夜空に星があるように

14.

 京子とずっと話し込んでいる綱吉の姿を、獄寺はさりげなく見つめた。
 そこいらのアイドルなど比較にならない可愛らしい容姿の少女と、年毎に穏やかながらも凛とした美しさを持つようになった綱吉は、素直な目で見てとても似合いだった。
 否、京子ばかりでなく、夕食の席で彼の隣りにいたハルも端から見れば、十分に美少女で通る。目鼻立ちだけでなく、内側の純粋さが彼女を輝かせており、彼女また、綱吉の隣りにいて遜色はなかった。
 ようは、その性根の美しさが外見に現れた少女なら、誰でも綱吉の隣りに立って似合いに見えるということなのだろう。黒川だって例外ではない。彼女にそんな気は毛頭ないだろうが、あの内実が伴ったクールな美貌は十分に綱吉と張り合える。
 そんなことを心ひそかに考えて、獄寺は苦い溜息を押し殺した。
 綱吉が少女たちの注目を集めるようになったのは、高校に入学した頃からだ。伸び始めた身長に合わせるように、その顔立ちからは子供めいた丸みが消えてゆき、代わりに、何か硬質なものが磨かれていった。
 その様子を、大輪の黄金の華が開くようだと思ったことがある。
 ひっそりと静かに隠れていた蕾が、ゆっくりゆっくりと音もなく花開いてゆく。そうして姿を現した花びらから零れ落ちる、豊穣な黄金の光。
 それは獄寺のように裏世界の人間でなくとも、生あるものならば誰でも目を惹かれ、焦がれる輝きだった。
 年毎にその増す輝きは、更に強く、輝かしくなる。あと十年すら必要ない、五年も経てば並ぶ者もない美しい存在になるのが、今から目に見えるようだった。
 初代の肖像画もそうだった、と獄寺は思い返す。
 今年の夏に初めて見た初代の姿は、綱吉に生き写しだった。綱吉があと数年、年齢を重ねればこうなるだろう。外見ばかりでなく内面さえも。肖像画の瞳を見た瞬間に、そう思った。
 黄金の瞳に映る何者にも冒しがたい、静かな強さを湛えた美しさ。
 イタリアの裏世界に冠たるボンゴレのボスであれば、そうでなければならない。顔立ちの問題ではなく、美しさを感じさせる強さでなければ、誰をも心酔させられない。醜悪な強さなど軽蔑と憎悪の対称にしかならないのだ。
 だから、綱吉の美しさは、ドン・ボンゴレとして望ましいものだった。
 しかし、美しいものはどうしても人の心を惹きつけ、惑わせる。そのことが獄寺は辛かった。
 無論、綱吉には何の罪もない。惹かれてしまう自分が悪いのだ。
 心の痛みと引き換えではあっても、綱吉の姿を目にすること、言葉を交わすことはそれだけで獄寺を幸せにする。だが、その一方で、自分以外の人間が綱吉の傍らにいる様を目にすることは、魂を引き裂かれるような苦痛だった。
 ましてや、綱吉の隣りにいるのが京子やハルのような、公平に見て似合いだと思える少女だと、その痛みは更に増す。
 いつか、綱吉がそうして生涯連れ添う相手を選ぶかもしれない。否、選ばねばならない。右腕としての忠実な思考がそう思う一方で、一人の男としての獄寺は打ちひしがれた呻き声を上げる。
 理性では分かっていても、感情がついてゆかない。
 綱吉と出会い、惹かれた一番最初からその傾向はあったが、半年近く前、夏の終わりに想い想われていることを知ってからは、更に感情に歯止めが利きにくくなっており、そして、それは秋を過ぎ、冬を迎え、春を間近にしてますますひどくなってきていた。
 綱吉が十代目でなければ、自分が右腕でなければ。
 昼間はそんなことは考えない。目の前にいる綱吉の意を汲むのに集中しているから、そんなことは考えずにいられる。
 だが、夜に一人になると駄目だった。自分たちが自分たちでなければ出会うことすらなかったと分かっているのに……そんなことは考えることすら罪であると分かっているのに、考えずにはいられない。
 どこかに自分たちが幸せになれる道はないのかと、有り得ない可能性を何度もシミュレーションしては絶望することを繰り返しながら長い夜をやり過ごす。いよいよ刻限が迫ってきた年明けからは、そんな堂々巡りの繰り返しがずっと続いていた。
 どんなに恋焦がれていても、好きだと絶対に口にできない。愛しい名前を呼ぶことができたのも、ただの一度きり。
 この想いを失ったら、自分は間違いなく死ぬ。そう信じられるほど愛しているのに、愛する人のためには、ただひたすらに愛する人と添い遂げられない煉獄の苦しみに喘ぐしかない。
 それでも、愛する人の傍に居られること、愛する人の役に立てることを至上の喜びとして、いつかこの命が尽きるか、お前はもう要らないと言われる日まで生きていかなければならない。
 どうにもならないほど恋しくて、苦しくて、愛おしくて、悲しくて。
 ───けれど。
「獄寺君、次は俺と勝負しよ」
 今夜も相当に飲んでいるはずなのに、まったく危なげのない足取りで暖炉の前の席に寄ってきた綱吉が、たった今まで山本とオセロの勝負をしていた黒川がどいたソファーに腰を下ろす。そして、獄寺に手招きした。
 当然のことながら逆らえずに、獄寺は山本が譲ったソファーに腰を下ろす。
「ハンデなしの、手加減なしね。俺も本気でやるから」
「──はい。でも先手はどうぞ」
「ありがと」
 一瞬顔を上げて獄寺に笑いかけ、綱吉はまたすぐに盤面に目を落として黒を置き、白を裏返す。
 その一瞬の笑顔を心に刻み込みながら、獄寺もまた、白を置いた。そして、真剣に盤を見つめる綱吉と、その手元を見つめる。
 今日一日、綱吉は必要以上には獄寺に近寄らなかったし、目も合わせなければ言葉も余り交わさなかった。頻度で言うのなら、山本や了平と良い勝負だ。
 それはつまり、普通の距離ということである。
 ボスと右腕という特殊関係にあるとはいえ、これまでの二人の距離は親密すぎた。黒川の指摘でそう気付いた綱吉は、その距離を修正したのだろう。
 もしかしたら黒川は、その警告をも含めて昨夜、綱吉に敢えて言葉を向けたのかもしれない。そう思えるほどに、綱吉の今日の態度は正解だった。
 ただ、正しいと心の底から思いながらも、寂しい、辛いと思う気持ちを抑えきれない。
 もし他者の眼のない場所で二人きりになれたら、これまでのように親密な距離で目を合わせて言葉を交わせるだろうかと、そんな愚かなことさえ考えてすがってしまう。
 そんな自分が獄寺は辛かった。
 ───けれど。
 真剣な顔で盤を見つめている綱吉は、獄寺が一番そうきては欲しくないと思うマスにコマを置いてゆく。
 本気だと言った通り、まるで思考を読まれているような鋭さに、獄寺は背筋にぴりりとしたものが走るのを感じる。
 すると、綱吉はそれさえも読んだかのように、口を開いて言った。
「いつだったっけ、獄寺君、言ったよね。一番賢い戦略は、実際に戦う時には既に勝つ形を作っていること、一番賢い戦術は、相手の最も嫌がることをやり続けることだって」
「──言いましたよ」
 膝に片頬杖をつき、もう片方の手でコマをもてあそびながら笑顔で言う綱吉に、獄寺も少々複雑な笑みを返す。
 自分の言葉の一つ一つを覚えていてくれることは、身震いがするほど嬉しい。けれど、その喜びを顕わにもできないし、また綱吉が相手とはいえ、勝負に負けることをたやすく良しとするわけにもゆかない。
「でも簡単に勝ちは譲りませんから」
 言いながら、逆に綱吉が一番嫌がるだろうマスに白を置く。そうして黒を白に返してゆく獄寺の手元を、綱吉もまた面白げに唇に笑みを刻んで見守った。
 そしてまた、じっと盤面を見つめた後、獄寺にとって最低最悪の場所に黒を置く。綱吉には何百手も先を見通すだけの計算力はないはずなのに、その戦術眼は見事だというしかなかった。
 それに応じて、獄寺もまた一つ、白を置く。
「さすが、やるねえ」
「はい」
 一マスを裏返しただけだが、確実な布石を打った獄寺に、綱吉が感嘆の声を上げ、また熟考に入る。
 だが、しのぎを削りながら一マス一マスを互いに埋めてゆくその作業の水面下で、盤面に視線を落としたまま目を合わせもしない綱吉の想いは、ひたひたと獄寺に伝わってきていた。
 ───今日一日、大して傍にはいなかったけれど、それで平気だったわけじゃない。
 目を合わせなかったことが、寂しくなかったわけじゃない。
 言葉を交わせないことが、辛くなかったわけじゃない。
 ずっと傍にいたかった。くだらないことで笑い合い、ささやかな喜びを分かち合いたかった。
 ───自分の心を隠すような真似など、本当は絶対にしたくなかった。
 普段の綱吉が持っている隙を一切配した容赦のない渾身の一手一手が、そんな想いを語りかけてくる。
 夜も更けてそろそろお開きという頃合に、やっと綱吉が獄寺に初の勝負を持ちかけてきたのは、自分からは綱吉に声をかけられない獄寺の想いを汲んだからだ。
 そして、この対戦そのものが綱吉のメッセージだった。
 それが分かるから獄寺も、全身全霊で向き合う。手加減など考えられなかった。
 苦しいのも辛いのも、自分だけではない。
 想い合う気持ちが同じなら、苦しむのもまた同じ。
 どこにも行き場のない想いをぶつけるように、盤面にコマを置き、白を黒に、黒を白に返すことをただ続ける。
 そうして最後のマスが埋まった時。
 どちらが優勢とも一目では判別がつかないほど、盤上の黒と白は拮抗していた。
「んー。数えないと駄目だねえ、これは」
「ですね」
 マグネット式のコマを、それぞれリズミカルに重ねて数えてゆく。
 その結果は。
「三十三枚。俺の勝ちだね」
 にっこりと笑った綱吉に、周囲の仲間たちがわっと歓声を上げた。
「すげーじゃん、ツナ!」
「すごいねーツナ君。獄寺君に勝っちゃうなんて」
「大金星だな」
「ツナさん、最高です! カッコいいです!」
「手加減、はしてなかったわよね。あんた、イタリアに行く前にどこかで修行し直してきたら?」
 冷ややかに言った黒川を睨みながらも、獄寺は内心、呆然としていた。
 物心ついて以来、シャマル以外の相手にボードゲームで負けたことはない。シャマルと最後にチェスで対戦したのは八歳になる前だから、既に十年、無敗の記録を積み上げてきたことになる。
 だが、その記録を綱吉が破ったのだ。
「……すごいです、沢田さん」
「うん、俺もちょっと驚いてる。本気でやるとは言ったけど、本当に勝てるとは思わなかった。途中もずっときわどかったし。俺が勝てたのは先手を譲ってもらったからだと思うよ。後攻ならきっと負けてた」
 照れたように笑いながらも、綱吉は右手を差し出した。
「いい勝負だったよ。楽しかった。ありがとう」
 その手をしばし見つめた後、獄寺はゆっくりと自分も右手を上げて、その手を握った。
「俺の方こそありがとうございました」
 心の底からそう告げて、するりと手をほどく。
 それだけの触れ合いで、周囲の人間も好勝負をたたえるまなざしを変えなかった。だが、自分より一回り以上細い、少し冷たい手の感触は、獄寺の手のひらに深く深く刻まれた。
「それじゃ、今夜はこれでお開きにしよっか」
「そうだなー。もう十二時近いしな」
 綱吉の言葉を皮切りに、銘々は散らかった談話室内をそれぞれに片付けにかかる。
 ゲーム盤やトランプを片付け、菓子の袋や空き缶をまとめて、移動させた椅子やテーブルを元の位置に戻すのには、五分もかからなかった。
「それじゃあ、また明日」
 ゴミを片付けてそれぞれに部屋に引き取り、
「おやすみなさい、沢田さん」
「うん、おやすみ」
 二階の隣り合った寝室の前の廊下で、獄寺は綱吉と今日最後の挨拶を交わす。
 既に了平は自分の部屋に入り、山本がまだ二階に上がってきていない今、綱吉の瞳はまっすぐに獄寺に向けられていた。
 たとえば獄寺がいつも沢田家を辞去する時のように、少しだけ長く獄寺を見上げて、見ようによってはほんの少しだけ寂しげにも見える微笑を浮かべ、それじゃあと片手を上げて、ドアを開けその向こうに消える。
 その姿を見送ってから、獄寺も自分の部屋に入った。
 そして条件反射のように明かりをつけようとして、部屋の中が薄明るいことに気付く。
 見れば、レースのカーテンを引いただけの窓の向こうが明るい。月明かりかと近づき、カーテンを開くと、満天の星が夜空を白銀に輝かせていた。
 夜空は雲一つなく晴れ渡り、月はなかったが、シリウスもオリオンの三ツ星も、プレアデスも冷たい宝石のようにきらめいている。
 そのまばゆく煌びやかな美しさに獄寺は言葉を失った。
 これほどの星空を見たのは初めてではないにせよ、久しぶりだった。シチリアでも田舎に行かなければ、これだけの星は見えない。
 呆然と見上げて、それから、十代目、と呟く。
 この星空は、間違いなく自分たちを取り巻くこの世界で、一番美しいものの一つだった。
 少しだけ躊躇ってから獄寺は携帯電話を取り出し、開く。星明りの中でしばらく待ち受け画面を見つめた後、ゆっくりとボタンを押した。

15.

 獄寺におやすみと告げて、部屋に入った綱吉を出迎えたのは満点の星明りだった。
 室内がくっきり見えるほどの明るさに、思わず照明をつける手を止めて窓際に歩み寄る。
 山中であるがゆえに、三百六十度の星空というわけにはいかないが、稜線の陰より上は一面に星がさざめいている。
 そういえば冬が一番、星が明るいのだと、中学生の頃、獄寺に教えてもらったことがある、と思った時。
 Gパンのポケットに入れっぱなしだった携帯電話が鳴った。
 その着メロに、え、と思いながら携帯電話を引っ張り出す。明るくライトの灯ったサブ画面に浮かんでいるのは、間違いなく獄寺の名前だった。
 たった今、おやすみと告げたばかりなのに、とすぐ隣りの部屋にいる相手のことを思いながらも急いで開き、通話ボタンを押す。
「はい?」
『十代目、すみません。獄寺です』
「うん。どうしたの?」
 緊急の用でもできたのかと思ったが、その割には電話口で名乗る獄寺の声は落ち着いていた。
 悪いことがあるわけじゃないのかな、と電話の理由に思いをめぐらせつつ、問いかける。 すると、獄寺が少し困ったように笑う気配がした。
『どうというわけじゃないんです。ただ、今夜の星があまり綺麗だったんで……』
「ああ、うん。獄寺君も気がついた? 俺も今、部屋の電気つけないで外見てたんだよ」
『十代目もですか?』
「うん。も、ってことは獄寺君も、電気つけてないの?」
『はい。部屋に入った途端、あまりに明るかったんで驚いて、そのまま……』
「あー、俺も一緒だ」
 嬉しくなって笑いながら、綱吉は窓際のベッドサイドに腰を下ろす。
 そして星を見上げたまま、続けた。
「それで電話してきてくれたの? 星が綺麗だったから?」
『──はい。すみません』
 電話の向こうで困ったように微笑む獄寺の声が聞こえる。
 彼が何かをした時によく見せる、照れたような迷惑でないかと危惧するような、微妙な笑み。
 その表情を綱吉はまじまじと思い描くことができた。
『こんな星空、並盛じゃまず見られないですから。もうお休みになるところだったのに、すみません』
「ううん、全然いいよ。俺も星見てたんだもん」
 そして、綱吉は口に出しても良いかどうか、少し迷いながら続ける。
「中学生の頃、君が冬の星が一番明るいって教えてくれたこと、思い出してた」
 そう告げた途端、獄寺が少しだけ言葉に詰まるのを感じた。
『──そんなことも、言いましたね』
「うん。星座とか星の名前とか、いっぱい教えてもらったし。あの真ん中辺りに見える一番明るい奴がシリウスだろ?」
 極力気楽な調子で言うと、それで獄寺も自分を立て直したようだった。
『ええ。その横にオリオンと、おうし座のプレアデス。他の星もかなり明るく見えてますから、少し見分けにくいかもしれませんが』
「そうだね。こんな沢山の星、見たの初めてだよ。でもやっぱり名前のついてる明るい星は目立つね」
『はい』
 何気ない調子で続けながら、綱吉は受話器の向こうの獄寺の声に聞き入る。
 今日一日、少ないながらも会話しなかったわけではない。携帯電話で話をすることも珍しいことではない。
 だが、とても久しぶりに獄寺と話すような気がしていた。
「ねえ獄寺君。前から聞いてみたかったんだけど、イタリアでも星空は同じ? 俺、今年の夏に行った時、星はあんまり見た記憶がないんだ。夜は結構早く寝ちゃってたし」
『ほとんど同じですよ。緯度が違う分、少し角度が違いますけど。ただ都会では星は見えにくいのは日本と同じです。ボンゴレの総本部は……並盛といい勝負でしょう』
「そっか。じゃあ、少なくとも見える星は一緒なんだね。空の色は違っても」
『はい、同じです』
 きっぱりと肯定してくれる。
 それだけのことが不思議なくらいに嬉しかった。
 嬉しくて、切なくて、幸せで。
「獄寺君」
 こんなことはいけないと思いながらも、綱吉は大切な人の名前を呼ぶ。
「もう結構遅いけど、大丈夫? 明日も車の運転があるだろ?」
『いえ、俺は元々睡眠時間は短い方なんで……五時間も寝れば十分なんです。十代目の方は……』
「俺? 俺は今日はまだ平気。星が明るいせいかな、何となく目が冴えちゃって」
 だから、と続けた。
「もう少し、話してもいい?」
 何気なく告げたその言葉を、獄寺はどう受け止めたのか。
『はい、いいですよ』
「ありがと」
 礼を言い、何を話そうかと考える。
 これといって話題があるわけではない。ただ、電話を切りたくなかった。もう少しだけ話をしていたかった。その思いしかない。
 もしかしたら、まだアルコールの酔いが残っているのかもしれない。そう思いながら、綱吉は思い浮かんだことを口にした。
「そういえば、君にも言っておいた方がいいかもなんだけど……」
『はい』
「夕飯の時、ハルが俺に絡んでただろ? あの時、ハルの留学先のこと話してたんだ。住む所を聞いたら、大学の寮を申請してるって。で、抽選漏れしたらアパート探すって言ったから、それじゃあ、その時は手伝うって俺が言ったらさ、ああなっちゃったんだ」
『……なるほど。アホ女らしいですね』
 呆れたような声の裏に、何を思っているのか。表情の見えない今は分からない。
 別に獄寺に嫉妬させたくて打ち明けたわけではなく、ただ情報を共有しておきたかっただけではあるが、自分の言葉が獄寺を傷付けていないことを心の底で祈った。
「ハルの反応はともかく、アパート探しを手伝うくらいは悪くないよね? ハルもボンゴレじゃないけど、仲間なわけだし」
『はい。というより、俺としてはアホ女には、最初からうちが斡旋したアパートに入ってもらいたいくらいです。寮じゃガードするのも難しいんで』
「俺もそれはチラッと思ったんだけど。でも自分で頑張りたいハルの気持に水差すのもなーって。甘かったかな?」
『いえ。……まあ確かに、本当なら強制したいところですけどね。俺は十代目のお気持ちを尊重します』
「ありがと。でも、駄目な時は駄目って言っていいよ。俺が常に正しいとは限らないし」
『言ってますよ。たとえばこの旅行だって、黒川の参加については一応、反対させていただきましたし』
「あ、そういえばそうだったね」
 黒川、という名に少しだけどきりとしながらも、続ける。
 昨夜の彼女との会話のことは口にするべきだろうか。
 今夜のハルのことは話したし、続けて京子のことも話すつもりだった。だとしたら、黒川の話だけ避けるのは返って不自然になる。
 他の誰に対しても隠し事をするのは好きではなかったが、獄寺に対してはとりわけ、不自然な何かを生じさせたくない。
 内容については話せないが、彼女のことについても触れておこう。そう決意するまでには数秒で足りた。
「そういえば昨夜、俺が黒川と話してたことなんだけど」
『はい』
「内容はかなり個人的なことだったから、ちょっと話せないんだけど、悪い話じゃなかったから。その辺りは気にしないでもらえるかな」
 そう一息に言うと、電話の向こうで獄寺は少しだけ考える気配を見せた。
『──少し深刻そうにお話されていたんで、気にはなってました。でも、十代目がそうおっしゃるのなら忘れます。それに、俺もあいつとは別口で少し話をしたんで、あいつが何を十代目に言ったのか、多少は分かる気がしますから』
 獄寺の言葉は控えめだった。
 だが、それだけで綱吉が悟るには足りた。
 雰囲気から察する限り、獄寺が黒川を問い詰めたのではない。おそらく黒川が昨夜から今日までのどこかで獄寺に話をしたのだろう。綱吉に話をしたように、綱吉に話したのと同じことを。
 そう考えれば、今日一日の獄寺の態度も辻褄が合う。すべてを知って、何も言わずに綱吉の判断に合わせてくれたのだ。
 そうと理解した途端、綱吉の胸に熱いものが込み上げる。
 すべてを投げ打ち、何もかも綱吉のためだけに動いてくれる。それが獄寺隼人──綱吉が愛し、右腕に選んだ男だった。
 きっとこの先、何があろうと獄寺は変わらないのだろう。
 綱吉のためだけに生きて、いつかの綱吉の言葉通り、地の果てまで、地獄の底まで共に在ってくれる。
 そんな存在に、自分は何を返せるのか。
 ただ右腕と遇するだけでは足りない。心の中で愛し続けるだけでも足りない。
 獄寺は自分にすべてを捧げてくれるのに、自分には彼に捧げられるものがない。あるいは、捧げること自体が許されない。
 どこまでいっても、自分たちは対等にはなれない。
 そのことが今更ながら、たまらなく辛く感じられた。
『俺の方こそすみません。あいつとの話はプライベートな内容だったんで、御報告するのを忘れてました』
「ううん、いいよ。俺だって話しそびれてたし。あと、京子ちゃんの話」
 かろうじて平静を取り繕いながら、綱吉は続ける。
「今夜、京子ちゃんには、お兄さんをよろしく頼むって言われた。あと……並盛のことを忘れないで、って」
『それは……』
「うん。京子ちゃんは全部分かってるから。分かってて、祈っててくれるんだと思う」
 綱吉たちの無事を、幸せを。
 彼女はそういう少女だ。
 そして、誰に対しても点数の辛い獄寺も、彼女のことは分かっているはずだった。
『そうでしたか……』
「いい子だよね、本当に。……でも、だからこそ、これ以上巻き込めない。卑怯で残酷かもしれないけど、彼女にはこれ以上、ボンゴレのことは絶対に教えない。了平さんも勿論そのつもりだろうけど、獄寺君も心に留めておいて」
『分かりました。必ずおっしゃる通りにします』
「うん、お願い」
 力強く約束してくれる獄寺の声に目を閉じる。
「ごめんね、話をしようって言ったのに何か、報告ばっかりになっちゃって」
『いえ、全部必要なことですよ。言っていただけて嬉しいです』
「──うん」
 そんなはずはないだろう、と言いたかった。
 報告は必要だ。ボスが右腕に隠し事をして、補佐も何もない。
 だが、獄寺が星が綺麗だと電話をしてきたのは、決して右腕としての忠誠心からではないだろう。
 十代目にではなく沢田綱吉に、綺麗なものがあると知らせたい、その一心だったはずだ。
 けれど、それを暴露してどうなるだろう。
 十代目にならなくてもいいという獄寺の言葉さえ振り切って、想いを伝えることを許されない修羅の道を選んだのは、綱吉自身だというのに。
「獄寺君の方は……何か、ある?」
『? 何かって……』
「話したいこと。どんなくだらないことでもいいよ。今夜はまだ時間あるし、どんな話でも聞くから……」
 懸命に感情を抑えながら、そう告げる。
 と、電話口の向こうで獄寺は押し黙った。
 言葉を探しているような沈黙に、綱吉も黙って付き合う。
 こんな電話はもう切ってしまうべきなのだろう。言うべきことは言った。あとは他愛ない日常の話か、もしくは決して口にしてはならない話しか残っていない。
 けれど、切りたくなかった。
 降るような星空の下、か細く自分たちを繋いでいる電話を終わりにしたくなかった。
『……すみません、十代目』
 やがて、感情を押し殺したような声で獄寺が言った。
『お話できるようなことが何もありません。星座のいわれだとか、お聞きになりたいんでしたらいくらでも話します。でも……』
「そんな話でいいよ? シチリアの話でもいいし、獄寺君が行ったことのある俺の知らない町の話でもいい。君の話なら……」
『十代目』
 強い声が叱咤するように綱吉を呼んだ。それから深呼吸するような間があって、獄寺は静かに押し殺した声で続ける。
『もう遅いです。ですから……』
 そう言いかけて。
 獄寺の声が途切れた。
「獄寺君……?」
 どうしたのかと、そっと名を呼ぶ。
 きっと、次に聞く獄寺の声は、今夜の別れの言葉だろう。
 そう覚悟しながら次の言葉を待つ。
 けれど。
『──すみません、十代目』
 次に聞こえた詫びの言葉は、ひどく苦しい悲しい響きに彩られていた。
「獄寺君?」
『今夜、この電話をかけたのは俺です。十代目は何も悪くありません。もう切らなきゃならねえのも分かってます。でも……俺は、この電話を切りたくありません……っ!』
 喉から絞り出すような、その苦鳴を聞いた時。
 綱吉の目から、ずっとこらえていた涙が一粒、零れ落ちた。

16.

「獄寺君」
 電話の向こうで、声を上げて泣きたいのを必死にこらえている。
 そんな獄寺の気配は、そのまま綱吉の心だった。
「獄寺君、俺も切りたくないよ。明日になったって、また君とは話せる。これからもずっと一緒にいられるんだし、いつだって話はできる。だけど……」
 今夜という時間は、今だけだ。
 明日になれば、自分たちの心はまた固い鎧に覆われてしまう。
 今日のように、必要以上には目を合わせず、言葉も交わさない日々が続く。
 イタリアに渡ればなおのこと、日々の多忙に追われて、それぞれの役割や立場とは関係のない話を二人だけで交わす時間などロクに取れないだろう。
 そうこうしているうちに、自分たちは変わってしまうかもしれない。
 互いへの恋心は変わらなくても、叶わないものは仕方がないと表面を白い灰が覆ってしまうかもしれない。
 親密な時間が持てないことも当然のこととして、これほどまで切実に相手を求めることを忘れ、かすかに恋の温もりの残る、穏やかな会話で満足してしまうかもしれない。
 たとえそうならなくとも──この想いが何十年続いたとしても、そのうちに一体どれくらい、自分たちが本当の意味で言葉を交わすことができるだろう。
 これほど切実な想いで、ぎりぎりの言葉を交わす機会など、もう無いかもしれない。否、無いと考える方が正しかった。
「獄寺君」
 すがりつくような思いで、綱吉は獄寺の名前を呼ぶ。
 この恋が永遠に続くものであろうと、そうでなかろうと関係ない。自分たちにとっては今だけがすべてなのだ。
 満天の星の魔法のように──あるいは悪魔の悪戯のように、深い夜の中で二人の心の鎧がほんの少しだけ崩れた。
 そこから見え隠れする互いの姿が、狂おしいまでに愛しくて切なくて、とてもではないが、自分からは断ち切れない。
 たかが電話で、顔を見て直接話をしているわけでもない。
 けれど、これは惹かれ合う二人にとって奇跡のようにかけがえのない一瞬だった。
「俺も今は、明日なんて来て欲しくない。明日なんて要らない……!」
『──俺もです。十代目……』
 綱吉が行き場のない想いを込めて告げた言葉に、獄寺も同じように低い声で答える。
 それきり、互いの息遣いだけを聞くような沈黙が落ちて。
『十代目』
 やがて、獄寺が小さく銘を呼んだ。
「何……?」
『一つだけ……いいですか』
「うん。何……?」
 携帯電話をぎゅっと耳に押し当てる。一言一句、呼吸一つさえ聞き漏らしたくなかった。
『もう一度だけ……、これで最後でいいんです。もう一度だけでいいですから、名前を呼ばせていただけますか……?』
 名前。
 そう聞いた途端、どうにもならない熱が綱吉の胸に溢れた。
 零れ落ちる涙をぐっと押さえ込みながら、うなずく。
「──うん、いいよ。名前、呼んで?」
 ううん、そうではなくて、呼んで欲しい。
 君に、この名前を。
 切実なまでにそう願いながら、綱吉は獄寺の声を待った。
 そして感情を押さえ込むような、息を整えるような、押し殺した間の後。

『綱吉さん』

 いつかよりもいっそう優しく、いっそう悲痛な声が綱吉を呼んだ。 
 綱吉は口元を押さえ、泣き崩れそうになるのを懸命にこらえる。
 この声に呼んで欲しかった。
 叶うことならば、もっと嬉しそうに、幸せそうに。
 けれど、それは夢だ。
 未来永劫、叶わない二人の夢だ。

「うん……聞こえた。……ありがとう、隼人」

 ありったけの想いを込めて、綱吉も彼の名前を呼ぶ。
 幸せだと告げたかった。
 何一つ許されない自分たちが、たった一つ与え合えるもの。
 万の愛の言葉にも勝る、世界で一番美しい宝石のような、たった一つの言葉。
 それでさえ本当は禁忌だろう。だが、その言葉を交し合えたことは、自分たちにとって至上の幸福だった。
 だから、ひたすらにその余韻を噛み締める。
 それきり、長い長い沈黙が落ちて。
『……十代目』
 やがて、優しいほどに悲しく静かな声で、獄寺は十代目と呼んだ。
『この電話は、本当は無かったことにするべきなんでしょう。でも俺は、そうはできません。忘れて下さいとも言えません。……許して下さい』
 許して欲しい、と獄寺が言ったのは初めてかもしれない、と綱吉はぼんやり思う。
 いつでもすみませんと言うものの、自分の非について許しを請うことは、獄寺はまずなかった。どんなことであれ、「すみません」──彼にしてみれば許されざることだったのだ。
 けれど、そんな獄寺が許しを請うた。
 そして、許せない理由は、綱吉の中にはなかった。
「俺も同じだよ、獄寺君。この電話を無かったことになんてできない。できるわけがないよ」
 互いの胸にある想いを言葉にしたわけではない。
 それに等しかったとしても、ただ名前を呼んだだけだ。たったそれだけのことで責められるいわれなどない。
 しかも、その名を呼ぶことさえ、これが最後なのだから。
「……でもね、獄寺君。この電話も、ただの電話だよ。この電話を切って、明日になっても何も変わらない。今日までと同じ……またいつも通りの毎日が始まる。そうだろ?」
『……はい、そうですね』
「だから、許すも許さないもないし、忘れるも忘れないもない。……そういうことなんだよ」
『はい……』
 声が震えないようにするのが精一杯だった。
 そう、このかけがえのない一本の電話でさえ、自分たちの何をも変えることはできない。何一つ変わらないのだ。
 そして自分たちは、これ以上足を踏み出す勇気を──あるいは全てを滅茶苦茶にしてしまうだけの覚悟を持てない。
 何もかも、ここまでだった。
「それじゃあ……ごめんね、こんなに遅くなって」
『いいえ、俺の方こそ長電話になっちまってすみません』
「ううん」
 永遠に続く電話などない。明けない夜などない。
 結局、それが道理だった。
 この恋が永遠に続くものだったとしても、それが叶う日が来ないのと同じように。
「じゃあ、また明日」
『はい……おやすみなさい、十代目』
「うん、おやすみ。獄寺君」
 変わりばえのない挨拶と共に、やっと電話が切れる。
 通話の終了を告げる小さな液晶画面を見つめたまま、綱吉は携帯電話を握り締めた。
「ど…うして……」
 ───どうしてこの電話を切らなければならなかったのだろう。
 どうして自分は今すぐ立ち上がって、この部屋を飛び出し、隣りの部屋に──自分と同じ、魂を引き裂かれるような痛みに嘆き苦しんでいるだろう獄寺の元に行かないのだろう。
 どうして、自分たちはこんな思いをしなければならないのだろう。
「どうして……?」
 流れ落ちる涙もそのままに、窓の向こうの星空へまなざしを向ける。
 星が綺麗だった。たったそれだけのことを告げるのに、どうして電話でなければならなかったのか。
 どうして互いの部屋に入ることすら、自分たちは憚(はばか)らねばならなかったのか。
「獄寺君……隼人……」
 たまりかねて綱吉は、手のひらで顔を覆う。
 もう嗚咽を抑え切れなかった。
 こんなにも気が狂いそうなほど好きなのに、どうすることもできない。綱吉がボンゴレ十代目である、その理由だけのために。
 たった一つのその理由が、すべてを許さない。
「──どうして……俺は十代目になろうと思ったんだっけ……」
 恋の痛みに疲弊して上手く動かない思考で、ぼんやりと綱吉は思いをめぐらせる。
 そして、その理由に思い当たり、口元に自嘲の笑みを刻んだ。
「そうだ……皆を守りたいって、そう思ったんだ……」
 その思いに嘘偽りはない。
 皆を守りたい。皆に笑顔でいて欲しい。
 けれど。
「俺と、獄寺君は……」
 傍にいられるだけで幸せだと思う。声を聞き、顔を見るだけで喜びは生まれる。
 けれど、それは欺瞞だ。
 自分たちの本当の幸せは、そこにはない。
 それでも、それを本当の幸せとして生きてゆかなければならない。
「でも……名前、呼んでくれた……」
 夏の終わりの時のように、何も知らずに呼んだ名前ではない。
 込めた気持ちは同じだったかもしれないが、意味合いが遥かに深く、濃く、切ない。
 億万の愛の言葉の代わりに、捧げられた一言。その輝きは何物にも勝って綱吉の心を照らす。
「だから……大丈夫」
 あの名前を呼んでくれた声の響きが、この耳に残る限り。
 自分は生きてゆける。
 沢田綱吉でありながら、ボンゴレ十代目でいられる。
 そう呟いて、綱吉は再び顔を伏せ、込み上げる嗚咽を押し殺した。

*              *

 卒業式は快晴だった。
 風はまだ冷たいが、春を思わせるやわらかな空色が頭上いっぱいに広がっている。
講堂を兼ねた体育館で卒業証書を受け取り、教室に戻る途中で、綱吉は中庭の梅が甘く清々しい香りを漂わせているのに気付いた。
 梅の花の香りで春の訪れに気付くのも、これが最後かもしれない。そう思いながら、教室で担任の最後の言葉を受け、三々五々に教室を出てゆくクラスメートたちを見守った。
「本当に、もうこれで最後だね」
「はい」
 日当たりのいい窓際に寄りかかっていると、制服の背中が温かい。
 まるで光合成でもしているようだと思いながら、人気の少なくなった教室を獄寺と共に眺める。
 背後に視線をめぐらせれば、校庭のあちこちにも卒業生や在校生の小さな輪ができている。
 泣いたり笑ったり、握手したり写真を撮ったり。
 ごく当たり前の、愛おしい風景がそこには広がっていた。
「そろそろ俺たちも帰ろうか」
「そうですね」
 卒業式後は、いつものように竹寿司で集まって卒業パーティーを開くことになっている。それは事実上、三日後に迫った綱吉たちの旅立ちを祝う集まりでもあった。
「多少は感慨深い?」
「……そうですね。何のかんの言いながら、俺も六年間、学校に通っちまいましたから」
「君はよく退学にならなかったよねえ。まあ中学は公立だったから、退学にもできなかっただけかもだけど。先生たちも見て見ぬふりだったし」
「……否定はしませんけど、少しひどいです、十代目」
「そう?」
 まだまばらに生徒のいる校内を一階まで下りて、上履きから靴に履き替える。脱いだ上履きは下駄箱には戻さず、靴底を軽く打ち合わせて埃を払い、持参したビニール袋に入れてバッグの中に放り込んだ。
 そうして校舎を出て、日差しの眩しさに目を細める。
「行こうか」
 校舎前面の舗装通路を校門に向かって歩き出して、いくらも経たないうち。
「あ、あの……っ」
 少女の声に呼び止められる。
 ああ来たな、と思いながら、綱吉は足を止め、振り返った。
 同級生ではなく一学年下の女生徒であることは、相手に見覚えがないことと、制服の校章の色で分かった。
「あの、よければ沢田先輩のボタン、いただけないでしょうか……!」
 決死の覚悟であることは、真っ赤になってうつむきがちの顔から分かる。けれど、綱吉が返すべき言葉は、一つだけだった。
「ごめんね。俺はボタンは誰にもあげないことにしてるんだ」
 卒業式前から、幾人かの女生徒からボタンの予約の打診が来るたび、綱吉はそう答えてきた。
 全てを捧げたい相手がいるのにそうはできない状況で、たとえボタン一つとはいえ、他の誰かに渡すことはできない。
 それだけの理由であり、単なる意地と呼ぶこともできるだろう。だが、押し通すと決めた意地だった。
「君の名前は?」
「え、あ……坂本玲奈です」
「そう、坂本さん」
 名前を呼んで一歩踏み出し、少女との距離を詰める。
 そして、右手を差し出した。
「ボタンはあげられないから、代わりに」
 そう言った綱吉の手を見つめ、顔を見つめて、少女はおずおずと手を上げ、そっと綱吉の手を握る。優しく細い手を、そっと綱吉も握り返した。
「先輩、御卒業おめでとうございます……!」
「ありがとう。坂本さんも元気でね」
「は、はい…っ」
 感激と恥じらいと別離の悲しみと。
 そんなものがないまぜになって真っ赤に潤んだ目で、それでも少女は大きくうなずく。
 そんな可愛らしい後輩に笑いかけて、綱吉は踵(きびす)を返した。
 そして黙って待っていた獄寺の隣に並ぶ。
「お待たせ」
「いえ。……素直そうな子でしたね」
「獄寺君は昨日、逆ギレされてたもんね」
「……思い出させないで下さい」
 獄寺も綱吉と同じように、ボタンについては一切断っていた。が、昨日、卒業式のリハーサル後に同級生の少女からの打診を断ったところ、気の強いタイプだったらしい少女は逆ギレして獄寺に食ってかかったのである。
 もちろん、相手が少女であろうとそんなことに動じるような獄寺ではないが、教室前の廊下でのことでもあり、ちょっとした騒動にはなったのだった。
「そろそろ竹寿司に皆集まってきてるかな」
「どうでしょうね。それぞれに部活の集まりなんかもあるでしょうし……」
「うーん。でも俺、おなか空いてきたんだけどなぁ」
「それならオヤジさんに、先になんか摘めるものを頼んでみますか?」
「そうだね、それも考えよう」
 他愛のない会話をいつものように交わしながら、校門を過ぎる。
 桜の季節にはまだ少し早い、早春のやわらかな日差しの中を、綱吉は獄寺と竹寿司に向かってのんびりと歩いた。

End.





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