ全部を臨也のマンションを訪ねるのに費やしていた。
 そのことに別に不満があるわけではない。
 休日に家に居たところで、やることはないのだ。窓辺で光合成をしながら雑誌や本を読むか、昼寝するか、レンタルDVDを見るか、ともかくもぼんやりと過ごすのが常である。
 だからといって、別に出不精でもないから、用があれば外出するのは苦にはならない。そういう意味では、誰かの家でレンタルDVDを見るのは、ちょうどいい休日の過ごし方だった。
 だが、しかし。
「臨也と、っつーのが未だに信じられねぇんだよな」
 二ヶ月と少し前、池袋のレンタルショップで鉢合わせした折に、臨也が言った言葉には度肝を抜かれた。正直なことを言えば、とうとう狂ったか、とまで思ったのだ。
 それくらいに有り得ない言葉だった。──うちで一緒にDVDを見ないか、なんて。
 だが、そう言った臨也自身が、自分の言葉が信じられないというように呆然としていたから、それで、逆に静雄はその言葉を信じる気になった。
 加えて、そんなことを臨也が言い出したきっかけにも心当たりがあったのだ。その十日程前に臨也に告げた、「お前が俺に『普通』をくれるんなら、俺はきっと、お前のことばかり考える」、という言葉だ。
 無論、その言葉は即座に却下されたから、話は終わったものと思っていたのに、どうやら臨也の中には何かが残っていたらしい。
 ともかくも、そんな成り行きで、半ば有耶無耶のうちに新宿の臨也のマンションで、肩を並べてDVDを見て。
 挙句、終電を逃した静雄に、泊まっていけばいいと臨也は勧めたのである。
 風邪の看病をしてもらった借りを返したいだけだと言っていたが、決してそれだけということはなかったはずだ、と静雄は思う。
 それならそれで、もっと皮肉な言い方をしても良さそうなものなのに、その時の臨也の声には何の抑揚もなく、表情も静かな無表情だった。
 勿論、その時は静雄も、無条件に信じて油断したわけではない。だが、寝入って間もない頃に、一度だけ臨也の気配を近くに感じて意識が浮上したものの、臨也が何もしなかったために、そのまま再び深い眠りに落ちて、気がついたら朝だった。
 そして、臨也の部屋で穏やかな時間を過ごしたという事実に奇妙な感動を覚えながら、帰ろうとした静雄に、臨也は再び、誘いをかけたのだ。
 昔のアニメを一緒に見る気はないか、と。
 そう言った時の臨也は、泊まってゆけばいいと言った時と同じ、無表情だった。
 いつものニヤニヤ笑いも、毒に満ちたまなざしもなく、ただ静かな表情で、まっすぐに静雄を見つめていた。
 だが、その透明なまなざしの底に、何かが見えたのだ。
 かすかに、曖昧に揺らめく何か。
 どこか不安定な色合いをしたそれに、静雄はうなずくことを決意した。
 罠だという可能性を考えなかったわけではない。だが、臨也から差し伸べられたその手を振り払うのは、してはならないことだと脳裏で何かが告げたのである。
 そうして応じれば、臨也も表情を殺したままうなずき、静雄の携帯電話に自分のアドレスを登録して、静雄を送り出した。
 以来ずっと、休日毎の逢瀬が続いている。
 その間、臨也は最初に約束した通りに、一度も静雄に対して挑発的なことを言わないし、肉体的な攻撃もしてこない。
 ただ静かな無表情で静雄を部屋に迎え入れ、紅茶やカフェオレを淹れ、画面に向かって時々突っ込みを入れながらDVDを見て、終電を逃してしまった時には、当たり前のようにベッド代わりのソファーと毛布を提供する。
 素っ気ないほどの対応だが、しかし、その行動の一つ一つに、何かがひそやかに覗くことに静雄は気付いていた。
 ───かすかに、曖昧に揺らめく、臨也が必死に隠している何か。
 それが何であるのか、そろそろ静雄は確信を持ち始めている。
 最初のうちは、うん?、と思うばかりだったが、回数を重ねてくれば、勘違いだろうかという思いも確信に変わってくるのは当然のことだった。
「でも、あの馬鹿は全然気付いてねぇよな……」
 自分が必死に隠しているはずの何かを揺らめかせてしまっていることも、それに静雄が気付いていることも。
 だから、当然のことながら、それに伴う静雄の心の変化にも気付いていない。
「お前のことばかり考える、って言ってやったのにな」
 そんな風にぼやきながら、辿り着いた臨也のマンションのエントランスで、部屋番号を打ち込む。すると、十秒ほどの間があって、エレベーターが開いた。
 それに乗り込み、最上階まで上がって筐体を降りる。
 そして、目の前にある玄関のドアを開けた。
「……よう」
「いらっしゃい。今日も時間通りだね」
 出迎える臨也は、今日も微笑未満の静かな表情だ。だが、静雄を捉えた瞳の奥で、何かがほのかに揺れる。
「これ、今日の分な」
 それを見つめながら、手土産の紙袋を差し出すと、臨也は、またか、とでも言いたげな表情でそれを受け取った。
 そして、静雄自身は応接セットのところへ行き、プラズマTVの電源を入れて、DVDプレイヤーの準備をする。そうしながら背後を振り返れば、システムキッチンのカウンターの所で臨也が固まっていた。
「……杏仁プリン?」
「ああ。前にそっちの方が好きだっつってただろ」
 当たり前のように答えると、白い箱の中を覗き込んだままの臨也は、毒舌を吐くどころか、更に固まる。
「……覚えてたの? 俺が言ったこと」
「──手前、俺を馬鹿にしてんのか?」
「あ、いや、別にそういうわけじゃないよ。ただ……シズちゃんは普通の卵のプリンが好きだろ。なのに、なんでって……」
「ンなの、俺の好みにばっかり付き合わせちゃ悪いと思うからだろうが。そこまで性格悪くねぇよ。手前じゃあるまいし」
「……でも、それならそれで自分の分はプリンにするとか、やりようがあるじゃん」
「それは俺もちょっと思ったけどな。何となく同じのにしちまったんだよ」
 昔から、おやつは弟と同じものを一緒に食ってたからかもな。
 そんな風に言ってやると、臨也は黙り込む。
 その表情を殺した横顔は、しかし、静雄の目には明らかに途方に暮れていて。
 ───そんなに喜ぶことかよ。
 正直、静雄は呆れた。
 折原臨也という人間は、負の方向には非常に正直だが、正の方向には全くもって捻くれている。
 ゆえに、気に食わない時には、感じている不快感の数倍の毒舌を浴びせかけるが、本当に嬉しい時には全く言葉を出せないのだ。
 そのことに静雄は、一番最初に手土産を持参した時に気付いた。
 その時の中身はプリンだったが、それでも臨也は絶句して、箱の中身を覗き込んでいたのである。そうして、やっと出てきた言葉は、「シズちゃんて本当にプリン好きだね」の一言だったか。
 あっさりと「ありがとう」とでも言えば、その場は過ぎてゆくのに、それすらできない。
 その捻くれ方を馬鹿だと思う一方で、ひどく可愛いと思ってしまったのは、一体どういう感情の作用だろうか。
 だが、その時から確かに静雄の気持ちは動き始めたのであり、今も途方に暮れて、たった三百九十円の杏仁プリンを見つめ続け、ケトルが沸騰を知らせるかん高いホイッスルを鳴らした途端、はっと我に返って慌てて火を止める臨也が、ひどく可愛く見える。
「シズちゃん、ミルクティーでいい?」
「ああ」
 静雄が答えると、臨也はティーポットの準備をし、そしてまた、どうしても気が惹かれてならないというように紙の箱を覗き込む。
 それならそれで、嬉しそうな顔をすれば良いものを、ひどく困った顔をしているのが、また可愛らしいし、おかしい。
 ───本当にお前、馬鹿だろ。
 静雄が見ているということにすら気付かない、その様子に自然に口元が緩む。
 そのうちに臨也は小さく溜息をついて箱から視線を引き剥がし、てきぱきと紅茶の準備を整え、静雄を呼んだ。
「シズちゃん、これ持っていってよ」
「ああ」
 すぐに応じてソファーから立ち上がり、ティーセット一式が載ったトレイをリビングへと運ぶ。
 臨也もまた、スプーン二つをシステムキッチンの引き出しから取り出して、杏仁プリンの箱と共にリビングへとやってきて。
 そして、二人はいつもと同じ距離でソファーに落ち着いた。
「あ、今回もちゃんとあったんだね」
「まぁな。今時、マクロスなんてそうそう借りてく奴もいねーんだろうよ」
「面白いのにねえ」
 そんなことを言い合いながら再生ボタンを押し、ティーカップにミルクティーを注いで、杏仁プリンを食べ始める。
「やっぱりこの主題歌、何度聞いてもいいよねぇ。癖になる感じ」
「ああ」
 うなずきつつ、静雄も久しぶりに食べる気のする杏仁プリンに、これはこれで美味いな、と思う。卵のプリンとは違う、ぷるぷるの弾力の喉越しが心地良い。
 半分ほどを食べたところで、臨也はどうだろうと思い、横を見ると。
 割合に真剣な顔で画面に見入りながら、一口一口、味わうように食べている。その様子に、ああ本当に好きなんだな、と思った時。
 視線を感じたのか、臨也がこちらを向いた。
「──何?」
 そう聞かれたから、
「美味いか?」
 そう問い返してやると、臨也の瞳がわずかに動く。
 じっとこちらを見つめたまま、何と答えるべきか迷っているような沈黙を挟んで、臨也は短く答えた。
「……美味しいけど」
 他に言い様もなかったのだろう。
 それがどうしたんだよとでも言いたげな、素っ気ない答えに、しかし、静雄は珍しい素直さを感じて嬉しくなる。
「そうか」
 そう答えた時の顔は、微笑んでいたのかもしれない。臨也は小さく眉をしかめ、ぷいと画面に視線を戻す。
 そんな臨也の様子を視界の端に収めながら、静雄も画面を眺め、ゆっくりと杏仁プリンを味わった。




 一本目のDVDが終わり、臨也は傍らに置いてあったリモコンを取り上げ、取り出しボタンを押した。
 立ち上がって、次のディスクを入れ替え、それから静雄を振り返る。
「シズちゃん、何か食べる? ポテチとかならあるけど」
 ピザ取ってもいいし、そんな風に声をかけながら、殆ど空になってしまったティーポットを確認してキッチンに戻ってゆく。
「いや、いい。そんなに腹は減ってねえ」
「そう。じゃあお茶だけね。なんか飲みたいものある?」
 ケトルに水を注ぐ音と共に訊かれたから、少し考えて静雄は答えた。
「……カフェオレ」
「分かった。シズちゃん、結構好きだよねカフェオレ。コーヒーはそんな好きじゃないのに」
「コーヒーとカフェオレは全然別もんだろ」
「まあ、それは否定しないけど」
 言いながらも、臨也はケトルを火にかけ、カフェオレの準備を始める。
 その姿を眺め、分かってねぇだろうな、と静雄は心の中で一人ごちる。
 甘党の静雄は普段、コーヒー系の飲料は殆ど飲みつけない。カフェオレであっても例外ではなく、紙パックのコーヒー牛乳がせいぜいだ。
 だが、一番最初にここに来た時、臨也が出してくれたミルクたっぷりの甘いカフェオレは、驚くほどに静雄の味覚に合った。
 以来、カフェオレが好きになったのだ。勿論、臨也の、という枕詞付きで。
 それ以外でも、濃く淹れられたミルクティーはコクがあって抜群に美味いし、うんと冷え込む日には熱いココアを出してくれることもある。まかり間違っても、ブラックコーヒーなどは出てこない。
 それは間違いなく、臨也の気遣いだった。
 捻くれ者のことだから、静雄を喜ばせようとまでは思っていないかもしれない。だが、気分を害させないようにしようという程度のことは意識しているだろう。そうでなければ、説明がつかない。
 本当にどこまで捻くれて、面倒な性格をしているのか。
 臨也自身、疲れることはないのだろうかと、思わず余計な心配までしたくなる。
 だが、それを口にすれば、臨也はおそらく、自分は正直だと言い張るだろう。それが負の方向に限って、ということは綺麗に棚に上げて。
 ───本当に面倒くさい奴だよなぁ。
 そんな風に静雄が感慨に耽っているうちに、誰も見ていないプラズマTVの画面でマクロスのオープニングが終わり、本編が始まる中、程なくいつもと同じ手順で二杯分のカフェオレを淹れ終えた臨也が、二つのマグカップを手にソファーに戻ってくる。
 そして、片方を静雄に手渡した。
「サンキュ」
「どういたしまして」
 ソファーに腰を下ろした臨也の素っ気ない答えを聞きつつ、静雄は湯気を立てるカフェオレを一口、啜る。
 いつもと同じ、じんわりとした甘さとコクと香りが口の中いっぱいに広がり、ひどく満ち足りた気分になりながら、静雄は「美味い」と呟いた。
 そして、隣りに座る臨也を見やれば、画面を見つめたまま、「そう」と短く返す。
 だが、その瞳がかすかに揺らいだのを静雄は見逃さなかった。
 いつもそうなのだ。
 一番最初にカフェオレを飲んで、同じ言葉を告げた時は、もっとはっきりと驚きの色を浮かべていたが、基本的にそれは今も変わらない。
 静雄が告げる「美味い」という言葉を、毎回驚きと共に受け止め、少しだけ迷ってから、そっと心の奥底にしまい込む。
 そんな心の動きが、感情を殺したポーカーフェイスの透明な瞳の奥に覗く度、静雄は臨也がひどく愛おしくなるのだ。
 ───たったこれだけの言葉でそんなに喜ぶなんて、一体どれだけ俺のことを好きなんだよ?
 ───一体いつから、そんなに俺のことを好きでいてくれたんだよ?
 ───なあ、


「臨也」


 名を呼んで。
 何かと振り返った顔に自分の顔を近づけ、そっと唇をついばむ。
 ごく軽く触れただけなのに、薄い唇はひどくやわらかく、甘かった。
「え……?」
 ゆっくりと離れ、至近距離で見つめると、臨也は大きく目を瞠っていて。
 初めて目にする、呆気に取られた無防備な表情に静雄は微笑みたくなる。が、敢えてその衝動を押し殺し、真面目に言葉を紡いだ。
「お前が嫌なら、もう二度としねえよ」
 一体どんな反応をするか。
 期待と、それから少しだけの覚悟をしながら、じっと臨也の目を見つめる。
 すると、たっぷり五秒も経ってから、臨也の顔がじわりと赤くなった。
 そして、静雄を見つめたままの透明な色合いの瞳が、ひどい混乱を起こす。
 顔を赤くしたまま、ぎゅっと唇を噛み締め、ぐるぐるとパニックしながら葛藤しているのが手に取るように見て取れて。
 もう限界だった。
「ははっ」
 たまらずに声を上げて笑い、手を伸ばして腕を掴み、胸に引き寄せる。
 細い体は簡単に胸の中に納まり、そうだ、こんな感触だったと、二ヶ月前に汗に濡れた服を着替えさせてやった時の感覚を思い出しながら抱き締める。
 あの時は、ただ細いなと思っただけで、それ以上の感情は動かなかった。
 それがどうしてこうなったのか。
 分かるようで分からなかったが、もうそんなことはどうでも良かった。
「やっぱお前、可愛いわ」
 本心からそう告げる。
「あのな、お前の場合、黙ってんのはイエスと同じなんだよ。本当に気に食わないんなら、マシンガンの勢いで言い返してくんだろ」
「そ……」
 そんなことはない、と言いたかったのだろう。だが、さすがにそれには無理があると思ったのか、臨也は一旦言葉を切り、別の言葉で反論してくる。
「ちょ、っと黙ったくらいで、何でイエスになるんだよ!? 君がいきなり変なことするから驚いただけに決まってるだろ!?」
「そうだな、してもいいか聞かなかったのは俺が悪いよな。でも、不意打ちした方が、お前の本心が分かるからよ。驚かせて悪かったな」
「悪いと思うんなら、手を離してよ! なんで抱き締めてんだよ!?」
「だって、離したらお前、逃げるだろ」
「当たり前だろ!!」
「じゃあ、離さねえ」
「なんで!?」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、自由になる手で脇腹や背中を散々にどついてくる。が、そんなものは蚊が止まったほどにしか感じない。
 だが、抵抗しているのは間違いなかったから、仕方がねぇな、と静雄は言葉を選んで語り出す。
「あのな臨也。俺だって何の根拠もなくこうしてるわけじゃねぇよ。ちゃんと考えたし、その間、お前がやることなすこと全部、見てた。──なあ、臨也。俺は嬉しかったんだぜ」
 耳元で言い聞かせるようにそう告げると。
 腕の中で臨也がフリーズした。
「う…れしかった、って……何が」
「色んなこと全部だ」
「──俺、何かした……?」
 問い返す声は、ひどく不思議そうでもあり、不安そうでもあった。
 自分でも気付かない間に何をしたのか。そう恐れる声だ。
 そんなに怖がる必要はねぇのに、と思いながら、静雄はゆっくりと告げる。
「そうだな……、手近なところから言うと、カフェオレが美味かったし、その前のミルクティーも美味かった。俺の買ってきた杏仁プリンを、お前が美味いって言ったのも嬉しかった」
「は……」
 何それ、と臨也は呆れる。
「カフェオレとかミルクティーとか、シズちゃん、一体どんだけ安いわけ……?」
「安くねえよ。今まで俺にそういうことしてくれた奴が、一体どれだけいると思ってんだ」
「…………」
「まあ、トムさんはマクド奢ってくれたり、缶コーヒー奢ってくれたりするけどな。でも、俺のために飲み物作ってくれたのは、家族以外じゃお前が初めてだ」
 その意味が分かるか、と心の中で問いかけながら、静雄は続ける。
「それに言っただろ。お前が俺に『普通』をくれるんなら、俺は必死にお前のことを見るってよ。朝から晩まで、お前のことを考えるって言ったよな?」
 そう言うと、わずかな間があって、反論が返る。
「──朝から晩まで、じゃなくて、お前のことばかり考える、だよ」
「なんだ、お前だって覚えてんじゃねえか」
 思わず静雄は笑ってしまう。
 記憶料は抜群に良くとも、どうでもいいことは忘れる主義の臨也が、そんな言葉の端々まで覚えているというのは余程のことだ。
 『普通』なんて嫌だと散々に言っていたくせに、どこまで天邪鬼なのか。
 ああ本当にこいつは可愛い。腹の底からそう思いながら、静雄は告げる。
「一番最初にな、ちゃんと考え直さないといけねぇと思ったのは、あの夜のお前の言葉がきっかけだ。どういう意味であれ、お前はいつでも本気で俺に向かってきてたのに、俺はまともに取り合おうとしなかった。でも、そのせいでお前が傷付いてるっていうんなら、俺のしてきたことは何か間違ってるんじゃねえかと思ったんだよ」
 言葉を弄ぶ癖のある臨也に対しては、逆に言葉はあまり意味を持たない。混ぜっ返され、論理をすり替えられて有耶無耶にされるのが関の山で、それよりはむしろ、今のような実力行使の方が効果が上がる。
 だが、その一方で、言葉にこだわる臨也は、実力行使だけでも駄目なのだ。行動を言葉で補足してやらなければ、反発するばかりで受け入れようとしない。
 そういう厄介な相手に思っていることがきちんと伝わるよう、静雄は言葉を選びながら、これまでに考えたことを一つ一つ、並べてゆく。
 それを聞いている臨也は、反論の言葉を見つけられないのか、静雄の腕の中でじっと身動きすらしなかった。
「で、話の途中でぶっ倒れたお前を連れて帰ったんだが、あの日、俺は、お前は目が覚めたら帰ると思ってたんだよ。夜中だろうと、どんなに高い熱を出してようと、タクシー呼んで、這いずってでも俺の部屋から出てくだろうってな。
 でもお前は、出てかなかっただろ? それどころか、憎まれ口叩きながらも、粥も全部食っちまいやがってよ。それで気付いた。もしかしたら、お前の本心は、言葉とは全然違うところにあるんじゃねぇかってな」
 語りながら、静雄はゆっくりと臨也の背中を撫でる。
 相変わらず、細い背中だった。
 必要十分に鍛えられているとはいえ、よくもまあ、こんな簡単に折れてしまうような体で自分に立ち向かってくるものだと、呆れるように感心する。
「それから後は、ずっとお前を見てた。こいつは何考えてるんだろう、本当はどうしたいんだろうってな」
「そ…んな風に観察してるなんて、悪趣味だよ」
「お前がいつもしてることだろうが」
「それでも。可愛い女の子ならともかく、よりによって俺を観察するなんて、悪趣味過ぎるだろ」
「そうでもねぇよ。見てるうちに、お前がすげぇ可愛いのが分かってきたしな」
「……は……!?」
 臨也は素っ頓狂な声を上げる。
 確かに、『可愛い』などという単語は、男に対しては勿論のこと、臨也に対しては全く似合わない褒め言葉だ。
 この台詞を聞いた人間は、臨也自身を含めて十中八九、静雄が発狂したと思うだろう。
 だが、静雄は本気だった。
「さっきだってそうだぜ。俺が買ってきた杏仁プリン見て、固まってただろうが。なんで、あんな一個四百円もしない菓子で固まるんだよ」
「!」
 小さく含み笑いながら指摘すると、まさか気付かれているとは思わなかったのだろう。ぴくりと臨也の肩が反応する。
「媚を売るなんて気持ち悪いとか言われるかと、俺は思ってたんだぜ。だから、ケーキ屋でも散々迷ったってのによ」
「それは……怒らせるようなことは言わないって、最初に約束したからだろ。心の中では思ってたよ、シズちゃん馬鹿じゃないのってさ」
「だから、その約束をお前が守るなんて、俺は思ってなかったんだよ。ここに泊まる時も、いつお前が寝首をかきに来るかと思ってた。でも、お前は夜中に俺の近くに来ても、本当に何にもしなかっただろ」
「──気付いて、たの?」
「気付くに決まってんだろ、お前が近付いて来たらよ。まあ全然嫌な感じがしなかったから、ちゃんと目が覚めるほどじゃなかったけどな。でも、お前が近くに居るなってのは、半分寝惚けてても分かってた」
「そんなの、シズちゃんの寝顔が間抜け過ぎて、殺す気が削がれただけだよ」
「でも、何にもしなかったんだから、それがお前の答えだ」
 ああ言えばこう言い返してくる臨也に、いつもならとうにキレているはずだった。なのに、今は必死に言葉で抵抗している様が、ただ可愛いと感じる。
 そして、静雄は想いのままに、ぎゅっと臨也を抱き締める腕に力を込めた。


「悪かった。これまでお前をきちんと見てやらなくってよ。目を背けるばっかじゃなくて一歩踏み込んでりゃ、もっと早く分かってやれたのにな」


 心の底からそう思いながら、詫びる。
 臨也がいつから自分のことを想っていたのかは分からない。だが、そちらを見ようとしない静雄の態度に、悲しく辛い思いをしていたのは事実だろう。
 勿論、臨也の自業自得の部分が殆どだが、それでも、静雄は自分の責任について考えないではいられなかった。
 そんな風に申し訳なく思う腕の中で、臨也の細い肩が小さく震える。
「何、言ってるんだよ……俺は、別に……」
 ようよう紡ぎ出したような声はかすれて、途切れ。
 そしてそのまま、臨也の顔がぎゅっと胸元に押し付けられるのを静雄は感じた。
 体が震えるのをどうにか抑えようとするかのように、臨也の手がワイシャツの脇腹の辺りをきつく握り締める。
 ───本当に悪かったな。ずっと気付いてやれなくて。
 そのひどく頼りない背中を、ゆっくりと撫でてやりながら、静雄は真摯に告げた。


「お前に俺の『特別』をやるよ、臨也。お前は俺を『特別』だと思っていてくれるんだろ。それと同じものを、お前にやる」


 そう言い終えた途端、臨也の肩が大きく震える。
 言葉は無い。代わりに、いっそう強く胸元に顔が押し付けられた。
 ───馬鹿だな。声出して泣いたって、笑いやしねぇのによ。
 その意地っ張り具合に、更に愛おしさが増す。
 そうして腕の中に、臨也の温もりを宝物を抱くように抱き締めていると、やがて少しだけ落ち着いたのか、いつもと同じような調子で臨也が口を開いた。
「──俺を可愛いとか、シズちゃんは目が腐ってるよ」
「腐ってねぇよ」
「特別なんて言って、どうすんの。俺、しつこいよ? そんな風に言われたら、この先一生、付き纏うかもよ?」
「お前がしつこいのは分かってる。でなきゃ、八年以上も俺に突っかかってくるかよ」
「何それ。本当にシズちゃん、馬鹿じゃないの。それともマゾなの?」
「少なくともマゾじゃねえよ。まあ、お前がいいっていう時点で、馬鹿っつーのは否定しにくいし、趣味が悪いとは思うけどな」
「趣味悪くて馬鹿なんて、最低じゃん」
「……それはつまり、手前が馬鹿で趣味悪いってことだろ」
「はあ? 何で俺が……」
「俺がいいっつー時点で、手前も馬鹿で悪趣味なんだよ」
「は? 俺が一体いつ、君がいいなんて言ったんだよ!?」
「──言って……はないか。でも、言ったも同然だろ」
 つーか、これだけしがみ付いといて何言ってやがる。
 そう言ってやると、臨也はぐっと黙り込む。
 しょうのない奴だなと、静雄は小さく笑って、
「臨也、顔を上げろ」
 と、あやすように背中を軽く叩いて促した。
 しかし、臨也は益々顔を押し付けてくるだけで、まったくこいつは、と思いながら横目で見れば、髪の間から覗く耳は真っ赤に染まっていて。
「仕方ねぇな」
 この分だと、日が暮れても臨也は顔を上げようとはしないだろうと踏んだ静雄は、溜息をついて、臨也の両肩を掴み、べりと引き剥がす。
 そうして顔を覗き込むと、ものすごい目付きで臨也は睨んできた、のだが。
 肝心の目元は涙に潤んでいるのに加えて上目遣い、顔も真っ赤では、むしろキスでもして甘く宥めてやりたい気分にしかならないのは、もはや当然のことだった。
「……あのな、そんな顔で睨み付けるのに、一体何の意味があるってんだ?」
 呆れ果てながら、掴んだままの肩を引き寄せて、今にも涙が零れ落ちそうな目元に口接ける。
「臨也」
 名前を呼ぶと、泣くな、という思いと、好きなだけ泣いてもいい、という思いが静雄の胸の中で交錯し、愛おしさに溶けてゆく。
 その想いのまま、そっと顔を近づけると、臨也は驚くほど素直に目を閉じた。
 ゆっくりと唇を重ね、先程と同じように触れるだけで離れようとすると、思いがけず臨也の手がそれを引き止めてくる。
 細い指先が静雄の頬に触れ、離れるのは嫌だと訴えかけるようにやわらかな唇がそっと擦り寄せられて、舌先が甘く唇の表面を掠める。
 そのやり方自体は手馴れているようなのに、言葉にならない切実さが込められた誘い掛けに、静雄も躊躇することなく応えた。
 もう一度唇を深く合わせて、おずおずと差し出された舌に優しく舌で触れる。そして、まるで砂糖菓子を含んでいたかのように甘く感じられる口腔を、ゆっくりと深く味わった。
 いつの間にか臨也の両腕も静雄の首筋に回り、二人で甘い口接けに夢中になる。
 そして長い長いキスを終え、ゆっくりと離れると、至近距離で臨也がそっと目を開く。
 光線の具合によっては紅く透けるセピア色の瞳が、まっすぐに静雄を捉えて。
「──シズちゃん……」
 ひどく優しく、どこか切ない声で名前を呼ぶから、何だ、とまなざしで返すと、何でもないと臨也は小さく呟き、目を伏せて静雄の肩口に顔を埋めてくる。
 やわらかな黒髪の感触を頬に感じながら、静雄は、なんだ、と思う。
 ───ちゃんと素直になれるんじゃねぇか。
 別に、いつもこんな風にしていろと無理難題を言うつもりは微塵も無かったが、それでも意地っ張りの捻くれ者が、やっと見せた素直な態度は、静雄をひどく優しい気分にさせた。
 細い体をやわらかく抱き締めながら、ゆっくりと背中を撫でてやると、臨也はいっそう体を摺り寄せてくる。
 その温もりを何よりも愛おしく感じながら、静雄は抱き締める腕に少しだけ力を込めた。

to be continued...

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