目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ

1.

 それは日常の風景だった。
 つい昨日までの。





「なーツナ、あれ、ちょっと面白くね?」
「え? どれ?」
 山本がショーウィンドウを指差して呼びかける声に、綱吉はきょろきょろと視線を彷徨わせる。
 駅前の商店街にある生活雑貨屋には様々な品が並べられていて、咄嗟には山本が指す商品がどれなのか判別が付かない。
「あれ、向こうの真ん中の段の……」
 アレだよ、と山本が綱吉の右肩に肘を乗せて示しかけたその時。
「てめっ、山本! 十代目に馴れ馴れしく触んな!!」
 鋭い声が商店街の人混みに響き渡った。
 声の主は言うまでもない。
 山本が、お?という表情でそちらを振り返った時、ちょうど獄寺は足元にまとわりついていたモシャモシャ髪の幼児を、傍に居た少女に押し付けている所だった。
「アホ女! ちゃんとアホ牛の面倒みてろ!」
「あー、女の子に向かってアホって言いましたね!?」
「アホにアホっつって何が悪い!?」
「ランボさんもアホじゃないもんね!!」
 男女の中学生が街中で連れ立っているのは別段、珍しい風景ではないが、そこに幼児までが混じって、人目をはばからない大声での口喧嘩が繰り広げられているというケースは、滅多にあるものではないからだろう。  そのまま道端で始まる言い争いに、通りを行く人は好奇心の目を向けて過ぎてゆく。
 ハルの傍に居た京子やイーピン、フゥ太も、おろおろと彼らを何とか宥めようとはしているのだが、頭に血が上っているらしい三人はまるで聞く耳を持たないようだった。
「あーもう、このままじゃ見世物だよ」
 彼らから数メートル離れた位置からその成り行きを唖然として眺めていた綱吉は、あきらめまじりの呟きを零して体の向きを変える。
「お。止めるのか?」
「止めなきゃ仕方ないだろ。通行の邪魔になってるし」
 せめて道の端に寄っていればいいものの、獄寺たちが言い争いをしているのは、商店街のメインストリートのど真ん中である。
「もーいい加減にして欲しいな。いつもいつも」
 綱吉とて、好きでこんな役回りをしているわけではない。
 だが、仕方がないのだ。それぞれに自己主張の強い面々は、詰まる所、綱吉の言葉くらいしかまともに聞こうとしないのである。
 とにかく早く騒ぎを鎮めようと、足早に綱吉は人混みをかきわけて三人の元に近付き、騒動の大本である人物の袖を強く引いた。
「獄寺君!」
「あ、十代目!?」
 振り返って綱吉に気付いた途端、それまで険悪に吊り上っていた獄寺のまなざしが普段のものに戻る。
 その目を真っ直ぐに見ながら、綱吉は言った。
「獄寺君、もうやめてよ。注目の的になっちゃってるよ」
「え? あ、と……」
 綱吉の言葉に獄寺は周囲を見回し、自分たちが置かれた状況を悟ったようだった。
 獄寺とハルとランボが繰り広げていたのは、所詮はただの口喧嘩であったため、通行人たちのまなざしは非難よりも微笑ましいものを見る色合いが強いようだが、注目を集めていることには変わりない。
 慌てて獄寺は綱吉の顔へと視線を戻し、大きな琥珀色の瞳に浮かぶ、非難というにはいささか弱い、困惑の色を見て取って、途端に表情を変えた。
「す、すみません、十代目。俺……」
「──うん」
 仕方ないと言いたげに、綱吉は微苦笑交じりの表情でうなずく。
 自分の非をすぐに認めて謝るのは獄寺の美点だが、いかんせん、彼は同じ過ちをこれでもかというくらいに繰り返す性格の持ち主である。
 戦闘場面においては十分に能力も高く、応用力も持っているのだが、日常的なことについては常に理性よりも感情の方が先走るため、学習能力が全くといっていいほどに無いのだ。
 だが、彼なりに反省の意を感じていることを察して、綱吉はそれ以上、獄寺を咎めなかった。
「とにかく、もう行こうよ。ハルもランボも、もう喧嘩しないで」
 後半はあとの二人に向かって言い、それから京子たちにも安心させるような笑みを向ける。
 ──そうしてまた一つの固まりになって移動を始めた中学生&幼児の集団を、オープンカフェのテーブルから眺めていた小さな人影が、溜息をついて椅子から飛び降り、人込みの中を歩き出したことには、誰も気付かなかった。

2.

「───」
 たるいな、と思いながら獄寺は、頭上に広がる空を見上げる。
 学校という場所は根っから性分が合わないというか、好きではないが、それでも何箇所か居心地のマシな場所があり、今いる屋上もそのうちの一つだった。
 フェンスに背を預けて寄りかかっていると、後頭部の遥か下から運動部の元気な掛け声が聞こえてくる。
 もしかしなくとも、その中には山本の声も混じっているのだろうか。
 だとしたら最悪であり、一体何が楽しいのだか、と悪態をついたが、それでBGMと化している声が静まるわけでもない。
 待つべき人がいなければ、今すぐ帰っちまうのに、と思いながらも、獄寺はその場を動かなかった。
 自他共に認める『十代目命』を標榜する獄寺が、こんな風に一人、放課後の屋上にいるのにはもちろん、理由がある。
 今日は、学校行事と勉強に日常を縛られる中学生生活の中でも、もっとも最悪なものの一つ、三者面談が行われているのだ。
 昨日から三日間の間、授業は午前中のみで、午後からは出席番号順に、担任と生徒、更には保護者が顔を突き合わせて、生徒の成績や学校生活、進路についてあれこれ話し合うのである。
 想像するだけでもぞっとするのだが、獄寺の場合、面談そのものをばっくれるつもりだったのに一体どこからネタを聞きつけてきたのか、保護者を自称して押しかけてきた姉ビアンキと、更にわいて出た、目当ては明らかにビアンキの自称保護者その2・校内医シャマルのおかげで、昨日、本気で散々な目に遭った。
 唯一の救いは、彼女たちのあまりの無茶苦茶さ加減に、担任も面談を成立させる努力を日本海にも届く勢いで放り投げ、最後はどこかほろりとしながら「お前の境遇は分かったが、強く生きろよ」だとか何とか言って、普段の生活態度のひどさにも納得する様子を見せてくれたことだろうか。
 それすらも、最初から学校のルールなど守る気のない獄寺には、てんで意味のないことなのではあったが、少なくとも今後、校則違反についてさほどうるさくは言われなさそうなのは、悪いことではなかった。
「十代目、まだかなー」
 見上げた空は、馬鹿みたいに青い。
 日本の秋の空を見るのはこれが三度目だったが、この時期の空の色は、少しだけイタリアの空の色に似ているように思う。
 だが、それでもイタリアの空に比べると色彩がやわらかく、見上げていると吸い込まれそうな錯覚に陥る。
 そのやわらかく澄んだ、胸に染み入るような色合いが、獄寺は好きだった。
「十代目ぇ」
 携帯電話の時刻表示を確認した限りでは、ちょうど綱吉は今頃、面談の真っ最中だろう。
 ということは、面談を終えてここにやって来るまで、あと十分くらいはかかることになる。
 綱吉を待つことには何の苦もなかったが、彼から離れて一人でいることが何とも心もとなく、寂しかった。
「十代目」
 寂しい、なんていう感覚は、もうずっと忘れていたのに、と思いながら、また空を見上げる。
 と、その時。
「十代目、十代目、うるさい奴だな、相変わらず」
 幼い声質には見合わない、妙に歯切れのいい台詞が不意に耳に飛び込んできた。
「う、わ、リボーンさん!?」
 慌てて顔を横に向けると、一メートルほど離れた位置のフェンスの上端にリボーンが腰を下ろしている。
 もちろん誰かがやってきた気配も物音も無かったため、心底驚きはしたが、声ですぐに誰かは分かったので、獄寺が落ち着きを取り戻すのは早かった。
「何スか? 十代目ならまだ……」
「何でも、十代目、なんだな。お前は」
「え?」
 獄寺の言葉をさえぎるように紡がれたリボーンの声には、明らかな呆れのようなものが感じられて、獄寺は思わず目を見開く。
「あの……?」
 予想外のことを言われたりされたりした場合、人の頭脳はそれほど早く回転しない。戦闘中ならまだしも平時であれば、天才クラスの知能指数を有している獄寺も、そのあたりは凡人とさほど変わりなかった。
 ただ、リボーンは自分に話があるらしい、それだけは戸惑いながらも悟る。
 そして、それがあまり良い話ではないらしいことも、彼の声の調子から感じ取った。
「獄寺」
「はい」
 名を呼ばれて、知らず背筋が緊張する。
「お前は、いつになったら成長する気なんだ?」
「は……」
「いい加減、目を覚ませ。ツナはお前のボスになるんじゃねえ。大ボンゴレのボスになるんだ」
 一瞬、それは当たり前のことではないか、と思いかけた次の瞬間、思考がくるりと回転する。
 沢田綱吉という人間が継ぐのは。
 ───ドン・ボンゴレの座。
 それはつまり。
「リボーンさ……」
 はっと獄寺が我に返って見た時には、もうそこには誰の人影もなかった。
 周囲を見回しても、誰もいない。
 屋上から屋内へと続く、金属製のドアが開閉した物音を聞いた覚えもない。
 だが、決して幻でも、空耳でもなく。
「オ、レは……」
 獄寺は愕然と上空を見上げる。と、背中がフェンスに当たって、金網がガシャンと耳障りな軋みを上げた。
「……俺は……」
「獄寺君!」
「!」
 突如、聞き慣れたやわらかな声で名を呼ばれて、獄寺は慌ててドアの方を見る。
 と、綱吉が小走りに駆けてきた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いえ、俺は全然平気っスよ。そんな走って来られなくても良かったのに」
「うん。でも、待っててくれるんだから、悪いと思って」
 笑いながら言う綱吉の呼吸ははずんでいて、二階の教室からここまで階段を駆け上がってきたことは明らかだった。
 しかし、そんな綱吉の笑顔が、ふと曇る。
「獄寺君、どうかした?」
「え?」
「あ、何でもないんならいいんだけど。何かあったみたいな顔してるから」
 その言葉に、獄寺は内心ぎくりとするが、表情では何でもなさをつくろった。
「ああ、それなら多分、空を見てたせいっスよ」
「空?」
「ええ。今日は良く晴れてるんで、ずっと見てたら、立ちくらみっつーか目がくらんだみたいになっちまって」
「ふぅん?」
 相槌を打ちながら、綱吉も空を見上げる。
 そして、ほんとだ、と呟いた。
「今日は全然空なんか見てなかったから、気付かなかったよ。ほんと、すごく綺麗だね」
「でしょう?」
「うん。真っ青」
「だから、ずっと見てたら何か平衡感覚がおかしくなっちまって。でも、もう大丈夫ですから」
「そっか。それならいいけど」
 具合悪いなら無理しないでね、と綱吉は微笑んで、獄寺を見上げた。
「じゃあ、帰ろっか」
「はい」
 歩き出しながら綱吉は、三者面談の内容について話し始め、それに相槌を打ちつつも屋内へと続く扉をくぐる前に、もう一度、獄寺は頭上に広がる空を見上げる。
 だが、高く澄んだ空には一面の青以外、何一つ見つけることはできなかった。

3.

「───…」
 疲れた気分で、獄寺はマンションの玄関を開け、明かりをつけながら奥のリビングまで向かった。
 ブレザーの上着をソファーの背に放り投げ、腰を下ろして煙草に火をつけて深く吸い込み、吐き出す。が、気分は重いままだった。
 正直な所、先程まで一緒にいた綱吉に対し、上手く笑えていたかどうかまったく自信がない。
 だからこそ、沢田家での夕食への誘いを固辞して帰ってきたのだが、日々鋭さを増しているように感じられる綱吉の察しの良さの前では、何一つ隠せたような気はしなかった。
 心配させてしまっただろうか、と思う。
 最近は、綱吉もポーカーフェイスが上手くなったというか、仲間の前では内心を吐露するような表情や仕草を隠してしまうことも多いため、逆に獄寺が彼の内心をうかがい知ることは難しい。
 もとより歪みのない性格をしている綱吉であるから、状況を考え合わせれば、直接訊かずともある程度の答えは出るものの、それが正解であるのかどうかは微妙な所だった。
「十代目、か」
 獄寺の気分が沈んでいる理由は、無論、リボーンに屋上で言われた一言である。
 ───ツナはお前のボスになるんじゃねえ。大ボンゴレのボスになるんだ。
 言わずもがなの事実であるように聞こえて、それは獄寺にとっては重い意味を含んでいた。
 遠くない将来、九代目の跡を継いで十代目となる綱吉が立つのは、イタリア・マフィア界に君臨するボンゴレファミリーの、更に頂点の地位。
 それは、彼が万に達するほどの構成員<名誉ある男たち>の崇拝と忠誠を受ける立場になる、ということだった。
 無論、ドン・ボンゴレの存在は機密中の機密であり、その本名や外見を知るのはごく一部の幹部と、同盟ファミリーのボスクラスに限定されている。
 それでも全ての構成員はドン・ボンゴレに忠誠を誓い、ドン・ボンゴレは全ての構成員に対し、平等に生殺与奪の権利を握る。
 あくまでも、平等に。
「俺は……」
 獄寺はずっと、十代目の右腕になる、と言い続けてきた。
 ボンゴレのボスに限らず、どこのファミリーでもボスの右腕と呼ばれる幹部や、ボスの絶対の信頼を受ける側近というものは存在している。
 逆に言えば、そういう幹部や側近がいなければ、ボス一人で数百、数千の構成員からなるファミリーを掌握し、維持していくことは不可能なのだ。
 だから、獄寺が相応の実力さえ身につければ、綱吉の右腕になることは別段、実現不可能な未来図ではなかった。
 けれど。
「十代目……」
 獄寺にとって、綱吉は絶対の存在だった。
 出会ったその日から、彼を唯一の主人と定めて、これまでできる精一杯のことを努めてきた。
 その甲斐あってか、昨年、嵐の守護者としての立場を認められることにも成功した。
 そのことには何の不満もない。
 ないけれど。
(俺の中には、他の連中と同列に扱われるのは嫌だと思っている俺が居る)
 今日、リボーンに言われるまで、その感情は当然のことだと思っていた。
 何故なら、自分は綱吉の右腕になる人間なのだから。
 綱吉にも別格の扱いをされて当たり前だと思っていた。
 だから、山本や他の連中が少しでも綱吉に馴れ馴れしく接したり、逆に綱吉が彼らに親切にすることが、どうしようもなく気に障った。
 けれど。
 よく考えてみれば、綱吉が仲間たちに親密に接するのは、ボンゴレのボスとして当然のことなのだ。
 現に、イタリア本部にいる九代目は誰に対しても親しみを込めて接することで信望を集めており、末端の構成員でしかなかった数年前の獄寺に対する態度でさえ、例外ではなかった。
 そして、その九代目に気質がよく似ているといわれる綱吉が、誰に対しても穏やかで親切なのは、当然を越えて必然のことでしかない。
 なのに、それを嫌だと、気に障ると感じるのは。
「俺の……我儘だ」
 泣きたいほどの気持ちで、獄寺は呟く。
 ───俺だけを見て下さい。
 ───俺だけを褒めて下さい。
 ───他の連中のことなんか、気にかけないで下さい。
 仲間たちのことを、どうでもいいと思っているわけではない。
 彼らもファミリーの一員であり、必要な存在だと感じているのは確かだ。なのに、自分の中には、道理の分からない幼児のように独占欲に満ちた欲求を叫んでいる自分がいる。
 今日初めて気付いた、あまりにも醜くてみじめな、その姿。
「山本のヤローにも言われたのに、な……」
 あの時は分かったつもりだった。けれど、芯の所は分かっていなかったのだ。
 仲間と協調できればいいというものではない。
 綱吉以外の相手を信用できればいいというものでもない。
 自分が気付かなければいけなかったのは、己の心の在り様そのもの。
 親の愛情を独占したがって泣きわめくような、みじめな子供のような自分。
「すみません、十代目」
 そんな醜く我儘な自分を、これまで綱吉に押し付けてきたのかと思うと、たまらなかった。
 誰よりも優しい、澄み切った青空のような人には、自分も優しくて綺麗なものだけ返したいと思っていたはずなのに。
「すみません、ごめんなさい……」
 何の役にも立たない、聞く人すらいない謝罪だけが、ただ零れ続ける。
 泣きはしなかった。
 こんなにも醜い自分には、嘆く資格すら本当はない。
 だが、声を上げて泣きたい、と心の底から思った。

4.

「あれ……」
 どこだろう、と周囲を見渡して思う。
 風景には取り立てて目立つものがなく、ただ真っ直ぐに道が続いている。
 見覚えのない風景だった。日本なのかイタリアなのかさえ、判別が付かない。
 空を見上げても、薄い雲がかかっているようで、色彩の違いがよく分からなかった。
「どこなんだよ、一体」
 ぼやきながら目線を前方に戻したとき、遠くに人影が見えた。
「あれは……」
 一人ではない。
 何人かの後姿だ。背が高かったり低かったり、大小取りまぎれたシルエットが楽しげに喋りながら、道の先へと歩いてゆく。
 その中央にいる人影は、見間違えようもなかった。
「十代目!」
 喜びに満ちた声で銘を呼んで、そちらへと駆け出す。
 けれど。
「十代目!?」
 どれほど叫んでも、走っても、その人は振り返らず、距離も縮まらず。
 それどころか、後ろ姿は遠ざかり、シルエットも薄れてぼやけてゆく。
「十代目、待って下さい!」
 どれほど必死になっても。
「俺です! 獄寺です! ここに居ます!!」
 心が焦りを増すのとは裏腹に、大切な人の姿が遠く消えてゆく。

「十代目!!」

 はっと見開いた目の先に広がっていたのは、白い天井だった。
 心臓がばくばくと音を立てているのが、はっきりと聴こえる。
 全身ぐっしょりと汗に濡れており、自分の叫んだ声で目が覚めたということに気づくまで少し時間がかかった。
「ゆ…め……」
 部屋の中は薄明るい。
 ということは、そろそろ夜明けであり、時刻でいえば五時半頃になるのだろうか。
「な…んて夢だよ……」
 くそ、と獄寺は呟いて起き上がり、汗に濡れて額にはりつく前髪を乱暴にかき上げる。
 昔に読んだフロイトの夢判断を記憶の底から引っ張り上げるまでもなく、夢の原因は明らかだった。
 自分を繊細だと思ったことはないが、就寝前に色々考えすぎると、時々、こういうことが起きる。夢の中まで問題を引きずっていってしまうのだ。
 だが、そうと分かっていても今日の夢は最悪だった。
 誰にも──綱吉にすら気付いてもらえず、自分一人が取り残されるなんて。
「ちくしょ……」
 乱暴な仕草でベッドサイドに置いてあった煙草とライターを取り上げ、火をつける。
 けれど、今朝は馴染んだ煙の味すら空虚に感じられて、獄寺は立てた膝に肘をついて、顔を伏せた。
 そのままどれほどの時間が過ぎただろうか。
 丸々一本分の煙草を吸いもしないまま灰に変え、吸殻を灰皿にもみ消した後、獄寺はカーテンがかかったままの窓へとまなざしを向ける。
 カーテン越しの眩しさからすると、今日も天気は良いのだろう。祝日でも何でもない水曜日だから、もちろん学校もある。
 だが、今日は学校に行きたくなかった。
 否、学校に行きたくないのではない。というより、学校など最初からどうでもいい。
 綱吉に、会いたくなかった。
「十代目……」
 本心ではもちろんいつだって、彼には会いたい。
 優しくて温かい人の傍に、いられる限りずっといたい。
 その気持ちが変わることは、おそらく獄寺の命が終わるまで永久にないだろう。
 けれど、自分の裡にある、右腕にあるまじき不条理な独占欲に気づいてしまった今、どんな顔をして彼の前に立てばいいのか分からなくなってしまったのだ。
 こうして考えている今も、心に浮かんでくる面影は、自分が彼の意に染まないことをした時に向けられる困惑を含んだ非難の表情ばかりで、それ以外の顔は一番好きな笑顔ですら、今朝は思い出せなくなってしまっている。
 こんな精神状態で平静を装い、綱吉の前に立つのは到底不可能な話だった。
 これまでに自分が気付かずにしでかした数え切れないほどの失態を思うと、今日は彼の目をまともに見る自信すらない。
 だが、それでも獄寺が学校に行かなければ──いつものように迎えに行かなければ、綱吉は心配するだろう。
 たとえ仮病を使ったところで、あの優しい人を心配させることは変わらない。
 そうと分かっていて、学校を休むことは獄寺にはできなかった。
「行かなきゃ、な……」
 どこまで取り繕えるかは分からない。きっと綱吉にも、何かを気付かれてしまうだろう。
 だが、それも仕方のないことだった。
 自分の愚かさが招いた罪なのだ。甘んじて受け止めるしかない。
 ああ、それとも彼に謝る方が先だろうか。
 これまで不合理な独占欲を押し付けてきてしまったことを、平身低頭として謝らなければならない。
 たとえ、許さないと言われたとしても。
「───…」
 まだ起き出すには早すぎる時刻だが、二度寝など到底する気にはなれない。
 唇の動きだけで大切な人の銘を呼び、のろのろと獄寺はベッドから降りて、シャワーを浴びるべく動き出した。

5.

 まるで今朝の悪夢の続きの用だ、と思った。
 すぐ傍にいるはずなのに、綱吉が見えない壁の向こうにいるかのように感じられ、声すら遠く聞こえる。
 だが、獄寺の目の前にあるのは、何の変哲もない、いつもと同じ休み時間の風景だった。
 獄寺の隣りの綱吉の席まで山本がやってきて、何やかやと綱吉に話しかけている。話の内容は次の授業で提出しなければならない宿題のプリントや、店頭予約が始まったばかりの新作ゲームについてで、特に目新しいことがあるわけでもない。
 獄寺はその二人の様子を、ただ頬杖をついて眺めていた。
 いつもなら山本が自分の席を離れて近付いてきただけで威嚇し、追い払おうとしていたのだが、今日はそれをせず、自分とは縁の薄い内容の会話に口を挟みもしない。
 だが、内心では、獄寺はそうしたくてたまらなかった。
 いつものように感情任せに山本に怒鳴り散らせば、おそらくこの胸のうちにあるもやもやしたものが少しは晴れる。
 そして、何を言っても飄々と受け流してしまう山本に対する、いつもの苛立ちがそれに取って代わるだろう。
 しかし、それはしてはならないことだった。
 じっくりと観察するまでもなく、山本と言葉を交わす綱吉の表情は屈託なく、楽しそうに見える。
 それを邪魔して楽しい時間を台無しにする権限など、獄寺には無いのだ。
 たったそれだけのことに、どうして指摘されるまで気付かなかったのだろうと、自分の無神経さを疎ましく思いながら、獄寺は立ち上がった。
「すみません、十代目。ちょっと一服してきます」
 これ以上この場にいるのはキツい、と言い訳と笑顔の下に本心を押し殺してそう告げ、教室の出入り口へと向かう。
「獄寺君?」
「もーじき、休み時間も終わるぜ?」
「そのうち戻りますから、気にしないで下さい」
 山本の言葉は無視して綱吉にだけ答えると、廊下へ出て、なんとなく階段のある右方向へと歩き出した。
 そして、階段の前で昇るか降りるか数秒考えてから、上へと向かう。
 幸いというべきか、階段を上りきって屋上に出るまで休み時間の終わりを告げるチャイムは鳴らず、あからさまに授業をサボる意図を教師に見咎められることもなかった。
 ゆっくりと端まで歩いて、給水塔を支える脚柱に背を預けるようにして腰を下ろし、ポケットから取り出した煙草を一本くわえて、火をつける。
 少なくとも一服したいという口実は嘘じゃねぇよな、と獄寺は一人ごちながら、空を見上げた。
 今日も良く晴れた空は、吸い込まれそうに青い。
 その透明な青が今は目に眩しく、もやもやとしたままの胸が痛んだ。
 今朝、どうにかするには大き過ぎるほどの自己嫌悪を無理やりに押し殺し、いつも通りに沢田家まで綱吉を迎えに行って、学校には来たものの、普通にふるまえている自信はまったくなかった。
 否、普通にふるまう云々以前の問題だろう。
 山本がどれほど綱吉に親しげに接しようが、他の級友が綱吉に話しかけようが、今日の獄寺は一切の反応を見せていないのだ。
 いつもと違うということは、誰もが薄々感じているはずだった。
 けれど、誰かにそれを問われた時、上手く受け答えすることは、少なくとも今はできないと獄寺には分かっている。
 何故なら、いつもと違う行動を取ることの割り切れなさ、そして、常に同じ場所にあったものが前触れなく移動したような名状しがたい違和感を一番感じているのが獄寺自身だからだ。
 だから、獄寺は教室を出てきた。
 誰かに問われることを恐れて。
 あるいは、自分の中に湧き上がる葛藤に耐えかねて。
「くそ……っ」
 逃げ出したのだということは、自分で分かっている。
 今の獄寺がしていることは、ただの逃避だ。
 戻ると綱吉に明言した以上、昼休みになる前に教室に戻らなければならないし、その後も昼休みから放課後まで、中学生の一日は長い。
 その間中、この葛藤や違和感と向き合わなければならないのだ。
 しかも、今日ばかりではなく、これからもずっと。
「慣れなきゃ、な」
 慣れるしかない。
 綱吉が誰と親しくしようと、その相手が危険な存在でない限り、黙って控えている。そんな自分に一秒でも早く生まれ変わるしかない。
 できるとかできないとか、そんなことはもはや問題ではなかった。
 そうなるしかないのだ。
 でなければ、一生この重苦しさは自分に付きまとうことになる。そんなことには到底、耐えられそうになかった。
 そして、耐えかねて糸が切れた時には、自分も周囲の人間も区別なく、滅茶苦茶に傷つけて破壊してしまうだろう。
 そうせずにはいられない破壊衝動を、獄寺は自分の内側に持っている。
 二年前に綱吉と出会ったことで、世界に対する凶悪な憎しみと敵愾心は薄れはしたが、消え去ったわけではないのだ。ともすれば、それは鎌首をもたげて、すべてを焼き尽くそうとする。
 そんな悲劇──それは偉業でも何でもなく悲劇だと今の獄寺は理解している──を招かないためには、獄寺自身が強くなるしかなかった。
「十代目……」
 脆弱な自分が強くなるためのたった一つの呪文のようなその銘を呼んで、まなざしを伏せる。
 と、その時。
「なんだ。ツナのことがどうでも良くなったわけじゃねーんだな」
 爽やかというよりも能天気に聞こえる声が、獄寺の耳を打った。

6.

「な、んだよ、てめーは」
「んー? お前と一緒。サボリ」
 そんなことは見れば分かる、と思った。
 なにしろ今はまだ三時限目の途中だ。授業の終了を告げるチャイムはまだ鳴っていない。
 だが、険悪に睨む獄寺に構わず、山本は獄寺の正面に身軽に腰を下ろした。
「腹が痛くなったっつって、出てきたんだ」
「なら、便所でも保健室でも行きやがれ」
「そんなとこ行っても意味ねーよ。俺はお前に用があんだからな」
 その台詞は、獄寺には予期できていたものだった。
 それ以外に、山本が授業中に屋上までやってくる理由などないのだ。彼もまた学業にはさっぱり興味を持っていないが、授業をサボることは滅多になく、自分の席で堂々と居眠りしているタイプなのである。
 だが、そんなことは獄寺には何の関係も無かった。
 険悪なまなざしもそのままに、低く告げる。
「俺はてめーになんざ用はねえ。サボリならとっとと他所の場所へ行けよ。てめーが行かねえんなら、俺がよそに行く」
「そう言うなよ、獄寺。お前が俺と話したくねーのは分かるけど、ツナだって心配してんだからな」
 ツナ、という固有名詞に、獄寺は情けないことに、ぴくりと反応するのを抑えきれなかった。
 無論、山本も分かっていて、伝家の宝刀を抜いたのだろう。目ざとくそれを見て取ったらしく、軽く首をかしげた。
「なぁ獄寺。回りくどいのは好きじゃねーから、単刀直入に聞くけどよ、今日に限ってなんでツナが俺や他の連中としゃべってても絡んでこねーんだ?」
「───…」
「らしくねーだろ。別に俺も、お前にごちゃごちゃ言われたいわけじゃねーけど、いつもと違うことされっと、調子が狂うんだよ」
「てめーの調子なんざ知ったことかよ。狂いっぱなしでいりゃいいだろうが」
 言いながらも、獄寺は、山本の言葉に激昂しない自分に少しばかり驚いていた。
 常の自分なら、てめーには関係ねえと語気荒く言い捨てて、この場を立ち去っていてもおかしくないのに、こうしてまだ腰を下ろしたまま、立ち上がろうともしていない。
 想像していたよりも遥かに苛立ちが薄いのは、いずれは聞かれることを覚悟していたからだろうか。
 それとも、昨日からあれこれ考えすぎて、あまりの自己嫌悪の深さに精神が疲れ果てているせいだろうか。
「お前がどうしても口に出せねーってことなら、これ以上は俺も聞かねえ。けど、そうじゃねーんなら、言えよ。黙ったまま妙な態度取るのは、心配してくれって言ってるようなものだろ。そんなんで俺とツナがいつまでも黙ってると思う方が間違いだぜ」
「いつまでも、ってまだ昼にもなってねーだろうが。半日も過ぎてねえ」
 分からない、と思いながらも獄寺は、憂鬱に口を開いた。
「──おかしかったのは、これまでの俺だろ」
 その言葉の意味が把握しきれなかったのか、山本が片眉を上げる。
 今はこいつの顔も見たくない。そう思いながら、獄寺はまなざしを空へと上げて、続けた。
「十代目が誰かと楽しそうにするたびに、狂犬みたいに吠えまくって。いくら十代目が大事っつったって、尋常じゃねーよ。……それに気が付いただけだ」
「獄寺……」
「心配されるようなことじゃねえ。十代目にも、……てめーにもな」
 低く言い、煙草を手にしたままの左手を上げて、目の辺りを隠す。
 隠していることが露骨であっても、これ以上表情を見られたくなかった。
「分かったんなら、行けよ。腹がいてーっつって出てきたんだろ」
「獄寺」
「────」
「獄寺、お前が考えてることは分かった。それが的外れとは言わねー。でもな、俺は別に嫌だと思ったことはねーよ。ツナと俺がしゃべってたら、お前が割り込んでくる。それが俺たちの『普通』だろ」
 山本の声には茶化す気配は微塵もなく、ただ真摯だった。
「無理する必要なんかねー。お前はお前らしくしてりゃ、それでいーんだよ」
「───…」
 他の時であれば、山本の言葉は、この野郎と思いながらも、それなりに心のどこかで嬉しいと思えたかもしれない。
 だが、今の獄寺にとっては無意味だった。
 山本が肯定してくれたところで、仕方がないのだ。獄寺の険悪な割り込みに対し、いつもいつも困った顔をしていたのは、彼ではなく綱吉の方なのだから。
 この世で一番大切な人に、もう二度とあんな顔をさせたくない。
 決して困らせたくない。
 だから、獄寺は自分を変えることにしたのだ。それがどんなに辛く、苦しくとも。
 無言で答えない獄寺をどう受け止めたのか、じゃり、と砂を踏む音がして、山本が立ち去ってゆく気配がする。
「山本」
 その遠ざかってゆく気配と足音に向かって、獄寺は目元を隠したまま、声を投げかけた。
「十代目には何も言うな。ちゃんと俺から話す」
「──ああ」
 短い返事だったが、それで十分だった。
 山本は、言ったことは必ず守る。
 これまで共に過ごした短くとも濃い時間の中で、獄寺は正しくそのことを理解していた。

to be continued.






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