きらきら 8

 綱吉が暮らしているというアパートは三階建ての小さな建物だった。
 二階の一番東の端の部屋の鍵を開け、散らかってるけど、と招き入れてくれる。
 学生向けらしいワンルームの室内を見た瞬間に、彼の部屋だ、と思った。

 隅に適当に積み上げられた漫画雑誌、テレビの前のゲーム機とソフト。ほどほどに片付いて、ほどほどに散らかっていて、何気ない生活感に溢れている。
 かつて毎日のように訪れていた沢田家の二階の部屋も、こんな感じだった。
 たった二年余り前のことであるのに、たまらなく懐かしい。
 その思いは、大きめのスポーツバッグの横に積まれた、奈々がしていたのと同じ畳み方の服を見た時に更に強まった。

「とりあえず、適当に座ってて?」
 綱吉はまだコートも脱がないままファンヒーターのスイッチを入れ、狭いキッチンへ立っていって、ケトルに水を汲んでコンロにかける。
「緑茶でいい? コーヒーはインスタントしか置いてなくて」
「え? いいですよ、そんな……」
「お茶を入れるくらい、大した手間じゃないよ」
 言いながら、やっと綱吉はコートを脱いで、壁に作り付けのハンガー掛けのハンガーにかけた。
「獄寺君も、コート貸して」
「え、あ、はい」
 言われて慌ててコートを脱ぎ、差し伸べられた手に渡す。
 と、それも手際良くもう一本のハンガーにかけ、キッチンに戻りながら、綱吉は何気ない調子で尋ねた。
「獄寺君が今住んでるマンションは、広いの?」
「……一応2DKなんで……。昔、並盛で借りてた部屋と同じくらいです」
「そっか。それくらいの広さがあるといいよね。色々と物が置けるし」
 羨むように言う綱吉の声を聞きながら、自分たちはこんな話をしたこともなかった、と改めて獄寺は気付く。
 再会して以来というもの、互いのことは、住んでいる場所すら聞いてはいけない、話してはいけないような気がしていた。
 一歩でも踏み込んだことを口にしたら全てが壊れてしまいそうで、まるで薄氷を踏むように、おそるおそる当たり障りのない会話ばかりを繰り返していたのだ。
 そんな自分をこれまで恥じていたが、しかし、自分の方だけではなかったのだと、ようやく思い至る。
 あんな形で離れ、そして再会した自分たちの危うい均衡が壊れることを恐れていたのは、きっと綱吉の方も同じだったのだろう。
「ワンルームの不便なとこは、収納場所がないことなんだよね。部屋一つだから、掃除は簡単なんだけど」
 綱吉がそう言ううちに、ケトルから白い蒸気が上がり始める。何気ない動作で電熱式コンロのスイッチを切る彼の手元を見て、獄寺は彼の距離感が危ういことを思い出した。
「手伝います」
 一時呆然としていたとはいえ、何故忘れていたのだろうと自分自身を叱り付けながら綱吉の傍へ行くと、その意図を悟ったのだろう。綱吉はまた小さく笑む。
「大丈夫だよ。自分の家だし」
「ですが……」
「相変わらず心配性だね」
 でもそれなら、と綱吉は、シンク横の洗い籠に伏せられたマグカップと、食器棚のマグカップを指差した。
「それ、出してくれる? 湯飲みは置いてないんだ。お茶もコーヒーも全部、マグカップなんだよね」
「はい」
 素直に従って動きながら、しかし、一人暮らしで(一つは片付けてあるにせよ)カップが二つあるのだろう、と獄寺は思う。
 と、見透かしたように、綱吉が茶葉を急須に入れながら言った。
「どうして二つあるのかとか思ってる?」
「え、いや、そういうつもりじゃ……」
 熱湯を冷ますために一旦、ケトルからマグカップに注ぎながら尋ねる綱吉の声は、どこか面白そうに笑んでいるから、気分を害していないことは分かる。とはいえ、獄寺としては慌てずにはいられない。
「もちろん、一つはお客用なんだけどね。ごくたまにだけど、母さんとか山本が来ることがあるし、大学にも友達がいないわけじゃないから」
「──山本、ですか」
「うん。あ、そうだ。連絡しろって山本から君に伝言。……昨日、向こうから電話があったから、その時に君のこともね、言ったんだ」
 うつむき加減にまなざしを落とし、ごめんね、と綱吉が告げる。
「どうして謝られるんですか。俺は別に何とも……」
「でも、気分良くないだろ? 知らないところで自分のことを話されるのって……」
「構わないですよ、沢田さんなら。──まあ、相手が山本だってのは微妙なとこですけど。でも、いいです。本当に」
 本心から言うと、綱吉が見上げてくる。その綺麗な濃琥珀色の瞳に、獄寺は不意に胸を騒がせた。

 こんなに甘い色をしていただろうか。
 彼の瞳の色は。

「獄寺君は、昔っから俺に甘すぎ」
 ふっと困ったようにはにかむように、綱吉がその瞳をほのかに笑ませる。
 そして、ゆっくりと奈々そっくりの手つきで、緑茶を二つのマグカップに注いだ。
 ふわりと香ばしい冬茶の香りと白い湯気が立ち昇る。
 はい、と片方のマグカップを差し出されて、獄寺は反射的にありがとうございますと受け取った。
 綱吉がその場を動こうとしなかったから、そのままマグカップを口元に運ぶ。
 日本茶など寿司屋やうなぎ屋で極まれに飲む程度で、こんな風に丁寧に入れられた緑茶は久しぶりだった。
 ほどよい温度で湯気を立ち昇らせる、やわらかな春を思わせる水色の茶は、昔、沢田家で出されたものと同じくらいに優しい風味がして、またあの家の空気がたまらなく懐かしくなる。

 どうなっているのだろう、あの家は。
 どうしているのだろう、あの優しい女性は。
 この二年余りの間、いつも思い出していた。

 でも、一番会いたかった人は。
 今、ここにいてくれる。

「沢田、さん」
 そっと名前を呼ぶと、なに、と問うような優しいまなざしが返る。
 その瞳があまりにも澄んでいて綺麗で、心の内の想いをどう口に出せばいいのか分からなくなる。
 と、綱吉は獄寺を見つめたまま、静かにまばたきして口を開いた。

「……もっと傍に行っても、いい……?」

「あ……はい……」
 我ながら間抜けた返事だとは思ったが、他に言葉が出てこない。
 戸惑ううちに、マグカップを置いた綱吉が、そっと半歩の距離を詰めた。
 とん、と右肩にやわらかな衝撃と重みがかかる。
 それだけのことで、魂が震えたような気がした。
「──ごめんね……」
 ひっそりとそう呟いた綱吉の表情は、うつむき加減に右肩の辺りに伏せられていて、獄寺からはほとんど窺えない。
「何が、ですか……?」
「色んなこと……。俺、いっぱい君のこと傷つけてた……」
「そんな……、全然あなたのせいじゃないじゃないですか!」

 傷ついていない、とは咄嗟には言えなかった。
 あの事故以来、辛くて辛くて死にたいくらい、正気を失ってしまいたいくらいに心はボロボロだった。
 けれど、それは綱吉のせいではない。
 断じて、この優しい人のせいではなかった。

「あなたのせいじゃないです。俺が弱くて情けない奴だっただけで……」
「ううん、違う。獄寺君は優しいんだよ」
 そう言い、綱吉は顔を上げた。
「優しいから……、俺を……大事に思ってくれてたから、あの事故で俺以上に傷ついて、悲しんでくれたんだ」
 ごめんね、ともう一度繰り返す。
 見える瞳と見えない瞳、美しい双眸で獄寺を見つめて。
「俺、分かってるつもりだったんだ。君はあの事故に責任を感じてるんだって。でも、間違ってた。君が、そんなにも俺を大事に思ってくれているなんて……ちっとも気付いてなかった。……だから、あんな酷いこと……っ」
 獄寺を見上げた綱吉の綺麗に揃った睫毛が震え、瞳にうっすらと涙の幕が張る。
 間近でその様を目にした獄寺の胸は、締め付けられるように痛んだ。
「あなたのせいじゃないです、沢田さん。俺が気持ちを隠してたんです。あなたが大事過ぎて……自分でもどうすればいいのか分からなくて、今日まで言えなかった。だから、あなたが気付かなかったのも当然なんです」
「そんなことないよ……!」
 自分の考えが足らなかったのだと、綱吉の瞳からこらえきれない涙がこぼれ落ちる。
 そして、それを隠すようにうつむいた姿を見つめながら、綱吉もこんな気持ちだったのだろうか、と獄寺は考えた。

 世界でただ一人の大切な人が、いわれのないことで……それも自分に関することで、彼自身を責め続けている。
 その姿は、耐えがたいほどに辛く、苦しく、悲しい。
 もう止めて下さいと叫びたくなる。
 そんな必要はないのだと、細い両肩を掴んで揺さぶりたくなる。
 だが、きっと綱吉も、こんな思いを抱えながらこの一月、自分と会っていてくれたのだろう。
 そして、とうとう耐えかねて、あの言葉を告げたのだ。
 そう思うと、たまらなかった。

「沢田さん、泣かないで下さい。お願いです。あなたに泣かれると、俺は死にたくなります」
 本心から出た言葉ではあったが、脅し言葉のようでもある。それは効果絶大だった。
「……この期に及んで、まだそんなこと言う?」
 ぴたりとすすり泣く声が止まって、濡れた濃金色の瞳が上目遣いに睨んでくる。
 一瞬、怖じ気付いたが、それでも獄寺は引き下がらなかった。
「言います。俺のせいであなたが泣くのは嫌です」
「……君のせいじゃないだろ」
「俺のせいですよ」
 綱吉の瞳にまた新たな涙が潤み出すのを見て取り、それは駄目だと、獄寺は手をのばした。
 細い肩を引き寄せ、背に腕を回すと、細身の体はすんなりと自分の腕の中に収まる。
 ふわりと届いた甘い匂いに、めまいがしそうだった。
「獄寺、君」
「もう自分を責めるのは止めて下さい。俺ももう、止めます。――あれは、事故だった。どうにもならない、ことだったんです」
 自分に言い聞かせるように言いながら、抱き締める腕に力を込める。
「きっとこの先も、思い出す度に辛いです。あなたの目を見る度に、辛い。でも、どんなに俺が悔やんだって、何も変わらない。あなたを、苦しめるだけだ」
「……獄寺君」
 優しい声に驚いたような響きで名前を呼ばれて。
 湧き上がる想いに胸が掻きむしられる。
「沢田さん」
 腕の力を緩めて、綱吉とまなざしを合わせる。
 そして、魂の全てをかけて言葉を紡いだ。

「傍にいさせて下さい。俺は、あなたの右目の代わりになりたい」

 その言葉に、綱吉の顔に不安と疑問がよぎる。
 だが、それは違うと獄寺は、そっと左手の親指の腹で綱吉の右の目許に触れた。
「償いのつもりで言ってるんじゃありません。もちろん、あなたのために何かをしたい気持ちはあります。あなたにこんな怪我をさせてしまったことは、今でも悔しくてたまりません。――でも、それ以上に、俺以外の奴があなたの傍にいるのは嫌なんです」
 医者には、いずれ左目の視力も落ちるだろうと言われた。
 その時に綱吉の日常を助けるのは――自分以外の人間であって欲しくなかった。
 この一週間、考えに考え続けて、それがどれほど我儘で身勝手な感情であったとしても、たとえ恥知らずと蔑まれたとしても、それだけは絶対に譲れないと悟ったのだ。
 無論、だからといって、どれほど意気込んだところで、綱吉自身に拒絶されたら引き下がって、遠くから幸せを祈るしかなかった。
 だが、奇跡は起きたのだ。

「あなたの一番傍に、俺を置いて下さい。俺は何もできない人間です。でも……あなたが好きなんです」

 ありったけの真摯さでそう告げると、その言葉に込められた重みに感応したのか、綱吉の瞳が震えるようにまばたいた。
「……ずっと、傍にいてくれるの……?」
 不安と、もしかしたら期待も込められていたかもしれない。かすれる寸前の細い声が問いかける。
「ずっとずっと傍にいます。あなたが望まれる限り、この命が尽きるまで」
「――――」
 ためらいなく告げた誓いに対する返事は、言葉ではなかった。
 綱吉の両腕が、獄寺の首筋に回る。
 そのままきつく抱き締められ、獄寺も細い身体をいっぱいに抱き締める。
 そして、綱吉の身体がかすかな嗚咽に震えていることに気付いた。
「……獄寺君」
 すすり泣きにかすれた声が、獄寺を呼ぶ。
「獄寺君、俺はあの事故で、別に何かを失くしたわけじゃないんだよ。確かに『十代目』でなくなったのは、悲しかった。やっと、俺にも何かができるんだって思えてきてたから。でも、俺が『十代目』でなくなっても、皆、居てくれた。山本も笹川先輩も、京子ちゃんもハルも。皆、何も変わらなかった」
 けれど、と綱吉は続けた。
「でも、君だけは……」
 いなくなっていた、という言葉を口にできずに、綱吉の細い肩がいっそう大きく震える。
 その震えは、抱き締めている獄寺の胸をも深く抉った。

「俺はね、獄寺君。『十代目』でなくなったことより、君がいなくなったことの方が悲しかった。朝、家を出ても、学校に行っても、君がいない。どこに行っても、君がいない……!」

 悲しい悲鳴のような声で訴えて、綱吉が泣き崩れる。
 その細い泣き声を聞きながら、獄寺も込み上げるものを堪え切れなくなる。

 償いのつもりで、あるいは償い切れないと分かっていたから、傍を離れたつもりだった。
 けれど、今になって思い出す。
 最後の日、去ってゆこうとした自分を呼び止めた綱吉の声。
 振り返った自分を見つめた瞳は、これまで見たどんなまなざしよりも悲しい色をしていた。
 泣き出す寸前のその色に、自分はこの人を傷つけるばかりだったと、己を軽蔑して悲しんだ、だけだったのだ。
 立ち止まろうなどとは、考えもしなかった。

「すみません、沢田さん。すみません……!」
 たまらずに謝罪を繰り返す。
 だが、腕の中で綱吉は小さくかぶりを振った。
「ち、がうよ、獄寺君。違う。これは、さっき君が言ったことと同じ。俺が、勝手に傷ついてただけなんだ。君が悪いんじゃない」
「でも……っ」
「いいんだよ、獄寺君」
 言いつのろうとする獄寺に、少しだけ強い口調で言い、綱吉は顔を上げる。
 濡れて赤くなった目許が痛々しい。
 だが、見つめるまなざしはあの頃と変わらず透明で、凛と強かった。
「君は今、ここにいるんだから。どんなつもりだったとしても、君はもう一度、俺の近くに来てくれた。だから、もう一度会えた。それで、俺はもういいんだよ……!」
「沢田、さん」
 綱吉の細い指先が、獄寺の頬を伝い落ちた雫をそっとぬぐう。
 そして、ひたと獄寺を見つめた。

「ずっと傍にいて。もう、どこにも行かないで」

 最愛の人が紡いだ、無垢で貪欲な、たった一つの願い。
 それは一生抜けない楔のように、獄寺の心と魂を貫いた。

「はい。もう、どこにも行きません。ずっとあなたの傍にいます」

 魂を振り絞るように真摯に答えて、ゆっくりと手を上げ、濡れた頬を優しくぬぐい、手のひらで包み込む。
 と、その感触にやっと安らいだかのように、綱吉の張り詰めていたまなざしが和らぐ。
 それを何よりも愛おしいと思った。

「愛してます」

 一生告げることはないと思っていた言葉を捧げて、応えるように身を寄せてきた人の唇をそっとついばむ。
 初めてのキスはどちらもかすかに震えていて、互いに溜息のような吐息を零した後、これが欲しかったのだとばかりにもう一度唇を重ねた。
 ようやく一つになった想いを確かめ合うように、やわらかく触れ合うばかりのキスを繰り返すうちに、獄寺の手が綱吉の背へと回る。
 そして、細いうなじを片手で支えるようにしながら、ためらいがちな動きで、そっと舌先でやわらかな下唇に触れる。と、腕の中の綱吉はぴくりと小さく身体を震わせた。
 その反応に、性急すぎるかと獄寺は引きかけたが、綱吉は逆に引き寄せるように獄寺の肩に手を置き、やわらかな舌先で同じようにためらいがちに触れ返してくる。
 甘やかな誘いかけに鼓動が早まるのを感じながら、獄寺はゆっくりとキスを深いものに変えた。
 互いのことを知るのはこれが初めてのことだったから、手慣れた真似などできるはずもない。
 ぎこちなく触れ合わせては離れることを繰り返しながら、互いのなめらかな感触を探る。
 そんな手探りで明かりを求めるような拙いキスだったが、分かち合う優しさと温もりは、これまでに感じた何よりも互いを癒し、酔わせた。
 そして、やわらかく触れ合っているうちに、熱を伴った甘さも、ゆっくりと湧き上がってくる。
 そのめまいがするような甘さを切実に追い求めながらも、獄寺は己の衝動が危険水位に達する前に身を引いた。

 大きく息をつきながらまなざしを向けると、綱吉も閉じていた目をゆっくりと開くところだった。
 濃琥珀色の瞳が熱を帯びて潤み、すべやかな頬も上気して淡く染まっている。
 たまらなくそそられると同時に、真珠貝が真珠をくるむよりも優しく包み込みたい、大切にしたいという想いが湧き上がる。
 それは欲望とは似て非なる、唯ひとりの人への愛おしさだった。

「好きです、沢田さん」
「……うん。俺も好きだよ」
「はい」

 優しい微笑みと共に、君が好き、と告げられる言葉を、天の福音と受け止めながら、そっと顔を伏せて額を触れ合わせる。
 愛しい人の優しいぬくもりを感じながら、あの日以来初めて、生きていて良かった、と獄寺は自分の命があることを世界に感謝した。

to be continued...

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