天国まで何マイル?

4.

 約一年ぶりに対面した父親は、ほとんど何も変わっていなかった。
 相変わらず金茶色の髪は短く、顎には無精ひげがまばらに生えている。がっしりした体格も記憶にあるそのままで、ただ、目元の皺が少しだけくっきりしたような気がする。が、その違いが、そう思って見るからゆえの錯覚なのかどうかは分からなかった。
「綱吉」
 名を呼んだきり、感無量の表情で見つめるばかりで次の言葉が出てこない。
 どうしたものかと少々困りながらも、綱吉はそんな父親に小さく笑って見せた。
「久しぶり、父さん」
「──ああ、そうだな。なかなか帰れなくてすまん」
「それは母さんに言ってあげたら? 俺は一応、何で父さんが帰ってこれないのか分かってるわけだし」
「そうだな」
 そこまで言葉を交わして、やっと家光は自分を取り戻したようだった。
 いつものガキ大将がそのまま大きくなったような表情に戻り、綱吉の後ろにいた獄寺に目線を向ける。
「獄寺君も久しぶりだな。また背が伸びたんじゃないか?」
「ご無沙汰しております」
 獄寺から見れば、家光は綱吉の父親でもありボンゴレの門外顧問でもある。丁重に頭を下げた。
「この一年で伸びたのは一インチもありません。そろそろ打ち止めでしょう」
「そうか。ツナも伸びたな。ちょっと前までは、こんなんだったのに」
「いつの話だよ」
 自分の腰よりも低い位置を手で示して見せる家光に、綱吉は呆れた声で突っ込む。
 綱吉自身も高校の三年間で十五センチ以上背が伸びたが、獄寺と同じく、そろそろ止まりかけている。
 日本人男性の平均身長は軽く越え、クラスで一番小さかった中学生の頃に比べれば格段に成長したものの、規格外れの図体を誇る父親には到底及ばない。
 さすがに父親並に成長したいと思ったことはないが、それでも父親と殆ど身長の変わらない獄寺の姿をこの場で見ると、微妙な悔しさが滲んでくるのはどうしようもなかった。
「おい」
 と、不意に幼い声が会話に飛び込んでくる。
「感動の御対面が終わったんなら、とっとと座れ。時間を無駄にしてる暇なんか、俺たちにはねーんだぞ」
 そう言うリボーンは、とっくの昔にソファーの真ん中にくつろいで、あまり美味しそうには見えないホットコーヒーのカップを小さな手にしている。
 赤ん坊としては何とも小生意気な姿だったが、彼の言葉は正鵠を得ており、それもそうだとうなずいた家光は彼の隣りに、そして綱吉と獄寺は、テーブルを挟んで反対側のソファーに腰を下ろし、改めて向かい合った。
「BGMがちょっとうるさいが、我慢してくれ。こんな場所だが密談には最適なんだ」
「それは構わないけど」
 まずはそう詫びた家光に、綱吉は小さく肩をすくめながら、改めて狭い室内へと視線を走らせる。
 照明はスポットのみで、天井から吊るされた小ぶりのミラーボールがきらきらと光りを振り撒いており、モニターには最近のヒットランキングが映し出され、スピーカーからは大音量の最新ヒット曲が流れている──。
 どこからどう見ても、ここは紛(まご)うことなきカラオケボックスの一室だった。
 話し合いの場所としてここを指定された時には驚いたが、考えてみれば、予約無しに入ったカラオケボックスで適当に割り振られた部屋に、隠しカメラや盗聴器がしかけられているとは考えにくいし、またホテルのようにチェックイン−アウトのサインも必要ないため、匿名性も守られる。
 何より、年代の違う男ばかり四人が一部屋に籠もっていても、まったくもって怪しまれることが無いのだ。
 カラオケボックスそのものはあまりにも身近すぎて、そういう方面からは考えたことも無かったが、密談の場としては実に巧妙な選択だと綱吉も感心せずにはいられなかった。
「それでな、さっそく本題なんだが……ツナ、お前は今日まで殆ど何も知らなかったことにしてくれないか。ここ一週間ばかりの電話のやり取りで俺から聞いたのは、お前にイタリアでの就職の話があるということ、それだけだ」
「就職の話だっていうことは知っててもいいの?」
「ああ。それくらいは電話でも先に言わないと、かえって不自然だろう。ただ、俺が口止めしたから、お前は母さんには就職の話だということは言わなかった。お前だって困るだろう? もし本当にいきなり、イタリアで就職しないかと言われたら」
「……うん。その場じゃ返事のしようがないと思う」
「ああ。それでいいんだ。それで、答えについては、前向きに考えたいでも行ってみたいでも、お前の言いやすい方で構わない。母さんへのフォローは俺がする」
「うん……」
 分かった、と綱吉はうなずく。
 そこまで父親任せにしてしまうのは、責任逃れのように思えて少々気が引けたが、父親は父親なりに、これまでの分の責任をまとめて果たそうとしてくれているのも何となく感じられたから、それを無碍にしたくはなかった。
 多忙な父親がこうして日本に帰ってきたのも、ここで事前の打ち合わせをしているのも、すべては綱吉と奈々のためであることは分かっている。
 それは言葉ではなく態度で表された、家族に対する絶対的な愛情だった。
「それから、獄寺君」
「はい」
 家光に名を呼ばれて獄寺は、生真面目に返事をする。
 表情も声も、真剣そのものの硬質な色合いで、たとえば学校で教師から点呼を受けた時などとは、同一人物だとは到底思えない変貌ぶりだった。
 そして、その硬質さは否が応でも綱吉に、いま自分たちがいる場所が光の届かぬ場所──光は遠くに見えはするが、決して手の届かない場所だということを思い知らしめる。
 別に、そうであることに後悔はない。後悔をすることは決して無い。
 ただ、胸の奥、手の届かない場所にかすかな棘を感じる。それだけのことだった。
「すまないと思うが、君についてフォローできることは少ない。設定も殆ど事実のままだ」
 家光は、獄寺の反応をじっと見つめながら言葉を続ける。
「君は、俺からツナのことを……つまりツナに友達が少ないようだという話を聞いた九代目に、ツナの友達になるように言われて日本に来た。君自身は、九代目の取引先の社長の息子で、母親が日本の血を引くことからイタリアでは友達ができにくかった。──完全な真実ではないにしても、嘘はないだろう?」
「はい。それで十分です。俺は自分のことは自分で片をつけますから、どうぞお気遣いなく願います」
 獄寺は、まったくと言っていいほど表情を動かさなかった。家光の言葉を聞き終えて、小さくうなずく。
 それから綱吉の方へと目線を向け、大丈夫ですよとでも言うように、ほのかに笑んで見せた。
 綱吉も気遣う気持ちを隠しきれないまま、少しぎこちない笑みを返して、また父親とリボーンへとまなざしを向ける。
「リボーン、それでお前はどうするんだ? イタリア絡みだと、母さんから見てお前ほど怪しい立場の人間はいないと思うんだけど」
「俺の場合はごまかしようがねーからな」
 リボーンの返答はあっさりしたものだった。
「そもそも俺がポストに放り込んだチラシを見て、俺を雇ったのはママンだし、俺のおかげでお前の成績も、少なくとも落ちこぼれからは脱出した。家庭教師として最低限の仕事はやったつもりだが……まあ、ママンを騙していたことについちゃ、言い訳をする気はねー」
「……つまり、俺をイタリアに行かせるために、うちに来たって認めるってこと……?」
 それはそれで母親を傷つけるのではないか、と綱吉は顔を曇らせたが、リボーンの方は平然とうなずく。
「今回のことについては、誰かが泥を被らなきゃならねー。その役は俺と家光がやる。お前たちは大人たちの数年がかりの陰謀に巻き込まれて、結果的に流されたガキの役だ。ママンの前じゃ、せいぜい不幸ぶってりゃいい」
「そんなこと……」
「甘ったれんな、ツナ。お前の正義感や信念は、この先、嫌ってほど試されるんだ。こんな小せえ嘘で揺らいでどーする気だ?」
 リボーンの小さな指先が、業務用のさえないコーヒーカップを軽蔑するようにはじく。
「俺たちに泥をひっかぶせておけ。そういう経験も必要だ」
「リボーン」
「リボーンさんのおっしゃる通りに。十代目」
 静かに声を割り込ませたのは、獄寺だった。
 こんな風に彼が意見を挟んでくるとは思いもしなかった綱吉は、左側に座る彼の顔をまじまじと見つめる。
 そんな綱吉の視線から決してまなざしを逸らさそうとしない、霧がかった湖のような銀色を帯びた緑の瞳は深く、感情を抑えた表情は、もう決して少年のものではありえなかった。
「これでいいんです。あなたに十代目であることを望んだのは、俺たちボンゴレです。あなたは、それにうなずいて下さった、それだけで他に負うべきものは何もありません。今回の件であなたが責任を持つべきことは、御自分で選択されたこと、その一点だけなんです」
「よく言った、獄寺君!」
 テーブルの向こう側から、家光が賞賛の声を送る。
 綱吉が目を向けると、父親は大きくうなずいて見せた。
「獄寺君の言う通りだ。ツナ、お前の気持ちも分かるが、今回は抑えてくれ。お前まで共犯だったとなったら、母さんの立場がないだろう?」
 温かみのある低い声で言われて、ああ、と綱吉は彼らの言葉が腑に落ちるのを感じる。
 確かに、綱吉までも五年も前から事態を知っていたとなっては、毎日一つ屋根の下で暮らしていた母親には、とてつもない打撃を与えてしまうだろう。
 勘のよい彼女が何かに薄々気付いていたとしても、全ての真実を明らかにするのが正しいとは、綱吉にも到底言えなかった。
「分かった。俺は、先日父さんに電話をもらうまで、何も知らなかった。周りにあんまりにもイタリア関係者が多いから、妙だなぁとは思ってたけど、藪から蛇をつつきだすのも嫌だし、深くは考えてなかった。……それでいいんだね?」
 確認するように父親とリボーンを当分に見つめながら言うと、二人はそれぞれにうなずく。
「ああ。すまんな、綱吉」
「よし。分かったんなら、お前らは帰っていーぞ。俺と家光は、これからカラオケで歌いまくってから、予定通り夕方に帰るからな」
「歌うのかよ!」
「当たり前だ。ここはカラオケハウスだぞ」
「なんなら綱吉も一曲、歌ってくかー?」
 嬉々とした父親にマイクとリモコンをそろえて差し出されて、綱吉はがっくりと肩の力が抜けるのを感じた。
「………帰ろっか、獄寺君」
「はい」
 隣りを見やると、獄寺も小さく苦笑しながら立ち上がる。
 綱吉も、傍らに置いてあった薄手のジャケットを取り上げて、立ち上がった。
「じゃあ、また夕方にね」
「おう」
「失礼します」
 綱吉のためにドアを開けてから、獄寺は丁寧に頭を下げ、綱吉に続いて部屋を出る。
 そして二人揃って階段を下り、外に出た。
「──分かってたことだけど、今夜は大変なことになりそうだね」
「仕方がありません」
「うん」
 うなずきながら、父親のボルボ(車を持っていることを初めて知ったが、日本における愛車らしい。鉄板が入ってるから何があっても平気だぞ、と胸を張っていた)に並んで停められた、獄寺のSZに乗り込む。
 SZの車内は、スポーツカー独特の皮革の匂いに獄寺愛飲の煙草の香りがかすかに混じり、綱吉はほっと気持ちが安らぐのと同時に、言葉にならない切なさ──あるいは、ときめきが胸に満ちるのを感じた。
「獄寺君」
「はい?」
 一般道を走っているがゆえに猛々しさを押し殺したようなSZのエンジン音を聞きながら、綱吉は前を見つめたまま獄寺の名を呼ぶ。
「さっき、ありがとう。君が、あんな風に言うとは思わなかったから、少しびっくりしたけど、嬉しかった」
 具体的な目的語はない。が、それでも綱吉の言葉が何を指しているのかは、獄寺にも分かったようだった。
「俺の役割です。どうぞお気になさらないで下さい」
「だからだよ。……ありがとう」
 俺の預けた信頼に応えてくれて、とは言わない。
 けれど、それも獄寺は分かっているはずだった。
「俺の方こそ、お役に立てたのなら嬉しいです。ありがとうございます」
「うん。これからも……こんなことばかりだと思うけど、よろしく頼むね」
「光栄です、十代目。俺で良ければ、微力を尽くします」
 声にならない声が、魂も命も、持てる全てを捧げます、と叫ぶのが聴こえた。
「……うん」
 君でなけりゃ駄目だよ、と心の中で返しながら、綱吉もうなずく。
 上っ面だけとは言わないものの、真実のごく表面をかすっただけの言葉の応酬の裏に、二人にしか分からない魂の交歓がある。
 どこか背徳的で甘美な、けれど、どうにもならない絶望的な悲哀をも背負った歓びは、自分一人で感じているものではないと分かっているからこそ、より深い。
 ───好きです。
 ───好きだよ。
 今夜起こるだろう悲喜劇すら忘れて、互いの心がそうささやき合っているような気さえする。
 馬鹿だな、と自分自身を小さく笑いながら綱吉は、高速道路に入り、いよいよ本性をあらわにし始めたSZの猛々しい咆哮に耳を傾けた。

5.

 食卓には緊迫した雰囲気が張り詰めていた。
 既に夕食──奈々が腕によりをかけて作ったものすごい御馳走だった──は綺麗に平らげられ、テーブルの上にあるのは、それぞれの湯呑みと、お茶請けにと綺麗に皮をむかれ切られた梨と柿だけである。
 その場を、たった今、家光が発した一言が支配していた。
 ───イタリアの爺さんが、ツナを跡継ぎに欲しいと言ってるんだ。
 それを聞いた瞬間、奈々の顔に浮かんでいた幸せそうな笑みが消えた。
 戸惑いと不安と……他には何だったのだろう。奈々は家光を真っ直ぐに見つめており、綱吉からは横顔しか見えなかったから、彼女の瞳をよぎったものが何だったのか、定かに見極めることはできなかった。
 ゆっくりと、湯呑みを持っていた奈々の細い手が下ろされる。
「どういうこと? あなた、きちんと説明して」
 彼女の声も表情も冷静で、真剣だった。怒りは含まれていない──今はまだ。
 向かい側の席で、綱吉は自分の湯呑みをぐっと握り締める。隣りの獄寺は、膝の上に握り締めた両手を置いたままだった。
「分かってる。……ずっと前にもお前に言ったことがあるが、イタリアの爺さんは家族と縁の薄い人で、今、身内らしい身内は俺だけなんだ。それで、俺にも昔から跡を継いで欲しいって言っていた。だが、俺は社長って柄じゃないからな、それは断って、代わりに爺さんの頼みで世界中、あちこち穴を掘って回ってきた。色々やったぜ。鉱脈探しとか油田探しとかダム建設とか港建設とか。
 でも、爺さんもいよいよ七十を越えて、跡継ぎ問題が切実になってきてな」
「……それで、綱吉に?」
「ああ。お前にはずっと黙ってたが……綱吉が十歳を過ぎた頃から、跡継ぎにはこの子しかいないと言われてたんだ。爺さんは勘のいい人で、人の素質を見抜くのが神がかり的に上手い。その目で見た時、綱吉しかいないと思ったそうだ」
 家光の言葉を聞いて、奈々は綱吉へと視線を向ける。だが、またすぐに夫へとまなざしを戻した。
「でも、あなた。十歳の頃の綱吉なんて、言っては悪いけれど、大きな会社の社長さんの後継ぎにだなんて、お話にもならないような子だったわ。それなのに……?」
「それでも、だ。小さい頃の綱吉は大人しいというよりやる気のない子供だったが、その分、自分から誰かを傷つけたりすることは絶対になかった。そして、誰かが理不尽に傷つけられていたら、それを悲しむ健全な心を持っていた。それが爺さんの欲しがっている後継者の資質なんだ。その条件は今でも変わってない」
「───…」
 奈々は家光を見つめ、それから、再び綱吉を見つめた。
「綱吉は……知っていたの?」
 奈々の瞳は、家光ほど色素は薄くないが、日本人としては明るい綺麗な薄茶色をしていて、どこまでも透明に澄んでいる。
 その瞳の前では、綱吉は子供の頃から嘘をつけなかったし、ついてもすぐに見抜かれてしまうのが常だった。
「俺は、」
「綱吉には、この間の電話で言った。俺が帰るまで黙っているよう、口止めしたのは俺だ」
 綱吉が答えるより早く、家光が割って入る。
 所詮、息子は母親にはかなわないと見込んでのことだろうが、夫が恋女房に勝てるかどうかという観点で見れば、家光のポイントも到底有利とはいえない。
 だが、かろうじて家光は、奈々の視線の前でも平静さを保っていた。
「───…」
 そんな夫の顔に何を見たのか。
 やや硬いものの静かな表情で奈々は家光を見つめ、他の男たちの面々を見渡し、大きく溜息をつく。
「……やっと全部分かったわ」
 短く呟き、再び上がったまなざしは、黒ずくめの赤ん坊へと向けられた。
「リボーンちゃん。あなたがうちに来たのも、もともとはそういう理由だったのね。私がツナの家庭教師を探していたのは、渡りに船だったんだわ」
 奈々の瞳も声も、決してリボーンを責めてはいなかった。
 事実を確認するだけの声に、リボーンはうなずく。
「ああ。あの爺さんに、跡継ぎ教育を頼まれた。日本に来て、しばらくツナを観察した結果、普通に家庭教師として雇われるのが一番だと思ったから、あのチラシをここのポストに入れた。……長い間、黙っていてすまなかった、ママン」
「そうね」
 あっさりと奈々は、リボーンの非を認めた。
「わたしに本当のことを言ってくれなかったことには、少し怒ってるわ。でも、あなたがツナの面倒を見てくれたのは事実よ。ツナは本当に、この五年で変わったもの。それも全部、すごく良い方に」
 そう言い、奈々は綱吉を見つめる。
 リボーンが来る以前の面影を探すようなそのまなざしに、綱吉が少しうろたえた時、奈々の視線は、隣りへと逸れた。
「おい、奈々。獄寺君は違う。関係ないとは言わないが、元はと言えば、俺が爺さんにツナに友達がいないって、うっかり零しちまったのが原因なんだ。彼はなーんにも悪くないぞ」
 彼女が何か言おうとした気配を察したのだろう。またもや家光が割り込む。
 が、今度は獄寺の静かな声が、それを遮った。
「いいんです。黙っていたのは、俺も同罪です」
 そう言い、獄寺は椅子から立ち上がる。そして、綱吉が止める間もなく、その場に土下座した。
「本当に申し訳ありませんでした……!」
「やめて、獄寺君!」
 深々と這いつくばったその姿に、綱吉は一瞬我を失って叫ぶ。
「母さん! 母さんだって分かってるだろ!? 獄寺君は、俺にも母さんにも嘘をついたことなんかない! 獄寺君がこれまで俺たちに見せてくれた気持ちに、嘘なんて一つもないんだよ!」
 獄寺はいつでも一生懸命、自分と自分の家族を好きでいてくれた。沢田家の面々の役に立とうと、喜んでもらおうと必死だった。
 それだけは決して疑われたくなかったから、綱吉はいつも間にか自分が立ち上がっていることにも気付かず、懸命なまなざしで母親を見つめる。
 が、獄寺の声がそれを止めた。
「沢田さん、いいんです。俺が、お母様に嘘をついていたのは本当ですから」
「ちっとも良くないよ! だって君は……!」
「そうよ、獄寺君」
 不意にやわらかな声を響かせて、奈々が立ち上がる。そして、テーブルの周囲を移動し、土下座した獄寺の前にすっとしゃがみこんだ。
「顔を上げてちょうだい。おばさん、獄寺君の綺麗な顔を見るのが楽しみなのに、それじゃ、お話もできないわ」
「え、あ、」
 優しい笑いを忍ばせた声に、うろたえた声を上げて獄寺はそろそろと顔を上げる。
 すると、やわらかく笑んだ奈々と目が合って、更に獄寺はうろたえた。
「獄寺君も大きくなったわね。最初にうちに来てくれた頃は、ツナよりは大きかったけど、それでも細かったし、まだまだ男の子って感じだったのに」
「お……母様」
 獄寺が呼ぶと、奈々はにっこりと笑った。笑うと、目じりに昔はなかったかすかなしわが浮かぶ。
 だが、それでも彼女の笑顔は若い頃と変わらず、やわらかく温かく、人の心を和ませる何かをたたえていた。
「その呼び方もね。どうしてなのかしら、って思ってたのよ。ただ礼儀正しいっていうだけじゃない気がして……。ツナが未来の社長さん候補だったからなのね」
「それは違います!」
 反射的に言葉が飛び出してしまったのだろう。言ってから、獄寺は慌てた顔になる。が、取り消そうとはせずに、ためらいながらも言葉を続けた。
「そうじゃ……ないんです。俺は確かに……沢田さんとお友達になるように言われて日本に来ましたけど、本当は心の中じゃ、その命令を面白くねーと思ってました。でも、いざ日本に来て会ってみたら、沢田さんは本当にすごい人で……」
 この場で打ち明け話をすることの許しを請うように、獄寺はちらりと綱吉にまなざしを投げかける。
 綱吉はそれを受けて、素早くうなずいて見せた。
 何を話してくれても良かった。母親の誤解が解けるのなら。獄寺の誠実さを、改めて分かってもらえるのなら。
「そして、俺にこんなことを言う資格はありませんが、沢田さんの御両親も素晴らしい方々で……。だから、貴女のことも、おこがましいとは思いつつ『お母様』としか呼べなかったんです。本当に申し訳ありません……!」
「だから、どうしてそこで謝っちゃうのかしら」
 目を丸くして獄寺の告白を聞いていた奈々は、深々と頭を下げた獄寺に、くすりと小さく笑う。
 そして、細い右手を上げて、獄寺の癖のある髪をやわらかく撫でた。
「ねえ、獄寺君。おばさんの目は節穴じゃないのよ。獄寺君が本当にツナのことを大事に思って、本当の友達になってくれたことくらい分かってるわ。あなたはうんと真っ直ぐで、嘘がつけるような子じゃないもの」
「お…母様……」
「あなたが山本君と一緒にツナの友達になってくれて嬉しかったわ。それまで、家に遊びに来てくれるような友達なんて、一人もいなかったから。毎日賑やかで、おばさんも、皆のためにおやつや御飯を作るのがすごく楽しかった。本当にありがとう、獄寺君」
 だから、もう立って、と奈々の手が獄寺を促す。
 怒ってなどいないのだから、と母親そのものの温かな微笑と手に導かれるように、獄寺は立ち上がる。
 そして、自分よりもずっと小柄な女性を、感極まったような苦しげな瞳で、じっと見つめた。
「ありがとう……ございます。本当に申し訳ありませんでした」
「いいのよ、本当に。あなたは何にも悪くないんだもの」
 座ってちょうだい、とうながして、それから奈々は、立ち上がったままだった綱吉へとまなざしを向ける。
「綱吉」
「──はい」
 改まった返事をしたのは、そうさせるだけのものが奈々の声と瞳にあったからだった。
「それで、あなたはどうするつもりなの、このお話」
 真っ直ぐに切り込んできた問いに、綱吉は小さく唇を噛み締め、無意識のうちに拳を握り締める。
「行って……みたいと思う」
 それだけの言葉を告げるのに、全身の力が必要だった。
「俺に何ができるのか分からない。でも……俺にできることがあるのなら、おじいさんが俺に何かを望んでくれてるのなら、俺は、それをやってみたい」
 だが、どれほど懸命に告げた言葉であっても、母親という存在にはたやすくは通用しない。
 奈々は、綱吉が子供の頃から変わらない、彼女が本気で息子に向かい合ったとき特有の冷静かつ諭すような口調で問いかけを重ねた。
「本当にちゃんと考えたの? あなた、今年の夏のイタリア旅行がすごく楽しかったって言ってたでしょ。それで気持ちが浮かれているんじゃないの?」
「そんなことはないよ!」
「そんなことはありません!」
 思いがけないハモりに、一同の目が獄寺に集中する。
 しまった、と獄寺は慌てた顔になったが、それでも言うべきことは言おうと思ったのだろう、「お言葉ですが、」と切り出した。
「沢田さんは、ものすごく一生懸命考えていらっしゃいました。俺はずっとお傍にいましたから、知っているんです。浮ついたお気持ちなんか、全然持っていらっしゃいません」
 真摯に訴える獄寺に、驚いた顔で聞いていた綱吉の表情が、ふっと感謝の色を浮かべて和む。そして、それは奈々も同じだった。
「ありがと、獄寺君」
「いえ……。すみません、差し出口をして」
「いいのよ、獄寺君。ツナが真剣なのはよく分かったわ」
 そう言い、奈々は小さく溜息をつく。
 そして、改めて綱吉を見つめた──いつの間にか、自分よりも遥かに背の高くなってしまった息子を、真っ直ぐに見上げた。
 十八年前から変わらない、その綺麗に澄んだ瞳で。
「私はね、あなたが本気で決めたことには反対しないようにしようって、ずっと昔から思っていたの。だから、綱吉。あなたが本気で言っているのなら、反対はしないわ。
 でも良く考えて。会社の社長になるっていうのは大変なことよ。会社には沢山の人が関わっていて、あなたの決めたことがその沢山の人に影響する。その人たちの幸せに責任を持たなきゃいけないのよ。ちゃんと分かっている?」
「──うん」
 真っ直ぐに問われて、だが、綱吉はうなずく。
「全部はちゃんと分かってないかもしれない。っていうより、まだ全然分かってないと思う。でも、今の俺に考えられるだけは考えたよ。それで決めたんだ」
「──そう」
 納得したようにうなずいた奈々の表情は、満足げというよりはどこか淋しげであり、だが、誇らしげでもあった。
「じゃあ、私はもう何も言わないわ。言わなきゃならないのは……あなたよ、家光さん」
 じろりと睨まれて、それまでうんうんとうなずきながら妻と子の会話を見守っていた家光が青ざめる。
「な……奈々。俺が悪かった。すまなかった。百回でも千回でも謝るから……」
「許すかどうかは、話を全部聞いてからよ。私はよーく覚えているけれど、四年前にあなたが急に帰ってきて、その頃ツナや獄寺君やランボちゃんが大怪我したことも、もしかしたら今回のことに原因があるんでしょう? 事によっては本当に許してあげないわ」
「奈々ぁ〜」
 泣き声で呼ぶ夫のことは無視して、奈々は息子たちの方を振り返った。
「ツナ、あなたたちは今夜はもういいわよ。獄寺君も申し訳なかったわね。嫌な思いをさせちゃったわ」
「いえ、俺は全然……。俺の方こそ本当に申し訳なかったです。何年も本当のことが言えなくて」
「いいのよ。どうせ口止めされてたんでしょ、ずるい大人たちに。それよりも、獄寺君もツナと一緒に行くのかしら?」
 その言葉に、獄寺は一瞬、綱吉へとまなざしを向ける。だが、すぐに奈々の方に向き直り、きっぱりと告げた。
「そのつもりです。沢田さんのお役に立つことが、俺の五年前からの夢でしたから」
 その迷いのない返事に、奈々の顔がほころぶ。
「そう。それじゃあ、よろしくね。ツナが泣き言を言った時には、容赦なく叱ってやって。自分が選んだことなんだから、って」
「そんな必要ないですよ。一度心を決められた沢田さんは、本当にお強いですから」
「そう? 本当にそうならいいけれど……。ツナ」
 面白さ半分、心配半分の微笑を浮かべて、奈々は息子を呼んだ。
「何?」
「良かったわね。獄寺君がいて。ずるいおじさんたちの策略の結果だけど、獄寺君に会えたことには感謝しなきゃ駄目よ」
「それは……してるよ、ずっと」
 一連の会話に顔が赤くなるのを抑えられたかどうか、綱吉は正直なところ、自信がなかった。
 しかし、ここは照れても別に不自然な場面じゃないだろう、と自分に懸命に言い訳する。
 ちらりと隣りを盗み見てみれば、獄寺も顔を赤くしており──というより、今夜はずっと青ざめているか赤くなっているかだった──、この場面では何の役にも立ちそうになかった。
「じゃ、じゃあ俺は今夜はそろそろ失礼します。夕飯をご馳走様でした。今日もめちゃくちゃ美味かったです」
「お口に合ったのなら良かったわ。また食べに来てね」
「はい、ご迷惑でなければ」
「迷惑なわけないわよ。おばさん、料理するの大好きだもの」
 にっこり笑って、奈々は今夜のことは気にしないでとばかりに、獄寺の胸を軽くぽんぽんと叩く。
 気安い愛情のこもったその仕草に、獄寺の顔がまた、感極まったように歪んだ。
「それじゃ、失礼します」
「気をつけて帰ってね」
「今夜はすまなかったな、獄寺君」
「いいえ。また何かありましたら、いつでも呼んで下さい」
 口々に挨拶を交わし、いつものように見送りに出た綱吉と共に、獄寺は沢田家の玄関を出る。
 そして、門のところで二人は立ち止まった。
「何とか終わったね」
「ええ。良かったですね、十代目」
「そうだね。母さんがああいう人で良かった」
 心の底から綱吉は言った。
 奈々が今夜、もしひどく取り乱したり、ヒステリックに夫や息子、そして息子の友人を責め立てたりしていたら、彼女自身を含め、全員が取り返しのつかないような傷を心に負うことになったかもしれない。
 けれど、彼女はそれとは真逆の態度を取ったのである。
 ロマンチックが大好きな女性ではあるが、一方で冷静かつ愛情深い判断力をも持ち合わせている。そんな彼女の性格が、今夜、綱吉も獄寺も共に救ったのは間違いなかった。
「素晴らしい方です。お母様も、お父様も」
「そうなんだろうね。俺は幸せなんだと思うよ」
 自分ではなかなかその価値に気付かないけれど、と綱吉は小さく微笑む。
「獄寺君もありがとう。君の言葉、どれもこれもすごく嬉しかった」
「それは俺の台詞です。本当にありがとうございました」
 そして、二人は互いの瞳を見つめた。
 満月を幾日か過ぎて欠けた月が、東の空から淡い月光を投げかけて、獄寺のフープピアスを、そして綱吉の首元から覗く細い銀鎖を白く輝かせている。
 ───キスをしたい、と不意に欲望が込み上げる。
 それは至極簡単だった。ほんの少し、数十センチの距離を詰めるだけで叶う。 
 が、それは十字架を背負うことだった。そして、自分たちは到底、その重さに耐えられない。
 だから、二人とも何にも気付かなかった……相手の瞳に浮かんでいたかもしれない色にも、相手の瞳に映っていたかもしれない自分の瞳の色も見なかったふりをして、どちらからともなくそっと同時に身を引いた。
「じゃあ、また明日ね」
「ええ。今夜はゆっくり休んで下さい」
「獄寺君も。おやすみ」
「おやすみなさい」
 ぺこりと頭を下げて、門を出た獄寺は振り返らずに歩き去ってゆく。
 その後姿が角を曲がって見えなくなるまで見送って。
 綱吉は小さな溜息をつき、自分の唇に軽く指先を触れてから、欠けた月を見上げ、そして、ゆっくりと家の中に戻った。

6.

「じゃあ、結局あの後は、お母様は特に何もおっしゃらなかったんですか」
「うん。父さんは夜中過ぎまでこってり絞られてたみたいだけどね。俺はあのままいつも通り……まあちょっと寝つきが悪かったけど、それでも十二時前には寝ちゃったから。で、朝起きた時には、父さんはまだ寝てたし」
 本当ならば父親が起きるのを待っているべきだったのかもしれないが、それでも綱吉が日曜の昼前に家を出てきたのは、何となく母親と二人で……たとえ過ごす部屋が別々であっても、居るのが微妙な気分だからだった。
 もちろん、母親の態度は何も変わらない。息子や夫がどんな打ち明け話をしようと、それで態度を変えるような女性ではない。
 それでも綱吉の中には、まだ少し割り切れないもやもやしたものがあり、それが母親との距離をほんの少しだけ空けたがっている。
 ぼんやりと形を成していない割に、すぐに薄れて消えるかどうか確信の持てないそれは、おそらく罪悪感に一番よく似ていた。
「だから、父さんが何をどこまで話したのかは分からないんだよ。今日帰ったら確認しようとは思ってるんだけど……」
「そうですか……」
 考えるように獄寺は呟く。
 二人の間にあるテーブルには、いつものイタリア語のテキスト代わりにしているスポーツ雑誌が広げられているが、どちらも今日は、積極的にその文章を追おうとはしていなかった。
 短いメールを先触れにして部屋を訪れた綱吉を、獄寺はいつものように招き入れ、日当たりのいい部屋でコーヒー片手にぽつりぽつりと言葉を交わしている。
「とりあえず、母さんに対してはこれで一段落って考えていいのかな」
「そう思います。時間が経つにつれて、またお母様の中で色々と疑問や心配が浮かんでくるとは思いますが、それはその時その時に対処すればいいでしょう。先回りしてあれこれ説明すると、返ってその言葉に縛られて、身動きが取れなくなることも考えられますから」
「そうだね。でも、いちいち辻褄合わせをするのは気が重いなー」
 綱吉が溜息をつくと、獄寺は困ったような微笑を浮かべて見せた。
「俺も目一杯、サポートしますから。何とかクリアしましょう」
「……うん」
 うなずいて、綱吉も同じような笑みを返す。
 辻褄合わせをしなければならないのは、奈々に対してばかりではないし、今回ばかりでもない。真実を知らない全ての人々に対して、生涯続けなければならないことなのだ。
 そして、既にここまでの数年の間に、級友たちに対するさりげない嘘程度であれば、自然に口をついて出てくるようになっている。
 それがもっと頻繁に、そして巧妙に行われることになる。つまりは、それだけのことだった。
 それだけのことにいちいち窒息しそうになっているわけにはいかない、と綱吉は改めて心に刻み込む。
 そして別の問題の方に、自分の関心を引き戻した。
「あと、リボーンからの伝言なんだけど」
「はい」
「月曜……つまりは明日から、本格的に俺のボス教育を始めるから、君も参加するようにって」
「……はい」
 綱吉の言葉に、きっぱりと獄寺はうなずいた。
 端整な顔に浮かぶ硬質な表情は、昨日のカラオケボックスで見たものと同じで、自分が浮かべている表情も同じようなものなのだろうと綱吉は思う。
 そして、二人共に内面をうかがわせないその表情が、この先も増えてゆく。
 それは予感でも何でもない、冷たく硬質な確信だった。






 夕刻、綱吉が獄寺と共に帰宅した時、父親の家光は既に発った後だった。
 奈々に預けられていた伝言は、また連絡する、の一言のみで、結局、父親と母親との間でどんな話し合いがあったのかは分からないままだった。が、少なくとも奈々の機嫌は悪くなく、獄寺に向ける笑顔も、前日までとなんら変わりはなかった。
 そして、いつもと同じ時間が過ぎ、夕食まで共にした獄寺も夜八時過ぎに帰って、また母親と綱吉、それからリボーンだけが沢田家には取り残された。
「母さん」
 風呂に入ってくる、とリボーンがダイニングキッチンを出て行ったところで、綱吉は湯飲みを手にしたまま、母親を呼んだ。
「なあに?」
「ごめん、色々と」
 短い謝罪の言葉に、奈々は目をまばたかせて小さく首をかしげる。
「あなたが悪いわけじゃないでしょ? 夕べ色々聞いたけれど、ほんの子供だったあなたの意思なんか関係なしに、次の社長さんにって決めていたのは、おじい様と家光さんだっていう話だったわよ」
「それはそうなんだけど」
 どう言ったものか、と綱吉は少しだけ言葉を捜した。
「本当はさ、俺も何にも気付いてなかったわけじゃないんだ。リボーンと獄寺君だけじゃなくて、ランボにイーピンにビアンキにフゥ太に、って立て続けにイタリアから人がやってきて、色々と騒ぎもあって」
「ええ。中学生の頃からあなたたちは良く怪我したりしてたけど、それも全部、跡継ぎ争いに巻き込まれた結果だったんですって?」
 そう説明したのか、と内心で納得しながら、綱吉はうなずいた。
「みたいだね。……でも、俺はあんまり追及しないようにしてたんだ、ずっと。下手に追求すると、余計に面倒なことになりそうな気がしたから。ずっと、俺には関係ないって思おうとしてた」
 半分嘘で半分真実──少なくとも、中学二年生の頃までは逃げようとしていた──を、静かに告げる。
 これが全て真実だったら良かったのに、とかすかに思いながら。
「でも、俺の中に、もしかしたら俺にもできることがあるのかな、っていう気持ちが少しずつ生まれてきてて。それで、父さんから話を聞いた時に、やってみたいと思ったんだよ」
 自分がこうして話をすることで、母親が少しでも傷つかないですむように、と願いながら綱吉は続けた。
「だからって、俺に何ができるのか分かってるわけじゃないし、きっと他に、俺よりもっと上手にやれる人は幾らでも居るだろうって思ってる。でも……俺でなきゃ駄目だって言ってくれる人がいるのなら、そして、俺に本当に何かができるのなら、やってみたいんだ」
「──私は何にも言わないわよ、綱吉」
「え?」
 笑みを含んでやわらかく響いた声に、綱吉は顔を上げる。
 すると奈々は微笑み、両手に持った湯飲みを小さく揺らした。
「昨日も言ったでしょう? あなたがやりたいと思ったのなら、やればいいわ。ただ、途中で投げ出すのは駄目。自分に無理だと思ったときも、簡単に投げ出すんじゃなくて、次の人にちゃんと引き継ぐのが大人のやり方よ。それが、責任を果たすということ。それさえ守って、あなたが毎日ちゃんと生きていってくれれば、私は十分なの」
「……母さん」
「ふふっ。リボーンちゃんが来るまでのあなたは、本当にやる気のない子だったのにね。なのに今は、こうやって真っ直ぐに相手の目を見て、伝えたいことをちゃんと伝えられるようになるなんて。男の子って、本当に変わるのね」
 微笑んだ奈々の目が、綱吉を見つめる。
 嬉しげに、誇らしげに。
 そして、いとおしげに。
「頑張りなさい、綱吉。あなたにはきっと、それだけの力があるわ。昔のあなたには言えなかったけど、今なら言える。あなたは大丈夫よ。イタリアに行っても、一人ぼっちでもないんだから」
「……うん」
「昨日も言ったけど、獄寺君のこと、大事にしなさいね。あんな友達は、滅多に出会えるものじゃないわ。彼は本当にいい子よ。優しくて、真っ直ぐで」
「うん、分かってる」
「ええ」
 うなずいて、奈々はそっと一口、やわらかく湯気の立ち昇るお茶を含んだ。
「ねえ、イタリアに行って落ち着いたら、私を招待してね。行ってみたい所がたくさんあるのよ。とっても綺麗な国だもの。昔、結婚前にお父さんと一緒にリバイバル上映の『ローマの休日』を映画館で見て、ものすごく憧れたのよ。ヘップバーンの王女様が本当に綺麗で素敵で、ジェラートがうんと美味しそうで」
「父さんに連れて行ってもらうんじゃなかったの?」
「だって、お父さん忙しいんだもの。当てにしてたら、いつになるか分かったものじゃないわ。だから、あなたに頼むのよ」
 屈託なく奈々は笑う。
 だが、綱吉は、自分が居なくなれば必然的にリボーンもこの家を立ち去り、母親だけが一人残ることに気付いて、背筋がすっと冷えた。
 彼女は強い。
 豊かな愛情に満ちているから、たやすく折れることもない。
 けれど、彼女が毎日、一人分の食事を作り、一人で食事をする光景を想像することは心が拒絶する。
「母さん、母さんはイタリアに住む気はないの?」
 思わず綱吉は、そう口走っていた。
 脳裏では反射的に、それは危険すぎる、と警鐘が大きく響く。
 身内は少なければ少ないほど、遠ければ遠いほどいい。それは裏社会に生きる人間の鉄則だ。
 けれど。
「大丈夫よ。私のことは心配しなくてもいいの」
 奈々は朗らかに笑った。
「もちろん寂しくはなるけれど、でも一人なら一人で、やりたいことは色々あるのよ。プリザーブドフラワーとかフラワーアレンジメントとかも習いたいし、お友達と旅行にも行きたいし。でも、そうね。時々はイタリアに遊びに行くと思うわ。その時は追い返さないで、一緒に御飯くらい食べてくれると嬉しいわね」
「──うん。美味しいお店、いっぱい探しておくよ。獄寺君やおじいさんにも聞いて」
「ええ、楽しみだわ」
 そう言って笑う彼女の微笑みは、やわらかく、そしてたとえようもなく豊かだった。
 こんこんと尽きることのない愛情が、綱吉を満たし、ダイニングキッチンを満たし、家中に溢れてゆく。
 それはこの十八年、あるいは、それ以前からずっと続いていたものだった。
 そして、これからも彼女が居る限り、きっと続く。いつか彼女が居なくなっても、輝くような愛情の記憶は薄れず、消えることもない。
 それは紛れもなく、ありふれているようでどこにもない、一つの奇跡だった。
「母さん」
「うん?」
「ありがとう」
 心の底からの言葉に、彼女は微笑む。
「どういたしまして」
 茶目っ気を含んだ答えは、優しく、温かく響いて。
 この夜のことを──やわらかな湯気を立てるお茶、静かなダイニングキッチン、綺麗に片付けられたテーブル、そしてその中心にいる母親と自分。
 その全てを、きっと一生忘れない、と綱吉は思った。

to be continued...





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