夜空に星があるように

6.

「車で、朝出て昼くらいに着ける所……っていうと、結構限られるよね」
「そうですねぇ」
「俺はここのスキー場、悪くないと思うけどな。リフトも二本あって楽だし、中級者向けコースも感じいいから、女の子たちも楽しめるだろうし」
「うーん」
 雪山特集を組んだ旅行雑誌を複数冊広げて、男三人が頭をつき合わせている光景は、端から見れば多少滑稽なものだったかもしれない。
 だが、綱吉たちは真剣だった。仲間内での旅行は、実質的にはこれが最後になるのである。スキー場一つ、宿一つをとっても真剣にならざるを得なかった。
「……あ、そういや……」
 雑誌に添付されている地図を広げて睨んでいた獄寺が、ふっと声を上げた。
「何? 獄寺君」
「いえ、今思い出したんですけど、確かこの辺りにボンゴレ系列の企業の保養所が一つ、あったような……」
 言いながら、獄寺は地図の一点を指で指し示す。
「保養所?」
「はい。企業の従業員向けの保養施設です。確認しますから、ちょっと待ってもらえますか」
「うん」
 綱吉がうなずくと、獄寺は自分の携帯電話を取り出し、なにやら操作を始めた。おそらくはインターネットに接続しているのだろう。
 一、二分で目的の情報に到達したらしく、綱吉と山本に画面を向けた。
「この企業です。ボンゴレが直接経営している企業の一つですから、保養所を借りるのは簡単ですよ」
「そうなの?」
 ボンゴレが日本を問わず、世界中に会社を持っていることは、綱吉もこの数ヶ月の間に教えられている。
 中にはペーパーカンパニーもあるが、大半は実体を伴う法人である。それらは企業体としてのボンゴレの手足でもあり、また裏世界に睨みを利かせる巨大ファミリーとして、構成員が各国に入出国するために必要な拠点でもあった。
 そしてそれらは、ボンゴレ中枢の関係者が株主や役員となり直接経営にも携わっている主要企業から、単に系列というだけで株主や経営者がボンゴレの本質を全く知らない末端の企業まで八段階に区分され、その全てがエリアマネージャーを通じてシチリアの総本部に統括されているというのが、現在のボンゴレの実態だった。
「保養所ってことは、ホテルじゃねーんだよな?」
 携帯電話の小さな液晶画面を綱吉の肩越しに覗き込みながら、山本が問いかける。獄寺は肩をすくめて答えた。
「ああ。組合が強い企業だとホテル形式の保養所もあるが、この会社は上場企業じゃねぇからな。宿泊施設のみで、普段は無人だ。前もって利用を伝えておけば、掃除やベッドメイキングはしておいてもらえるが、料理の支度や片付けは自分たちでしなきゃならねえ。ただ、他に人がいない分、気楽に過ごせるのは保障できる」
「へえ。でも、飯なら俺もちっとは役に立てるし、女の子たちもいるし、大丈夫なんじゃね?」
「うーん。せっかく卒業旅行に行くのに、京子ちゃんたちに御飯作ってもらうのは、俺としては悪い気がするんだけど……」
「じゃあ、焼肉とかなら? 下準備なんて、野菜切るだけで済むだろ」
「うーん……」
 山本の矢継ぎ早の提案を受けて、綱吉は首をひねる。
 その隣りで、獄寺は黙っていた。数年前までならともかく、最近では珍しいことではない。
 獄寺はただ、提案をし、選択肢を示す。必要な場合には、危険性を口にする。そして、綱吉が心を定めた時には、まっすぐに従う。
 それは、物事をじっくり考えたい性格の綱吉にとっては、横からあれこれ口を出されるよりも遥かに心強く、ありがたい補佐の形だったが、逆に言えば、決断はすべて綱吉にゆだねられているということでもある。
 今回もたっぷり二分間悩み、綱吉は、自分ではこの問題についての決断を下せないという結論に達した。
「俺、京子ちゃんに聞いてみるよ。考えてみれば、料理の殆どできない俺に決められることじゃないし」
「それは……そうですね」
 獄寺も、料理の腕については綱吉よりはマシといった程度だ。全くできないわけではないが、積極的にやりもしない。食生活の基本は外食である。
 対して、和食一本ではあるが、腐っても寿司屋の息子の山本は、やる気満々だった。
「女の子たちが嫌がったら、俺が作るぜ。夏じゃねーし、クーラーボックスに入れてけば、ナマ物の食材も大丈夫だしな」
クーラーボックスに加えて、マイ出刃包丁の持参間違いなし!な笑顔に、綱吉は微妙な表情になる。
「……山本は、ホテルより保養所がいいわけ?」
 首をかしげて問うと、山本は大きくうなずいて見せた。
「だって面白そうじゃん。そりゃホテルの方が便利だろうけどさ。俺たちだけで全部やるのって、なんか合宿っぽくね?」
 ぜってー楽しいぜ、と言われて、綱吉はまた考え込む。
 山本にそんな風に笑顔で言われると、つい揺れてしまう。優柔不断で流されやすい性格をうとましく感じるのは、こんな時だ。
 でも、まだ以前よりはマシかもしれない。中学生の頃だったら、獄寺が山本につっかかって、綱吉は自分の考えを検討するどころか、二人の仲裁だけで手一杯な有様だった。
 もっとも、それでどうにもならなくなって勢いでやぶれかぶれの決断を下し、結果的に功を奏することもあったのだが、今になってみれば、それは博打のようなもので、決して褒められたことではなかったと分かる。
 それでも常に大事に至らなかったのは、家庭教師のリボーンが最後のところはきっちりと締めていてくれたからだ。
 だが、この春からはリボーンももう、傍にはいない。
 ボスというのは大変なものだと、つくづく思いながら綱吉は獄寺の顔を見た。
「獄寺君は? 保養所かホテルかについて、何か意見」
「俺ですか?」
「うん。保養所を選ぶメリットとデメリットを、それぞれ一分以内で述べよ。──得意でしょ、そういうの」
「はあ、まあ……」
 ボスからの指令に少しばかり困惑した様子ながらも獄寺はうなずき、それじゃあ、と口を開いた。
「メリットは、他に人間が居ないことですね。プライバシーはほぼ完全に守られます。あと、宿泊費用が無料です」
「え、お金要らないの?」
「保養所ってのは、従業員のための厚生施設で、営利目的のものじゃありませんから。ホテル形式で従業員が常駐している食事付きの保養所なら有料ですが、こういうハコだけの施設は無料が普通です。もちろん食料品は自分たちで持ち込まないといけませんけど」
「……そういう施設を、そもそも俺たちが使ってもいいわけ? その会社のものなんだろ?」
「その辺りは融通が利きますよ。保養所を利用できるのは社則で、役員と一年以上継続勤務している従業員、それからその家族なんです。そして、この会社の役員には九代目の腹心の一人が名前を連ねてますから、利用申請書を出してもらうことは簡単です」
「……それってズルじゃないの?」
「これくらいの融通は、マフィアじゃなくったって日常茶飯事ですよ。気にされるほどのことじゃありません」
「俺は気にしたいけどなぁ」
 ぼそぼそと言いながらも、タダという単語には綱吉も心を動かされた。
 アルバイトをしていない高校生の身としては、旅行費用は溜めたこづかいでどうにかするしかなく、不足する分は親にこづかいの前借りをねだるしかない。それは、アルバイト禁止の校則がある高校に通っている京子やハルも、おそらく同じだろう。
 割り勘予定のレンタカー代以外に一泊一万円くらいの出費を覚悟していたのである。そこに降って湧いた、宿泊費が無料というネタは、かなりの誘惑だった。
「デメリットは、全部自分たちでやるしかないということですね。事前の清掃と、備品のチェックはしておいてもらえますが、その後は料理も掃除も自己責任です。二泊くらいなら苦にならないと思いますが、長期滞在となるとちょっと面倒かもしれません」
「……デメリットはそれだけ?」
「はい」
 うなずき、それから獄寺は微笑んだ。
「デメリットの方が多ければ、俺は最初から提案したりなんかしませんよ。そこまで馬鹿じゃありません」
 その微笑みは、自分がボンゴレ十代目の右腕だという自負心と、その役割を果たすことへの喜びに溢れていて、思わず綱吉は胸がどきりと高鳴るのを覚える。
 昔から獄寺の笑顔には弱かったが、こういう大人びた綺麗な笑みは、綱吉の正直な心情としては、もはや反則に近い。
 平常心平常心、と反対隣りに山本が居ることを意識しながら、綱吉は心の中で唱えた。
「じゃあ、あとは女の子たち次第だね。俺、京子ちゃんに電話してみるよ。出てくれるといいけど……」
 こたつテーブルの上に置いていた携帯電話を取り上げ、開いてアドレス帳を呼び出す。
 と、獄寺が尋ねた。
「十代目は、どちらがいいんですか? ホテルと保養所と」
「俺? 俺は皆が楽しく過ごせるんなら、どっちでもいいよ。ホテルでも保養所でも」
 もともと宿泊施設そのものにはこだわりのない性格である。旅行に行くのなら、皆で楽しめること。それが綱吉にとっては一番重要な事項だった。
「あ、もしもし。今、良かった?」
 コール五回ほどで、京子は応答してくれた。
『うん、大丈夫。何かあったの?』
「あったっていうか、卒業旅行の話なんだけど。今、獄寺君や山本と行き先決めててさ。どこに止まろうかっていう話で、知り合いの会社の保養所を借りられるかもしれないって」
『保養所?』
「うん。会社の社員さんのための施設らしいんだけど、コネで使わせてもらえるみたいなんだよ。で、御飯とかは自分たちで作らないといけないんだけど、料金はタダ」
『タダで使わせてもらえるの?』
「らしいよ。でも普通のホテルよりは不便だから……ホテルとどっちがいいか、決めかねちゃって。何しろ、俺、料理殆どできないから、京子ちゃんたちや山本に頼ることになっちゃうだろ」
『そんな、御飯作るくらい何てことないから、全然構わないよ。花も料理上手いし。……保養所かぁ。ちょっと面白そう』
「じゃあさ、悪いんだけどハルと黒川にも意見聞いてもらえるかな? 行き先はちょっと遠いんだけど万座温泉スキー場の辺りを考えてて、保養所もそのすぐ近くだって」
『分かった。じゃあ、二人の答えもらったら、電話するね』
「うん、ありがとう。頼むね」
『うん。じゃあね』
 その言葉を最後に通話は切れ、綱吉も携帯電話を閉じて、獄寺と山本を見た。
「なんとなく、保養所になりそうな気がする。京子ちゃんの声、保養所って聞いてかなり興味津々の感じだった」
「あの子ならそうかもな。よっしゃ、当日の朝は親父に仕入れについてって、生きのいいピカピカの食材仕入れてきてやるぜ!」
「まだ決まってねーだろ。先走んな、馬鹿」
 不機嫌そうに眉をしかめて言い返す獄寺と、全く気にする様子のない山本の笑顔を当分に眺めながら、綱吉はほのかな苦笑交じりに微笑む。
 この六年近く、いつも見ていた風景だった。この他愛ない時間が、あともう少しだけ続けばいいと、そう願わずにはいられなかった。

7.

 旅行当日は、晴れてはいるものの時折雲が日差しを遮る。そんなスキー日和だった。
 ごく自然に女の子たちはスキー、男たちはスノーボードに別れ、それぞれゲレンデに散る。
 平日のど真ん中でも大学生には春休みの時期に当たるため、人出はそれなりだが、ぶつかり合う危険が生じるほどの混み方でもない。
 無用なトラブルが起きる可能性が比較的少なそうなのを綱吉のために喜びながら、獄寺は自分のボードを雪上に下ろした。
「結局、何のかんの言いながら俺たちって、年に一度は雪山に来てるよね」
「そうですねぇ。……去年までの名目は雪山サバイバルでしたけども」
 獄寺が正直に事実を告げると、綱吉は苦笑する
「今年もリボーンはやりたそうだったけどね。諦めてくれたみたい。……リボーンも俺たちのこと、色々と考えてくれてるんじゃないかな」
 色々と、と言う時の綱吉のまなざしは、眼下のゲレンデに向けられていたが、その瞳にどんな光が浮かんでいるのかは分かるような気がした。
 これから先の日々について、最もよく分かっているのはリボーンであり、次いで獄寺である。
 決して楽しいことばかりではない。それどころか艱難辛苦の連続だろう。綱吉のような性格の持ち主であるなら、殊更に。
 そんな日々の中に、こんな無邪気な時間はおそらくもう持てない。
 そして、血と暴力に彩られた過酷な日々の中で磨り減ってゆくだろう心を支え、現実に繋ぎ止める双輪は、幸せな記憶とそこから生まれる未来への希望だ。
 かつての獄寺は、そのどちらをも持たなかった。持っていなかったがゆえに、心が磨り減ってゆくのを止める術が分からず、壊れはしなかったもののどこまでも荒んでゆくしかなかった。
 そんな経験を持つからこそ、獄寺はリボーンが与えてくれたこの猶予の意味も心に突き刺さるほどによく理解できた。
 そしてまた、綱吉も完璧にではないにせよ、リボーンの意図を朧気に察している。
 獄寺も五年半以上、綱吉の近くにいたが、リボーンはそれ以上に常に綱吉の傍らにいた。師弟にしか通じ合えないことは、おそらく他者には計り知れないものがあるだろう。
 そのリボーンと綱吉が築き上げた『何か』も、これからの日々にはきっと綱吉の大きな支えになる。獄寺はそう信じて疑わなかった。
「じゃあ、俺たちも滑りましょうか」
「うん。──うわっ、了平さん危ない!」
 綱吉の声に振り返ると、先にエアを決めていた了平が、勢いが強すぎて空中で姿勢を崩したのが見えた。が、彼は雄叫びを上げながらも身体の重心をひねってどうにか着地し、そのまま低い姿勢で滑走してゆく。
 その滑走自体もパウダーランというよりスキー・アルペン種目の滑降を思わせるような勢いだったが、野性の本能が助けているのか、他のボード客はギリギリのところでかわしながら雪原を下って行き、ゲレンデの一番下までほぼ下り切った所で、米粒のように遠く小さくなった了平はようやく止まった。
「……あいつを連れてきたのは間違いでしたね」
「……危険行為だよねえ、あれは。誰にもぶつからないのはさすがだけど」
 溜息混じりに呟き、だが、顔を見合わせて二人はくすりと笑う。
 了平の滑り方は確かにムチャクチャだが、ああでなければ彼ではない。抜群の運動神経と反射神経をしているのは間違いないのだから、他の客に怪我をさせるようなことはまずないだろう。
 獄寺はもう一度、ボードの締具を確認してから、綱吉に声をかけた。
「それじゃ、先に失礼します」
「うん。気をつけて、無茶はしないでね」
「大丈夫ですよ」
 綱吉らしい慎重な台詞に笑顔を返して、会話の間だけ上げていたゴーグルを下ろす。
 獄寺が先に滑走するのは、綱吉に自分の動きを目でトレースすることでゲレンデの状態を知ってもらうためだった。
 異常気象なのか暖冬の割に今年は大雪で、昨夜も雪が降ったらしく、ゲレンデの状態は悪くない。だが、肉眼で見ただけでは真っ白に乱反射している以上、詳細は滑ってみないと分からないことが多すぎるのである。
 そして、獄寺はスノーボードの腕なら並以上、プロ並とまではゆかなくても競技会に出場すれば確実に上位入選できる腕前であり、何かがあってもそう簡単に危険な形での転倒をしたりはしない。
 とはいえ綱吉も、異常を察知する勘の良さは並外れているのだから、そう心配する必要もないはずだったが、獄寺にしてみれば、これが自分の役割だった。
 濃色のゴーグル越しに眼下を見下ろすと、比較的マナーの良い客が多いのか、コースは綺麗に空いている。
 これならいいと、獄寺は体重を前方に預け、ボードを雪上に滑らせた。
 ボードがアプローチを滑り始めると、すぐに全身は風に乗る。本能と計算の双方を完璧に一致させて、獄寺は宙に踏み切った。
 一番最初の滑走だから無茶はしない。身体もまだ完全には温まりきっていない。何の技も織り込まない単純なストレートエアだったが、一際高く長く跳んで、獄寺は綺麗に雪面に着地した。
 鮮やかにシュプールを描きながらゲレンデの端まで寄って滑走を止め、上の綱吉に向かって片手を上げる。
 何も問題なし。オールクリアのサインに、綱吉は小さくうなずいたようだった。
 立ち位置を調節するように少しだけ身じろいだ後、なめらかに加速しながらボードがキッカーのアプローチを滑り落ちる。覚え立ての頃には転んでばかりいたことが嘘のように、綱吉のエアは綺麗だった。
 了平の胸のすくような力強いエアとも、山本の目にも鮮やかな鋭いエアとも違う。スピードに乗って軽やかに宙を舞う。
 天性のばねと体重移動のなめらかさの賜物だろう。綱吉は獄寺の着地点よりも数メートル先に着地し、適度に滑走して他のボーダーの邪魔にならない端に寄ったところで、くるりとターンしてボードを止めた。
 獄寺がボードを滑らせて近づくと、少し下で見ていたらしい山本もボードを抱えて雪面を登ってくるのが目に入った。
「素晴らしかったですよ、十代目」
「すげーじゃん、ツナ。一年ぶりとは思えねーよ」
「ありがと、二人とも」
 綱吉はゴーグルを上げて、無邪気に笑う。
「でも、やっぱり気持ちいーね。空を飛ぶのって」
「だよなー」
「今日は天気も持ちそうですから、夕方まで目一杯滑れますよ」
「そうだね」
 楽しまなければと思っているのではなく、本当に楽しそうな笑顔に獄寺も気持ちが温かくなる。
 この旅行は残り少ない日々の中での、最後の思い出作りの一つだが、今の綱吉はそんなことは忘れている。否、忘れてはいないだろう。だが、それ以上に楽しんでいる。
 そのことが、ただ素直に嬉しかった。
「リフト、行こうよ。了平さんは、さっきもう昇ってくの見えたよ」
 綱吉の提案に獄寺も山本もうなずくと、締具を外したボードを手に抱えて三人は歩き出す。
 時刻は昼をわずかに過ぎたばかり。まだ十分に雪遊びは楽しめそうだった。





 一時間半余り休み無しに滑り続けた四人が、さすがに休憩しようとレストハウスに入り、飲み物を買い求めて空いているテーブルに腰を下ろした途端、それは現れた。
 ピンク、イエロー、ローズレッド。
 蛍光色に近い極彩色の壁がゴーグルを外した色素の薄い瞳に突き刺さり、思わず獄寺は不機嫌に目をすがめる。
「こんにちはー」
「さっきから見てたんですけどー、皆さん、すっごくお上手ですねー」
「私たちも三人で来てるんですけどー、全員、あんまり上手じゃなくってぇ」
 この面々で出かけると、こういう場面には非常な高確率で遭遇する。べたべたの逆ナンパだった。
 キャンディのような極彩色のウエアで、賢そうとは到底言えない甘ったるく語尾を延ばした話し方で、しなを作って見せる。
 そういうものが大嫌いな獄寺が、不機嫌さを険悪さに変えてまなざしを鋭くした次の瞬間、山本の屈託ない声が響いた。
「悪いなー。俺ら、彼女と来てんだよ。女の子たちはスキーやってっから、今ここにはいねぇけど」
「えー」
「ホントー?」
「ホントホント。皆、彼女命だからさ、特にこいつなんか、自分にも彼女にもちょっかい出されるとすげー機嫌悪くなんだよ。悪いけど、諦めてくんね?」
 さりげなく獄寺を差した山本の指先を追って、本当に不機嫌の極地にいることをまざまざと示す獄寺の目つきに気付いた女たちは、顔を見合わせて目配せし合う。
 そして、不自然さの残る笑顔で、諦めを告げた。
「そっかー、残念ですぅ」
「じゃあ、またー」
 可愛らしく手を振って、テーブルを離れてゆく。
 その後姿を見送りもせず、ふん、と鼻を鳴らして獄寺は手にしていたホットコーヒーを一口、飲み下した。
 自動販売機の紙コップコーヒーだが、毎回ドリップしているのが売りなだけに想像したほど悪い豆は使っていないらしい。さほど薄くもなく、どうにかまずくないと言える程度の味だ。砂糖が入っていれば、それなりに飲める。
 それで気分を少し直して、目線を上げると、満面笑顔の山本が目に入った。
「何だよ」
「いや。獄寺の目つき悪いのって、こういう時は本当に役に立つのな」
「うるせえ」
 再び不機嫌さを取り戻して、獄寺は言い返す。
 ──こういう逆ナンパに遭った時、対処が一番上手いのは山本である。
 妹がいる割には女慣れしておらず焦ってうろたえるばかりの了平や、一応きっぱりと断るものの相手の押しが強いと危なくなる綱吉や、睨みつけて場合によっては相手を泣かせるほどの暴言を吐く獄寺に比べ、明るい物言いでやんわりと相手を諦めさせることが実に上手い。
 その際に周囲にいる友人──特に、不機嫌さを隠しもしない獄寺をダシにするやり方は、もはや名人芸と言っても良かった。
「てめーも下手な言い訳してんじゃねーよ。女子は三人しか来てねーじゃねーか。男は四人だぞ。数合わねぇだろうが」
「へーきへーき。どうせ俺ら、夕方になったら宿に向かって一目散だろ。あの子達も、結構マジでお前にびびってたから、もう近づいてはこねーだろうし、心配ねーよ」
 山本はお気楽に、ひらひらと手を振ってみせる。
 その隣りで、逆ナンパは苦手なくせに彼女たちに出まかせを告げて追い払う手法も快く思わない了平は、苦虫を噛み潰したような顔で無言のまま、ホットコーヒーをすすっている。
 対して、綱吉は二人の言い争いさえ楽しんでいる風で、紙コップを両手で包み込むように持ちながら、獄寺と山本を眺めていた。
「……十代目、面白いですか?」
 思わずそんな問いかけをしたのは、綱吉の目に浮かぶ光から読み取れる、自分たちの口論さえ面白く受け入れられる彼の度量に、呆れに近い感心をしたからだった。
 案の定、綱吉はこっくりとうなずく。
「楽しいよ、全部」
 そして、何かに気付いたように目をくるりと動かした。
「京子ちゃんたちだ。休憩しに来たみたい」
 その言葉に、一同は一斉にレストハウスの入り口へ視線を向ける。が、四人の目に映ったのは、レストハウスの入り口で三人組の青年に囲まれた彼女たちの姿だった。
「な……!」
 妹がナンパされているのを見て、表情を一変させた了平が立ち上がりかける。が、それを山本が腕を掴んで抑えた。
「大丈夫っスよ、先輩。しばらく様子見て、困ってるようだったら助けに行きましょう」
「貴様の目は節穴か!? 現に京子はあんなに困った顔をしておるではないか!」
「……てめーの目の方が節穴だろ」
 獄寺も低く突っ込む。世辞に女のプライドをくすぐられたのか、彼女たちはくすくす笑っているし、青年たちもさほど性質が悪そうには見えない。
 そして、少女たち三人も見た目が美人揃いなだけに、こんなケースにはこれまで何度も遭遇しているだろう。そのスキルを利用して適当に当たり障りなく断れば、普通のナンパ男は引き下がる。引き下がらなければ、それこそ山本の言う通り、自分たちの出番だった。
「大丈夫ですよ、了平さん。ほら、上手く断ったみたいだ」
 綱吉の言う通り、男たちは苦笑顔で肩をすくめて離れてゆく。そして、その前にこちらを見つけていたらしい少女三人は、まっすぐにこのテーブルへと向かってきた。
「ツナさん、見てました? ハル、ナンパされちゃいましたよー」
「あんなんで喜ばないでよ、ハル。もっとレベルの高い男ならともかく……」
「でも、そういう花だってまんざらじゃないみたいだったよ」
「……そりゃまあ、褒められりゃそれなりにね。でも、あいつらは好みじゃないわよ」
 女はたくましい、と思うのはこういう時だ。どんな男からでも、とりあえず褒められれば勲章にできるらしい。
 呆れの気持ちを込めて獄寺は、少しぬるくなったコーヒーをすする。
 そして、視線を感じて顔を向けると、綱吉がこちらを見ていた。
 目が合うと、楽しげに微笑む。
 綱吉にはそんなつもりはなかっただろう。いつもと変わった表情や目つきをしていたわけではない。だが、その微笑みは獄寺の胸の奥、水面下の深い部分を揺らした。
 友人とはいえ、それぞれに綺麗な少女三人が同じテーブルに来たのに、綱吉のまなざしは彼女たちにではなく自分に向いている。ほんの今の数秒の間だけだとしても。
 綱吉が浮かべているのは何でもないような微笑ではあるが、そこに秘められた親密さがあるように思われて、獄寺はどうするべきか微かに戸惑った後、自分も小さく笑み返して、まなざしを外した。
 こんな時に考えることではない。
 だが、あの純銀のペンダントを綱吉は今も身に着けているのか。自分が、純銀のフープリングを凍傷を起こす可能性を厭わず、今も身に着けているように。
 考えるべきではない。決して考えて良いことではなかった。
 だが、一度気になり始めた今、その思いはどうやっても追い払えなかった。

8.

 保養所は、こじんまりとしたロッジ風の建物だった。部屋数は十八で、ツインルーム十室と四人部屋が五部屋。合計で最大四十人が泊まれる造りになっている。
 一階には暖炉を備えた広いリビングと調理場付きの食堂、大浴場、会議室兼レクリエーション室があり、二階が寝室だった。洗面所とトイレは、各階で共同で使うようになっており、個室にはない。
 綺麗に清掃されており、家具もさほど安っぽいものではなかったが、全体的な印象としては保養所というよりも合宿所と言った方が近かった。
 部屋割りは、少女たちは迷わず四人部屋を選んだのに対し、男たちは数秒の沈黙の後、ツインルームに一人ずつ別れた。
 数秒の沈黙の理由は、主に獄寺と了平にある。獄寺は他人の気配があるとかなり眠りが浅くなる性分だったし、了平は、彼自身は雑魚寝が平気でもいびきがかなりうるさい。
 四人中三人が寝不足になる状態が二晩続いたら、今度は帰路の運転が危ない。一行の中で免許を取得しているのは獄寺と了平と山本のみで、車は当初の予定通りに二台だったから、何としても元気なドライバーを確保する必要があったのだ。
 そうして荷物を部屋に置いた後は、食事の用意だった。
 スキーとスノーボードで疲れることは分かっていたから、最初から手の込んだ料理はしないことに決めてある。一日目の夜はカレー、二日目の夜は焼肉。
 本格的に魚をさばきたかった山本としては多少の不満が残るメニューのようだったが、元から不機嫌を引きずる性格ではない。サラダ代わりのカルパッチョ用に用意したマグロを切ることで、楽しみ上手の彼はそれなりに満足したらしかった。
 一方、料理となると、山本以外の男たちはやることがない。
 ぼんやりしているのもあまりに無能っぽいため、せめて別の火の番でもと、三人は薪を軒下から運び込んで、談話室の暖炉に火をおこす。こういうことは断トツに獄寺が器用だった。
 そうして獄寺がおこした火を了平と綱吉が薪を足しつつ見守っている横で、ソファーに腰を下ろした獄寺はここに来る途中のサービスエリアで買い求めた新聞を広げた。
 特に目立ったニュースはない。与党と野党の政権争いは千日手状態の泥仕合、経済もあまりよろしい状態ではなく、企業合併や業務提携、あるいは債務整理といった景気の悪そうなニュースが並んでいる。
 速読並みのスピードで全紙面に目を通し終えたが、感想としては、冷えた皮肉交じりの「平穏無事」だった。少なくともボンゴレや自分たちに直接関わってきそうなものは見当たらない。
 本物の裏の情報はこんな新聞には載らないが、裏で大きな何かが起きれば、あるいは起きる気配があれば、どこかにそれを感じ取ることができる。
 新聞をたたみながら、インターネットが見たいな、と獄寺は思った。
 インターネットはその性質上、裏に繋がる情報は、質量共に新聞を遥か遠く凌駕する。その分、情報の取捨選択能力も求められるのだが、幸い、獄寺はその方面には精通していた。
 英語圏とイタリアの情報は、常に把握しておかないと落ち着かない。ニュースを見るのは元からの日課だったが、そんな風になったのは、綱吉が真実、ボンゴレの十代目となる確信が深まった頃──高校生になってしばらく経った頃だった。
 結局のところ、と獄寺は思う。
 綱吉が決意を表明するよりも早くイタリア語を覚えたいと言い出したのと同じように、自分もまた右腕になるための準備を着々と進めてきていたのだ。
 だから、現状に不満などあるはずがない。全て望んだ通りだった。
 ボンゴレ十代目となる綱吉。守護者となる仲間たち。
 望み得る完璧な布陣であり、この先どんな困難があろうと必ずや乗り越えられるという確信が持てる。
 ───けれど。
「ホント、俺たちってやることないね。向こう、手伝えることないかな?」
「どうでしょうね。キッチン自体、あんまり広くありませんでしたし……」
「今でも四人いるんだしなぁ。女の子たちはともかく、山本はでかいし」
 そこに平均身長を超える男が更に三人も加わったら、きっと身動きが取れなくなって、返って彼女たちに怒られるだろう。
 手持ち無沙汰そうに溜息をつき、それから綱吉は気を取り直したように、暖炉前のラグに腰を下ろしたまま獄寺を見上げた。
「そういえば、御礼を言わなきゃと思ってたんだ。獄寺君、この保養所のこと、ありがとう。選んだのは皆だけど、ホテルより良かったと思うんだ」
 無防備なほどの笑顔で綱吉は告げる。
「ホテルだと、やっぱり完全にはくつろげなかったと思うし、このリビングみたいに皆で集まれる場所も少ないだろ? カラオケルーム借りるとかラウンジバーに行くとかしないとさ。ここだと御飯作ったりとか、この暖炉の火をおこしたりとか、面倒はあるけど、それも楽しいし。だから、提案してくれてありがとう」
「御礼を言っていただくほどのことじゃないですよ。俺は単に、ここにボンゴレ系列の保養所があるのを知っていた、それだけのことです」
「それだけのことが大事なんだよ」
「……ありがとうございます。当たり前のことをしただけですけど、そう言っていただけると嬉しいです」
 誰に対しても素直に褒め言葉を口にできるのは、綱吉の大いなる美点だ。獄寺に向かって告げられた言葉も実に素直なもので、少なくとも何の含みも感じられない。
 だが、獄寺が平静を装って右腕としての返事を返すことができたのは、綱吉の直ぐ隣りに、ひどく真剣な顔で暖炉と向き合い、火かき棒を持って積み上げた薪の角度を調節している了平がいたからだった。
 ───本当に何でもない、一シーンだった。
 こんな場面は、これまでも数え切れないほどに遭遇したことはある。もっと際どいほどに距離が近くなったこともある。
 けれど、この旅行が本当に最後だという思いが感情に化学反応を起こさせたのか、綱吉の無防備な笑顔と、一番上のボタンを外しているシャツの首元からわずかに覗く銀鎖が何かのキーワードになったのか。
 正直、この場に了平という第三者が居なかったら、獄寺は自分を抑えきれたかどうか確信が持てなかった。
 何がというわけではない。
 ただ、暖炉の炎を背景にして、ほんのりと熱を帯びたように見える肌が、ひどくすべやかに見えた。
 自分を見上げる濃琥珀色の瞳が、ひどく優しく、甘い色に見えた。
 向けられたボスから右腕への感謝が、そうではないもっと別の、甘やかな何かを錯覚させた。
 それだけのこと……それだけの愚かな錯覚だ。
 けれど、獄寺の胸は切なさに息が詰まった。一瞬、泣いてしまいたいと思うほどに胸が痛んだ。
 必死に顔には出さないようにしたから、綱吉には気付かれずに済んだかもしれない。
 だが、本心では目の前の人に触れたかった。腕を伸ばして抱き締めたかった。
 好きですと言ってしまいたかった。
 それが叶わなかったのは、単に現状を壊すだけの意気地がなかったから。そして、了平がいたからだ。
 それで良かったのだと思う。ボスと右腕であり続けることは、綱吉が、そして自分が望んだことだ。決して、その関係が壊れることはあってはならない。
「──獄寺君……?」
 安堵と絶望がせめぎ合う獄寺の心の内を何か感じ取ったのか、ふと綱吉がいぶかるようなまなざしになる。
 何でもありませんと言いかけた時。
「おーい、お前ら、皿とか運んでくれね? もうカレーできたからさ」
 キッチンから顔を出した山本の声が響いた。
「んなもん、てめー一人で運んでやがれ。てめーのとりえは、球遊びで鍛えたクソ体力だけだろーが」
 反射的に言い返しながらも救われたような思いで、獄寺は立ち上がる。今はもうこれ以上、綱吉と向き合っているのは無理だった。
「おい笹川、てめーも手伝え」
 火の番に夢中になって座り込んだままの了平に声をかけ、何でもない顔で綱吉を見やる。
「十代目は座っていていただいていいんですけども……」
「それはヤだ」
 獄寺の無言のサインを読んだのか、綱吉も数秒前のことなど忘れたかのように身軽に立ち上がった。
「こういうのは、皆でやった方が早いし、御飯も美味しいんだよ」
 言いながら、さっさと獄寺の前に立ちキッチンに向かう。
 そのすっきりと伸びた後姿を見つめ、獄寺はひそやかに拳を握り締めた。
 ───全て分かっていたことだった。
 分かっていて、全てを封じる覚悟をした。
 だが、それが今になって、こんなにも辛い。こんな終わりのぎりぎりになって──あるいは、全てが始まるよりも前から。
 けれど、全てを葬り去ってしまわねばならない。
 想いを消すことはできなくとも、深く灰に埋めて、表からは見えない埋み火にしてしまわなければ。
 さもなければ、破滅を招いてしまう。自分ばかりではなく、誰よりも大切な人を道連れにして。
 ───愛してます。
 まるでそれが封じの呪文であるかのように、獄寺は心の中で繰り返す。
 愛してます。あなたを誰よりも愛しているから、この想いだけは秘めて守り通さなければならない。愛しています。誰よりも、あなただけを。
 そうして獄寺はもう一度、心をきつく縛り直す。
 揺らいでもいいのは今だけ、ここにいる間だけだ。
 これが本当の最後。
 深く心にそう刻み込んで、獄寺は賑やかにざわめくキッチンに向かって足を踏み出した。

9.

 卒業旅行という名目の前では、法律など無意味だった。
 年齢相応の外見をしている綱吉を除いては、男は大学生の了平はもちろん、獄寺も山本も普通にしていれば高校生に見えない。ゆえに、アルコール飲料をここに来る途中のスーパーで購入するのにも何の差し障りもなかった。
 そして、三人の女性陣もまた、こんな場面で固いことを言い出すほど無粋ではない。ビールにチューハイにワインに日本酒と並べられた缶や酒瓶を興味深げに品定めし、それぞれに好みに合いそうなものを選んで手に取った。
 とはいえ、高校三年生ともなれば、自宅でこっそり親から酒の味を教わることもあったのだろう。京子もハルも黒川も、アルコールを口にするのはこれが初めてではないようで、飲み方は堂に入っている。
 そして綱吉自身はといえば、酒の味は嫌いではなかった。
 というよりも、極々まれに帰宅する父親の晩酌に付き合わされるうちに、結構酒に強い体質らしいということは気付いていたから、今夜もさほど躊躇せずに純米酒やチューハイの風味を楽しんでいた。
 男たちも、獄寺はワイン、山本は純米酒、了平は国産ビールの各銘柄を飲み比べと、それぞれに好き勝手なものを手にしている。
 一見したところ、ハルが一番アルコールには弱いようだったが、まだ悪酔いはしていないようで顔全体を赤く染めながらも楽しそうに見える。
 京子と黒川は少し酔った風ながらも、いつもと同じように見えるから、そこそこの強さであるらしい。
 となれば、ハルが飲みすぎるようだったら、京子と黒川が止めてくれるだろうし、彼女たちでも制止が利かないようなら自分が説得して宥めればいいことだと、綱吉は満足して、また自分の冷酒のグラスを傾けた。
 ───少し前から綱吉は誰とも会話していなかった。
 保養所の談話室は二十人ほどが円になって座れるよう、一人掛けソファーと二人掛けソファーが配置され、少し離れて壁際と窓際には、向かい合わせに二人掛けソファーが並べられたコーナーが合計四箇所しつらえてある。
 それだけの広さがあるだけに、男女合わせて七人しかいなければ、二つ三つの人の塊ができる以外は空きスペースということになる。
 そして、綱吉がいるのは、そんな空きスペースだった。
 右手側には男三人が時折低く言葉を交わしながら多くは黙々と飲んでおり、左手側には少女三人が明るくさざめきながら軽めのチューハイを楽しんでいる。
 どちらの声も聞こえるが、何を言っているかまでははっきりとは聞き取れない。新たな酒を中央のテーブルに取りに行った後、綱吉がそんな位置のソファーを選んで座ったのは、深い他意はなかった。
 ただ何となく、眺めてみたくなったのだ。
 この風景を。
 この仲間たちを。
 そうしてみれば、思った通りにとてもいい風景だった。
 左手の暖炉には赤々と火が燃え上がり、背景の暗い窓の向こうには日没後から振り出した粉雪が儚く舞い、そして気心の知れた仲間たちがそれぞれに酒と会話を楽しんでいる。
 満足の溜息をついて、このためにここに来たのだ、と綱吉は思いを新たにした。
 自分がこんな風に無邪気にはしゃげるのは、きっと今が限りだから、うんと楽しい思い出にしたかった。
 皆にも楽しんでもらいたかった。
 その目論見は、ほぼ成功したといえる。──ほんのわずかな例外を除けば。
「───…」
 ちらりとまなざしを向けると、獄寺は山本が言った何かに不機嫌そうに答えながら、手酌で新たなワインをグラスに注いでいるところだった。その様子はいつもと何も変わらない。
 だが、夕食前、獄寺の様子は少しおかしかった。
 といっても、ほんの短い間のことだ。暖炉の火をおこした後、保養所の情報を教えてくれたことに対する礼を告げた時、かすかにだが獄寺の様子が変わった。
 おそらく綱吉以外は気付けないほどの──もしかしたら、あの場に山本が居たら気付いたかもしれないが──わずかな変化だった。が、こと獄寺に関しては、綱吉は決して見逃したりしない。
 綱吉の勘が間違っていなければ、あの瞬間の獄寺は『右腕』ではなかった。
 単なる忠誠ではなく、もっと大きなものを……己の全てを捧げ尽くした男の目。それを綱吉は見た。
 だが、獄寺もそれを自覚していたのだろう。山本がキッチンから呼んだ途端に、それを振り切るようにして綱吉からもまなざしを逸らし、立ち上がったのである。そしてそれきり、何も起こりはしなかった。
 何がスイッチになったのかは、今考えても分からない。
 だが、それは綱吉にも身に覚えのあることだった。
 悪魔に背を押されたかのように、日常の何でもない仕草の一つに、言葉の一つにたまらなく心を揺さぶられる。好きだと口に出して言い、相手に触れたくてたまらなくなる。
 そんな恐ろしくも甘い衝動を、綱吉もこれまでに何度も感じてきた。
 だから、今夜の獄寺を咎めるつもりもなかった。むしろ、自分に対してそれだけの想いを抱き続けていてくれることが泣きたいほどに嬉しかったし、その想いを押さえ込み、衝動に耐えてくれたことを心から感謝したかった。
 だが、馬鹿だな、と思いたくなるのも、こんな時だった。
 叶いもしない想いなど捨ててしまえばいい。無かったことにしてしまえばいい。そうすれば、こんな風に苦しむこともなくなる。泣きたいほど胸が痛むこともなくなる。
 しかし、そうと分かっていても賢くはなれないのだ。
 この想いを失ってしまったら、その時こそ自分がどうなるのか、見当もつかない。
 叶う叶わないの問題ではなく、この想いは沢田綱吉という人間を構成する一部分──大きな大きなパーツだった。
 ボンゴレ十代目には不要なものであっても、これがなくば今現在の沢田綱吉という人間は成立しない。
 自分がここまで一途な性格だとは思いもよらなかったが、これが一生に一度の恋だという予感はある。きっと今以上には他の誰も愛せない。
 ならば、この想いを生きる糧としてしまうしかなかった。
 とはいえ、この想いを自分がボンゴレのボスとなる言い訳には、決してするつもりはない。
 皆を守りたいからボスになる。それだけは決して違える気はないが、しかし、本当は強くも潔くもない沢田綱吉という人間が、行く手が血みどろの修羅の道だと分かっていて足を踏み出すためには、その恐怖を超える強い想いが必要なのだ。
 その点で、獄寺隼人という人間が捧げてくれる想いと、そんな彼に向かう想いは、十分すぎるほどに綱吉を強い人間にしてくれた。
 何があっても傍に居てくれる。
 何があっても味方でいてくれる。
 何があっても──愛していてくれる。
 人間が人間を支える上で、それ以上強い感情はおそらく存在し得ない。
 もしかしたら、綱吉がボンゴレ十代目でなければ、少なくとも綱吉の方は、獄寺に対してこれほどまで強い感情は抱かないで終わったかもしれない。
 だが、今となってはボンゴレ十代目と沢田綱吉個人の二重の意味で、獄寺への想いは失えないものだった。
 その二重の意味を込めて、綱吉はもう一度、馬鹿だなとほのかに自嘲めいた笑みを浮かべながら、よく冷えた吟醸酒のグラスを傾ける。
 と、目の前に人影が立った。
「一人で飲むのが好きなんて、ちょっと意外ね。あんたなら、あの連中の真ん中にいそうなものなのに」
 さばさばとした口調で黒川が言い、隣りのソファーを指差す。
「いい?」
「どうぞ?」
 綱吉が微笑むと、少しばかり酔っているのか、いつもよりも心もち乱暴に黒川は一人掛けのソファーに腰を下ろした。
 そして、手にしていた新しいチューハイの缶を空け、わずかに喉を逸らして一口飲む。
「楽しんでる?」
「まあね。それよりも、なんでバドがないの? 私、国産ビール好きじゃないのよ」
「ごめん。でも、そういうのはリクエストしておいてくれないと。買出し部隊は、あの顔ぶれだし」
「そーね。あいつらにそういう気遣いを期待する方が間違ってるってものよね」
「それは否定しないけど……リクしておけば、ちゃんと用意してくれるよ。そういうところは大丈夫」
「そう? じゃあ、明日はちゃんと用意しておいてよ。バドワイザー。350の缶が三本もあればいいわ」
「分かった。伝えておくよ」
 案外に黒川は絡み酒なのかと内心で苦笑しながらも、綱吉はうなずいた。
 といっても、極わずかに頬に赤みが差している以外は、酔いの兆候は見えない。リクエストの内容からいっても、やはりそこそこに強いのだろうな、と綱吉は推定する。
 そして、自分のグラスを傾けながら、相手が次に話し始めるのを待った。
 黒川は中学生時代のクラスメートであり、結果的にここまでそれ以上の関係になったことはない。友人と呼ぶのさえ、少し抵抗のある距離が自分たちの間にはある。
 そんな彼女が、アルコールを口実にしたにしても自ら近づいてきた。何か話したいことがあるのだということを察するには、それだけでも十分だった。
 そうして一分、二分と静かな時間が過ぎて。
「──ねえ、この機会を逃したらもう聞けなさそうだから、聞くけれど」
 隣りに腰を下ろしはしても、綱吉の方は見ずに仲間たちの方にまなざしを向けたままチューハイを空けていた黒川は、低めた声で言った。
「あんたたちが中学の頃から、でっかい隠し事をしてるのは分かってんのよ。でも、もうそれはいいわ。そんなに徹底的に隠してる事情なんて、聞いたところで理解できそうな気がしないし。京子もハルも何も言わないってことは、聞いたらいけないか、聞いても無駄なことなんだろうし。──だから、今から聞くのはもう少し別のことよ」
 声を内緒話のように小さく抑えているのは、他の五人に聞こえないようにという配慮なのだろう。
 現に、黒川がこのソファーに座った時、男たちと京子は一瞬、まなざしだけをこちらに向けた。黒川も決して鈍くはない。酔ってはいても、そのことに気付いているのに違いなかった。
「聞いてる? 沢田」
「うん、聞いてる」
 綱吉も、黒川の方は見ないまま静かにうなずいた。
 自分もまた、アルコールに少しは侵されているのかもしれない。そんな風に思うくらい、何故か身構える気にはなれなかった。
 それは、あるいは黒川が厳しい詰問調の雰囲気をまとっていなかったからかもしれない。
 あくまでも、友人から友人に尋ねる──彼女が綱吉を友人と認識していれば、だが──、そんな雰囲気しか二人の間にはなかった。
「じゃあ、聞くけど」
「うん」
「あんた、獄寺のことが好きなんじゃないの?」
「───え…?」
 思わず、綱吉は黒川の横顔を見つめる。黒川もゆっくりと顔を向けた。
 彼女の切れ長の涼しげな瞳は、揶揄の光もなく責める光もなく、ただ女性にしては硬質で静かだった。
 何と答えるべきか。
 言葉を探して、綱吉はしばし宙に思考を彷徨わせた。

10.

「勘違いしないで欲しいんだけど」
 先に沈黙を嫌ったのは、黒川の方だった。
 綱吉の瞳から少しだけ目線をずらして、頬に落ちかかった髪をかき上げる。
「あんたを責めようとかけなそうとか、そんなんじゃないのよ。どっちかっていったら、好奇心に近いわ。何となく気になったっていうか……」
「……どうして?」
 なぜ自分のことなどを気にするのかと、そういう意味で問うたのだが、それがおかしく聞こえたのか黒川は小さくくすりと笑った。
「否定しないの? それじゃ肯定してるようなもんよ?」
「あ……ああ、そうか。何だかびっくりして、そっちを忘れてた」
「嘘つき」
 綱吉の言葉を、あっさりと黒川は遮る。だが、それも咎めるような言い方ではなく、どちらかというと面白がっているような、彼女にしては珍しい優しい部類の口調だった。
「ちょっと前から思ってたけど、あんたって案外、嘘つくのが上手いわよね。──中学の頃は、嘘をつく時は目が泳いでて、誰が見ても一発で見抜けたのに」
「……そうだったかな」
「そうよ。でも、今のは分かったわ。否定はしたくないと思ったんじゃないの? いいわよ、私は別に否定されても肯定されても」
 黒川の物言いは、京子ともハルとも全く違う。少なくとも、うんと細やかに綱吉の気持ちを汲んだりはしない。
 彼女には、しっかりとした芯がある。簡単にはぶれないから、他人に対し厳しくもなれるし、寛容にもなれる。
 その相反する要素を、綱吉は彼女の言葉のうちに感じ取った。
「それで何が言いたかったっていうとね……、一言で片付けるんなら、今のあんたが幸せそうな顔をしてないってことよ。昔のあんたも、時々深刻そうな難しい顔をしてることがあったけど、今みたいな顔はしてなかった」
「今みたいな顔……?」
「そうよ。多分、口に出さないだけで、きっとここにいる連中は全員、気付いてるわ。……時々、本当に時々だけど、ものすごく寂しそうで悲しそうに見えるのよ、今のあんたは」
 後半はいっそう声を低め、優しいほどの声で黒川は言った。
「夏休みの終わりに、山本の甲子園優勝祝いに皆で集まったでしょ。あの時にあんたの表情に気付いて、ずっと気になってたのよ。別に頭から離れなかったってわけじゃないけど、時々ふっと思い出すような感じで。
 でもあれ以来、あんたには会う機会がなかったし、原因なんて見当もつかなかった。──今日まではね」
「今日?」
 思わず綱吉は彼女の顔を見直す。
 黒川の言う通り、彼女と顔を合わせるのは夏の終わり以来、五ヶ月ぶりになる。逆に言えば、今日一日、行動を共にしただけなのだ。
 それで何かを気付かれたというのなら、それはひどく危険な話だった。
 女性特有の勘ということにしてもいい。してもいいが、綱吉にしてみれば、それはあってはならない失態である。
 わずかに顔色を変えた綱吉を、黒川はかすかに憐れむような表情で見つめた。
「──結局、全部繋がってるのね」
「───え?」
 意味を聞き取れなかった綱吉の視線を避けるように、黒川はまたまなざしを正面へと向けた。
 仲間たちのいる空間。だが、彼ら一人ひとりをではなく、一枚の絵として眺める目で見つめる。
 そしてそのまま、静かにゆっくりと続けた。
「私はね、あんまりそういうものに偏見はないのよ。当人たちが幸せならそれでいいと思うし。だから今日、あんたの視線がどこを向いているかに気付いた時も、どっちかっていうと不思議だった。なんで、沢田も獄寺も、幸せそうな顔してないの、って」
「黒川……」
 黒川の声は、京子やハルに比べると少し低い。その声を更に低めて、チェロのようなやわらかな音を彼女は紡いだ。
「獄寺は転校してきて直ぐの頃から、あんたのことしか目に入ってなかった。その視線の意味が、いつそういうものに変わったのかは分からないし、私が気付いたのも中学卒業近くになってからだったけど、でも、私が思い出せる限りじゃ、あいつはずっと、あんたをそういう目で見てた。
 それで、やっとあんたがそういう目をあいつに向けるようになったのに……なんで、あんたたちは幸せそうな顔をしてないのよ? あんたもあいつも、なんでそんなに寂しそうなのよ」
「黒川」
「答えは聞かなくても想像つくわ。──あんたたちの隠し事。全部そこに繋がるんでしょう?」
「────」
 問われても答えられなかった。
 何故なら、あまりにも彼女の言葉は的を得ていたから。
 恐ろしいほどに全てを言い当てていたから。
 綱吉は、ただ黙るしかない。だが、黒川はそれさえも咎めなかった。
「いいのよ、肯定も否定もしなくて。これは私の好奇心。余計な話なんだから」
 ただ、と続ける。
「こうやって卒業旅行まで一緒に来ちゃうような奴が、幸せそうじゃないのがちょっと気になっただけ。今、私が言ったことなんて全部忘れてくれていいのよ。お酒の席での戯言なんだから」
「黒川……」
 綱吉は彼女の名を呼ぶ以外、何もできなかった。
 言い訳も何もいらないと言ってくれる。それは間違いなく、薄々何かを感じ取っている彼女の思いやりだった。
 それが分かるのに、応える術がない。彼女の示してくれた友情に何も返せない。
 言い訳できないことよりも何よりも、そのことが綱吉の胸を締めつけた。
「あー! 花ちゃんずるいですぅー。ツナさん独り占めしてるー!」
 だが、沈み込みかけた想いを吹き払うように妙に明るいハルの声が響いて、はっと綱吉は顔を上げる。
 見ると明らかに酔っ払いと分かる足取りで、ハルはフロアを横切って綱吉に近づき、しかし、足をもつれさせて綱吉の左隣の空いたソファーに顔面からダイビングした。
「ハ、ハル? 大丈夫?」
「う〜〜〜」
 少女らしからぬ声でうめいた後、ハルはばっと顔を上げる。
「大丈夫です! ハルは無敵ですっ……うええぇ」
 酔っ払いが勢いよく頭を振るものではない。無敵と言った直後に、ハルは再び目を回してフローリングに座り込んだままソファーの座面に顔を埋める。
 やれやれとばかりに、綱吉はハルの背中を撫でた。
「ハルちゃん、大丈夫?」
 ハルの後を追ってきた京子も、心配そうに覗き込む。その際に綱吉と目が合い、彼女は困ったように笑って見せた。
 京子が、黒川が綱吉に何を話したがっていたのか承知していたとは全く思えない。だが、二人の会話を邪魔してしまったことを詫びているように、その笑顔は見えた。
 一連の騒ぎに少しだけ目を丸くしていた黒川は、ふっと微笑んで空になったチューハイの缶を手に立ち上がる。
 その後姿に、綱吉は慌てて声をかけた。
「黒川」
「うん?」
 酔いなど微塵も感じさせない顔で、黒川は振り返る。凛として気風のよさを感じさせるその表情は、やはり綺麗だった。
「ありがとう」
 真っ直ぐにそう告げる。
 黒川はわずかに目をみはり、それから微苦笑ともとれる笑みをほのかに口元に浮かべた。
「どういたしまして」
 彼女の気性からすれば、お礼なんて言ってていいの?とでも言いたかったのだろう。
 だが、黒川はそうとだけ答えてテーブルに空き缶を置き、ハルがしがみついているソファーを回り込んで、京子と共に酔っ払いの介抱にかかる。
「ハル、気持ち悪いんなら、いっそ吐いちゃった方が楽よ。トイレに行く?」
「ううぅ〜〜〜〜」
「ハルちゃん、お水。体の中のお酒、薄めないとね」
「はいぃ〜〜〜」
 動いたことで一気に酔いが回ったらしいハルを、二人は手際よくなだめ、肩を貸して立ち上がった。
「この子、トイレで吐かせてからベッドに連れて行くわ。そのまま私たちも、もう休むから。おやすみ」
「あ、うん。頼むよ。水は沢山飲ませてあげて」
「分かってるわよ。うちも父親がしょっちゅう悪酔いしてるから、酔っ払いの介抱は慣れてるの」
「じゃあね、ツナ君。また明日」
「うん。おやすみ」
 立ち去ってゆく三人を見送り、綱吉は改めてソファーに体を沈めて、グラスに冷酒を注ぎ直す。
 そしてそれに口をつけようとした時、やや厳しい表情で気遣うようなまなざしを向けている獄寺に気付いた。
「───…」
 黒川との会話で彼に報告すべきことは、何一つない。
 ただ、大丈夫、とだけ綱吉は無言で微笑んだ。

to be continued...





NEXT >>
<< PREV
格納庫に戻る >>