泰山木盃 −泰山木、盃となる−

 それは、店じまいをして久しい時刻だった。
 夕飯も済み、さて寝支度までの間どうしようかと考えていた最中、不意にがらりと開けられた戸口に白澤は、何事、とまなざしを向ける。
「こんばんは」
 不愛想な低い声は、他の誰のものでもない。先触れのない天敵の訪(おとな)いに、白澤は顔をしかめた。
「何時だと思ってんだ馬鹿。うちの営業時間はとっくに終わってるぜ」
「知ってますよ、そんなこと」
 気楽な心地の良い夜に、発注という名の無理難題を聞く気などない。早々に追い返しにかかった白澤に、しかし、負けず劣らず素っ気ない口調で鬼灯は答えた。
「ちょっと断りに来ただけです。養老の滝の酒を頂こうと思いましてね」
「酒ぇ?」
「ええ」  酒などどこにでもあるではないか、と胡乱げに眉をひそめつつも、鬼灯が戸口に留まり、店内に踏み込んでこないのはそういう用件だからか、と白澤は納得する。
「何でまた、わざわざうちに」
「癪ですが、貴方のところの酒が一番質がいいからですよ」
 そう言いながら、鬼灯は右手を掲げてみせる。戸口の影になっていて見えなかったが、その手に握られていたのは一枝の花木だった。
 艶のある葉は大きいが、それ以上に大きな白い花が見事である。おまけに香りが良い。うっとりとするような馥郁たる香りが夜風に乗って極楽満月の店内にふわりと届く。
「泰山木(たいさんぼく)か」
 極東には近代になってから伝わった異国原産の花木であるが、白澤に分からない植物などない。
 とはいえ、桃源郷にこの木はないし、日本地獄にも植わってはいなかったはずである。
 何故それが鬼灯の手に、と疑問に思ったが、それはすぐに鬼自身によって解消された。
「ええ。今日、現世に行った際に一枝手に入れましてね」
「なるほどね」
 大輪の見事な花と、桃源郷の美酒。
 二つを脳裏で並べた瞬間、この鬼が何を企んでいるのか理解して、白澤は納得する。
 確かに、どうせなら極上の大吟醸が欲しいと思うのも道理だろう。中々に面白そうな趣向である。
 ―――これに乗らないでいる手はないな。
 どうせ今夜は何の予定もなかったのだ。白澤は一瞬のうちにそう計算して、にっと笑んだ。
「分かった。酒は好きなだけ汲んでいけよ。但し、その花一つと交換だ」
「――まぁ、いいでしょう」
 白澤が企みを看破したことを悟ったのだろう。僅かに眉をしかめたが、鬼灯は直ぐにうなずく。
 もとより彼が持つ泰山木の枝は、花が三つも咲いているのだ。天敵相手とはいえ、一つくらいケチるほどのことではないに違いなかった。
「よし、じゃあ少し待ってろ」
 白澤は足早に台所へ行き、手早く肴になりそうなものを手籠に詰め込み、空の酒壺と柄杓(ひしゃく)を掴む。
 そして、表へと戻った。
「愚図ですねえ。支度は四十秒でするものと決まってると知らないんですか」
「一分もかかってねぇだろジブリマニアめ」
 これはお前が持て、と持ちやすいよう縄をかけてある酒壺と柄杓を押し付けると、鬼灯はさほど渋るでもなく受け取る。
 そして二人は、戸口を離れて極楽満月の裏手へと続く小道を歩き始めた。
 月の光がさやかに差し込む雑木林を抜けると、程なくせせらぎの音と共に極上の酒の香りが漂寄ってくる。そのまま流れに沿って小道を遡れば、やがて辺りを圧する轟きと共に大吟醸の瀑布が雄姿を現した。
 見事な風景ではあるが、見慣れている二人は特に新たな感慨もない。滝壺の正面で腰を下ろし、鬼灯は白澤から受け取った酒壺に滝の酒を汲み上げる。
 それから泰山木の花から一枚、花びらを外して白澤に渡した。
 花びらを受け取った白澤は、柄杓で酒壷から酒を汲み、蓮華のような大きな花びらのうちに注ぐ。
 同じように鬼灯も自らの花びらに酒を注ぐのを待ってから、二人は無言のうちに花盃を掲げ、酒を煽った。
 もとより馥郁とした豊な酒の香りに、泰山木の甘くも爽やかな香りが加わって華やかに喉を滑り落ちてゆく。美味い、と思わず呟いたのは同時だった。
「いいねえ、これ」
「ええ。私も初めて試しましたが、実に良いものです」
 珍しく意気投合し、白澤は新たな酒を注ぐついでに、鬼灯の花盃にも注ぐ。鬼灯も、文句も言わずにそれを受けた。
「昔、蓮酒はやったことがあるけどなぁ」
「蓮の葉に穴を開けて酒を注いで、下の茎から飲むやつですか」
「そうそう。一人じゃやれないから四獣の連中とね。あれも蓮の香りが酒に移って美味かったけど、これもまた格別だな」
「この花を盃にするやり方は、とある付喪神が教えてくれたんですよ」
「へえ?」
 相槌を打ちながら、白澤は出がけに詰めてきた肴を広げる。
 包丁を使う暇はなかったため、棗や無花果などの干果、古漬け、夕方に収穫したばかりの胡瓜に味噌という間に合わせもよい品々ばかりだ。だが、酒の味を堪能するには十分に事足りる。
 古漬けを一枚、口に放り込んで噛めば、ぱりぱりと良い音がして、塩気が舌の上に広がったところで酒をあおると、また一段と芳醇に甘かった。
「布袋の形をした徳利の付喪神だったんですがね。揃いの盃が割れてしまって、もう酒を飲むことができないと嘆いていたら、その声を聞きつけた人の子が……この少年は人外のものを視る力があったようなのですが、ちょうど庭に咲いていた泰山木の花を盃にすることを提案してくれたそうなんです。おかげで、また酒が飲めるようになったと、嬉しそうにその付喪神は語っていました」
「なるほどね。確かに、自然の花や葉なら付喪神にも触れるものな。妙案だし、実に風流だ」
「ええ。だから、それを聞いて以来、私もいずれやってやろうと思っていたんですよ。ただ、日本地獄には泰山木の木はないので」
 ずっと花を手に入れる機会をうかがっていたのだと鬼灯は言った。
「あー。泰山木自体は今は現世の日本にも珍しくないけど、花の時期が短いからなぁ」
「なかなか視察の時期と花の時期が重なりませんでしたし、私も現世に降りたときにこの事を覚えているとは限らなくて……。結局、十年がかりです」
「それはそれは」
 鬼灯は、こだわり始めるとしつこい割に、基本的なボケをかますことが時折ある。そんな彼の性格はよく知っていたから、白澤はくすりと笑うだけにとどめた。
「で、この泰山木は、どこから?」
 問えば、鬼灯は花盃をあおり、空になった花びらを見つめながら答える。
「今日の現世の視察先に、出ると評判の寺がありましてね。行ってみたんですよ。そうしたら、亡者はいませんでしたけど、墓地の脇に見事な泰山木の大木があったので……。御住職にお願いして一枝頂いてきました」
「お前って、そういう時に物怖じしないよな」
「物怖じして損することはあれど、得することは殆どないでしょう」
「まぁねえ」
 白澤も、物怖じにはとんと縁のない性格をしているから、反論はしない。美人を目の前に気後れなどしていても、一文の得にもならないのだ。
 鬼灯の性格も大概、図々しいとは思っているのだが、日本人にしては珍しく物言いが明快なところは嫌いではなかった。
「何にしても、この花盃で飲む酒は美味いよ。お前のやることにしては快挙だ」
「褒める気ないでしょう、貴方」
 そう言いながらも鉄棒が飛んでは来ない辺り、彼も機嫌は悪くないのだろう。この場を台無しにして、念願の花盃での酒を放り出す気にはなれないのに違いない。
 白澤とて、せっかくの美酒を諍(いさか)いで台無しにする気はなかった。
「美味いねえ」
 半月に近い上弦の月は、早くも西の木立の陰に消えようとしている。だが、星明かりが夜空を彩っているから暗さは感じない。もとより二人とも夜目も利くから、何も困ることはなかった。
「美味いですね」
 美酒にも佳花にも罪などない。罪作りなのは人語を話すものばかりだ。
 だが、その罪作りなものたちが、こんな風に肩を並べて酒を飲み交わすことも、たまにはあっても罰(ばち)は当たらないだろう。
 白澤は上機嫌に笑みながら、少しくたびれてきた花びらをせせらぎに流して新しいものに取り換え、また酒を酌む。
「いい酒だ」
「ええ」
 本当に。
 神獣の言葉に鬼がうなずく。
 夜風がふわりと通り抜け、酒の香りも花の香りも一層甘く匂い立つ。
 そうして仇敵であるはずの二人は、夜が更け、花盃の最後の一枚がなくなるまで、いつになくまろやかな酒を酌み交わしたのだった。

End.

美味しいお酒がある時だけは休戦する白澤さんと鬼灯様も可愛いな、と思って短いのを1つ。
表題は『花の七十二候』(誠文堂新光社刊)より。「泰山木盃」は芒種・第二候(6/11〜15)。
作中の付喪神のネタは、波津彬子先生の『雨柳堂夢咄 其の四』所収の「夏の盃」よりいただきました。

<< BACK