I am.

3.

 町の男たちがホテルにやってきて、オーナー夫妻に隼人への取次ぎを頼んだのは、隼人がカテーナに戻ってから二日目の夕方近くだった。
 つまりは住民たちの意見をまとめるのに、それだけの時間が必要だったということなのだろう。目の前に並んだ市長を含む代表の五人の男たちを、隼人は無感動なまなざしで眺めた。
 全員、見知っている。子供の頃の隼人に気さくに声をかけ、度の過ぎる悪戯を叱り、菓子をくれた男たちだ。
 隼人の父親に、田舎人らしい純朴な敬意を払って帽子を取り、会釈をしていた男たちだ。
 その男たちが、途方に暮れたような悔しいような悲しいような、何とも言えない複雑な顔を皺の多い顔に浮かべ、隼人の前に並んでいる。
 隼人のまなざしはあくまでも無感動だったが、内心はまた別だった。
「わしらは、どうすれば良いのか分からんのです。若」
 口火を切ったのは市長だった。
 坊ちゃまともルッジェーロ様とも呼ばなかったのは、ホテルのオーナー夫妻に一言忠告を受けでもしたのか。だからといって心地の良い呼び名でもなかったが、隼人はその点については口をつぐんだ。
「ドン・カルロは亡くなり、ジェンツィアーナの主だった者も何人も亡くなりました。残ったわしらは、本当にどうすれば良いのか分からんのです」
「ドン・カルロを死に追いやったボンゴレは憎い。本当に憎い。ですが、どうすることもできないことも、本当は分かっちょります」
「詰まるところ、わしらは逆らってはならん相手に逆らったんです。若がおっしゃるまでもなく……。ならば、このまま、わしらは干上がって滅びるしかないんじゃなかろうか。考えるまいとしても、この二ヶ月間、そんなことばかりが思い浮かんで……」
「だのに、ボンゴレは何も言ってこず、誰も来ず……。それで、わしらは余計に不安になりました」
 口々に男たちが語る言葉を、隼人は無言で聞いた。
 表情こそ動かさなかったが、胸の内には様々な思いが湧き上がっては、あぶくのように消えてゆく。
 それは、とうに忘れたと思っていた憐憫であったり、憤りであったり、口惜しさであったりして、小さなあぶくが弾けるたびに静かに隼人の胸の奥を揺らした。
「──ボンゴレは何もしやしねえよ。お前たちさえ何もしなければな」
 男たちが一通り言葉を述べ、沈黙したところで、やっと隼人は口を開く。
「ボンゴレにとっては、カテーナはもう傘下の町だ。お前たちも構成員だ。それに安心することも増長することも許されるわきゃねえが、お前たちが逆らわない限り、ボンゴレはお前たちを守る意思を持っている」
 そう告げる脳裏に浮かんでいたのは、一対の美しい黄金の瞳だった。
 かつてのファミリーなどどうなろうと構わないと言った隼人を厳しく糾弾した、黄金のまなざし。
 彼のことを何一つ知っているわけではない。あの日まで本名はもちろんのこと、姿形さえ知らなかった。
 なのに、あの瞳だけは信じてもいいような気がしてならない。
 あの強く、輝かしいまなざしだけは。
 何故だろう、と思いながら隼人は男たちの顔を見回した。
 他人を信じたことなど、この十五年のうちには両手で数えられるほどしかない。しかも、そのうちの半分は結局裏切られた。
 誰かを、何かを信じることなどもう有り得ないと思っていたのに。
 何故か、今ここで、あのまなざしが蘇る。
 まるで今この瞬間、彼が約束は決してたがえないとでも、遠く離れたパレルモのあの豪奢な執務室から隼人とカテーナの町に対して宣誓しているかのように。
「だが、お前たちの言いたいことも少しは分かった。こんなことになっちまう前と同じように、安心して暮らしたい。それが一番だとしたら、それ以外に何がある? あとは何を望むんだ?」
 隼人の問いかけに、男たちは顔を見合わせる。
 思いがけないことを問われ、互いの顔色を伺い合うのを隼人は黙って待った。
「何をと言われましても……わしらは、これまで通りに安心して暮らせるのなら……」
「道は?」
「……は?」
「カテーナは、州道とは昔ながらの細い旧道でしか結ばれてねえ。これが、州道に面しているプレドーネが栄えて、旧道をたどってしか行けないカテーナが栄えない一番の理由だ。クソ親父が生きていた頃は無理だったが、カテーナがボンゴレの傘下になった今は、道を広げることも望めば叶う。州道からバイパスを通してもらう事だって夢じゃねえ」
 隼人が言うと、想像もしなかったとばかりに男たちは目をみはった。
「それは……道が広くなれば、うんと便利になるとは思いますが……わしらの生活は一体どうなるのでしょう」
「少なくとも特産のアーモンドの出荷は楽になるだろうよ。まあ、後はよそからの往来が増えることを、お前たちがどう捉えるかだな」
 隼人の提案に、男たちは不安げに顔を見合わせる。希望よりも生活が変わってしまうかもしれない不安の方が先に立つのは、仕方のないことだろう。
 彼らはこの町で生まれ、育ち、ここまで生きてきたのだ。今更変われと言われても変われない。それが正直なところに違いなかった。
 いかにも田舎者らしい愚鈍さだとは思うものの、理解できないことではない。そんな彼らに今すぐ変われと言うのは、いくら何でも横暴に過ぎるだろうと諦め半分、言葉にしがたい気分半分で、隼人は新しい煙草に火をつけた。
「まあ、慌てる必要はねえよ。俺は半年間の猶予を預かってきているし、その後だって、お前たちがボンゴレの構成員になったってことだけ忘れなきゃ、ボンゴレはお前たちのために動いてくれる。考える時間も多少はあるだろう」
「──本当に、それで良いのですか……?」
 しわがれた声が、おそるおそる隼人に問いかける。老年に足を踏み入れた市長よりも更に年配の老人が、皺に埋もれた小さな目で隼人を見つめていた。
「若のおっしゃる通り、ドン・カルロは愚かな方であったのかもしれません。確かに、時には惨(むご)いことをなさることもありました。ですが、この町に暮らすわしらにとっては大事な御館様でした。あの方を失った悔しさは、決して消えません。そんなわしらがボンゴレと言われても……わしらはどうすれば良いのか見当もつきません。
 そんなわしらでも生きることを許してもらえるのでしょうか? 腹の中にボンゴレへの恨みを抱えたままで……?」
「──恨みなんざ、一生腹の中に抱えておけ」
 細く紫煙を吐き出した後、低く、冷ややかなほどの声で隼人は答えた。
「恨みつらみは全部、墓石の下まで持っていけ。それができねえっていうんなら、誰にも迷惑をかけない形で死ね。あるいは、この町を出て行って一生戻るな。カテーナ出身だとも名乗るな。──ファミリーを失うってのは、そういうことだ」
 そう告げる言葉は、隼人の自戒でもあった。
 十五年前に父親を殺す道を選ばず、自分が町を出たのも、結局はそういうことだった。あるいは、単に親殺しをする覚悟が定まらなかっただけかもしれないが、少なくとも隼人自身は八歳で家を飛び出し、二度と戻らないつもりで各地を転々としながら生きてきたのだ。
 憎しみと怒りを冷たい石のように腹の中に抱えたままで。
「表に出さない限り、ボンゴレは見て見ぬふりをする。そうでなけりゃ、あれだけの大所帯だ。年がら年中、身内を粛清してなきゃならねえことになるからな。だから、お前たちは一生、恨みには口をつぐんで生きろ。ジェンツィアーナはボンゴレに食われたんだ。もうどこにねえんだよ」
 その言葉は、どんな形で男たちの胸に届いたのか。
 老人の見開いた小さな目に涙が浮かび、皺だらけの顔を伝い落ちる。
 老人だけではなかった。市長も市議長も大工の棟梁もアーモンド農園の主人も、それぞれに大粒の涙をぼろぼろと零し始める。
 その思いがけない光景に隼人は驚き、そして理解した。
 彼らは認めたくなかったのだ。ファミリーが喪われたことを。ジェンツィアーナというアイデンティティーを喪ったことを。
 大切なものを喪ってしまった目の前の現実を否定したくて、むやみにボンゴレへの恨みを募らせた。
 そうしたところで時間が巻き戻せるわけではないと心の片隅で知りながら、それでもなお、ボンゴレが粛清の必要性を感じるほど執拗に。
 あるいは、全てを喪ってしまった不安を怒りにすり替える自己欺瞞も多分にあったのだろう。ついには、隼人がボンゴレに召喚されるほどの危険水位に達するまで彼らは恨みを募らせ──だが、もとより逃避であったそれは、隼人の言葉でもろくも割れて崩れた。
 これが、と思った。
 彼らが今、味わっているこの悲哀が父親が彼らに与えた最後のものだ。
 そして、この光景を目にすることが、父親が自分に与えた息子としての最後の役目だ。
 クソッたれ、と心の中で呟く。
 あの人間は父親としても男としても最低だったが、ボスとしても最低だった。
 彼がもう少し考え深ければ、誰一人として不幸にならない可能性だってあっただろうに。
 彼らが先祖伝来に培ってきた存在意義を喪ってしまうこともなかっただろうに。
 自分とて、己と父の名を捨てる必要などなかっただろうに。
 改めて込み上げる口惜しさと憤りに、隼人が固く拳を握り締めた時。
「若……」
 嗚咽をこらえ、皺のついたハンカチで涙をぬぐった市長が、おずおずと隼人を呼んだ。
「お願いいたします。わしらがこれからどうすれば良いのか、若が教えて下さい。わしらはこの町しか知りません。ジェンツィアーナしか知りません。若しか頼れる方はおらんのです……!」
 黒い小さな目が、必死に隼人を見つめる。
 隼人はその目から、目を逸らしはしなかった。
「──半年だ。それを超えて、ここに滞在する気はねえ」
「若……」
「昨夜も教会で言っただろうが。俺は戻ってきたくなんざなかったんだよ」
 父親が居て、母親の墓があるこの町になど。
 苦く告げて、隼人は一瞬目を伏せてから、不安と悲嘆に顔色をくすませた男たちを見つめた。
「半年の間に俺がやれることはやる。そっから先は、お前たちが考えろ。皆で考えりゃ、一つや二つは知恵が出てくるだろう」
 それを最後に、今日はこれ以上話すことはないと隼人は男たちを辞去させる。
 そして立ち上がり、一人きりになった部屋の窓際に歩み寄った。
 磨かれた窓ガラスの向こうに、教会の尖塔と町並みを形作る古い屋根、そして葉が落ち始めたアーモンド畑が見える。
 古い小さな町だった。
 そしてここが、自分の故郷だった。

*            *

 住人たちからの陳情書に一通り目を通し終え、隼人は小さな溜息と共に立ち上がり、執務室代わりに使っているホテルの一室を出た。
 宿泊している部屋は最上階だが、この部屋は二階にあり、誰でもすぐに上がってこられるし、隼人もすぐに建物の表に出られる。フロントに居たオーナー夫人に、「その辺を一周してくる」と声をかけ、表通りに出た。
 外に出ると、秋らしい灰色の雲が上空の大半を覆っており、弱いながらも風があるために少し肌寒い。
 今晩辺り、また天気が崩れるかもしれないと思いながら、隼人は広場を抜け、町の外れへと向かって歩いた。
 隼人がカテーナの町に戻ってから、そろそろ一月が過ぎようとしている。何もかもうまくいっているわけではないが、やっとカテーナは少しずつ変わろうとし始めていた。
 隼人が散々に焚き付けたからであるが、これまで何十年、あるいは何百年と耐えるばかりだった貧しい住民たちが、控えめながらも「ここをこうして欲しい」という要望を出すようになってきたのだ。
 先月の終わり、一番最初に隼人に届いた陳情は、二十年も前から壊れたままになっている橋の一つを直して欲しい、というものだった。
 街中を流れる細い川には三つの橋があったが、そのうちの一つは、隼人が幼い頃に嵐による増水で壊れ、残り二つの橋だけでもどうにかなるからと二十年も捨て置かれたままだったのである。
 そのことには隼人もカテーナに戻ってきてすぐに気付いていたのだが、自分からは一切口に出さず、壊れた橋の付近に住む住民たちが言ってきて初めて、予算をどうするかと市長たちを交えて相談の場を設けた。
 ボンゴレに請求すれば、それくらいの資金はすぐにカテーナに対する寄付として送られてくる。だが、それでいいのか、と住民たちの間で幾日も議論が続き、出た結論は、橋のかけ直しに必要な資材や機材を購入するための費用だけをボンゴレに借りて、あとは市内の石工や大工が総出で直そうというものだった。
 議論を黙って聞いていた隼人はそれを了承し、即、ボンゴレにその旨を申し送ったのだが、その二日後には市長宛にドン・ボンゴレの署名入り金銭貸借契約書が届き、市役所の口座に要求通りの金額が振り込まれた。
 そして、当然といえば当然の帰結なのだが、結果的にその金が住民たちの目を覚ますことになった。
 ボンゴレはカテーナの暮らしを良くするのに力を貸してくれる。たとえ、それが見え透いた懐柔策であっても、という認識が彼らの中に生まれたのである。
 無論、反発がないわけではない。だが、不満を漏らす輩には隼人は容赦しなかった。厳しい言葉で、ボンゴレの下で生きるのが嫌なら町を出て行けと突き放した。
 そんな日々を一ヶ月繰り返して。
 やっとカテーナは変わる兆しを見せ始めた。
 ジェンツィアーナがなくなった今、どんな風に町を動かしていくのか。どんな町にしてゆくのか。やっと一人ひとりが考え始めたのだ。
 とはいえ、絶望が安堵に変わり、希望や夢を持ち始めると、人間は増長しがちにもなる。
 ボンゴレは刃向かわない相手には手を出さないが、図に乗った傘下の勢力に鉄槌を下さないわけでもない。あくまでもカテーナは、大ボンゴレの新参者なのである。
 その辺りのバランス感覚を、半年間の猶予の間にいかに彼らに培わせるか。それもまた、隼人の重大な役割だった。
 そんなことをつらつらと考えながら、町の中央にある広場から北に向かって歩いてゆくと、少しずつ民家が途切れがちになり、石畳の舗装も消えて、やがてエトナ山へと続く荒れた道に繋がる。その途中、町の境界線ギリギリに一本の大きなジャカランダの木があった。
 初夏になると美しい天青色の花をいっぱいにつけるその木の下に、小さな石碑がある。
 白い石の表面に十字架を刻まれたその前に、隼人は立った。

『ERICA GOKUDERA 1971−1999』

 そう刻まれただけの小さな墓石の表面は綺麗だった。草に埋もれてしまっていてもおかしくないのに、誰か清掃をしてくれている人間が居るのだろうか、と隼人は考える。
 思い浮かんだのは、ホテルのオーナー夫妻の顔だった。
 彼らならやってくれるかもしれない、と思う。彼らは母親のことも良く知っていたし、彼女に同情も寄せていた。もっとも隼人がそれを知ったのは、十五年前、母親が死んだ後のことだったが。
 否、そもそも彼女が死ぬまで、自分を生んだ母親が他にいることなど隼人は知らなかった。父親と、その妻だった女性の子供だと信じて、それまで育っていたのだ。
 小さな子供の世界が崩壊した十五年前のその日。
 隼人は、まだ八歳だった。
 ───前夜のパーティーの興奮が冷めやらぬクリスマス当日の朝、当時家族と暮らしていた城の門の傍で、若い女性の凍死体が見つかったと連絡が入り、子供の好奇心で隼人も見に行った。
 やんちゃな子供特有のすばしっこさで人垣をくぐり抜けて、一番最初に目に入ったのは、雲間から差し込んだ陽光に凍りついた粉雪がきらきらと輝く銀色の長い髪だった。
 そして、ただ眠っているだけのような、白く繊細な顔。反射的にミケランジェロのピエタ像の聖母を思い浮かべた。
 彼女がグレーのコートを着ていたせいもあって、純白と純銀でできた彫像のようなその姿に呆然としていると、今度は使用人たちのささやきが聞こえてきて。
『まさか、あれからずっとここにいたのか』
『プレゼントはきちんと例年通り、坊ちゃまに渡すと言ったのに……』
『ここからだと大広間の窓が見える。一目でもと思ったのか』
 最初は意味を成さなかったそれらが、子供ではあってもずば抜けて利発だった隼人の内側で少しずつ形を成してゆき。
 城内の先祖の肖像画にも親戚にもない、自分の銀の髪。
 父親には似ていても、母親にはまったく似たところがなく、それどころか母親には、どれほど家庭教師に出されるテストで優秀な点を取ろうと、どれほどピアノを上手に弾こうと褒められるどころか目を背けられることが多かった現実。
 それらが一つに結び合わさった時。
『お…か…あさま……?』
 自然にそんな言葉が……答えが唇から滑り出た。
 そして、目の前の見知らぬ銀髪の女性に近づこうと、ふらりと足を踏み出し──子供の存在に気付いた使用人たちによってたかって取り押さえられた後の記憶は、しばらくの間途切れている。
 その次の記憶は、凍死体が発見された当日だったのか翌日だったのか判然としないが、城内の誰に彼女の正体を問いただしても、使用人たちも父親の部下たちも全員固く口を閉ざし、最後は父親にしたたかに殴られたことだ。
 だが、殴られたからといって諦めるような性格を、幼くとも隼人はしていなかった。
 ───あの銀の髪の女の人は誰?
 ───どうしてあんな所に居たんだ?
 ───俺は、誰……?
 湧き上がる黒雲のような疑念に胸を焼き焦がされながら、真実を必死に求める子供に、ついに本当のことを教えてくれたのは、カテーナの町で小さなホテルを経営していたレオナルドとミランダの夫妻だった。
『エリカ様は、毎年、坊ちゃまのお誕生日とクリスマスにプレゼントを持っていらっしゃいました。それだけでなく年に数度、こっそりとこのホテルにいらして、広場が見渡せるお部屋の窓から、町の中を元気に駆け回る坊ちゃまを御覧になっていました』
『エリカ様には身寄りがなく、坊ちゃまに絶対に会わない代わりにピアニストとして生きてゆくための援助をする、御館様のそういうお申し出をお断りになれなかったのです。ですが、坊ちゃまを手放された御自分をいつも責めておいででした。人間はどうやってでも生きてゆける、どうしてあの子を渡してしまったのか、と……』
『去年の春に、坊ちゃまに頂き物だと言って、特別に美味しいアーモンドのお菓子を差し上げたことがあったでしょう。坊ちゃまはとても気に入って下さいましたが、あれはエリカ様がここの厨房で一生懸命お作りになったものなんです。坊ちゃまが美味しいとおっしゃって召し上がっている間、エリカ様は食堂のドアの向こうで声を殺して泣きじゃくっておられました』
『きっとクリスマスイブの夜、エリカ様はどうしても坊ちゃまを一目、御覧になりたかったのに違いありません。三日前からこちらにいらしていたのですが、坊ちゃまが風邪気味で町には一度もおいでにならなかったから、今回は諦めてお城にプレゼントを届けて帰るとおっしゃって、夕方頃にチェックアウトされてお車で……。それでも、帰るつもりが、どうしても門の前からおみ足が動かなかったのでしょう』
 必死に子供を思う母親に情を寄せ続けていた夫妻は、カテーナの絶対君主である隼人の父親の命令にも逆らって、自分たちも泣きながら交互に全てを語ってくれた。
 情の深い夫妻にとっては、幸薄い若い女性は妹のような存在だったのかもしれない。
 しかし、いずれにせよ残酷な真実は、子供だった隼人を打ちのめした。
 自分だけ何も知らなかったこと。
 実の母親はもう死んでしまい、一度も面と向かって母と呼べなかったどころか、埋葬にさえ立ち合わせてはもらえなかったこと。
 詰まるところ、母親から幸せを奪い、死に追いやったのは父親と自分であること。
 全てを知った子供には、もう実家での居場所はなかった。そこは悪鬼の巣であり、毒蛇の住まう場所だった。
 怒りのままに父親をなじり、閉じ込められた自室の窓を破って城を飛び出し、そして十五年が過ぎて。
 その間に義母も病で世を去り、憎み抜いた父親も死んだ。
「───…」
 町の教会が管理する共同墓地にではなく、こんな町外れに埋葬された母親の小さな墓を見つめ、隼人は胸の前で十字を切る。
 母親の墓の前に来たのは、カテーナに戻った当日を皮切りにもう数回目だった。
 だが、今回もそれ以上どうすれば良いのかも分からず、墓石にかける言葉も見つからず、途方に暮れたようなやり切れない気分で、複雑な溜息を吐き出す。
 そして、ホテルに戻ろう、と思った時。

「それが、お母さんのお墓?」

 不意にイタリア語ではない台詞が耳に届き、驚いて振り返った。
 誰かが近づいてくる気配はなかった、のに、数メートルの距離を彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
 そして、隼人を見上げ、小さく微笑んだ。
「驚かせてごめんね。プレドーネまで来たものだから、ついでに寄ってみたんだ」
「……ドン・ボンゴレ……」
「沢田綱吉でいいよ。君は俺の部下じゃない」
 呆然と呼んだ隼人にそんな風に返して、綱吉は小さな墓を見下ろした。
「綺麗なお墓だね」
「──でも、こんな場所です」
「……綺麗な場所だと俺は思うけど。木々の間から村が見えて、ちょっと前までは向こうにお城が見えてて、初夏になったらジャカランダの花が降り注ぐ。ここに埋葬してあげたいと言った人は、きっと優しい人だよ」
 それは、あのホテルのオーナーだ、と隼人は苦く噛み締める。
 町の人間ではないから共同墓地には埋葬できないと言い張った父親に、せめて町外れのこの場所に埋葬できるよう懸命に嘆願してくれた。それがなかったら、彼女の遺体はエトナ山の山中にでも密かに埋められていただろう。それくらいのことは平気でする父親だった。
「……ご存知なんですね、全部」
「……うん。ごめんね。調べないわけにいかなかったから」
「いいえ……」
 責めるでもなく言った隼人の言葉に、だが、綱吉は諦めにも似た微笑を浮かべて詫びる。何故だろう、と隼人は思った。
 彼は権力者だ。絶大な力を持ったものが横暴に振る舞ったとて、誰も咎めることなどできない。しかし、彼はそうしない。
 前回初めて会った時は、隼人に対して隠し持っている牙を見せたが、それもカテーナの町を自滅させないためだった。決して単なる横暴ではない。
 よく分からない人だ、と初めて隼人は彼をきちんと見つめた。
 すると、綺麗に澄んだ瑪瑙の瞳が隼人を見上げる。身長差は十センチ程度だろうか。隼人の身長が並よりも高いだけで、彼も決して背は低くない。
 やや細身だが全身のバランスが良いせいか、仕立ての良い薄手のコートを羽織り、薄手のマフラーを肩にかけた立ち姿はとても綺麗に見えた。
「黙っているのはフェアじゃないから、言うけれど。君の情報の情報のうち、子供の頃についての大半は、君のお姉さんから聞いたんだ」
「──姉、貴……!?」
 思ってもみない告白に、隼人は目を見開く。
 姉、というのは、父親とその妻だった女性の娘であり、隼人にとっては異母姉に当たる。今となっては彼女が、隼人の戸籍上の唯一の家族だった。
 だが、十五年前に家を出てからは一度も連絡を取ったことがないし、彼女も彼女の母親が死んだ後、家を出て自分と同じくフリーの仕事人になったというのも、裏社会の情報を通じて知っただけである。
 彼女もまた、自分と似たような理由で父親を憎んでいることは分かっていたから、今回の件にしても彼女を思い出さなかったわけではないものの、居場所を調べるどころか、連絡を取ろうとさえこれっぽっちも思わなかった。
 まさか、ボンゴレが彼女に通じているとは思わなかったが、ボンゴレの情報網があれば、それも当然だろうと納得する。
 しかし、それだけでは話はすまなかった。
「そう、ビアンキ。彼女も変な縁で知り合って……、俺の口から聞くのはあんまり気分が良くないかもと思うけど、彼女は今、リボーンと一緒に居るんだ」
「はあ……?」
 リボーン、というとあの男だろう。ボンゴレの使いとして隼人を呼び出しに来た、尋常ではない殺気を持つ男。
 あの後調べて、彼こそが裏社会で最強の名をほしいままにする殺し屋と同一人物だと分かった時は、本気で寿命が縮む気がした。
 よりによって、そんな男と姉が。隼人は瞬間、本気で混乱する。
 と、そんな隼人の表情を読み取ったのだろう。綱吉は苦笑した。
「リボーンは口が悪いし正直じゃないからビアンキを愛人4号とか言ってるけど、俺が知る限りは本当に恋人同士だよ。もっとも、リボーンは仕事には彼女を連れて行かないから、今はビアンキは、リボーンが持ってるどこかの高級リゾート地の隠れ家でのんびりしてると思うけど」
 そんな情報を与えられても、そうですか、としか言いようがない。ひょっとしたら困惑して途方に暮れた目を向けてしまっていたのか、隼人の目を見上げて綱吉は、またかすかに微笑む。
 今度の微笑みは、先程までとは違い、ひどく寂しげだった。
「リボーンの今の仕事はね、隼人。この町の監査だよ」
 隼人、と日本語で呼ばれた響きに一瞬気を取られて、言葉の意味を理解するのが遅れる。
 カテーナの町の監査。
 それは、つまり。
「──俺の監視役って事ですか」
 そう言った自分の目つきに険悪さが戻るのを感じる。その変化を見つめたまま、綱吉はかすかな微笑を消さなかった。
 まるで、そんな反応など予想していたとでも言うように、静かに続ける。
「そう。この一ヶ月間は、リボーンはプレドーネを拠点にして、ずっと君とこの町の動きをチェックしてた。とりあえず立て直しは軌道に乗ったから、もう張り付いてる必要はなくなってホテルも引き払ったけど、これからも期限までは時々様子を見に来るはずだよ」
「この一ヶ月、俺はずっとあの人にライフルの銃口を向けられていたって事ですか」
「その通りだよ」
 隼人が口にした苦い確認にさえも、綱吉ははっきりとうなずいた。
「君が失敗したら、リボーンははっきりボンゴレの仕業だと分かる形で君を殺すことになってる。もちろん最後の判断をするのは、あいつじゃなくて俺だけど。いずれにせよ、ドン・カルロに続いて君まで殺されたら、ジェンツィアーナはもう暴発するしかない。……自動的に粛清の舞台が整うことになる」
 最悪だ、と思った。
 えげつないにも程がある。そして合理的なのにも。
 彼の言う通り、隼人まで殺されたら、もう住人たちは止まれない。憎しみに駆られて、そのまま地獄の底まで駆け下るだろう。そしてカテーナは灰燼と化し、町一つが消えたことは新聞の片隅にさえ載らない。
 だが、これは大ボンゴレに刃向かってしまった以上、どうにもならないことなのかもしれなかった。他のファミリーとの抗争だったなら、最初の時点でもっと住人たちにまで犠牲が及んでいただろう。
 そうはせず、隼人を探し出して町の立て直しを命じたのは、ボンゴレの温情だ。
 頭ではそうと分かっていても、苦い怒りが込み上げてくるのを抑えられない。
 だからといってこの場で暴発するわけにもいかず、ギリ、と奥歯を噛み締めた時。
「ごめんね。……ボンゴレも俺も、こういうやり方しか採れない」
 静かに綱吉が告げた。
 地面を睨みつけていた目を上げると、自分と歳の変わらぬ青年の静かな微笑が映った。
 悲しい、ほろ苦い、寂しい、諦めのにじんだ笑み。
 だが、隼人と目が合うと、ふっと微笑が優しく深くなる。
 それはまるで、ドン・ボンゴレでも何でもなく、ただの気の優しい青年のような淡い笑みだった。
 しかし、その笑みさえもキャンドルの小さな灯火が消えるように自嘲めいた色を刷いて薄れ、そして彼は、気を取り直すように周囲へと目を向けた。
「ちょっと冷えてきたね。この辺りは雪が降るんだよね?」
「──はい。少し積もって溶ける。それを繰り返しているうちに春になります」
「そう。じゃあ、次に君に会うのは雪がアーモンドの花に変わる頃かな。この辺はパレルモより春が遅そうだし」
 そう言い、綱吉は首に掛けていたマフラーをするりと外す。そして、ごく自然な動作で隼人の首に緩く巻くように掛けた。
「風邪を引かないように気をつけて、頑張って。リボーンに引金を引くよう命令を出す俺が言うことじゃないけれど、俺は君をボンゴレの勝手な都合で死なせたくない。そう思ってるのは本当だから」
 それじゃあ、と踵(きびす)を返す。
「あっちに車を待たせてるから。五ヶ月後にまた会おう」
 そしてゆっくりと、コートの裾を秋の夕風に小さくはためかせながら歩き去ってゆく。
 その後姿を獄寺は呆然と見送った。
 綺麗に背筋の伸びた後姿が木立の向こうに消えてから、やっと首筋から胸元に垂れかかるマフラーに手を触れる。
 艶やかで品のいい光沢から一目で極上のカシミアと知れたそれは綺麗なシャンパンゴールドで、彼の瞳にも髪にもとても良く似合っていた。そして、元の持ち主の体温を映してふわりと温かい。
「……マフラーくらい、持ってるっての……」
 思わず憎まれ口のようなそんな台詞が、口から零れ落ちる。
 そしてもう一度、彼が立ち去った方角を見つめ、やがて秋風の冷たさを思い出して、隼人は母親の墓に「また来る」と小さく呟き、町に向かって歩き出した。

*            *

「お前も、お節介なのかお人よしなのか、単なる馬鹿なのか……」
「うるさいよ、リボーン」
「ったく、似合いの馬鹿コンビだとは思ってたが。あの手の馬鹿が気になるのはお前の趣味の悪さの証明だが、あんまり入れ込むんじゃねえぞ、ツナ」
「別に入れ込んでないよ」
「どうだか。普段のお前は、もう少しあっさり対処してるぞ。俺が定期報告してるヤマで、わざわざ途中で様子を見に行くような真似、これまでしたことあったか?」
「プレドーネまで来たのに、あとほんの十キロ、余分に車を走らせることの何が悪いんだよ」
「ひとまずどうにかなってるヤマだぞ。お前が顔を出す必要何ざどこにもねえ。あんな馬鹿一匹のためじゃ、ガソリン代が勿体ねーだろうが」
「勿体無くないだろ、全然。彼と話せて俺は良かったよ」
「いらん種明かしをしてか。黙って泳がせときゃいいんだ、ああいうタイプは」
「状況を分かってた方が、彼は力を発揮するタイプだよ。こちらの策を知った以上、彼はもう一歩も踏み間違えられない。これから五ヶ月、きっと必死にやるよ」
「俺は、あいつは必死になったら返って空回ってこけるタイプだと思うがな。……もう一度釘差しとくが、ツナ、お前はあいつの親の仇だぞ。色んな意味で諸悪の根源だ」
「……分かってるよ、それくらい。どんなに憎んでたって、親は親だろうし」
「本当に分かってんだろうな」
「分かってるってば。お前もいい加減にやめろよ、そういうの。もう俺の家庭教師じゃないんだし」
「てめーがダメツナだから、俺も昔に戻って教師面したくなっちまうんだろうが。こんな条項、今の契約書のどこ見たって入ってねーぞ。──よし、追加料金よこせ」
「……はあ?」
「俺は只働きはしない主義なんだ。そうだな、教育時間十分につき五千ユーロってとこだな。今の会話は……およそ十五分か。帰ったらすぐに七千五百ユーロを振り込め。小切手でもいいぞ」
「──ちょっと待てよ! どうしてそういう話になるんだよ!?」
「どうしても何も、正しい報酬のあるべき姿だろうが」
「どこがだよ! お前ががめついだけじゃないか!」
「ほー。この俺に向かって、そんな口を利くか。なるほどなるほど。偉くなったもんだなあ、ツナ」
「〜〜〜脅したって、払わねーよ! それこそ無駄金だろ!」
「まあ、じっくり話そうじゃねーか。幸い、パレルモまではあと四時間以上かかるしな」
「ヤだったらヤだ! そんなの絶対に払わないからな!!」

to be continued...

NEXT >>
<< PREV
格納庫に戻る >>