Good-by, my friend

4.

 【10/14 PM 12:30】


 海水浴シーズンをとうに通り過ぎた江ノ島海岸は、どこかがらんとして静かだった。
 サーフィンの名所でもあるはずだが、今日は風の殆どないべた凪のために、ボードを持った人間すら海岸近辺にはまったくいない。
 おそらく夕方になれば、犬の散歩をする人や学校から帰宅して遊ぶ子供たちの姿も見られるのだろうが、少なくともこの時間帯には、道路から砂浜をざっと見回しても人影は一つもなかった。
 だが、それでも海岸通りや駅に続く道に並ぶ飲食店や土産物屋は、所在なげにしながらも店を開けている。平日の昼間なだけあって、客の姿はやはりまばらだったが、その静けさは不思議に居心地の悪いものではなかった。
「あ、水族館」
 同じ海でも並盛海岸とは少し潮の香りが違うな、と思いながら駅前の観光案内看板を見ていた綱吉は、その中でも目立つデフォルメされた建物を指差した。
「行ってみます?」
「場所は……あ、すぐそこだ。あっち?」
「そうですね。134号線沿いですから、多分、あの建物の向こう側くらいですよ」
「行こうか」
「はい」
 駅自体はとても小さいのに観光地然とした周囲の風景を物珍しそうに見回しながら、綱吉が歩き出す。
 獄寺が予想した通り、駅の横を抜ける細い道から海岸通りに出ると、水族館の建物は右手方向の海岸沿いに大きく見えた。
 海遊びの季節ではなくとも、そろそろ秋の行楽シーズンである。こういった類の施設のであれば幼稚園や小学校の遠足とかち合ってもおかしくなかったが、今日は団体客もないらしい。入場券売り場も開いている窓口は一つだけで、建物内も外以上に静かだった。
「こういう所に来るの、久しぶりだね」
 新と付くだけあって、新江ノ島水族館は設備は古くなく、水槽もよく手入れされている。
 円筒形の水槽の中で、美しい色と形をしたブルージェリーという名のくらげがふわりふわりと水流に漂っているのを面白げに見つめていた綱吉が、ふと獄寺を見上げて小さく微笑みかけた。
「そういえば、そうですね」
 綱吉の言う通り、中学生の頃は、あちらこちらに遊びに行った。いつも十人近い団体で、動物園や遊園地や海や山や公園や……。
 どこに行ってもにぎやかで、騒動が耐えなかった。
 けれど、もうそれも過ぎた昔の話だ。
 沢田家の居候は、家庭教師のリボーンを残して、ビアンキもランボもイーピンもフゥ太も、それぞれの居場所へと帰っていった。
 並盛中学で一緒だった連中も、それぞれの進路へと進んでいって、今では山本を除いては会うことさえ数ヶ月に一度のペースとなっている。
 最近でも、京子やハル、黒川まで含む面々が集まったのは、夏休みの終り、山本の甲子園祝勝会が最後だった。
 いつもの竹寿司で、上機嫌の山本の親父さんが握ってくれる寿司を堪能しつつ、馬鹿みたいに騒いで。
 それが今年の夏の最後の思い出だった。

「獄寺さん」
料理が山積みにされたテーブル席の周囲で、綱吉と山本、
そして了平が、何やら楽しげにしゃべっている。
その様子をカウンターの端に寄りかかるようにして眺めていた獄寺に
いつの間にか移動してきたらしいハルが声をかけた。
「―――」
獄寺はもう昔のようにハルに突っかかったりはしない。
だが、代わりに自分から声をかけるほどの関心も持たない。
今も感情のない瞳で見やっただけだった。
ハルは肩までの長さの髪を下ろし、手にはジュースのグラスを持っている。
女子高生らしい淡い色のリップだけをつけた顔の中、
友人たちには背を向け、
獄寺を見上げる彼女の大きな瞳は怖いほどに真剣だった。
「獄寺さんは、ツナさんと行くんですね」
「……何の話だ」
「進路の話です」
腹芸も駆け引きも何もなく、馬鹿正直にハルは言った。
「ハルも行きますから」
「……何が言いたいんだか知らねーが、
十代目……沢田さんは何もおっしゃっていない。
勝手に決め付けんな」
「決め付けてません。ハルには分かってるんです」
ハルのまなざしはどこまでも真っ直ぐだった。
何年もの間、真実を真っ直ぐに見つめ続けてきた瞳。
迷いも疑いも、かけらすらない。
「ハルはツナさんを知ってます。
獄寺さんがハル以上に、ツナさんしか見てないことも」
「────」
「ツナさんは獄寺さんは一緒に連れて行くのに、
山本さんや京子ちゃんのお兄さんだって一緒に行くのに、
ハルのことは連れて行ってくれません。
分かってます。
だから、ハルは付いていくんじゃなくて自分で行くんです」
そう言った彼女の目を何と評すればいいのだろう。
狂信、妄信。
そのどちらにも当てはまるようでありながら、どちらでもない。
彼女は本当に『知っている』だけなのだ。
何年もの間、綱吉だけを見つめてきた者にだけに分かる感覚で。
「ツナさんのいない日本になんか、ハルは用はありません」
きっぱりと言い切る。
お前のその決意を十代目は喜ばない、と言いかけて、
獄寺はその言葉を喉元で飲み込んだ。
綱吉は、きっと誰の決意も喜ばない。
相手がハルでなくとも、山本でも了平でも、獄寺でも。
「……お前、一人娘だろ。親はどーすんだ」
自分らしくない常識的な言葉だと思った。
けれど、言ってやらなければならなかった。
真っ当な血筋の真っ当な家庭に生まれたのに、
自ら地獄に身を投げようとしている少女──否、一人の女に。
「……留学したいって言ったら賛成してくれました。
ハルが一生懸命生きていれば、喜んでくれます。
お父さんも、お母さんも」
そう言いながらも、感情豊かな大きな瞳に苦悩の影がよぎる。
獄寺は容赦しなかった。
「ボンゴレがお前を受け入れようと拒絶しようと、
ファミリーの周囲にいれば、必然的に縁者とみなされる。
親より先に逝くかもしんねーんだ。
場合によっちゃ、家族だって巻き込まれる」
「────」
「もう一度考え直せ。
……沢田さんは、まだ本当に何もおっしゃってない。まだ時間はある」
「──行きます」
「……おい」
「行きます。ハルはもう決めたんです」
泣きそうな顔で、それでもハルは言い張った。
見上げる瞳は、涙の一粒すら零さない。
もう既に散々悩んで、泣いた後なのだと高らかに告げているようで。
「──馬鹿だな、てめーは。救いようがねえよ」
その言葉に、ハルはどこか無理やりに笑った。
「獄寺さんだって一緒です」
「……かもな」
初めて彼女の意見に同意して、獄寺は手にしていたグラスの中身、
山本父が今日は祝いだから、と特別に出してくれた焼酎のロックを一口煽る。
二人きりの会話は、それで終わりだった。


 湘南は観光地としては、隣接する鎌倉を含めずに考えると規模の大きなものではない。
 展示内容は充実しているものの、さほどの広くはない水族館をゆっくり見て回った後、二人は携帯情報で見つけた居心地のいい小さな甘味処でのんびり休憩し、それから駐車場に車を置いたまま、江ノ電に乗った。
 よそ者にはどこか郷愁を感じさせる小さな駅を繋いだ小さなローカル線は、海岸線のぎりぎりを走る。
 傾きかけた晩夏と初秋の境界にある日差しを受ける海は穏やかで、どこまでもきらきらと輝き、イタリアの海とはまったく別種の美しさを見せている。そのきらめきが見えている間、二人は殆ど無言だった。
 そのまま終点の鎌倉まで行き、駅前の鳩サブレの看板に気付いた綱吉が、「俺も母さんも好きなんだ」と大箱を嬉しげに買い、そしてまた、江ノ電に乗り、車を停めてある海岸近くの駐車場まで戻る。
 無計画もいいところの湘南徘徊だったが、綱吉は終始楽しそうだった。
「さてと。そろそろ帰りますか?」
 ひとまず駐車場でSZに乗り込んだ獄寺が問いかけると、綱吉は機嫌の良さそうな顔のまま、小さく首をかしげた。
「んー。せっかく来たんだし、もう少し海が見たいかな」
「じゃあ、今度は134号線を西に向かって走りましょうか。適当なところで車、停めますから」
「うん、よろしく」
 うなずく綱吉は屈託ない。
 獄寺も微笑んで、西日よけのサングラスをかけ、車を発進させた。
 134号線は海岸通りの呼称の通り、湘南の海に沿って東西に走る。夕方のラッシュにはまだ早いのか、交通量もそれほど多くはなく流れはいい。
 だが、綱吉のリクエストを考えると、スピードを出しすぎるのもな、と獄寺は敢えてアクセルを緩め気味にSZを走らせた。
 そして、時間にして十分ほど走ったところで、ちょうど停めても邪魔にならなそうな幅の広い路肩を見つける。スピードを緩めて車を寄せると、その路肩が広いのは、そこから砂浜へと降りるコンクリート製の階段があるからだということが見て取れた。
 それならとパーキングブレーキを上げ、エンジンをも切ると、綱吉が不思議そうな顔で獄寺を見る。
「獄寺君?」
「そこの階段から少し浜に下りませんか? せっかく来たんですし」
 サングラスを外し、そう提案すると綱吉の表情が、ぱっと明るくなった。
「うん」
 手際よくシートベルトを外し、ドアを開けて降り立つ。そして、潮の香りのする風を胸いっぱいに吸い込むと、綱吉はゆっくりとした足取りでコンクリート製の階段を降り始めた。
 獄寺もSZにロックをかけて、その後を追う。
 日は傾いているが、夕方というには少し早い。綱吉は眩しそうに目を細めながら、淡い金色を帯び始めた日差しに燦然と輝く海へとまなざしを向ける。
 そして、くすんだ白茶色の砂に足跡のくぼみをつけながら、相変わらずのゆっくりとした足取りで波打ち際まで歩み寄った。
 寄せては返す波を数えるように、あるいは水平線の彼方を思うように海を見つめる綱吉を、獄寺もそっと見つめる。
 そんな静かな時間がどれほど過ぎただろうか。
 綱吉がゆっくりと振り返った。
「獄寺君」
 やわらかいのに良く透る声が、獄寺を呼ぶ。
「はい」
 獄寺も静かに答え、続く言葉を待った。

 ───何が告げられるのかは、分かっていた。

 昨夜、日付が今日に変わった瞬間に電話を受けた時から、分かっていたのだ。
 今日という日の意味も、昨夜の電話に込められた小さな小さな綱吉の願いも。
 今日の綱吉は、一分一秒を惜しむかのように今という時間を楽しもうとしていた。
 その様は、今日で世界が終わるのだと言われたら信じてしまうほどに切実だった。
 もちろん、楽しそうな様子は演技ではない。本当に彼は、こんな風に日常から遠く離れて過ごす時間を楽しみ、いとおしんでいた。
 ただ、度が過ぎるとでも言えばいいのか、あまりにも何もかもから幸せを感じ取ろうとしていたから、かえってその心が獄寺には透けて見えたのだ。
 そして、綱吉が屈託のない笑顔の下に隠していたものは、獄寺が隠していたものと同じだった。
 ───今日で全てが終わる。
 沢田綱吉という何の肩書きも持たない少年の、最後の休日。
 その日を共に過ごす相手に自分を選んでくれたことは、泣きたくなるほどに幸せだった。
 そして、今日という日が思い出という名の過去に変わる瞬間に立ち会わなければならないことは、泣きたいほどに辛かった。
 けれど、獄寺は自分の内心の想いを綺麗に隠して、綱吉を見つめる。
 すべてを受け入れる覚悟は、とうにできていた。

to be continud...





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