Dei gattini 〔仔猫〕

 足早に回廊を通り抜け、主翼と呼ばれている本部でも最大かつ中心にある建物に入ろうとした所で、獄寺はその小さな騒ぎに気付いた。
「どうした」
 ボンゴレ十世の右腕として多忙を極めているにもかかわらず、足を止めてそう声をかけたのは、妙に耳慣れた鳴き声が聞こえたからだ。
 といっても、自分が一番良く知っているものよりも更に幼く、か細い鳴き声。
 それも複数が、上方から降って来る。
 そして、その足元と言うべきか、庭木の下には、まだ若い男が一人。三ヶ月ほど前に昇格して、本部への出入りが許された奴だ、と獄寺は思い出す。
 もっとも若いとはいっても、獄寺より一つ二つ下という程度だろう。少なくとも二十歳は過ぎているはずだった。
「あ、獄寺さん!」
「何をしてる?」
「いえ、あの、猫が……」
「それは見りゃ分かる」
 新入りの頭上、枝を張り出した木の中ほど、ちょうど人間の手が届かない高さでうずくまり、か細く鳴いているのは二匹の子猫だった。
 短毛で白茶の毛色、目の色まではこの距離では分からないが、おそらくは子猫特有の青っぽい目をしているはずである。
 おそらく野良猫の兄弟(あるいは姉妹か)だろう。二匹とも大きさも毛色もそっくりで、見分けがつかない。
「捕まえようと思いまして……」
 その子猫たちをちらちらと横目で見ながら、言い訳をするように新入りは大きく手振りをしながら説明しようとした。
「どこからか入り込んだみたいで、申し訳ありません」
「人間ならともかく、こんな小せえ猫なら、いくら警備を厳しくしたところで、どっからでも入ってくるだろ。……で、そいつらを捕まえてどうする気だ?」
「え……? そりゃ外に放り出しますが……」
 その返答を聞いて、獄寺はいぶかしむようにはっきりと眉をひそめた。
「何でだ」
「え、だって、そりゃ……」
「たかが猫二匹だ。放り出さなきゃならねえ程の理由はねえだろ。放っとけ」
「放っとけって、でも獄寺さん」
「それとも、猫二匹の食い扶持すら困るくらい、ボンゴレは資金繰りが苦しいってのか?」
「い、いえ、とんでもありませんが、でも……」
「ごちゃごちゃうるせえ。そもそもお前の仕事は、子猫を追っかけ回すことなのか? 俺の記憶じゃ、お前は広報部二課に詰めてなきゃなんねーはずだがな」
 冷ややかと言うほどではないにせよ、感情の起伏を抑えた温度の低い声に、ひっと新入りの顔色が変わる。
「す、すみません! すぐに業務に戻ります……っ!!」
 身体を二つ折りにするほど深々と頭を下げて、獄寺が今来た回廊を一目散に走り去ってゆく。
 その様子から察するところ、どうやら仕事の途中でここを通りかかり、子猫を発見して、それを捕まえ放り出さなければならないという使命感に駆られたらしい。
 阿呆な奴だ、と昇格の許可を出したことを少しばかり考え直しながら、獄寺は庭木の上の子猫二匹を見上げる。
 ミィ、ニィと鳴いている子猫たちは生後二ヵ月半といったところだろうか。少なくとも乳離れはすんでいる大きさだった。
 腹を空かせてそうだな、と考えながら獄寺は踵(きびす)を返して、主翼の建物へと入る。
 そして、一番最初に行き会った人間――秘書室の下から三番目の男――に言いつけた。
「おい、そこの木の上に子猫が二匹いる。乳離れはすんでるだろうから、厨房に言って食えそうなものを見繕ってやれ」
「は……?」
「いいな」
 一体この人は何を言い出すのか、という部下の表情は、辣腕を振るって組織を切り回している獄寺には別段珍しくも何ともない。
 ボンゴレ十世を筆頭に個性派揃いの守護者たちが出すファミリー運営の指針は、ファミリーの伝統に照らし合わせると、時として革新的であり過ぎたり、突拍子もなかったりするのだ。
 そして、新しい企画や方針を聞かされて唖然呆然とする部下たちの尻を蹴飛ばし、有無を言わさず従わせるのは獄寺の仕事である。だから、今回も部下の表情など一切気にせずに、その場を後にしてボスの執務室へと向かった。

*               *

 綱吉がそれに気付いたのは、中庭を横切る形になる回廊の半ばでだった。
 何気なく向けた視界の中、庭園の緑の中で白っぽいものがぴょこりと動く。え、と見直して、それが猫だと気付いた。
 まだ子猫で、それも二匹もいる。
 何でこんなところに、と思った時、綱吉の視線を追ったらしい獄寺が口を開いた。
「あいつら、この庭が気に入ったみたいですね」
「え?」
 その言葉に驚いて獄寺を見上げると、同じように綱吉を見た獄寺は、あ、というように何かに気づいた顔をした。
「すみません、申し上げるのを忘れてました。あの猫二匹は昨日、こちらに入ってきたようなんです。あっちの木の上で鳴いてまして」
「――それを助けてあげたわけ?」
「いいえ。餌になるようなものを出してやるようには言いましたが」
「――ふぅん」
 考えるようにしながら見上げる綱吉に、獄寺は少しばかりうろたえる。
「あの、御不快でしたか? すみません、俺が独断で……。すぐに追い出します」
「ううん。追い出さないで。俺は猫、好きだよ」
「はあ……」
 それなら何が、と考えているのが綱吉には透けて見える。
 昔に比べると随分ポーカーフェイスが上手くなって、綱吉以外には年中無休の不機嫌顔で通している獄寺だが、綱吉の前ではやっぱり昔通りに表情豊かだった。
 見えざる耳が綱吉の方に集中し、見えざる尻尾が困惑するようにぱたりぱたりと振られているのが見えるような気さえする。
「追い出そうとは思わなかったんだ?」
「昨日ですか?」
「そう」
 うんとうなずくと、獄寺は本格的に困ったような途方に暮れたような顔になった。
「あの、たかが子猫二匹を追い出さなきゃいけないような緊急の理由が、何かありましたか?」
 そういう獄寺は、分かりきった自明の理を問われて困惑する人間そのもので、つい綱吉は噴出してしまう。
「十代目?」
「ううん、ないよ。猫の十匹、二十匹くらい全然構わない。ここ、無駄に広いしね」
「それなら良かったです。……でも十代目、俺、何かおかしいこと言いましたか?」
「全然。あの子達がここにいる理由は分かったからさ、行こうよ」
「はい……」
 明らかに分かっていない顔で、しかし獄寺はうなずき、綱吉に従って再び歩き始める。
 そんな彼の半歩前を行きながら、綱吉は、人間って変わるもんだな、と心の中で呟いた。
 出会った頃の獄寺なら、外から入ってきた、というだけで猫を放り出す理由にしていただろう。最初からボンゴレの中に――あるいは、彼自身が決めたルールの中にいないものに対しては強烈な反発を見せるのが、かつての彼の常だった。
 猫だろうが何だろうが、『侵入者』には変わりなかったのだ。
 だが、今の彼はそうではないらしい。
 人間に対しては男女を問わず、相変わらず冷淡で厳しいが、動物や一定の年齢以下の子供に対しては、関心が無さそうな割りにキツイ態度もとらないのである。
 そして幾種類かの動物、特にその筆頭の猫に対しては、彼自身はまったく意識していないだろうが、かなりの甘さを見せることが間々あった。
 人間は変わる。
 弱虫で嫌な事からは目を背け、無かったことにばかりしていた自分が、こんな広大な職場兼屋敷に暮らし、沢山の人に関わる仕事に手を染めている。
 そして獄寺も、昔と同じように自分の傍にいながらも、昔とは少しばかり違うスタンスで自分に接し、彼自身の判断で動く方法を身に着けている。
 時の流れというものは時としてひどく残酷だが、そればかりではないこともあるな、と綱吉は思った。
「ねえ、隼人」
「何ですか?」
「人間、年を取るっていうのも悪くないね」
「そう、ですかね」
「うん」
「十代目がそう思われるのなら、きっとそうなんでしょう」
「君は?」
「俺ですか?」
「うん」
 問うと、獄寺は真面目に考え込む。
 そうして、ふっと微笑んだ。
「そうですね。俺も悪くない気がします」
「うん」
 霧がかかった湖を思わせる銀翠色の瞳に、やわらかな光が浮かぶ。
 それを見届けて、綱吉もまた微笑みながら前を向いた。
 

end.





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