狼たちの挽歌





「今夜はありがとう。気をつけて帰ってね」
 沢田家の玄関先でそう告げた綱吉の目元は、門灯でそうと分かるほどにまだうっすらと赤らんでいた。
「また明日の朝、お迎えに上がります。今夜はゆっくり休んで下さい」
「うん」
 少しだけ悲しげに微笑んで、綱吉はうなずく。
 その自分よりも一回り以上細い肩を抱き締めたくなる衝動を、獄寺は左手を軽く握り締めることでひっそりと押し殺した。
「それじゃ、おやすみなさい。十代目」
「おやすみなさい」
 頭を一度下げてから玄関先を離れる獄寺を、綱吉は一番最初の曲がり角まで見送ってくれる。
 そうと分かっていたから、獄寺はその角を曲がる寸前に肩越しに振り返り、小さな会釈と笑みを送って、次の街路灯の作る光の輪に足を踏み入れた。
 歩きながら取り出した煙草に火をつけ、深く吸い込んでから吐き出す。ゆらりと立ち昇って消える煙を目で追いながら、もう一度溜息のように小さく息をつく。
「───…」
 十代目、と呟いた声は、声にはならなかった。
 ──標準より背丈はあるのに、標準より少しだけ薄い肩は、しかし華奢というよりも綺麗さだけを印象に残す。
 深い琥珀色の瞳は何も見通しているかのように透明で、けれど今夜は、目の縁(ふち)が赤らんでいるのがどうにも悲しげで、零れ落ちていった涙が胸に痛くてたまらなかった。
 誰よりも綺麗で、強くて、優しい人。
 けれど、今夜は悲しみに打ちひしがれて、彼自身を責めているように見えた。
 何一つ、彼の責ではないのに。
 自分たちはただ、選んだだけだったのに、その決断をも背負って立とうとする彼は、とても綺麗で、悲しげで。
 ───だから。
 その細い肩を抱きしめたいと思った。
 強く優しく包み込んで、あなたが苦しむ必要などないんですと告げたかった。
 けれど、それは許されることではなく。
 彼もまた、そんなことを望んでいるようには見えなかった。
 そして、その場にいた二人のどちらの手を借りることもなく全てを背負い、目元に赤らみを残したまま、いつもの温かな笑みで山本に手を振り、獄寺を見送った。
 今日という日の最後まで彼は完璧なボスで、その間に、自分にできたことといえば。
「……でくの棒みてーに、そこにいただけ、か」
 ボスにただ付き従った、それだけ。
 彼が葛藤し、涙を零す間すら、何一つできはしなかった。
「あの人が……泣いていたのに」
 先刻のファミリーレストランの隅の席で、綱吉が涙を零した瞬間、獄寺を貫いたのはどうにもならない痛みだった。
 その涙が山本のために流されたものだということすら──嫉妬することすら忘れて、ひたすらにその涙が止まることを祈った。
 彼の涙を止められるのなら、何でもしてあげたい。彼の苦しみと悲しみを消すためなら、どんなことでもできる。
 血を吐くような思いでそう思ったのに、現実には自分には彼の涙をぬぐうことすら許されず、黙ってハンカチを差し出すのが精一杯のできることだった。
 己のあまりの無力さに、怒りを越えて吐き気さえ覚える。
 ───けれど。
 それが、自分の望んだ立ち位置だった。
 そして、彼が自分に望んだ立ち位置だった。
 二人がそれぞれに選んだことなのだから、誰に文句を言う筋合いでもない。文句など言えるはずもない。
 だが、それでも辛かった。
 独りよがりの感情であることは百も承知で、彼の涙をぬぐい、優しく抱きしめて、涙を止めることのできる何か魔法のような言葉をささやきたかった。
 その決して許されることのない想いは、痛みとなって今も澱(おり)のように血管の中を巡っている。
「情けねえ……」
 もとより封印する気のない想いではあった。というよりも、封印しようにも、あまりに根深く激しいために抑えようがないという方が正しい。
 それでも、自覚以来この想いを抱えて三年余りの間どうにかやってきたというのに、今になってこんなにも苦しんでいるのは、自分たちの関係が変わってしまったからだ。
 正式にボンゴレ十代目とその右腕となったこと、そして、それ以上に綱吉の心を知ってしまったことが自分を苛(さいな)んでいる。
 知らなければ、耐えるのは簡単だった。
 一生そういう目では見てもらえない、手に入らないと思っていれば、諦めるのはたやすい。その諦めは、自分にとっては想いと裏表に存在する日常の感情だった。
 けれど、あの日以来。
 自分の中には、制御できない喜びと嘆きが生まれてしまった。
 最愛の人が自分を想っていてくれるという歓喜、そして、それが今生(こんじょう)では叶わないという悲嘆。
 相反する表裏一体の感情が、常に相克を起こしていて気の休まる時がない。
 今夜も、ボスと右腕という立場さえなければ、想いのままに抱き締められた。彼の涙を止めるために、一人の男としてありとあらゆる手を尽くすことができた。
 そう考えることを止められないのに、ボスと右腕だからこそ極近い距離で居られるのだとも分かっている。その矛盾は、自分をひどく疲弊させる。
 だが、それでも知らなければ良かったと思ったことだけは一度もなかった。
 知らない方が絶対に楽だった。それは間違いないが、それでも知らなかった頃には戻りたくない。
 痛みで窒息しそうになっていても、それで構わないと思えるほどまでに、最愛の人に想われているという事実は甘美だった。
 想いを顕わにすることもできない。抱き締めることもできない。あの人に触れられることもない。
 けれど、二人きりの時だけに時折、彼の綺麗な瞳をかすかによぎる痛みと切望が、彼もまた同じ感情を抱えて苦しんでいることを教えてくれる。その喜びはどんな苦痛にも勝り、日々を耐える力を与えてくれる。
 自分が生きている限り、この喜びと苦しみは永遠に生まれ続け、嘆きながらも愛しい人と自分の明日のために一歩を踏み出す原動力となる。
 それは自分にとって大いなる力であり、端から見ればどんなに愚かで滑稽だろうと、それで良かった。
 少なくとも、この想いがある限り自分は生きてゆける。迷わずに歩いてゆける。
 自分が生きる理由には、それだけで十分だった。
 ならば、自分のやるべきことをやるだけだ、と獄寺は携帯電話を取り出し、メモリーから一つの番号を呼び出す。
 コール音は三回。
「話がある。今から出てこれるか?」
 スピーカーからの返答は、ごく短かった。





「よう、どうした?」
 自宅の勝手口から出てきた山本は、先程分かれた時と変わらない姿だった。
 店の片づけを手伝っていたのか、長袖のシャツはまくり上げられ、ブレスレットも見当たらない。おそらくは革ベルトが水気に弱いことを考慮して、水仕事をする時には外しているのだろう。そういうことには妙に気の回る男だった。
 街灯の光が作る輪の中で、獄寺は冷めたまなざしで相手を見つめる。
 正面から向かい合うと、目線は殆ど変わらない。気持ち、獄寺の方が高いが、それも気になるほどの差ではなかった。
「──てめえの本音を聞いておこうと思ってな」
「本音?」
「ああ」
 目をまばたかせる山本から一瞬、目を逸らして新たな煙草に火をつける。
 それから獄寺は、ゆっくりと煙を吐き出した。
「さっき、十代目がイタリアに行くとおっしゃった時のてめーの喜び方は、普通じゃなかった。てめー、何を考えてやがる?」
 言葉を飾る気も、オブラートでくるむ気もなかった。
 そんなことをしたら、山本は決して本音を吐かない。単刀直入に切り込んだとしても、柳が風を受け流すようにかわしてしまう男だ。
 悪気や、やましい気持ちがあってそうするのではない。何の意識もなく本能的に、直感的に本音を押し隠してしまう。──それは、彼が生まれ持った天性の資質……勝負師、真剣師としての本能によるものだと獄寺は理解していた。
 だから、獄寺は言葉の鎖で隙間なく彼を囲い込む。
 彼が逃げられないように。
 そして、彼が本音を吐いても構わないのだと……それが原因で真剣勝負を落とすようなことにはならないのだと感じられるように。
「てめーが十代目と一緒に行きたがるだろうってのは、分かってたことだからな。それについちゃどうこう言う気はねえ。だが、てめーが喜んだのは、それだけが理由じゃねーだろ。俺の目をごまかせると思うなよ」
 そう告げる獄寺の瞳を、山本はじっと見つめていた。
 いかにも日本人らしい漆黒の瞳が何を考えているのかは、表情がくっきりと見える街灯の光の中であっても読み切れない。
 だが獄寺は、ある程度は山本のことを理解していた。
 彼は、綱吉を傷つけることは決してしない。
 そして、綱吉を傷つけるような発言も、綱吉に聞こえる場所では決してしない。それは偽善ではなく、自分とは気質の違う友を気遣う山本の優しさだ。
 それが、今夜も駅前のファミリーレストランで発揮されていた。
 綱吉の宣言に反応した喜びと、その後に彼が告げた共に行く理由は、傍目には整合しているように聞こえたかもしれない。だが、獄寺の耳には不釣合いにしか聞こえなかった。
「十代目がおっしゃった時、てめーの目に浮かんだのは、十代目と一緒に行けるっていう単純な嬉しさだけじゃなかった。あの瞬間、てめーはもっとロクでもねえ、ヤバいことを思ってたはずだ」
 そう、あの瞬間の山本の目の光り方は、友情の延長線上にあるような可愛らしい喜びではなく、もっと純粋で鋭い──勝負師の喜びだった。
 綱吉はひどく緊張し、動揺していたから気付かなかったかもしれない。あるいは、その瞬間は気付いても、その後の山本の発言に気をとられて追求することを忘れてしまったのかもしれない。
 だが、傍で黙って見つめていた獄寺の目をごまかすことは不可能だった。
「全部吐いちまえ、山本。ここにゃ十代目はいらっしゃらねーんだ」
 正面から睨みつけるようにしてそう告げた獄寺に。
 山本は、ふっと笑った。
「やっぱすげーよ、獄寺は」
「おだてたって何もでねーぜ」
「おだてじゃねーって。マジ」
 笑って山本は、夜の街を見渡すように視線を逸らせる。
 それから、獄寺に視線を戻して、静かに口を開いた。
「……分かってるだろーけど、ファミレスで俺が言ったことも全部、本当だぜ?」
「んなこた、俺にだって分かってる。俺が聞いてんのは、その先だ」
「だな」
 同意して、山本は自分の手へとまなざしを落とした。
 野球と剣とで、タコだらけの硬い手のひらへ。
 そのまましばらく、山本は無言で自分の手を見ていた。
「──俺は、さ」
 そう切り出した時、彼にしては珍しく、迷っているような口調だった。自分の心をではない。ただ、真実を告げるにはどんな表現を使うのがいいのか、紡ぎ出す言葉の選択に迷っている。そんな声だった。
「俺には何年も前から夢があったんだ。夢っつーか、絶対にやりたいこと。その一つは、さっきファミレスで言っただろ? そっちはもう叶えたから、もういい。満足してる。けど、夢はもう一つあってさ。それはイタリアに行かなきゃ、多分絶対叶わねーことなんだ」
「──剣か?」
 それしか考えられなかった。
 はたして、低く問いかけた獄寺の声に、山本は薄い笑みを浮かべて目をまばたかせた。
「ああ」
 うなずき、開いていた両手をぐっと握りこむ。
 そして、スクアーロ、と低く呟いた。
「あいつはすげーよ。俺はあいつに認められたい。あいつと肩を並べて戦ってみたい。あいつに背中を預けられてーんだ」
 そう言う山本の声は、いつになく熱に浮かされているような響きを帯びていた。
 形容しがたい押し殺した熱さを持つ声は、まさしく男が生涯の夢を語る時のものであり。
 先刻、獄寺が目(ま)の当たりにした危ういほどの目の輝きに、ぴったりと印象が重なる声だった。
「……あいつとやり合ってみたい、じゃねーのか」
「ああ。それはもう、あの時の一度きりだけでいい。本当の真剣勝負なんざ、一度で十分だろ。それよりも俺は、もっと上に行きたい」
 肩を並べて戦う。背を預けられる。
 それは、戦場に生きる男にとっては、命を預けるのと同じことだ。
 そして山本は、それが欲しいという。
 あの孤高にして絶対の強さを誇る二代目剣帝からのそれを。
「……馬鹿だ馬鹿だと思ってきたが、てめーは正真正銘の馬鹿だな。それも、俺が思っていたよりよっぽどヤバい馬鹿だ」
「かもな」
 心底呆れきった溜息交じりの獄寺の声に、山本は怒らなかった。むしろ、自分でもそう思うとばかりに笑う。
 そんな山本を横目で見ながら、獄寺は手にした煙草の灰を軽くアスファルトに落として、言葉を続けた。
「だが、てめーの言い分は分かった。そういうことなら勝手にしろ。ただし、十代目には絶対に迷惑をおかけするな」
「分かってるよ。これは俺の我儘だからな。お前もツナには言わないでくれな」
「言うかよ、こんなくだらねぇ話」
「ははっ、サンキュ」
 獄寺の冷ややかな言葉にも、山本は笑う。
 そして、思い出したように続けた。
「さっきもさ、ファミレスでサンキュな。ツナのこと、止めてくれただろ?」
「──てめーの為じゃねえよ」
 山本の言葉が何を指しているのかは、獄寺にはすぐに分かった。
 山本が綱吉たちと共に行くと言い、綱吉がそれに反論するのを途中で獄寺が遮った、そのことだ。
「てめーの気持ちが変わんねえんなら、あれ以上は十代目が傷付かれるだけだ。何時間話し合ったって、てめーは譲らねえだろ」
「ああ。譲れねー」
「だったら、俺は俺の役目を果たすだけだ」
 ボスの意向を、どんな手段を使ってでも実現すること。
 そして、どんな手段を使ってでも、ボスを守ること。
 それを誰よりもボスの身近で、誰よりも最大限に実行するのが右腕の役目である。
 今夜はそれが、綱吉を止めるという形になっただけのことで、そのことはおそらく綱吉も理解してくれている。
 獄寺にとって重要なのはそこまでの話であって、第三者である山本がどう受け取るかについては全く考慮に入れていないし、気にするつもりもない。
 ただ、山本が自分のやり方を理解し、支持できるのなら、それはこの先、共にやっていくにあたって有用な話だと受け止める程度のことだった。
 だが、山本は笑って告げてくる。
「やっぱり獄寺はすげーよ」
「何がだ」
「ツナのためだけに生きてるとこ、昔は本当にツナしか見えてないみてーで、ヤバイ感じもしてたけど、今はちょっと違う。お前がいるのはツナにとって大事なことなんだって気がするぜ」
 何だそれは、と獄寺は、山本に胡乱(うろん)なまなざしを向けた。
 山本は美辞麗句を口にするような男ではなく、今も世辞のつもりなど毛頭無いことは分かっている。
 だが、脈絡のない発言であるのは確かであり、その真意がどこにあるのか判明するまでは、獄寺は彼の発言を自分の内側に入れる気はなかった。
 もっとも、山本も曖昧模糊とした言葉で終わらせる気はないらしい。
 つまりさ、と続けた。
「俺はツナのこと、すげー奴だと思ってるし、ツナの考え方も好きだと思う。ただ、ツナの考え方が丸ごと、俺の考えとぴったりしてるかっていうと違うんだよな。俺なら、この状況じゃ切り捨てるしかねーかも、と思うような場面でも、ツナはそうしない。でも、ツナの考え方の方が俺の考え方より一段も二段も上だってことも分かってるから、俺はツナのやり方を結果的に選ぶ。──でも、獄寺、お前は違うだろ?」
「──…」
「お前はいつでも、ツナの考え方をなぞってる。ツナのためを考えながら、ツナがどんな答えを出すかを先読みしようと必死に頭を回転させてる。俺だって、絶対にツナを裏切ったりはしない。けど、お前は俺以上に、ツナの絶対的な味方なんだ」
「──俺は十代目の右腕だ。十代目の考えを理解できるように勤めるのは当然だろ」
「そこが、俺とお前の違いなんだよな」
 山本は笑った。
 それは単に人間性の違いであり、優劣ではない。だが、綱吉にとっては、単に個性という単語で片付けることはできない差があるのだというように。
「お前を見てると分かるぜ。お前にとってのツナは、お前がなりたい人間そのものなんだろ。だから必死で追いかける。でも、俺はそうじゃないから追いかけねー。
 多分、俺の中にはツナに似た要素がねーんだろーな。だから、ツナみたいな奴には憧れるけど、別に自分がそうなりてーとは思わねーんだ」
 山本の声にも口調もからっとしていて、自嘲の響きはなかった。ただ、内省するように深く、低く獄寺の耳に届いた。
「お前とツナは全然違うように見えるけど、どっか似てる。一旦懐に入れた人間を絶対に切り捨てられねーとことかさ。根っこが似てるから、ツナを一番理解して、一番守ってやれるんだ。今日みたいにさ」
 そう言った山本の笑みに、獄寺は答えなかった。
 山本の指摘は、確かに合っている。獄寺は、綱吉のような人間になりたかった。
 だが、それは彼を理解するためだ。彼が何を見ているのか理解して、彼が大切に思うものを自分も大切にしたい。それができれば、綱吉が喜ぶ時に自分も喜び、悲しむ時に自分も悲しむことができる。
 そして、それはきっと未然に悲劇を防ぐことにも繋がるだろう。
 誰よりも尊く大切な人を守りたいから、そうなりたいと望むのだ。人間としての素養がどうという問題ではない。
 しかし、もしかしたら、と思わないでもなかった。
 冷静な目で見ても、綱吉と気の合っているように見える山本が、綱吉のようになりたいと思わないということは、彼の言う通り、生まれ持った性格が多少は影響するのかもしれない。
 ともあれ、それは重要なことではなかった。大切なのは、自分が綱吉を理解し、守れるかどうかということだけだ。
 だから、その点については山本と議論する気はなく、話を打ち切ることを示すように新たな煙草に火をつける。
 ライターの蓋が開き、ガスに火が灯って、再び蓋が閉まる。一連の硬質な音の後、白煙が夜の大気の中を細く筋を描いて舞った。
「俺の人間性に対する評価なんざ、どうでもいい。大事なのは十代目とボンゴレを守る。それだけだ。──お前もな」
「ああ、分かってる」
 自分が言ったことは余談だと言わんばかりに笑う。そんな山本を獄寺は改めて見つめた。
 自分と殆ど目線の変わらない、日本人離れした長身。鍛え抜かれた無駄のない肉体。
 そして、普段は飄々とした態度と人懐っこい笑顔の裏に隠されている、異様に研ぎ澄まされた眼光。
 刀のようだ、と思った。
 彼の愛刀・時雨金時と彼はよく似ている。彼の父親もだ。もしかしたら、時雨蒼燕流の継承者は代々、伝家の宝刀と似た気質の者ばかりだったのかもしれない。
 一見無害で、ひとたび抜き放たれたならば、何もをも切り裂く剛剣。
 そして、そんな彼の気質を一言で表すとしたら、忠実、だった。
 綱吉に対してではない。綱吉をボスと定めた、己の信念にこそ忠実で、何があろうとそれを守り通すだろう。
 この男になら、と獄寺は思う。
「山本。てめーはさっき、スクアーロと肩を並べてぇと言ったな?」
「ああ」
「だったら、なりやがれ。真実、あいつと肩を並べる剣士にな。そうなりゃ俺も、てめーに十代目の守りを預けられる。……ついでに、俺の背中もな」
「──ああ」
 獄寺の言葉に、山本は一瞬、目をみはったようだった。だが、すぐに力強くうなずく。
「なってやるよ。すぐにな」
「その言葉、忘れんなよ」
 感情を消した声で応じて、獄寺は短くなった吸殻をもみ消す。
「それから、てめーにやる気があるんなら、イタリア語の面倒は俺が見てやる。週に一回、土曜の午後に俺のマンションに来い。十代目もいらっしゃる」
「そりゃ助かるぜ。でも、本当にいいのか?」
「てめーがイタリア語の挨拶すら覚えずにイタリアに渡る方が、よっぽど面倒なんだよ。つべこべ言わずに来やがれ。いいな?」
「おう! 行くぜ。土曜の午後だな?」
「ああ」
 そして、話はそれだけだ、と踵(きびす)を返した。
 だが、歩き出す前に一言だけ付け加える。
「……てめーの親父さんには、きっちり話をしとけよ。てめーはカタギじゃねえ世界に行くんだ。あの親父さんなら、もしかしたらてめー以上に分かってるかもしれねーがな」
「ああ」
 勿論だと、山本はうなずいた。
「ありがとな、獄寺」
「……てめーの為じゃねえよ」
 その言葉を最後に、獄寺は歩き出す。
 等間隔に道の端に並ぶ街路灯が光の輪をアスファルトの上に作り、足音に合わせるように、順送りに影法師が生まれては消える。
 こんな夜であるのに、夜空には遠く星が光り、細くなった月が西の地平線に落ちてゆこうとしている。いつもと同じ世界の営みが、今夜は少しだけ不条理であるように思えた。

*              *

 獄寺の後姿が一つ目の街路灯の向こうへと消えるまで見送ってから、山本は自宅である店の中へと戻った。
 勝手口をくぐると、そこはもうカウンターへと繋がるたたきで、藍染ののれんの向こうから水音と父親の声が聞こえてきた。
「話、終わったのか?」
「ああ。洗いもん、代わるよ」
 親父は明日の仕込みにかかってくれと、流し場に入る。
 そして、丁寧に器を流水ですすぎながら、父親に話しかけた。
「親父」
「ん?」
 父親は、乾物の入ったタッパーを開け、干ししいたけの中から形の良いものを選び出している。食材は、野菜でも魚でも肉でも不思議に姿形の良いものが美味い。
 そして、その上等の干ししいたけを一晩かけてゆっくり戻した出し汁で作った茶碗蒸しは、竹寿司の人気メニューの一つだった。
「俺、三月になったらイタリアに行くことになった」
「おう、そうか」
 親子どちらも、ちょっと近所まで買い物に行く、と言ったのに答えるのと大差ない調子だった。
「皆、一緒なんだぜ。ツナも獄寺も笹川先輩も」
「そりゃあ賑やかでいいな」
「だろ?」
 へへっと嬉しげに笑った山本に、父親はちらりと温かなまなざしを向ける。そして、またすぐに干ししいたけの選別に戻った。
「イタリアには確か、バカ強い剣士がいるんだろ? 中学ん時に戦った……」
「ああ、スクアーロな。あいつはもう仲間っつーか、敵じゃあねーけど、手合わせはできると思う。それもすっげー楽しみにしてんだ」
「そうさな。強い奴とやるのはワクワクするもんだ。父ちゃんも若い頃はそうだった」
「親父だって、まだ強えじゃんか」
「まぁな。まだお前にゃ負けねえよ。けど、こんくらいの年になると、なかなか新しい相手には会えなくなるからな。年々、わくわくすることも減ってくる」
 父親に言われて、山本は、言われてみればそういうものかもしれない、と一瞬考える。
 だが、それは自分にはまだまだ遠い先の話のように思えた。
「じゃあ、まだこれから山程わくわくできる俺は、ラッキーってことかな」
「そうだ。ツナ君たちに感謝しろよ? お前から言ってこない限り、父ちゃんはお前に剣を教えるつもりはなかったんだからな」
「……それじゃ俺、親父のすごいとこの半分を知らずじまいになるところだったってことか?」
「その通りよ」
 父親はうなずき、含め煮にする里芋をむき始める。巧みな包丁さばきのもとで次から次に黒っぽい皮に包まれた芋が、白く丸い形に生まれ変わってゆくのは、幼い頃から父親の手元を見続けている山本の目から見ても、まるで魔法のようだった。
「時雨蒼燕流は、あの通り、一撃必殺の殺人剣だ。生半可な覚悟じゃ身につかねえし、継承者にもなれやしねえ。第一、時雨金時が抜けねえだろうが」
「そっか。言われてみりゃそーだな」
「だろ? まあ、父ちゃんとしては、結果的にお前に時雨金時を渡せて嬉しいけどな。父ちゃんも、ツナ君に感謝せんといかんな」
 父親は、にかっと白い歯を見せて笑う。
「で、武。イタリアに行くのは三月って言ったな?」
「ああ。高校の卒業式が終わったらすぐだと思う」
「よし。なら、それまで毎日、板場に入れ。父ちゃんの寿司作りの全部を教えてやる。あっちも魚がうめぇんだろ? ツナ君たちにとびっきり美味い寿司を食わせてやれるようにな」
「親父……」
 父親の言葉に、山本は顔を輝かせる。
 今も、巻物やちらしの他に、扱いの易しいネタを握ることは許されている。だが、コハダや大トロの炙りといった加減の難しいネタは、父親が全てを手がけていて、これまで扱いを許されたことはない。
 それを教えてもらえるということは、剣の型を教えてもらうのに匹敵する喜びだった。
「ありがとな、親父!」
「おうよ。春になったら、父ちゃんの剣の極意と寿司の極意と、その両方を持って胸張ってイタリアに行くんだ。できるだろ?」
「ああ」
 山本は勢いよくうなずく。
 そして、嬉しげに少年のような仕草で鼻の下をこすった。
「やっぱ、親父は世界一の親父だぜ」
「お、そうか?」
「おう。本気だって」
「そりゃ嬉しいな。そうか、父ちゃんは世界一か」
 息子からの最高の賛辞に、父親は顔を赤くして笑み崩れる。
 そんな父親を温かな目で見やり、山本は綺麗に拭き終えた器を片付け始める。
 それから小一時間も経った頃、竹寿司の一階店舗の明かりが消え、並盛の夜は静かに更けていった。

End.





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