夢の果て


 靄(もや)がかかったように白い世界だった。
 緩やかに乳白色が流れ、何も見えない。
 どこだろう、と思いながら白澤は歩く。四方に視線を向けてみるが、やはり何も見えない。額にある第三の目にすら何も映らない。
 自分以外の存在はどこに居るのだろう、と白澤は立ち止まり。
 小さく名前を呼んだ。

「鬼灯?」

 しんと答えは返らない。

「鬼灯? どこ?」

 繰り返し繰り返し名を呼ぶ。
 大切な大切な、天敵でもあり恋人でもある鬼の名を。
 だが、靄に吸い込まれるかのように、こだますら返らない。

「鬼灯!」

 ここに居るはずだ、と名を呼びながら白澤は思う。
 居るはずなのだ、絶対に。
 名を呼べば返事をするはずなのだ。
 うるさい、とあのしかめっ面で、ことによっては愛用の金棒を振り上げながら。

「鬼灯!!」

 何度呼んでも返らぬ答えに呼ぶ声は悲痛な響きを帯びる。
 血を吐くまで叫び続けたは不如帰(ほととぎす)だったか。
 そんな要らぬ知識が不意に脳裏を掠める。

「鬼灯! どこだよ!? いるんだろう!?」

 呼んで呼んで。
 白い靄の中をさ迷い歩き、やがて疲れ果てて白澤は立ち止まる。



 ―――嗚呼、嗚呼。



 声にならぬ悲嘆が唇から零れる。
 思い出してしまった。
 彼はもう居ないのだ。
 長い長い時間、傍に居てくれたけれど、それは永遠ではなかった。
 永遠には随分と足りなかった。
 それでも、彼はその命がある限り――。

「ほ、おずき、鬼灯、鬼灯! 鬼灯……!!」

 呼んで呼んで。
 泣いて泣いて。
 焦がれて焦がれて。
 それでも足りなくて。

 この世界に、彼だけが足りなくて。

「鬼灯……!」

 立っていることもできずに、白澤はその場に崩れ落ちる。
 膝を付き、手を付き。
 伏して慟哭しながら、声の限りに愛しい鬼の名を呼び続ける。

 ―――その肩に。



 人の手が、そっと触れた。



 女のものでは有り得ない、節の目立つ力強さを感じさせる手。
 その手が宥めるように慰めるように、白澤の肩に置かれて。

「ほ…お、ずき……」

 顔を上げ、白澤はその手の持ち主を泣き濡れた瞳に捉えた。
 いつの間にか傍らに寄り添い、膝を付いていた鬼神の姿は、半ば透けている。
 だが、神の力を持つ獣は構わずに彼に触れ、すがった。

「ご、めん、ごめんよ、鬼灯。こんな風に僕が悲しんでいるせいで、お前はいつまで経っても逝けない」

 すがりついた彼の手は、仄かに温かい。
 そうあって欲しいと願い、錯覚しているだけなのかもしれない。
 だが、それでもその温かさは白澤に更なる涙を募らせた。
 

「お前はとっくに生まれ変わっていなければいけないのに」

 悲嘆に暮れて泣き続ける馬鹿な獣のために、彼はまだここに留まっている。
 本当は情に厚く、懐に入れたものには限りなく優しかった鬼神。
 だからこそ、悲しくて、哀しくて。
 恋しくて、寂しくて。

「ごめんよ、鬼灯。でも寂しくて仕方がないんだ。お前が居ないと毎日辛くて辛くて」

 嗚咽交じりに訴えれば、馬鹿ですねぇと半ば透けた鬼は呆れた口調で言った。
 本当に馬鹿ですよ、貴方。
 そうだよ、馬鹿だよ、と答えれば、仕方がありません、と鬼はいつになく優しげな口調で告げた。
 これからどうすれば良いのか、気付かないのなら、仕方がないから教えてあげます。
 ねえ、探して下さい。
 貴方なら探せるでしょう?
 生まれ変わった私を。
 記憶もなく姿形も違う、それでも、貴方は広い現世からこの魂を探し出せるでしょう?

「勿論、探し出せるよ! ……でも探してもいいのか? 生まれ変わったお前は、もうお前じゃないのに。僕との繋がりはもうないのに」

 それが何ですか、と生前は決して見せなかった顔で鬼は微笑した。

 袖触れ合うも他生の縁。
 縁があれば、必ず出会えるでしょう。
 記憶がなくとも、閻魔大王の第一補佐官でなくとも、貴方と私の縁が本物であれば。
 会いたくても会いたくなくても、どこかで巡り会ってしまうでしょう。

「巡り……会える? また、お前に?」

 私ではない私に、です。
 勘違いはしないで下さい。
 次に出会っても、私はもう貴方を思い出せない。
 でも、この魂は輪廻を解脱するまで何度でもこの世を巡る。
 この先、何度でも貴方は私に出会うでしょう。
 それが嫌なら探さなければいい。出会いを避ければいい。
 出会えずに終われば縁は薄れます。
 でも、そうでなかったなら。

「探すよ! 何度でもお前に出会うよ!」

 懸命に白澤は言い募った。
 今や魂魄のみとなった大切な恋人は、ついぞ見たことのない穏やかな顔で必死の言葉を聞いてくれている。

「だって、お前は僕の魂の伴侶だ。生まれ変わったお前が僕を愛してくれなくてもいい。それでも、僕はお前に出会いたい」

 そう訴えれば、馬鹿ですねえ、ともう一度、鬼は笑った。
 
 白澤さん。
 今だから教えてあげますけど、私は初めて出会った時から、貴方のことが気になって仕方がありませんでした。
 貴方は馬鹿だから分かってないんですよ。
 私というこの魂にとって、異国の吉兆たる神獣がどれほど眩しく輝かしく映ったか。
 本性の貴方も、人型の貴方も同じです。
 貴方のどうしようもなく馬鹿なところまで含めて、私は貴方がとても好きでした。
 本当ですよ。

 次に出会う私が、どのくらいの強さで貴方に惹かれるかは分かりません。
 私ほどには貴方を愛せないかもしれません。
 私以上に貴方を愛するかもしれません。
 でも、きっと嫌いにはなれない。
 貴方は私という魂にとって、何よりも優しく美しい獣なんですから。
 どういう形にせよ、この魂はきっと貴方に惹かれ、貴方を好きになるでしょう。

「な……んだよ、馬鹿。泣かせるなよ。っていうか、そんなこと、生きてるうちに言えよ……!!」

 だって、こんなことを口にしたら貴方は調子に乗ったでしょう。
 調子に乗った駄獣ほど始末に悪いものはないですからね。

「ひどい! 本当にひどいよ、お前って奴は」

 でも好きでしょう、と意地悪く笑まれて、白澤は陥落する。
 魂魄のみになってから大輪の緋牡丹も恥らうような微笑みを見せるなんて、どこまでもこの恋人は卑怯だった。

「うん、好きだ。誰よりも何よりもお前が好きだ。愛してる、鬼灯」

 はい、私も好きですよ、とうなずいてくれる鬼を白澤は抱き締める。
 確かに触れられるとはいえ、透けた体から感じられる温もりは仄かで、それは後朝(きぬぎぬ)の閨に残された微かな体温を思わせた。

「鬼灯……」

 愛しい愛しい魂の伴侶。
 どんな形でも良かった。
 もう一度巡り会えるのなら。
 何度でも巡り会えるというのなら、それをこの永遠に続く時間の灯火にすることができる。

「必ず探し出すよ。どんなに遠く離れていても見つけ出してみせる。だから待っていておくれ、鬼灯――」

*             *


「……さん、白澤さん!」
 強い声で耳元で名を呼ばれ、はっと白澤は目を開く。
「は……え……、鬼、灯?」
 目に映るのは見慣れた寝室の天上だった。そして、傍らには金魚柄の浴衣姿の鬼神が、険しい顔でこちらを見下ろしている。
「一体どうしたんですか」
「へ……?」
 問われる意味が分からない。それに、寝室内はまだ薄暗い。カーテン越しの薄明かりからすると夜明けくらいだろうか。
 何故こんな時間に起こされたのか分からず、呆然と鬼灯を見上げていると、眉間に皺を寄せたまま溜息をついた鬼灯は、おもむろに白澤に向かって手を伸ばした。
 何?、と思う間もなく、目尻をぐいと指先でぬぐわれる。
「え……」
 そこでようやく白澤は、自分のこめかみが冷たく濡れていることに気付いた。
「は、え、これ何?」
「何じゃないですよ、聞きたいのは私の方です」
 うなされていると思ったらいきなり泣き出して、と言われて、白澤は思わず赤面する。
「え、僕、泣きながら寝てたの!?」
「そうですよ」
「うわーうわー、うーわー!」
 あまりの恥ずかしさに居たたまれず、白澤は頭を抱えて寝台の上をジタバタと左右に転がる。
 すると、うるさい、と低い声での凄みと共に、鬼灯の足裏が白澤の腰をぐいと踏み止めた。
「何なんですか、貴方は。安眠妨害されたのは私の方ですよ。事と場合によっては、日が昇るまで金棒で百叩きの刑にしてやってもいいんですよ?」
「それはヤメロ」
 片足で背を踏みつけ、まるで任侠の輩のように柄悪く見下ろしてくる鬼神の姿に、さっきの優しく美しい恋人はやはり夢の産物だったのだと心底悲しくなりながら、白澤は必死に鬼灯の足から逃れる。
 容赦なく体重をかけてくる足を押しのけ、寝台の端まで転がって、そこでようやく夜着の袖でこめかみをぬぐった。
「あーもう、恥ずかしいなぁ。夢で泣くなんて……」
 今更ではあるが、これ以上顔を見られたくなくて腕で顔を隠す。
 すると、ややあって鬼灯の静かな声が響いた。
「どんな夢だったんです?」
「どうって……」
 寝台の上で坐り直した鬼灯が、傍らの煙草盆から煙管と煙草を取る音が小さく聞こえ、煙管に刻み煙草を詰めるさやかな音の後、マッチを擦る音が響く。
 燐が燃える独特の匂いの後、苦さの奥に甘さのある本物の葉煙草の香りが緩やかに漂った。
 ゆっくりと煙草を一口くゆらせてから、再び鬼灯は口を開く。
「……貴方、泣きながら何度も私の名前を呼んでいたんですよ。どんな夢を見てたんですか」
「マジで!?」
「こんなことで嘘を言ってどうします」
 鬼灯の声はいつも通り、淡々と素っ気ない。
 だが、だから起こしてくれたのかと一つだけ白澤は合点がいった。
 鬼灯ならば、相方が夢でうなされていようと知らぬ顔で放っておいてくれる方が自然である。それをわざわざ叩き起こしたのは、自分に関わる夢で白澤がうなされているのが嫌だったからだろう。
 ああ、やっぱり優しいな、と白澤は思う。
 どんなに取り付く島がなかろうが、乱暴者であろうが、鬼灯は確かに優しい。実感する機会など滅多にないが、彼の情の深さは折り紙付きであることを白澤は知っていた。
「言ってもいいけど……お前は多分、怒ると思う」
「――私が死ぬ夢でも見ましたか」
 煙管片手にずばりと切り込まれて。
 思わず白澤は絶句する。
「〜〜〜お前、本当に嫌な奴だな……!!」
「それはどうも」
 熱のない声で皮肉に応じ、鬼灯はまた一口、煙草を吸った。
「難しい推理じゃないですよ。単細胞の貴方が、私の名前を呼びながらわんわん泣くシチュエーションなんて限られるでしょう。その中でもこれだけ泣くのは、私が死ぬパターンに違いないと踏んだだけです」
「……お前、本当に憎たらしい」
「ええ」
 何と言おうと、鬼灯が動じる気配はない。
 そして、鬼灯は先を促した。
「で?」
「で、って……」
「どんな風に私は死んだんです? 貴方がそんな号泣しなきゃならないような死に様でしたか?」
「……自分の死に様を聞きたがるなよ」
 悪趣味め、とぼやいてから白澤は一つ、溜息をついた。
「別にお前が死ぬ瞬間を夢に見たわけじゃないよ。ていうか、もう死んでた。転生しようとしてたっていう方が正確か」
 そう告げ、少し待ってみたが煙草の香りが漂ってくるだけで答えはない。
 諦めて、白澤はぼそぼそと夢の内容を話し始めた。

「幽界とでも言ったらいいのかな。世界と世界の狭間みたいな真っ白な世界で、僕はお前を探してるんだ。でも、どれだけ呼んでもいなくて。お前はもう居ないんだって思い出すんだよ。
 それで僕が泣いてたら、お前が出てきたんだ。もう実体のない、魂魄だけのお前。僕があんまり泣くもんだから転生できなくて、ずっとそこにいたんだ」

 お前は優しいから、と言葉には出さずに呟いて続ける。

「それで、魂魄のお前に縋りついて泣いてたら、お前が言ってくれたんだよ。生まれ変わった自分を探せって。僕とお前の縁が本物なら、また必ず出会えるからって。
 僕の事はもう思い出せなくなるけど、きっと嫌いにはならないから、何度でも出会えばいいって。
 で、必ず探し出すからって約束したところで目が覚めた」

「――まったく。呆れたロマンティストですね」
「っ、言うなよ!
 自分でも恥ずかしいんだからな!!」
「それは結構です。どうやら羞恥心だけは、まともに機能してるらしいですね」
 そう言って鬼灯は、吸い終えたらしい煙管の灰を煙草盆にカツンと空けた。
「でも、実に貴方らしく欠陥だらけですよ、その夢。そもそも私が転生する保証はないですし、それが百年後ならまだしも何万年も先だったら、人類そのものがいるかどうか。コアラの末裔にでも転生した私を探す気ですか?」
「〜〜〜仕方ないだろ、夢なんだから!」
 それ以前に、転生後がコアラとは何なのか。図々し過ぎるだろうと白澤は思う。
 この鬼に似合うとしたら、やはりハシビロコウか、もしくはアカミミガメか。
 他に愛想のなさげな動物はいないかと、つい白澤が真剣に考え込んでいると、再び鬼灯が静かな声を響かせた。
「しかし、そんな夢なら起こしてやる必要はなかったですね。無駄な労力を使ってしまいました」
「何だよー」
 嬉しかったのに、と胸の中で言いつつ口を尖らせれば、だって、と鬼灯は続ける。
「自分でどうすればいいか、貴方は夢の中で結論を見つけてるじゃないですか。わざわざ私が聞いてやる必要なんかなかったでしょう?」
「あ、やっぱりお前、心配してくれたの」
 素っ気ない口調ではあったが、鬼灯の言葉そのものは別に意地悪ではない。
 実際、夢にうなされて泣いているのを起こし、内容を問いただしてくれたのだ。彼なりに白澤を気遣う気持ちがあってのことだろう。
 その何でもない優しさが嬉しくて、つい頬が緩み、白澤がにこにこと笑っていると、短い舌打ちと共にいきなり眉間に煙管の雁首(がんくび)が叩き付けられた。
「あがっ!!」
 咄嗟のことで避けようもない。がんっと鈍い音と衝撃に白澤はのけぞる。
 よりによって鬼灯の腕力による急所への金属の一撃である。人間であれば間違いなく、眉間を割られて死んでいただろう。
「ニヤニヤしないで下さい。鬱陶しい」
「お前っ!
 今の、僕じゃなかったら死んでたぞ!!」
「貴方だからやったに決まってるでしょう」
 そのまま永眠すればいいのに、と言いながら鬼灯は、愛用の煙管に歪みが生じなかったか、傷が付かなかったか確認している。
 あまりにも冷淡な態度に、
「お前、本当に僕のこと好きなのか……!?」
 身を震わせながら白澤がそう問えば、闇色の瞳がきらりと鋭く光ってこちらを見た。
「答えを言って欲しいですか?」
 低く静かに問い返されて、白澤は固まる。
 少なくともプロポーズを受け入れて、こうして夜を共に過ごしているのだ。まさか嫌いとは言うまい。
 白澤としても、一応、愛されているとは思っている。それも、生涯添い遂げる気満々の熱愛だ。
 付き合い始めた当初から、鬼灯は将来的に別れることなど微塵も考えていないらしい言動を繰り返していたのだから、それはおそらく間違いない。
 だが、言葉での答えとなると、聞くのには非常な勇気が要った。
 何しろ相手は鬼灯である。最終的な意味合いが好意を示していたとしても、一体どんな物言いをするか。
 それこそ恋心を微塵に打ち砕き、刻んでおろしてすり潰すような暴言の形をとっていたとしても、白澤は決して驚かない。
「暴言の裏の意味を一昼夜考え抜かなきゃ分からないような告白は告白と言わないだろ……っ」
 思わず想像を暴走させ、悲嘆に震えながら呟いた一言に、鬼灯の冷淡なツッコミが入る。
「私はまだ何も言ってませんが」
「でも言う気だろ!」
「被害妄想の激しいひとですねえ」
 びしっと人差し指を突きつけて言えば、鬼灯は馬鹿にしきったように冷めた目で白澤を見やった。
「まァ、それだけの元気があるなら平気でしょう。さっさと寝たらどうです。私ももう眠いんです。誰かさんに安眠妨害されたせいで」
「う……、それは……悪かったって」
 鬼灯の言葉は事実であり、確かに今の白澤の立場は弱い。
 今夜、極楽満月に現れた鬼灯は、どこか疲れた風情だった。さりげなく聞けば、昼間に亡者絡みの騒動があったのだという。そのせいで執務が幾分、予定通りに進まなかったらしい。
 鬼灯自身は、忙しいのはいつものことだからと、常と変わらない風に振舞っていたが、元からの多忙に更なる上乗せが加わっただろうことは想像するまでもない。
 そんな状況でも約束通りに来てくれたことを、白澤はとても嬉しいこととして愛おしく受け止めた。
 なのに、その鬼灯の睡眠を妨げてしまったのである。煙管で殴られたことも忘れ、申し訳なかったと本気で思う程度には、白澤は善良、あるいは極楽蜻蛉だった。
「分かったなら寝て下さい。私も寝ます」
「うん……」
 うなずき、もそもそと白澤は布団にもぐり直す。そして、鬼灯を見上げた。
 端正な横顔は、取り立てて表情を浮かべていない。何を考えているのか読み取れないまま、白澤はそうっと手を伸ばして鬼灯の手に触れる。
 自分と殆ど大きさの変わらない手を包むようにすれば、鬼灯のまなざしがこちらを見る。
「疲れてるのに、ごめんな。あと……起こしてくれて、ありがと」
 謝々、と呟くように告げれば、こちらを見下ろした鬼灯は、白澤の手の内から自分の手をするりと抜き、白澤の肩を布団の上からぽんと軽く叩いた。
「感謝するのなら十倍にして返して下さい」
「なんでそういうこと言うかな!? 台無しになるだろ!!」
「私は一向に構いませんが」
 顔色一つ変えずに言い放ち、鬼灯は自分の手元へとまなざしを落とす。
 そのまま白澤はしばらく鬼灯を見つめていたが、彼は手にした煙管を弄るともなしに弄っていて、直ぐに横になろうとする気配はない。
 眠いと言っていたのに、と考えて。
 これはもしや、こちらが眠るのを見守ろうとしてくれているのかと思い至り、白澤は耳が熱くなるような感覚を覚えた。 (ああもう!
 こいつはこういうところが反則なんだよ……!!)
 何の勘の言いながらも、きちんと愛されている。
 毒舌を吐き、理不尽な暴力を振るいながらも、ちゃんと傍にいてくれる。
 そのことが、ただ嬉しい。
 これまで遊んできた女性たちは、そんな真心は決してくれなかった。自分もまた、求めなかった。
 なのに、この恋人は求めるよりも早く心をくれるのだ。
 どうしようもなく愛おしく、胸が温かい。
「鬼灯」
 名を呼ぶと闇色の瞳がこちらを見る。
 その美しい漆黒を見つめながら、白澤は告げた。
「お前がいつか居なくなったら、やっぱり僕はお前を探すよ。探し続けて、お前がどうなっていても、どこにいてもきっと見つける。だから、待っていてくれ」
「――先のことなど分かりませんが、この姿を失ったら私はもう、私ではなくなりますよ」
「構わない。お前がこの世界に居ることを感じられればいいんだ」
「……貴方は貪欲なのか、それとも寡欲なのか、時々分かりませんね」
 そう言い、鬼灯はさほどもったいぶるでもなく、うなずいた。
「貴方の好きにすればいい。自分がもう存在しないのに貴方を縛るのは、私の本意ではありませんから」
「うん」
 その冷めた気質や物言いが好きだと、白澤は思う。
 そしてもう一度、鬼灯の秀でた横顔を見つめ、小さく微笑んだ。
「それじゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
 穏やかに今夜最後の会話を交わし。
 白澤は満ち足りた気分で、ゆっくりと目を閉じた。

*             *


 能天気な寝息がすうすうと小さく響く。
 聞くともなしに聞くうち、なんとなく呆れ果てたような気分になりながら、鬼灯は安らかに眠る神獣の寝顔を見下ろした。
 先刻見せた悲痛さはどこへやら、いつもと変わりのない、魔を払う朱に彩られた白く端整な面(おもて)があるばかりだ。
「まったく……」
 人騒がせな、と低く鬼灯は呟き、手にしていた煙管を小さく揺らす。
 何やら声がする、と起こされて、呼ばれているのが自分の名だと気付き、顔を覗き込んだ時には本当に驚いた。
 眉根が辛そうに寄せられ、閉じられた眦からほろりほろりと涙が零れ落ちる。そんな光景を見たのは初めてのことだった。
 繰り返し名を呼ぶ声は大きくこそなかったもの、聞いている側の胸が苦しくなるほどに悲痛で、思わず叩き起こしてしまった。
 そして話を聞いてみれば、もしやと思った通り、こちらが死んだ夢を見ていたという。
 ひとを勝手に殺すな、おまけに泣くな、と思いつつも、しかし、内心でその夢を否定し切れないと感じたのも、また事実だった。
 神獣白澤は森羅万象に通じているが、未来視の能力は無い。
 だが、話を聞いた限りでは、いかにも彼が言いそうなことであり、自分が言いそうなことで構成された夢だった。
 自分に天寿というものがあるとして、何万年先かは分からないが、いつかその夢の内容が現実になってもおかしくない。白澤の話を聞きながら、腹の底ではそう思った。
 鬼の寿命は恐ろしく長いが永遠ではない。いずれは必ず、最後の時が訪れる。
 そうなった時、白澤がひどく悲しむのだろうということは、自惚れではなく理解していた。
 人と違う魂と心の形を持つ神属が、どのような情を自分に向かって抱いているかということは未だに分からない。尋ねたところで、白澤も不思議な顔か、困った顔をするだろう。
 好きは好き、愛情は愛情であり、人の子の情とどう違うかと問われても、答えられるものではないに違いない。
 だが、それでも白澤が、彼なりにできる最大限の情を傾けていてくれることは分かっていた。
 かけがえのない唯一無二の宝物にするかのように、白澤は自分を慈しみ、大切に大切にしてくれている。それが最高の幸せであるというかのように、この上なく嬉しげに、楽しげに。
 そんな彼が自分を喪い、嘆き悲しんでいるのを、もし魂魄となっても見ることができたのなら――見てしまったならば。
 果たして、すんなりと逝くことができるかどうか。
 まったくもって自信はなかった。
 他の大抵のことならば、割り切って前へ進んでゆくことができる。そういう処理は昔から得意だ。
 けれど、白澤のことだけは、どうしても上手くいかない。
 昔からそれは変わらず、彼に対する処理しきれない感情が積み重なって積み重なって、ここまで来てしまったのだという自覚はある。
 だから、長い生の最後の最後にもう一つ、最高に血迷った真似をしてしまっても何の不思議もない。素直にそう思うのだ。


「だって、ねえ。私は貴方が好きなんです。

 多分、貴方が思うよりもずっと」


 自分の心を偽る趣味はない。
 感情が表に出にくい顔だとは承知しているが、それと正直であるかどうかは別の問題だ。
 それなのに、この神獣はどこかしら誤解をしている節がある。その最たるものが、鬼灯が睦言を口にすることはないと信じ切っていることだ。
「前もね、呆れたんですよ。なんで、今際(いまわ)の際(きわ)にならなきゃ私が好きだと言わないと思い込んでるんですか」
 少し前に、浮気をするか否かで揉めた際、白澤が持ち出してきた賭け。
 よりによって、浮気をしなかったら一回でいいから声に出して好きだと言えときた。
 聞いた瞬間、まったくもってこの神獣は馬鹿だと思った。
 何万年にも及ぶかもしれない貞節を守った褒美に望むのが、たった一言の睦言だとは。
 貪欲なのか寡欲なのかという以前に、ただの阿呆だった。
「でもまァ、面白いと思いましたから乗りましたけどね」
 相手が信じ切っているのなら放っておこう。面白いから。
 賭けに応じる際、そう思ったのは事実である。
 そして、それに満足してしまった阿呆な神獣を不憫だなどとは思わない。真正面から愛の言葉を請わない方が悪いのである。
 先程の会話にしてもそうだ。好きだなどと単純な言葉にするかどうかはともかくも、本当に聞きたいと望むのなら、きちんと言ってやる準備はあった。
 なのに、妙に想像を暴走させて怖気づくのだから、本当にこちらを何だと思っているのか。
「本当に馬鹿ですよ、貴方」
 人差し指を伸ばし、つん、と額の端辺りを突いてやる。力はうんと加減しているから目覚める気配は勿論ない。
 のんきな顔で安らかに眠り続ける白澤の顔を、鬼灯は膝に片頬杖をついて見つめる。
 口に出して言ったことはないが、どれほど見ても見飽きない顔だと思う。美人は三日で飽きるという格言は、絶対に嘘だ。
 一番最初に惹かれたのは、彼の本性である輝くような雪白の獣の姿だが、人型の彼の見た目も惹かれこそすれ、嫌ったことは一度もない。
 外見も中身も何よりも愛おしい、かけがえのないたった一匹、あるいはたった一人の神獣。
 けれど、いつかはこの美しい獣を残して逝かなければならない日が来る。
 それが何万年、何億年先のことであるかは分からない。だが、自分に永遠があると楽観的に信じることはできなかった。鬼は神仏ではないのだから、もし自分に永遠が与えられているのなら、それはただの僥倖でしかない。
 そもそも、生に限りがあるとしても、来世があるかどうかすら分からないのだ。最後に待つのは、ただの消滅である可能性も少なくない。
 でも、と白澤を見つめて。
「ねえ、白澤さん。もし私の生に次があったなら」
 探して下さいね、と呟く。
「私だって貴方に会いたいです。何度でも」
 既にこの自分でなくとも。この想いがなくとも。
 それでも、いつかまた出会えるのなら。
 永遠の時を超える孤独な存在に、またこの魂が出会ってやれるのなら。
 そう思えたら、いつかこの阿呆な神獣を遺して逝く時も、きっとほんの少しだけ気持ちが安らかになれる。
「そんな馬鹿なことを思ってしまうくらいには、貴方が好きですよ。白澤さん」
 眠りの深い淵を漂っている神獣には、静かな告白は届かない。
 いずれはきちんと聞かせてやる機会もあるだろう。
 もっとも、こんな馬鹿には当分言ってはやらないけどな、と思いつつ、鬼灯はもてあそんでいた煙管を煙草盆に戻し、自分も布団の中にきちんともぐって横になる。
 そして、もう一度白澤の寝顔を見つめ。
「おやすみなさい」
 低く囁いて、目を閉じた。

End.

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