sweet sweet home 3




「やっぱり、あちこち変わってますね」
「そうだね。あっちの店も二年前にできたやつだし……」
「なんか変な感じです。すげえ懐かしい感じがするのに、あちこち違ってて。違和感?じゃないんですけど、なんか微妙なズレみたいな……」
「うん。俺も感じることあるよ。大学入ってからこの一年、何ヶ月かに一度しか帰ってこないから。昔からあった店が知らないうちに閉店してたり、新しい家が建ってたり。変わるのは当たり前なのに、なんか変な感じがするんだよね」
「はい」
 夕暮れ時が近づいた並盛は、海からの風で昼間の温もりがあっという間に冷めてゆく。
 そろそろ桜の蕾も膨らんできた時節とはいえ、まだジャケットが手放せない肌寒い空気の中を、二人は歩調を合わせてゆっくりと歩きながら、言葉を交わす。
「でも、やっぱり懐かしいです。あの頃はいつも、こうやって歩いてましたよね」
「うん。一緒に学校行って、帰って、遊びに行って……」
 いつも一緒だったね、と綱吉は微笑んだ。
「大変なことばっかりだったけど、毎日楽しかった」
「はい。……この三年半、俺はあの頃のことばかり思い出してました」
「うん……」
 大好きな人と一緒に過ごした日々。
 戦いや陰謀に巻き込まれることの連続だったが、その中で自分たちは絆を育(はぐく)み、そして、恋をした。
 幼い恋はその後、実ることもなく一度は壊れてしまったけれど、今はまたこうして大好きな人と共に居る。
 辛く悲しい涙を零した果てのことではあるが、だからこそ、今はたとえようもないほど幸福だった。
 やがて商店街の向こうに、あの頃にはなかった並盛駅のロータリーが見えてくる。
「並盛駅がロータリーって、来た時も思いましたけど、なんか違和感ありますね」
「うん。でも車やバスの出入りは便利になったみたいだよ。俺はほとんど歩いてきちゃうから、関係ないけど」
 並盛駅周辺の再開発が始まり、駅前がロータリー化されたのは、つい昨年のことだ。今は更にその先で商店街の再開発工事が進んでいる。いずれこの辺りは、五年前に未来の世界で見たような風景になるのかもしれなかったが、今の綱吉たちにとっては、それはもう遠い世界の話だった。
「三十八分の電車だっけ?」
「はい。あと三分くらいです」
「時間ぴったりだね。そうなるように家を出たんだけどさ」
 他愛のない会話を交わしながら、改札口の前に立ち、ホームを眺める。
 上りの電車が到着し、発車してゆき、そして、下りの電車がホームに滑り込んできて。
「あの電車かな」
「多分、そうでしょう。乗り過ごしたとは連絡ないですし」
「うん」
 そして、待つこと一分。
 春先だというのに真っ黒に日に焼けた長身の青年が、改札口に現れた。

「ツナ、獄寺!!」

 満面の笑顔で手を振った山本が、ICカードを改札に読み込ませるのももどかしく、駆け寄ってくる。
「おかえり、山本」
「おう、ただいま」
 綱吉の出迎えに笑顔で応え、それから山本は獄寺に向き直る。
「獄寺」
 安堵と喜びと懐かしさと、そんなものが溢れんばかりに入り混じった瞳で獄寺を見つめ、そして、両手を上げてチームメイトにするように強く抱き締める。
「久しぶり。めちゃめちゃ会いたかったぜ」
「──ああ」
 何気なさを装いながらも感極まった山本の声に獄寺は短く応え、一瞬だけ強くその背を抱き返す。
 が、すぐに日焼けした筋肉の塊を無情に引き剥がした。
「抱きつくんじゃねーよ。暑苦しいだろうが」
「別に今は夏じゃねーからよくね?」
「季節の問題じゃねぇ。気分だ、気分」
 そんな遣り取りを傍らで見ていた綱吉は、不意に目元が熱くなるのを感じた。
 他愛のない、当たり前だった二人の遣り取り。かけがえのない宝物だったそれを取り戻すまでに、こんなにも時間がかかってしまった。
 山本と二人、学校の昼食の合間に、あるいは帰宅途中に、何度どうにもならない沈黙を持て余しただろう。
 互いに獄寺の名前を出したくて、けれど、出しても空しさが募るばかりと分かっていたから押し黙る。そんなことの繰り返しだった。
 けれど、取り戻したから、もう失くさない。
 固く心にそう誓って、綱吉は強くまばたきして滲みかけた涙を散らしてから二人を見上げる。
「そろそろ行こうよ。いつまでもここにいたら他の人の邪魔になっちゃうし」
 山本も獄寺も身長は180cmを超えているし、綱吉自身も平均身長は十分にクリアしている。そんな三人が改札の前で群れていたら、邪魔以外の何物でもない。
 だから移動しようと提案すると、すぐに二人は応じた。
「山本は荷物それだけ?」
「ああ。でかいものはもう、アメリカのチームの宿舎に送っちまったし、着替えは家にもあるしな。財布とパスポートさえあれば足りるぜ」
 山本が持っているのは、標準サイズのスポーツバックだけだった。
 ラフな服装も相まって、その外見は、自主トレのためにアメリカから帰ってきて、またニ、三日後には飛行機で太平洋を渡るのだとはとても思えない。隣町に練習試合で遠征に行くよりも軽装だった。
「にしても、メジャーリーガーが在来線で帰ってくんなよ。タクシーくらい使え」
「んー。でも別に俺は有名人じゃねーしなー。成田からここまで、気付いてくれたメジャーファンも何人かいたけど、それだけだぜ。第一勿体ねーだろ、タクシーなんて。まだルーキーで、契約金も安いし」
「それでも三千万超えてるだろ。大学新卒の初任給が一体幾らだと思ってんだ」

 高校卒業後、即渡米した山本は、日本のプロ野球で活躍した経験が無いために、日本国内ではそれほど名前を知られてはいない。
 もちろん甲子園では剛腕投手兼強打者として有名人だったが、高校野球でヒーローが誕生するのは毎年のことだから、すぐに世間は忘れてしまう。
 それでもインターネットなどを見る限り、メジャーファンの間では期待の逸材として評判が高く、そういった記事を目にするたびに綱吉は誇らしく、嬉しさを抑えることができなかった。
 そして、獄寺もまた、山本の年俸を知っている辺り、ニュースのチェックはこまめにしていたのだろう。
 一見ひねているようで、本当は驚くほどに素直かつ友人思いの恋人に、綱吉はそっと口元に笑みを刻む。

「でも、面白いぜ、アメリカは。何でもでっかいしな。ケーキも真っ青なのとか真っ赤なのとか、すごい色のばっかりだし」
「へ? ケーキでしょ? 真っ青って……」
「色が付けてあるんですよ。理由は俺も知りませんが、アメリカ人にとっては青は食欲をそそる色なんだそうです」
「そうなんだよなー。真っ青のペンキみたいなクリームのケーキを、美味そうだろう!って嬉しそうに持ってくるんだぜ。あれにはビビった」
「……なんかちょっと、凄過ぎ」
「あと飯がなー」
「御飯? やっぱりハンバーガーとかステーキとか?」
「ああ、まあその辺はいいんだけど、基本的に味がついてねーんだよ。で、テーブルに塩とケチャップと砂糖と酢が置いてあって、好きなのかけてどうぞ、っていう感じなんだ」
「……味付けって、それだけしかないの?」
「さすがに中華料理屋とかイタリアンレストランはちゃんとした味がついてるし、高いレストランとかだと違うかもしれねーけど、街の食堂はそんな感じだな。どこも量さえあればいいって感じ。安くて多いのが一番なんだよ」
「うーん」
「だからもう、親父の寿司が食いたくて食いたくてさ」
「おじさんのお寿司、美味しいもんね」
 半ば同情を覚えながら、綱吉はうなずく。
 綱吉はファーストフードも好きだが、基本的には奈々の手料理が一番美味しいと感じる。その点、プロの寿司職人を父に持つ山本は、尚更、食生活の違いが堪えるだろう。
「あっちは魚も、料理の種類はあんまりないしな。とにかく肉、肉、肉だから、食うんなら肉の方が絶対に美味いんだ」
「へえ」
「だから、日本に居る間は魚ばっかり食うことにしてんだ。宮崎も魚の美味い所だから、すっげえありがたかった。でも寿司だけは我慢したんだぜ。親父のヤツが一番美味いに決まってっからさ」
「じゃあ、今日は久しぶりにおじさんの寿司を思い切り食べられるんだね」
「そうそう」
 大きくうなずきながら、山本は道の向こうに見えてきた竹寿司ののれんに目を細める。
 そして、懐かしさのこもった手つきで店名の入ったのれんを上げ、入口を開けた。
「ただいま、親父」
「おう、武。おかえり。ツナ君に獄寺君も久しぶりだな」
 カウンター越しに山本の父が、山本に良く似た笑みを向ける。
 そして、その笑顔のまま山本にこっちへ来いと示した。
「腹空かしてきたんだろ、とにかく座れ。すぐに美味いもん食わせてやっから」
「うん。夕べも、明日親父の寿司が食えるんだと思ったら、もう腹が減ってきて眠れなくってさ」
「馬っ鹿野郎。嬉しいこと言うんじゃねえよ」
 父子家庭の山本親子は、互いに愛情と尊敬を持ち合っているのが目に見えるほどに仲が良い。
 久しぶりに見る光景に、自分まで嬉しくなりがら、綱吉は獄寺を見上げる。
「俺たちも座ろっか」
「ですね」
 微笑み交わし、綱吉が山本の隣り、獄寺が綱吉の隣りの席に腰を下ろす。
「本当は了平さんも来られたら良かったんだけど」
「試合前の減量中じゃ仕方ないですよ。終わったら、また呼んでやればいいんじゃないですか」
「うん、そうなんだけど」
 大学生の綱吉と、システムエンジニアの獄寺はともかくも、メジャーリーガーの山本と、プロボクサーの了平は、会おうにもなかなか都合がつかない。
 少しだけ寂しい、と思いながらも、綱吉は気を取り直してコップを手に取り、山本の父が注いでくれる日本酒を受けた。

*            *


「じゃあ、また明日なー」
「うん、おやすみ」
 綱吉と獄寺が竹寿司を出たのは、日付が変わる少し前だった。
「んー、風が冷たくて気持ちいい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
 ペースはゆっくりだったとはいえ、宵から飲み続けていれば、それなりの酒量になる。
 父親に似たらしく酒に強い体質の綱吉ではあるが、さすがに今夜は心地よくほろ酔いだった。
「楽しかったねえ、久しぶりに山本とお寿司……」
「……そうですね。沢田さんは楽しそうでしたね」
「今日は三人だけだったけど、明日は京子ちゃん達も来るし。楽しみだねえ」
「沢田さんが楽しいなら、俺はそれでいいです」
「嘘」
「何がです?」
「獄寺君も楽しみになくせに。正直に認めたら? 今日は楽しかったです、明日も楽しみです、って」
「……嫌です」
「なんで!?」
「だって俺は、あなたといるのが一番ですから」
 そう言い、獄寺は綱吉の手に自分の手をするりと絡める。
「あなたといる時が一番楽しくて、幸せなんです。あなたが居なかったら、他のどんな連中と居ても楽しくない。だから、俺が楽しみにするとしたら、あなたが明日、あの連中と会ってきっと楽しそうな顔をされるだろうなということだけです。それ以上は認めません」
「……意地っ張り」
「俺は正直ですよ」
「ひねくれ者」
「だから、ひねくれてませんってば」
「嘘つき」
 なじりながら、綱吉は獄寺の手をぎゅうと握り締める。と、応えるように大きな手に優しく握り返された。
 そうすることが何故かひどく楽しくて、綱吉はくすくすと笑い出す。
「本当に御機嫌ですねぇ」
「うん。すごく楽しい気分」
「そういうの、酔っ払いって言うんですよ」
「酔っ払いでもいいもん」
「はい、いいですよ」
 そう言うと同時に、繋いでいた手が一旦解かれ、指を絡めるように繋ぎ直された。
「こうしていられたら、俺は何でもいいです」
「──…」
 微笑む獄寺をきょとんと見上げ、それから綱吉は、繋ぎ直された手をじっと見下ろす。
 そして、再び獄寺を見上げ、微笑んだ。
「うん、俺も」
「はい」
 春先の肌寒い夜空の下、二人は微笑みを交わして、家までの短い距離をゆっくりと歩いた。

*            *


 翌日の朝は、綱吉も獄寺も二日酔いに悩まされることもなく、普通に目覚めた。
 ただし、揃って前夜に飲んだ酒量が酒量である。部屋の酒臭さに苦笑しながら窓を開け、着替えて階下に下りた。
「おはよ、母さん」
「おはようございます」
「あら、二人ともおはよう。すぐに御飯にするから、座って」
「あ、俺、新聞取ってきます」
「助かるわ、獄寺君」
「いえ」
 小さく微笑んでダイニングを出て行く獄寺を少しだけ見送り、綱吉はテーブルに箸を並べ始める。
 続いて、茶碗に御飯をよそおうと手を伸ばすと、奈々が笑った。
「獄寺君がいるといいわね。ツナも競って働いてくれるんだから」
「……俺だけ座ってるのも変だろ。獄寺君の方がお客さんなんだし」
「あら、お客さんなんて言ったら、獄寺君は悲しむと思うわ。獄寺君もうちの子よ。だから、遠慮なく働いてもらいます」
「あー、やっぱりそう思ってたんだ」
「もちろんよ。昔から皆、うちの子。沢田家の子供は、あなただけじゃないのよ」
「分かってるよ」
 それくらい、と綱吉は三人分の白飯を茶碗によそって、テーブルに並べる。
 そして、賑やかだったあの頃のことを少しだけ考えた。
 今は三人。普段は、奈々一人。
 時間が過ぎるということは、時に幸せを運んでくるが、時にひどく残酷でもある。
 もう少しマメに帰ってくるべきかな、と思ったとき、獄寺が戻ってきた。
「ツナ、あなたももう座って。獄寺君、急須とお湯呑み、テーブルに持って行ってくれる?」
「はい」
 そうして朝食の用意が整い、三人は揃って、いただきます、と手を合わせる。
 何でもない、世界中にありふれている朝の食卓だったが、それは一つの幸せの完成形だと、不意に綱吉は思った。
 父親は相変わらず不在だが、母親と、想い想われる恋人と。
 これに友人たちを加えたら、綱吉の大切な人はほぼ全員揃う。しかも、今日はその大半が並盛に揃っているのだ。
 ものすごく幸せなのではないか、と改めて考えながら、朝食を終え、他愛ないことを三人で話しながらお茶を飲んで、今度は後片付けをするべく立ち上がる。
 皿を洗い、テーブルの上を拭き終えたところで、奈々が綱吉に向かって呼びかけた。
「ツナ、悪いけど、お庭に水遣りしてきてくれる?」
「あ、うん」
「それくらいなら俺が行きますよ」
「あら、獄寺君はここにいてちょうだい。せっかくうちに居てくれるのに、なかなかゆっくり話せないんだもの」
「……そう言うけど、結構毎日話してない? 俺が風呂に入ってる時とか、こまめに獄寺君を独り占めしてるじゃん」
「そう言うあなたは、私の何倍も獄寺君を独り占めしてるでしょ。たまには譲ってちょうだい」
「……別にいいけど。それじゃあ獄寺君、頑張って」
 にこにこと笑顔の奈々に、綱吉は軽く溜息をついて玄関に向かう。
 何か企んでいるのだろうか、と一瞬思ったが、正直なところ、母親の考えが読めたためしなど数えるほどしかない。
 どのみち、獄寺のことを『うちの子』扱いするくらいに可愛がっている母親のことだ。決して悪い話はしないだろうと、少しのんびりと水遣りをすることにして、庭に下りた。



「あの……お話というのは……?」
「あら、そんなすごい話じゃないのよ。ただ御礼が言いたくて」
 綱吉が出てゆくのを待って、少しばかり恐る恐る切り出した獄寺に、奈々はふんわりと笑った。花が咲くような優しい笑顔に、獄寺は肩の力が抜けてゆくのを感じる。
 昔からそうだった。奈々の温かな笑顔は、獄寺の心に嫌というほど生えている棘を、まるで薄い氷のようにたやすく溶かしてしまう。
 この女性(ひと)には敵わない、と心の中で白旗を揚げて、それから、御礼というのは?、と考えた。
「御礼って……俺、何かしましたか?」
「もちろんよ。帰ってきてくれたじゃないの。それが私にとって一番、嬉しいこと。きっとツナにとってもね」
「お母様……」
 意表を突かれて、思わず獄寺が呟くと、奈々は笑って、まなざしを少しだけ遠くした。
「獄寺君がどうして並盛を出て行ったのか、少しは分かっているつもりよ。そして、ツナも分かってた。分かっていたから、あの子は一度も、獄寺君が居なくなって寂しいとか言わなかったわ。でも、いつもものすごく寂しそうだった」
「──俺は……」
「責めているわけじゃないのよ。私くらいの年齢になると、分かってくるの。そういう悲しいことも、人生には時には必要なんだって。あの事故は本当に辛かったけれど、あなたたちを大人にもした。違うかしら?」
「そう、なんでしょうか」
「そうよ。あなたたち二人とも、あの事故を境に子供から大人になったわ。それは悲しいことかもしれないけれど、悲しむばかりのことでもなかったと思いたいの。だって、今のあなたとツナは、すごく幸せそうだもの」
 そう言い、獄寺君、と奈々は名前を呼んだ。
「あんな幸せそうなツナを見るのは、私は初めてよ。獄寺君だって、そう。昔とは全然表情が違う。うんと辛いことを二人で乗り越えたから、そうなれたんだということはないかしら?」
「……そうかもしれません」
 多分、と獄寺は考える。
 あの事故が起きずに時が過ぎたとしても、いつか必ず、自分は大人にならなければならなかった。
 それは綱吉も同じだっただろう。
 互いに大人になって、そしてその時、今味わっている幸福が得られたかどうかは分からない。場合によっては、あの頃のままの関係だったなら乗り越えられない、別の何かに遭遇している可能性も、ないわけではない。
 そう考えると、何が良くて悪いのか、判別をつけるのは難しかった。
「──結局、『今』しかないんだと俺は思います。たらればを考えても仕方がない。大事なのは今目の前にある現実で、大事にしなければならないものも、今、目の前にあるものじゃないんでしょうか」
「……ええ、そうね」
「上手く言えないんですけど……、人生で何が起きたとしても、今を大事にすることが未来に繋がる。そんな気が、今はしてます」
「そうね、その気持ちを大切にすることが大事だと思うわ。何が正しいかなんて、分からない。だったら、精一杯に頑張るしかないものね」
 そして、奈々は優しい目を獄寺に向ける。
「ありがとう、獄寺君。そんな風に綱吉のことを大切にしてくれて。あの子にとって最大の幸運は、あなたに出会えたことだと思うわ」
「え……」
 思わず見返した獄寺に、奈々は微笑んだ。

「獄寺君、あの子のことを好きでしょう?」

 うんとうんと好きでしょう、と言われて、獄寺は目を大きく見開く。
 世界で一番大切な人の母親から、そう言われて、平静でいられるわけがない。動揺もあらわな顔で奈々を見た獄寺を、しかし、奈々はやわらかな笑みで包んだ。
「この二日間、見ていて分かったのよ。昔から二人は仲良しだったけど、今はその何倍も気持ちが大きく、深くなってるんだって。
 ツナは、右目を悪くしてから、他の人の手を借りるのを嫌がるようになったのに、獄寺君の手助けは自然に受け入れてるし、私も見たことがないような優しい目で獄寺君を見てるんだもの。獄寺君だってそう。お互いが傍にいるのが一番の幸せだって、私にまで伝わってくる感じ」
「……あ、の……俺は、」
「なぁに?」
「────…」
 何か言おうにも、言葉が出てこない。
 困惑と狼狽の極地に至った獄寺に、奈々は微笑んだまま手を伸ばし、獄寺の頭を撫でた。
 いい子いい子、と語りかけるような優しい感触に、獄寺は思わず目頭が熱くなる。
 そして、気づいた時には叫ぶように告白していた。

「俺は、あの人が……綱吉さんが好きです。ずっと、ずっと好きで……!」

 自分にはそんな資格はないと、ずっと思っていた。
 あの人を幸せにすることなどできないと、ずっと諦めていた。
 けれど、そんな自分を綱吉は望んでくれて。
 好きだと、傍にいて欲しいと言ってくれて。
 そんな人を、自分はもっともっと好きになって。

「不相応なのは分かってます。俺はロクな人間じゃありません。我儘で自分勝手で、エゴばっかりです。でも、あの人が好きなんです。あの人がいないと、生きていけないんです。
 だから、綱吉さんを俺に下さい……!」

「はい、あげます」

 その答えは、あまりにもあっさりと聞こえて。
 思わず、獄寺は顔を上げる。
 と、マリアのような、と形容するには、いささか楽しげな奈々の笑顔が目の前にあった。
「あ、の……」
「獄寺君に綱吉をあげます。私の大事な子供だから、うんと大事にしてくれると嬉しいわ」
「お母様……」
「獄寺君が大事にしてくれれば、綱吉もきっと獄寺君を大事にするから。獄寺君は、綱吉に幸せにしてもらいなさい」
 幸せにしてもらいなさい。
 そう言われて、思わず獄寺は考え込む。
「……幸せにしなさい、じゃないんですか」
 問いかけると、奈々は自信たっぷりの顔で笑った。
「あら、綱吉をナメちゃ駄目よ。あの子は見てくれはヤワでも、ちゃんと幸せを見つけられる子よ。そういう風に育てたもの。本当に欲しいものに対しては、諦めが悪いのよ。でも獄寺君は、その辺が少し下手みたいだから、あの子にべったりくっついて幸せにしてもらうといいわ」
「は……」
 思わず目を丸くしながら、この女性には敵わない、と改めて獄寺は思い知る。
 この素晴らしい女性が、あの素晴らしい人を生み育てた。
 奈々は、綱吉の最大の幸運は獄寺に会えたことだと言ったが、獄寺にとっての最大の幸運は、この母子に会えたことだ。
 綱吉を愛し、愛されたことだ。

「俺、頑張ります……!」
「ええ、信じてるわ。獄寺君も、うちの子だもの」

 当たり前のことのように、奈々は信頼と肯定に満ちた言葉を紡ぎ出す。
 魂の隅々まで満ちてゆくような温もりに、改めて獄寺が目頭を熱くしたところに、タイミングが良いのか悪いのか、綱吉が戻ってきた。
「終わったよー、って……獄寺君、どうしたの!?」
 獄寺の様子がおかしいことにすかさず気付いた綱吉が、近づいてくる。
「母さん、一体何言って……って……!!」
 獄寺はもう、我慢しなかった。我慢し切れなかったと言う方が正解かもしれない。
 立ち上がり、綱吉の腕を引き寄せて強く抱き締める。
「獄寺君!?」
 慌てふためいた綱吉の声が耳を打ち、細い手が何とか自分を引き剥がそうと躍起になっている。
 だがもう構わずに、獄寺は綱吉をきつくきつく抱き締めた。

*            *


「ったく……母さんも、あんまり心臓に悪いことしないでよ」
「そうねえ。でも、タイミング的に今だ!っていう気がしたのよ。獄寺君の性格もあんな風に真面目だから、早いうちに許してあげた方がいいかなとも思ったし」
「それは否定しないけど」
 何しろ、奈々の存在がストッパーになって綱吉に手を出せないような獄寺である。ある意味一番の難関だった奈々の許しを得られたという意味は、とてつもなく大きいだろう。
 そういう意味では、とても重要なことではある。しかし、自分の恋のことを、母親と面と向かって話すことの恥ずかしさといったらない。
 二人きりで話をしたいからと獄寺はリビングから追い出してあるが、自分も早々に退散しようと、綱吉は話の切れ目を探った。
「とにかく、母さんは反対しないんだね? 俺たちのこと……」
「反対も何も、獄寺君にツナをあげるって約束しちゃったわよ」
「……一人息子を犬の子みたいに……」
「あら、ちゃーんと相手は吟味してます。それに、獄寺君はあなたが居なくなったら、もう本当に駄目でしょ?」
「まぁね……」
 もし自分が居なくなったら。
 何十年後かに老衰でならともかくも、そんな恐ろしい事態は想像したくもない。もちろん、獄寺が居なくなる場合のこともだ。
「大事にしてあげなさいな。あんなにもあなたのことを大事にしてくれるのは、私とお父さんを除いたら、世界中にきっと獄寺君だけよ」
「分かってるよ」
 真理を突いてくる奈々に溜息をつきながら、綱吉はうなずく。
「それじゃあ、これからは俺たちは二人でやってくから。この先、不都合が出てきたからなんて反対するような真似はしないでよ」
「しません、そんなこと。お母さんを見くびらないでちょうだいな」
「見くびってなんかないってば」
 それじゃあ、と綱吉は立ち上がった。
「そういうことで、これからは獄寺君と一緒に時々帰ってくるから」
「ええ。でも無理しなくていいのよ。ここはあなたの家だけど、あなたの生活もちゃんと大事にしなさいな。これからは一人じゃないんだから、尚更にね。私のことなら心配しなくていいから」
「……はい」
 見透かされていたのかと、最後だけは少しだけ神妙にうなずいて、綱吉はリビングを出る。
 と、廊下の少し離れた所に立っていた獄寺が、すぐに近づいてきた。
「あの……」
「大したことは話してないよ。君のことを大事にしなさいって言われただけ」
「そう、ですか」
 ほっと目に見えて、獄寺の肩の力が抜ける。
 そんな獄寺に、綱吉も気持ちが緩むのを感じた。
 そっと手を伸ばして、獄寺の肩に触れる。
「びっくりしたけど、認めてもらえて良かった」
 そう告げると、獄寺は少しだけ目を丸くし、それからゆっくりと微笑む。
「はい。ものすごく嬉しいです。今の俺は無敵ですよ。世界が滅亡したって、あなたとお母様を守って生き延びる自信があります」
「何だよ、それ」
「本当ですよ」
 くすくすと笑い合って。
 それから、ちらりとリビングのドアが閉まっていることを確かめて、素早く二人は小さなキスを交わした。





「それじゃあ、帰ろっか」
「はい」
 並盛の沢田家に戻るのも、『帰る』だが、都内のアパートに戻るのも、『帰る』だった。
 四泊五日の少し長い休暇を終えて、二人は並盛駅に向かう。
 そうしてホームで電車を待っている間に、獄寺が綱吉を呼んだ。
「綱吉さん」
「うん?」
 この休暇中に、獄寺の綱吉に対する呼び方は、沢田さんから綱吉さんに変わった。
 もっとも綱吉は、呼び捨てでいいと言ったのだが、そればかりは獄寺は譲らなかったのである。加えて敬語もそのままだったが、それはそれで自分たちらしいとも言えた。
「アパートの話なんですけど……」
「うん」
「一緒に暮らしませんか」
「へ?」
 思わず見上げると、獄寺は真剣な、だが少し照れくさそうな顔で、綱吉を見ていて。
「なんていうか、この五日間、ずっと一緒にいたでしょう? なのに、これから別々の部屋に帰らなきゃならないのがすごく嫌だと思って……」
「あー……」
 確かに獄寺の言う通りだった。
 この五日間、朝から晩まで、寝る時でさえ二人で(何もしないとはいえ)くっついていたのである。それが、地下鉄or徒歩で三十分の距離とはいえ、離れ離れになるのはひどく寂しい。
「俺の方は、仕事は家でやれますから、住居はどこでもいいですし……」
「……でも、俺のとこは学生向けのワンルームだし」
「だから、綱吉さんの大学の近くで、手ごろな物件を探したらどうかなと。幸い、今は借家人の入れ替わり時期ですからね。空き物件は多いと思いますよ」
「んー……」
 提案されて、綱吉は考え込む。
 悪い案ではない。むしろ、そんな風に獄寺が考えてくれるのは嬉しい。
 けれど。
「どうせなら、うちに居る間にそれ言って欲しかったんだけど。アパートを引き払うんなら、母さんにも言わないといけないんだから」
「すみません。でも、俺も思いついたの、今なんですよ……」
「──獄寺君って、時々、タイミング悪いよね」
「すみません」
「まぁいいよ。帰ったら、母さんに電話する。……で、今日帰るのは、どっち?」
 少しばかり上目遣いに見上げて問いかけると、獄寺の表情に、さっと朱が走る。
 そして、獄寺は目線を明後日に逸らしながら、もごもごと言った。
「……うちの方が、少し広いと思うんで……」
 何が、とは敢えて言わないし、聞かない。少なくとも部屋の床面積の問題でないのだけは確かだ。
 綱吉は、うん、とだけ短くうなずく。頬が熱いのは、今更意識しないようにするが、そのことにどれ程の意味があるのか。
「────」
「────」
 微妙な沈黙をしたまま、互いにちらりと向けたまなざしが交錯する。
 けれど、それも長くは続かず。
 二人は同時に破願して、他の人たちに見えないようにこっそりと手を繋いだ。

End.

最終回は書きたいエピソードを繋げるしかなかったので、ちょっと場面がブツ切れてます。
流れが悪くてすみません。
皆さんにうんと愛していただいた、『きらきら』ですが、これで本当に終幕です。
このまま二人は、うんと幸せに生涯を生きてゆきます。

この作品を愛して下さった、全ての方々へ。
皆様の頭上にこそ、最高の幸せがありますように。
心の底からお祈りして、幕引きとさせていただきますm(_ _)m


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