浮世の沙汰は金次第

「はよーございまっす。これ、昨夜の分の領収書ね」
 軽く会釈して経理部に入室し、白澤は右手に持っていた数枚の紙切れをひらひらと示してから、担当者のデスクの上に置く。
 なんで自分の担当は可愛い女の子ではなく野郎なのかと不満に思いつつも、「じゃあ、後はよろしくー」と足取りも軽く、その場から立ち去ろうとしたその時。
「待ちなさい」
 地を這うように低い声が白澤を呼び止めた。
「これ、何なんです?」
 振り返って見れば、領収書を提出した相手――経理部の係長が、一枚の紙切れを手にしている。その紙色から、昨夜の接待費のうち、最も高額の店のものだと白澤には直ぐに判別がついた。
「だーかーらー。接待費」
「落ちません」
 白澤よりも一年後輩に当たる係長は、年齢に見合わない鬼のような冷徹さで言い放った。
 もともと鉄面皮の男だが、フレームレスの眼鏡が表情に更に冷たい彩りを添えている。
「落とせよ。何のために営業やってると思ってんだ」
「会社の利益のためです。よって、この領収書は高額すぎます。経費として認められません」
「認めろ」
「無理です」
「こっちだって無理だ」
「自腹切って下さい」
「切れるか!」
「私にだって、この会社における役割と言うものがあります。よって、却下です」
「あのなぁ、接待相手の会社名を見ろよ! 先週頭に億越えの契約をぽんと投げてくれたとこの社長だぞ! これくらいして当然だろうが!!」
「その契約以前にも、相当に交際費を注ぎ込んでるじゃないですか! プロジェクトが終わるまで、あと幾ら使う気なんです!?」
「必要なだけだ!!」
「貴方は馬鹿ですか!? その金はどっから出てくると思ってるんです!?」
「プロジェクトの利益率考えろ!! 十万や二十万、はした金だろ!?」
「そう言いながら、一体昨日までにこの社長と会社に何十万使ったと思ってんですか!?」
「必要経費だ!!」
「無駄金です!!」
「これだけ金を注ぎ込んだから、この契約が取れたんだろうが!!」
 更に言い募ろうとしたその時。
 白澤のスーツの胸ポケットで、アイフォンが短くアラームを鳴らした。
「あ、やべ。もう出ないと」
 成績トップの営業マンの業務スケジュールは分刻みで組まれている。今日最初の商談に間に合うためには、もう会社を出なければならない時間が迫ってきていた。
 必ず約束の五分前に着き、適当に時間を潰しつつ身だしなみを整えて、ジャストに受付に声をかける。営業担当者の基本中の基本である。
「とにかく、それは落とせ! それがお前の仕事だろ!!」
「私の仕事は、貴方の無駄遣いを止めさせることです! 何のために係長直々に領収書をチェックしてると思ってんですか!」
「はいはい、僕の営業成績が下がったら聞いてやるよ!」
 始業開始直後とは到底思えない攻防を一旦棚上げし、白澤は経理部の出入り口へと足早に向かう。
 係長のデスクは経理部の奥寄りに配置されていたが、周囲の営業部社員たちは至極平然と業務を続けている。二人の遣り取りは、ほぼ毎朝のことであるため、皆、この喧騒に慣れっこなのだ。
 その部屋を出る際、ふと思いついて、白澤は後ろを振り返った。
 案の定、係長はひどく不機嫌な顔で右手にボールペンを、左手に件(くだん)の領収書を握り締めたまま、こちらを睨みつけている。きっと、許されるものなら、追いかけていってぶちのめしたいと腸を煮えくり返らせているのだろう。
 何しろ、彼の手の中にあるのは会員限定・超高級クラブの領収書だ。三名様で六桁の飲食代は、白澤も早々持ち込むことのない金額である。
 ざまぁみろ、と白澤はにやりと笑い、あかんべぇまで付けてやる。
 途端、係長の右手にあったボールペンが砕け散ったのが、その朝、白澤が見た経理部での最後の光景だった。

*             *

 馴染みの立ち飲み居酒屋に、半ば走る勢いで飛び込んだ白澤は、混み合った狭い店内をきょろ……と見回した。
 カウンター、には居ない。
 ならば、とフロアを見回して、五秒後に白澤は待ち合わせていた相手を見つけた。
「悪い、遅れた」
 他の客の間をすり抜け、そこだけぽっかりと空いた立ち飲み用の丸卓に歩み寄る。
 相席が当たり前のこの店で、この卓だけ一人が占領している理由は明白だった。そこに陣取っている相手が、尋常な風体ではないからである。
 外見自体は若い今時のサラリーマン風で、そこそこ仕立ての良いスーツをかっちりと着こなしている。だが、人相がどうしようもなく悪いのだ。
 顔立ちそのものはよく整っているのに、浮かべているのは不機嫌極まりない羅刹の表情である。とてもではないが、酒を飲む時の顔ではない。
 たとえヤクザの組頭であっても、相席をするのは避けるだろう、否、彼自身がヤクザなのではないかと疑いたくなるほどの凶悪さだった。
 正直、白澤もこんな顔をしている男の傍になど寄りたくない。
 だが、今日は定時後の接待の予定はないから、ここで待ち合わせようと昼間にメールしたのは自分なのである。
 諦めの境地で、かぱかぱとコップ酒を飲んでいる相手に近寄り、声をかけた。
「ごめん、鬼灯。待たせた」
「遅い」
「だから、悪かったって。商談が長引いた」
 一刀両断してくる相手に言い訳をかねた謝罪をしつつ、白澤は、とりあえず生を頼む。ついでに、串カツとタコの唐揚、ナンコツとつくねも二人前ずつ注文を済ませてから、相手に向き直った。
「契約はまとまったんですか」
「あ、うん」
 おもむろに尋ねてくるのに、うなずく。
 往々にしてあることだが、仮契約書までその場で作っていたため、定時よりも一時間余り、帰社が遅れたのである。結果、この待ち合わせにも遅刻したのだ。
「あの会社はいいですね。経費をロクに使わなくても、まずまずの仕事をくれます」
「お前ねぇ、何でもかんでも金、金、金って……」
「世の中金ですよ。会社は儲けてナンボなんです。売上が上がったって、利益率が低かったら意味ないんです。期末に幾らの利益が残るかによって、会社の評価も我々の給与賞与も決まるんです。文句があるなら資本主義に言って下さい」
 コップ酒を煽りつつ冷ややかに言うのは他でもない、鬼と名高い経理部係長である。
 そして、彼とは社内一の犬猿の仲として知られる営業部のエースは、実は、こんな風に待ち合わせて一緒に酒を酌み交わす以上の仲なのだ。
 殊更に隠しているわけではないため、社内では関係を薄々知っている者もいるにはいる。しかし、毎日の遣り取りがあまりにも険悪であるため、むしろ恋仲ということを疑われているのが実情だった。
 溜息をつきつつ、白澤は運ばれてきた生中をきゅっと飲む。喋り疲れた喉に、ビールの冷たさと炭酸の刺激とホップの苦味が心地良い。
 これだから仕事後の酒はやめられないよな、と思いつつ、今日の業務時間中、ずっと考えていたことを口に出した。
「今朝の領収書だけどさ。あれは、やっぱり必要経費だよ。あっちの社長に、あの店に行きたいってずっとねだられてたとこなんだ」
「酒数本であの値段じゃ、確かに他人にたかりたくもなるでしょうね」
「今回限りだよ。これまでとは桁違いの高額の契約の礼だ。同じような高額契約が無い限り、二度はない」
「当たり前でしょう。一度だって許したくないのに」
 ビールから一分ほど間を置いて運ばれてきたタコの唐揚をつまみながら、鬼灯は不機嫌に言う。
 その顔を見つめながら、白澤は更なる説得を試みた。
「けど、億越えのプロジェクトだ。これまで使った経費が、およそ七十。これから完了まで向こう半年間の接待は、僕の面子にかけても同額の七十で納める。これで接待費の合計は、今回の売上の一パーセント未満だ。それなら許容内だろ?」
 改めて計算した結果を告げれば、鬼灯は無言で清酒で満たされたコップを傾ける。
 そして、無言のまま、つくねの串を一本たいらげた。
「計算なら私もしてみましたけど。今回より前の仕事を加味すると、直近三期の通算で二パーセント超えますよ。とんだ金食い虫です、あの社長は」
「分かってるよ。でも、経常的にでかい仕事をくれる得意先だ。それなりに大事にしないわけにはいかない」
「分かってます」
 鬼灯は、眼鏡を仕事中しかかけない。だから、素のままの目で白澤を見る。
 眼鏡があろうとなかろうと、視線が冷徹なのは変わりないが、裸眼の方が彼の漆黒の瞳が綺麗に見えるのだということを白澤は知っていた。
「今朝の領収書は私の権限で通しました。でも、あの店はもう二度と無理だと覚えておいて下さい」
「ああ、分かってる」
 大きく安堵の息をつきながら、白澤はうなずく。
 この男が今朝の領収書を認め、処理してくれるだろうことは最初から分かっていた。
 白澤の接待費の使い方に対する小言や文句は毎日のことだが、しかし、経費として本当に認めてくれなかったことは一度もないのである。
 ギリギリの攻防を繰り広げはするが、白澤の言い分が理にかなったものだと納得すれば、鬼灯は必ず了承してくれる。そして、弁舌を尽くして上にも必要経費だということを理解させるのだ。
 だからこそ、白澤も仕事のためなら惜しみなく接待費を使う一方で、無駄な出費はしないよう常に心がけているのだった。
「ありがとな」
「必要な経費を上に認めさせるのも、私の仕事の内ですから」
「うん」
「でも、本当に気をつけて下さい。貴方に預けてある法人カード、いつ取り上げられてもおかしくないんですよ?」
 新たに、だし巻きとホッケの塩焼きとホルモンの鉄板焼きを追加してから、鬼灯は至極真面目な顔で白澤を見た。
「貴方、自分が陰で何と言われているかくらい、ご存知でしょう」
「うん」
 二つの課がある営業部で成績トップを直近三期もの長い間、一度も譲ったことがないともなれば、部内では尊敬よりも妬みの対象になることは少なくない。
 白澤は天性の人当たりの良さを持つため、さほどきつい反感を持たれることはないが、それでも陰口を叩かれるくらいのことは時折あった。
 その中に、「あれだけ接待費をばら撒けば、契約を取れて当然だ」というものがあるということも承知している。隣りの営業部第二営業課の課長が、その陰口の最大の出所であるということも。
「今のところ、営業部長が貴方の実力を認めてますから、大丈夫とは思いますけれど。人事異動があったら、どうなるか分かりません」
「……お前がそんなにわざわざ釘を刺すってことは、マジでヤバイ?」
「私は冗談で忠告したりなんかしません」
「そっか」
 営業成績がナンバーワンならば、接待交際費の支出額もナンバーワンであるのが白澤である。
 だが、世の中はこの不景気だ。経費節減とうるさいのは、どこの会社も変わらない。
「了解。気をつけるよ。さすがにサラリーマンの月給で立替できる金額じゃないからな」
「当たり前でしょう。ほんの二時間で二十万近い店になんて、まともなサラリーマンが行くもんですか。とんだぼったくりですよ」
「さすがに酒は美味かったし、ママも絶世の美人だったけどね」
「酒に溺れて死んでしまえ、この極楽蜻蛉」
「痛たたたっ!」
 卓の下で思い切り体重をかけて足を踏まれ、白澤は小さく悲鳴を上げる。
 その様子を見届けて鬼灯は、ふん、とそっぽを向いた。
「焼き餅やいてくれるのは可愛いんだけどなぁ」
「その耳、もがれたいですか」
「止めろ」
 切れ長の眼をきらりと光らせるのが恐ろしい。
 肩をすくめて、白澤は新たなジョッキを空けた。





 ほどなく腹がくちくなったところで、二人は杯を置く。
 そして、鬼灯は遠慮なく勘定書きを白澤に押し付けた。
「遅刻の罰です。貴方が払って下さい」
「ああ、……って、なんだよこの金額!? お前、僕が来る前に一体どれだけ飲み食いしたんだ!!」
 全メニュー制覇の勢いで料理の品書きがたっぷり続いた下は、ひたすらに酒、酒、酒である。
 末尾の請求金額は、サラリーマン二人分の飲食代とは到底信じられない金額だった。
「だから、そこに書いてあるだけですよ。こんな店で一時間以上も待たされたら、飲み食いする以外、何をしろと言うんです」
「そりゃそうだけど……!」
「ほら、さっさと払ってきて下さい」
 冷たく突き放し、鬼灯は自分のカバンを持ってさっさと入り口を出て行ってしまう。
 止むを得ず、白澤は自分のカードで代金を支払い、鬼灯の後を追って店を出た。
 のれんを払って辺りを見回せば、直ぐそこで鬼灯は待っていた。が、寒がりの彼は、既に三月であるというのに、しっかりコートを着込んだ上にマフラーまで首に巻いている。
 その姿は、こんなにも傍若無人であるのに、どうにも可愛く見えて、白澤はそろそろ自分も末期かと心の中で溜息をつきながら歩み寄った。
「で? 今日はどっち? それともホテル行く?」
「なんで、わざわざ金を使わなきゃいけないんですか。貴方の部屋より、うちの方が近いです」
「了解」
 寒いもんな、と笑いながら白澤は鬼灯に並んで歩く。
 それぞれのマンションの最寄り駅は同じだが、駅の北側と南側であるため、北側で飲んでいた今夜は鬼灯の言う通り、彼の部屋の方が近い。寒がりで案外面倒くさがりの鬼灯が、駅向こうまで歩きたがるはずはなかった。
 無論、白澤もそれを見越してこの店を指定したのだ。
 夜道を並んで歩くのも悪くないが、完全に二人きりの時間は一秒でも長い方がいい。
 それこそ、今よりももっと長い時間を共に過ごせれば、それに越したことはない、と思いながら白澤は隣りを見る。
 すると、視線を感じたのか、鬼灯がこちらを見た。
「何です?」
「何でもないよ」
 微笑んで答えながら白澤は、さて、一体いつ、一緒に暮らそうと切り出そうかと、ここ最近の最大のプロジェクトをもう一度頭の中で練り直す。 
 既に、明日の着替えに困らない程度の荷物は鬼灯の部屋に置かせてもらっているし、都合が合う限り、平日の夜も休日も共に過ごすようにしている。
 そんな地道な努力が実って、そろそろ鬼灯も、常に白澤と一緒にいることに慣れてきているはずなのだ。
 ここまできたら、あとはタイミングの問題である。
 毎朝の領収書を巡る攻防と同様、きちんとメリットを尽くして説明すれば、きっとこの経理の鬼は了承してくれるだろうと白澤は思う。これでいて鬼灯は案外甘いところもあるから、あっさりうなずいてくれるかもしれない。
 だが、万が一、渋い顔をしたら、そこは営業部エースの腕の見せ所である。
 必ずや最高の落とし所を見つけてみせようと、ほろ酔い気分で楽しく考えつつ歩いていた白澤は、車道をトラックが轟音を立てて通り過ぎる最中、鬼灯が、
「まったく、私の部屋に私物ばかり増やして……。最初から底は見え透いてるんですから、いい加減、外堀を埋めるのは止めてくれませんかねぇ。この極楽蜻蛉め」
 とマフラーに口元をうずめたまま、呟いたことにその夜の最後まで気付くことはなかったのだった。

End.

白鬼リーマンパロ。さゆこさんとTwitterでお話してるうちにできたネタです。
鬼灯様は経理部で、白澤さんが営業部。この会社で働きたい…!!

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