愛せよ、汝、能る限り

2.

「可哀想にな……」
 朝早い時間帯ならば、真夏の日差しといえども幾分涼やかで、気温もまだそれほど暑くは感じない。
 加えてこの季節、早朝から日が昇り切る頃にかけては、街の向こうから届く海風が心地よく吹き付けてくるおかげで、広場に面したバールは、屋内のカウンターやテーブルよりも、広場にはみ出した屋外テーブルの方が客で埋まっている。
 その一番端の方の、つまりは広場の中央に最も近いテーブル席に、ディーノは腰を下ろしていた。
 Tシャツにヴィンテージ・ジーンズというラフな格好で、テーブルの上にもエスプレッソにグラッパを垂らしたカフェ・コレットと、先程までブリオッシュが乗っていた皿が並んでいる。それを見る限り、彼が決して小さくはない、むしろ中部イタリアでは五指に入るファミリーのボスだとは到底思えない。
 だが、キャバッローネが本拠とする小さなこの町では誰もがディーノのことを知っていたし、彼がこんな風にお気に入りのテーブル席にいれば、誰もが気さくに声をかけてゆく。
 町の大人のほとんどが、まだ小さな少年だった頃の彼のことを覚えているせいもあるだろう。彼らの中には、地位ある男性に対する『ドン』の敬称すらつけずに呼びかける者も少なくなかった。
 無論、ディーノは小さくないファミリーのボスであり、また単独行動ができないその性格から、直ぐ隣りのテーブルにはロマーリオと、彼と同じくらいの信頼を置くアキーレが陣取って、今年のワインの出来の予想をしているし、その周囲も幾つかのテーブルを彼の部下が占めている。
 ラフな格好のディーノとは違い、彼らはきっちりとダークスーツを着込んでおり、見るからに堅気の人間ではなかったが、もとより観光名所でもないこの町によそ者がやってくることは滅多になく、そして、町と住人を守ることを何よりの使命としている彼らを恐れる者も、地元民にはいなかった。
「ボス、何か言ったか?」
「ああ、いや。独り言だ」
 広場を満たす朝の喧騒の中、小さな呟きを耳聡く拾い、尋ねてくるロマーリオに、ディーノは何でもない、と軽く笑んで片手を振る。
 そして、一人きりになれない自分の体質は、時々難儀だな、と思った。
 部下たちは皆有能で、ボス思いのありがたい奴らばかりなのだが、その代わり、ディーノが少しでも沈んだ顔をしたり、咳をしたりするだけで反応する面倒見の良さをも持ち合わせている。
 おまけに男くさい連中であるがゆえに、ボスが元気がないのはカフェの可愛い女の子に彼氏がいるのが分かったからだとか勝手に推測され(たまに当たっていることもあるが)、そうっとしておいてやろうなどと男ならではのお節介な気を回されたりもすることも少なくない。
 ゆえに、そんな彼らの目の前で物思いにふけることは、事実上、禁止事項といってよかった。
 無論、一人きりで自室に閉じこもれば話は別だが、ディーノ自身がそんな孤独な真似をするのが大嫌いであるため、これまたどうしようもない。
 結論として、彼らにあまり詮索されたくないことを考えるには、こんな風にカフェで銘々がくつろいでいる時が、まだ一番マシなのだった。
 俺の場合はこんなもんだが、とディーノは、部下たちがそれぞれに談笑したり、広場を通りかかる女性の品定めをしたりしているのを眺めながら、考える。
(あいつらは、どうするんだろーな)
 つい先日、ローマのホテルで会った二人の年下の青年──そろそろ少年とは呼べなくなってきた──を思い返すと、何ともいえない気分になる。
 彼らに会ったのは、半年ぶりくらいになるだろうか。
 成長期もそろそろ終わりを迎えたらしく、身長はもうさほど変化していなかったが、雰囲気はがらりと変わっていた。
 もう少し正確に言うなら、研ぎ澄まされてきた、とでも表現するべきだろうか。
 刀剣が鍛えられ、磨かれるように、二人の内側から子供らしいやわらかさが急速に消えつつあるのが感じられた。
 おそらく、とディーノは弟分の瞳を思い出す。
(ツナはもう、覚悟を決めたんだろうな)
 この時期にイタリアに来るということ自体、それを宣言しているようなものだ。
 ボンゴレ十世になることを表立って拒む発言をしなくなった綱吉が、単なる観光目的でイタリアに来たと言って納得する者は、少なくとも関係者の中にはいないだろう。
 ましてや綱吉個人をよく知るディーノは、綱吉が自分の立場を棚上げして単なるイタリア観光旅行をするほど、無神経かつ無責任な性格の持ち主でないことも良く知っている。ゆえに、今回のイタリア旅行は、心の足場を固めに来たのだとしか思えなかった。
(辛い、よな……)
 綱吉とて、強制されてボスになるわけではない。彼が自分で選んだことだ。だが、なりたくてなるわけでもないだろう。
 考えて考えて、大切なものを守るためには、それが必要だと覚悟を決めたのに違いない。
 ディーノも事情は違えど、大切なものを守るためにボスになったという経緯だけは同じだったから、綱吉の気持ちも痛いほどに分かる。
 どんなに綺麗事を並べたところで、マフィアはマフィアだ。時には汚い、後ろ暗い決断を迫られることも少なくない。そんなものにならないで済むのならば、それに越したことはないのである。少なくとも、温かな家庭で愛情深い両親によって育てられた子供なら、そんな道は望まなくて当然だろう。
 だが、彼はそれを選んだ。
 その先に続くのは、ディーノが歩んでいるのよりも更に数段厳しい茨の道だ。あの平和な国で愛情深く育てられた子供は、この先もこれまで以上に傷つき、苦しまなければならないだろう。
 わずかに救いがあるとすれば、彼は決して一人ではないということではあるが。
(でも、なー)
 軽く眉根を寄せて、ディーノはカフェ・コレットを一口すする。
 脳裏に浮かぶのは、数日前のローマのホテルの夜、ラウンジでの一時だった。
 その日のピアニストがデートがあるとステージを放り出した際、ディーノは半分悪戯心から居合わせた獄寺にピアノの演奏を頼んだ。もちろん獄寺は最初は嫌がったが、ピアノがベーゼンドルファーのインペリアルだと言った途端に目の色が変わり、さして押し問答もなしに了承してくれたのである。
 そこまでは良かった。問題は、その先だった。
 どんな名ピアニストであれ、本気で弾く前には数曲分の指慣らしが必要になる。スポーツと同じで、指の腱や関節が温まらなければ、技巧を凝らした難曲を弾きこなすことはできないからだが、あの夜、獄寺が一番最初に弾いたのはリストの『愛の夢 第三番』だった。
 超絶技巧を駆使するのが常のリストの他の曲に比べれば平易な部類に入るかもしれないが、一週間以上ピアノに触れていなかったというアマチュアが、いきなり弾くレベルの曲ではない。
 正直、ディーノは度肝を抜かれ、思わずそれを口にしたのだが、しかし同席していた綱吉は、むしろディーノが驚いていることに驚いたようで、いつも最初はこれですよ、と言ったのだ。
 そうして獄寺のピアノの才能について幾許(いくばく)かの会話を交わし、また二人して彼の演奏に聞き入っていたその最後、『ラ・カンパネラ』の曲の途中で、ディーノはある事に──あるいは気付くべきではなかったことに──気付いた。
 美しくも激しく、物悲しい『ラ・カンパネラ』。
 獄寺の演奏は圧巻だった。
 あの場に居合わせた客は、彼がプロのピアニストでないとは思いもしなかっただろう。十小節目に差し掛かる頃には、賑やかだった客たちの談笑も止み、ラウンジにいた全ての人間が、美しく磨き抜かれた水晶の粒が溢れ出すようなピアノの音に聞き入っていた。
 ディーノ自身もその美しいきらめきに浸りながら、酒と食事、そして会話を楽しみに来た客を、リサイタルホールの観客へと一変させた獄寺の才能に改めて感じ入り、そんな彼をどんな目で見ているのか、と綱吉へと目を向けたのだが。
(あの時、ツナは獄寺しか見てなかった)
 音楽に酔っている、というぬるい風情ではなかった。全身全霊、五感の全てで獄寺の奏でる音を受け止めている。ディーノの目にはそう見えた。
 そして、その綱吉の様子と、ホテルのラウンジでの演奏としては異例の、ただし獄寺としては自然な演奏スタイルである感情の全てを込めた音に、ふと一番最初に聞いた『愛の夢 第三番』が思い出されたのだ。
 ──愛せよ、汝、能る限り。
 多少クラシックに造詣の深い者ならば、『愛の夢』全三曲は、当時のドイツ・ロマン派詩人の詩にちなんで作られたものであることは知っている。その中で最も有名な第三番。その冒頭に掲げられた詩が、”O lieb, so lang du lieben kannst ”、つまり「愛しうる限り愛せよ」なのである。
 それだけならば、別に意味はない。
 だが、 いつも指慣らしには『愛の夢 第三番』を弾くという獄寺。
 そんな獄寺のピアノの音を全身全霊で受け止めている綱吉。
 そして、フライリヒラートの詩。
 ──愛せよ、汝、能る限り。
 その瞬間、それらの全てがディーノの中で一本の糸に繋がった。
 その時の気分は、まさか、という思いと、まさかとは思いながらも不思議と納得する思いが半々だった。
 もとより獄寺と綱吉は一緒に行動していることが多いし、獄寺の綱吉に対する敬慕と忠誠心は勿論のこと、綱吉の獄寺に対する信頼の厚さも疑いようがない。だが、その根底に特別な感情があるかもしれないとは、それまで殆ど疑ったことはなかったのだ。
 殆ど、というのは、主に獄寺の言動があまりにも一途で度を越していたことから、もしかしたら、というくらいは考えたことがあったからである。が、年齢を重ねるにつれて、獄寺の言動も落ち着いてきていたから、そんな考えも最近ではすっかり忘れていたのだ。
 ましてや綱吉の側に、そんな感情があるなどとは思ってみたこともない。
 だが、そうであるにもかかわらず、綱吉と獄寺という組み合わせは、ディーノの中ですんなりと腑に落ちた。
 それは、おそらく二人がこれまでに、単なるボスと部下の範疇を越える深い絆を築いてきた過程をディーノが見てきていたからだろう。
 絆という意味では、山本や了平も同じだったが、獄寺には綱吉に対する彼らにはない入れ込み方があり、その分、綱吉の信頼の形も、獄寺に対しては山本や了平とは少し違う形をとっているように見えていたのだ。
 ある意味、それは獄寺が守護者の中では一番危なっかしかったからもしれない。
 少なくとも彼らが中学生の頃は、他の守護者には全面的にその場を任せられるのに対し、獄寺に対しては綱吉は信頼しつつも、常に心配をせずにはいられないようだったのである。
 そんな綱吉の感情の動きが、一途に捧げられる獄寺の感情とあいまって、特別な化学反応を起こしたと考えれば、いつしか獄寺を特別に考えるようになった綱吉の心の変化も理解できないものではなかった。
 そんな風に思いをめぐらしつつ、何でもない表情で内心の驚きを隠しながら、ピアノを弾き終えて戻ってきた獄寺と、彼を迎えた綱吉の表情を半信半疑で注意深く眺めて。
 ディーノは二人がそれぞれに感情を抑え、相手にすら気付かせまいとしていることに気付いた。
 表情にも、そして相手を見つめるまなざしにすら秘めた感情が映ってしまわないように、何気なさで全てを包み隠してしまっている。
 まだ十八歳にもならない二人が、そんな芸当を身に着けているということは驚きだったが、逆にそのことは、彼らの感情の深さ、そして覚悟の強さをディーノに知らしめた。
 おそらく綱吉も獄寺も、想いを周囲に隠すどころか、相手に伝える気さえないのだろう。
 ディーノ自身は同性同士の恋愛に偏見はないが、男くさい裏世界では拒否感を示す者も少なくないし、たとえ偏見がなくとも、恋愛感情ゆえに獄寺を右腕として贔屓しているのだと周囲に思われたら、それは綱吉にとっても獄寺にとっても大きなマイナス素因となる。
 万が一そういう事態になったとしたら、それこそ本当に距離を遠く隔てることくらいでしか、妬みや蔑みを逸らすすべはないだろう。あるいは、獄寺が長い時間をかけ、実績を積み重ねて、実力で右腕の地位にあるのだと示すか。
 そんな苦労をするなら、もしくは相手に苦労をさせるくらいなら、と二人は沈黙を選んだのに違いない。
 日本育ちで、守護者も過半数が日本人である綱吉にとって、イタリアの裏社会で生まれ育った獄寺は貴重な水先案内人であり、綱吉が正式に十世を襲名したあかつきには、周囲との調整役をも担うことになる。
 ゆえに獄寺は決して失えない人材であり、獄寺にとっても、綱吉は唯一無二の主人だ。
 ボスと右腕として、そして個人としても互いを失うことなど考えられない以上、自分たちの障害となりうる個人的な感情は封じ込めるしかない、と若いながらも二人は結論付けたのだろう。
 その感情さえなかったことにすれば、ボンゴレ十世とその右腕として、常に傍にあり、共に歩いてゆける。そして二人は、それを幸福と信じるしかないのだ。
 二人を良く知るディーノにしてみれば、何とも歯がゆく、痛々しいと思わずにはいられなかった。
(でも、どっちに何を言ったって、これでいいんだって答えるに決まってるからな……)
 獄寺は勿論、綱吉も一度決めたことには、かなり強情だ。とりわけ仲間を守るということになると、別人のように強靭な意思を見せる。
 そんな綱吉が、獄寺の立場を危うくするような行動を選択するわけがない。その逆、獄寺から綱吉に対しても、また然(しか)りだった。
(ホントに不器用な奴らだ)
 この件に関して、ディーノがしてやれることは何もない。ただ、沈黙を守ってやる。それだけだ。
 でも、と思わずにはいられない。
(幸せになんなきゃ駄目だろ、誰だってよ)
 個人の幸せというものには、地位も周囲の思惑も何の関係もない。綱吉だって獄寺だって、幸せになっていいし、幸せになるべきなのだ。
 だから、いつかその時が来たら、率先して祝福し、味方になってやりたい、と思う。
 この件に関してはロクに役に立ってやれないことが情けないが、彼らの兄貴分を自負する心に偽りはなかった。
「俺、一人っ子なのになー」
 ファミリー内でもボスといいつつ、末っ子扱いだったのに、気がついたら弟分がゴロゴロしている。
 しっかりした連中ばかりだから、特に何かをしてやらなければならないというわけでもないが、いざという時には必ず味方になって、守ってやろうという気持ちは、やはり『兄のような』と形容してもいいものだろう。そして、そういう感情を持てる自分が、ディーノは嫌いではなかった。
 一つ溜息をついて、物思いを打ち切り、冷めてしまったカフェ・コレットの残りを一息に飲み干す。
 そして、隣りのテーブルへとまなざしを向けた。  すぐに気付いたロマーリオと視線が合う。
「そろそろ行くか」
「分かった」
 ロマーリオはディーノの判断に否やを唱えない。ディーノの言葉を受けて、すぐに周囲のテーブルの部下たちに声をかける。
 自分を慕ってくれる彼らのその様子を嬉しく思いながら、ディーノはそろそろ旅の終わりに差しかかっただろう二人のことをもう一度思い返す。
 とてつもなく困難で、長い綱渡りを始めた二人。
 愛おしい弟分の彼らが、その細い足場から落ちることなく、いつか本物の幸福を掴んでくれればいい、と青い空に向かって密かに祈らずにはいられなかった。

End.





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