神獣の憂鬱

 本日の閉廷を告げられて、白澤は詰めていた息をほっと吐き出す。
 知らず知らずのうちに随分と集中していたらしい。ずっと握りっぱなしだった筆を離したとき、下腕の腱がこわばっているのを感じた。
 手にしていた巻物を見てみれば、自分でも久しぶりに目にする気がする達筆がどこまでも続いている。
「最近はボールペンか、良くても万年筆でしか字を書かないからなぁ」
 何らかの術を使うときは、当然毛筆で呪を書くこともあるが、そんなことは滅多にない。
 そして、ボールペンと毛筆では握り方が全く異なるため、どうしても字体が変わってしまう上に、そもそもペンで済む程度の文章の場合、あまり丁寧に書こうすらとしていない。
 ゆえに、自身ですら自分の本当の筆跡を目にするのは、およそ数年ぶりだった。
 素の書体は、現世の能筆家で言えば顔真卿が一番近いだろうか。それ以前の晋朝の王義之などに比べると強く、勢いのある字である。
「唐の頃の流行の字体が好きだったんだよなぁ。ちょっと洒落てて堂々としてて……。代々の皇帝も皆、いい字を書いてたよなー。高宗も玄宗も……特に玄宗は品格のある佳い字だった」
 白居易の字も奔放で良かったし、宋代の蘇軾の字も端整だった、と故郷の歴代の能書家たちの字と顔を思い浮かべながら、しばし自分の字を眺めた。
「……気合入ってんなぁ」
 馬鹿みたい、と小さく呟きながら、傍らにあった他の巻物を手にとってみる。
 ぱらりと開けば、そこに並んでいるのは白澤のものとはまた違う能書だ。
「こいつの字は……藤原佐理、ってとこか」
 大陸の崩しとはやや異なる、勢いのある流麗な筆致である。ただ、少し癖があり、所々は独特の崩し方をしているため、慣れるまでは一瞬、あれ?、と思わされる。
 もっとも、日本地獄の獄卒たちはこの書体に慣れているのだろう。誰一人、読み誤ったり悩んだりしている様子はなかった。
 一通り文字を眺めた後、ふっと興味を失った風情で白澤は書類を床に置き、顔を上げる。
 そして、
「こんな風に仕事してんだな……」
 床に胡坐で座り込んだまま、片頬杖をついて閻魔殿の法廷を眺めた。
 閉廷はしたものの、後片付けのために多くの獄卒たちが今も忙しく立ち働いている。その中央、閻魔大王の玉座の傍らに、その人物の姿は常にあるのだと思い描いてみる。
 黒闇(こくあん)と血赤の衣をまとい、凛とした姿と声で部下たちを指揮している姿は何度も目にしたことがある。
 だが、きちんと観たことはなかったかもしれない、と白澤は思った。
「大王様の判決のサポートをして、獄卒たちに指示を出して、総務経理の最終チェックもして、視察にも出て、問題が起きたら飛び出していって、週に一度は記者会見もして……」
 馬鹿じゃないのか、と声には出さずに呟く。
 そのつもりで見直せば、閻魔大王の第一補佐官の仕事は幾つかに分割することができる、と白澤は見ていた。
 実際、彼をサポートする部下たちもまた大勢いるのだ。そのうちの幾人かを選び出して教育すれば、ある程度の業務の分担は可能だろう。
「今日だって小野君と樒さんと僕でやったんだしさ。あいつがそのつもりで手を離せば、人材は自然に育つってもんだ」
 なのに、それをしないのは、結果的に今の一極集中型が上手く回っているからだろう。一方で、鬼灯自身は教育する時間すら惜しいという現実的な理由もあるに違いない。
「本っっっ当に、あいつは馬鹿だ」
 吐き捨てるように小さく呟く。
 そして、目の前の風景を見るともなしに見ていると、獄卒の一人が書類の回収のために歩み寄ってきた。
「白澤様、そちらの書類はもうよろしいですか?」
「うん、持って行ってくれる?」
「はい」
 うなずき、丁寧に書類を集めて台車に積み上げた後、その獄卒は深々と頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。とても助かりました」
「いやいや」
 改めて礼を言われると、嬉しいものの僅かな後ろめたさも差す。純粋にお人好しなだけで引き受けたわけでもないからだ。
 だが、私怨がらみとはいえ、頼まれた仕事を手抜きするような真似はしなかったのは事実である。日本地獄の者たちにとっては、それでも十分にありがたいことだったのだろう。
「シロちゃんに、どうしてもあいつにお休みを取って欲しいって頼まれたら断れないしね。日当ももらえることになってるから、気にしないでよ」
「それでも本当にありがたいです。あと六日間ですが、鬼灯様の不在の間、どうぞよろしくお願い致します。俺たちも全力で白澤様をサポートさせていただきます」
「うん、こちらこそ」
 何度も丁寧に頭を下げてから、獄卒は台車を押して去ってゆく。
 その後姿を少しだけ見送ってから、白澤はまた、ここには居ない男のことを考えた。
 今頃は、遠い南の国で観光を楽しんでいるのだろうか。
 現世に視察に行く時は動物園をコースに組み込んでいることが多いと聞くが、今回は桃太郎ブラザーズの引率もある。安易には行動できないだろうから、大人しくあちらの国のあの世を見て回っているのだろうか。
「シロちゃんも本当に物好きだよなぁ。あんな鬼と旅行に行って何が楽しいんだか……」
 自分を慕う動物たちと一緒に異国を巡って。
 闇色の瞳に何を映し、何を思うのか。
 どんな人々と出会い、どんな言葉を交わすのか。
 時には同じような役職にある神々と語らい、酒を酌み交わすこともあるのだろうか。
「僕にこんな仕事を押し付けてさ……」
 広い広い閻魔殿。
 ここはあの鬼の世界だ。
 ここに自分は居るのに、あの鬼はいない。それはひどく理不尽だと感じる。
「なんで、お前なんかのために僕がこんな労働しなきゃなんないんだよ。しかも、一週間も」
 自分とは違う筆跡で書かれた書類。それを見て、あの男はどう感じるのだろう。
 自分以外の存在、それも一番嫌いな奴がここに居たと聞いて、どんな顔をするのだろう。
 だが、その全ては想像がつく気がした。
「どれだけ僕が完璧にやったところで、お前は腹を立てるだけで、感謝なんかしやしないんだ。だからといって、僕が一字でも間違えば、それを責め立てる。本当に勝手な奴だよ」
 お前なんか嫌いだ、と呟いた声が高い天井に微かに反射して、耳の奥にこだまする。
 その響きを鋭い聴覚に捉えながら、白澤は目を細める。
「別に僕だって、お前に礼なんか言われたくないよ。閻魔大王様からは、もう散々に感謝されたしね。期待なんかしてないから、好きなだけ赤道直下で遊んでろ」
 そして、帰国したら完璧に仕上げられている書類の山に臍(ほぞ)を噛めばいい。
 そう悪態をついて。
 白澤は唇を噛み締めた。

 ―――そうじゃない。

 シロからこの話を持ちかけられたとき、鼻を明かしてやりたいと思ったのは嘘ではない。
 けれど。
 休みなど滅多に取れないことを、公休日でさえ殆ど出勤していることを知っていたから。
 本当は腹の底では、良い案だと思ったのだ。
 この方法なら、あのワーカホリックも休むことができる。長期の休みを取ることができる、と。
「だって、お前は働き過ぎだよ。仕事が好きなのは間違いないんだろう。けど、仕事ってのは、目の下に隈を作りながら何日も徹夜してやるもんじゃない。そんなのは無能で要領の悪い奴のやることだって分かってるだろ」
 鬼灯は誰に対しても平等に厳しいが、部下たちにはシフト時間を越えて仕事をさせることは決してない。
 二徹、三徹をするのは彼自身だけ、そして怠惰を責める相手は上司の閻魔大王だけなのだ。部下たちには決して、責任も負担も転化しないのである。
「仕方ないってお前は言うんだろうさ。でも僕は、徹夜でよれよれになってるお前なんか見たくない。そういう時のお前は、ストレス解消なのか八つ当たりなのか、いつもにも増して碌でもない嫌がらせを仕掛けてくるし」
 だから。
 嫌がらせも兼ねて、手伝ってやろうと思ったのだ。日本の地獄は嫌いではないし、閻魔大王にも色々と世話にはなっている。
 だから、それくらいのことはしてやってもいいだろうと、そう思って。
 うなずいて、今日の朝早く、ここへ来たのだ。
 他の補佐官の説明を受け、座敷童子たちに監視をされながら書類を作り続けたのだ。
「礼なんて言われるわけないと分かってるさ」
 第一、あの鬼がしおらしく礼を言ったら、それはそれで恐ろしく気色悪い話だった。うっすらと頬を染めてうつむきがちに「ありがとうございます。御礼に私にできることなら何でもしますから……」と言う鬼灯を想像しかけて挫折し、白澤は鳥肌が立った腕をさする。
 有り得るとしたら、大層悪趣味なエジプト土産を全力でぶつけてくるとか、その程度のことだろう。まかり間違っても、まともな礼をする奴ではない。少なくとも、この自分に対しては。
「他の補佐官たちには、きちんとした土産を買ってきて、丁寧に頭下げて礼を言うんだろ。知ってるよ」
 自分はいつも、そういう風景を遠くから、あるいは横目で見ているだけなのだ。
 彼の視界に入ったら最後、最低最悪の嫌そうな顔をされる。そういう風にできているのである。
 こんな風に、極稀にではあるけれども親切にしてやっても、あの鬼の態度は変わらない。
 考えれば考えるほど悔しく、むかっ腹の立つ話だった。
「ホント、もう帰ってこなくていいよ、お前なんか」
 一生サバンナにでも行ってライオンと遊んでろ、と悪態をつきながら白澤は立ち上がる。さすがに一日中座り続けていた腰や膝が軋んだが、帰宅して自慢の露天風呂に入れば、これくらいの疲労は簡単に取れる。
 一つ伸びをして、白澤はその辺りにいる極卒たちに手を振り、閻魔殿の正門に向かって歩き始めた。
 大変な一日だったが、明日もまた今日と同じ仕事が待っている。
 せいぜい完璧にこなして、あの性格がゆがみまくった鬼に歯噛みさせてやろう。そして、改めて僕の優秀さを思い知るがいい。
 そんな風につらつらと考えながら、遠い空の下にいる鬼神を想う。
 三匹のお供を連れて、異国の冥界の利点も欠点も吸い取ろうとしているだろう闇色の瞳と、その横顔を思い描いて。
「……嘘だよ。さっさと帰ってこいよ。バーカ」




 ―――そう呟いた言葉の通り、休暇を途中で切り上げて急ぎ帰国した鬼神に、「私の縄張りで何をしてるんですか!?」と本気で撲殺されかかりながらも、無理矢理に言質を取って酒を奢らせる約束を白澤が取り付けたのは、また別のお話。

End.

<< BACK