夏天、蒼々たり

 さらりさらりと沢の水が流れる。
 せせらぎは冷たく、白澤の爪先をきりりと冷やしている。
 だが、日差しは温かく身体の前面を温(ぬく)め、そして、背面には太陽のものとはまた異なる温もりがあった。
 その温かさを感じながら澄み渡った空の青を見上げ、白澤はぽつりと思う。

(どうしてこんなに好きなんだろ)

 本性は天の獣であるのだから、本来、一番好きなのは太陽の光であり温もりである。
 なのに、どうしてかその大好きなはずの日差しよりも背面の温もりの方が好ましい。
 困ったな、と白澤は思った。

「なぁ、美味い?」
「ええ」

 問いかけると、短く答えが返る。
 その際に、もたれかかっている温もりが仄かに震えた。
 当然だろう。いま白澤が背もたれにしているのは木石ではない。
 生き物、それも鬼だ。
 異国から訪ねてやってきた鬼は、今、黙々と白澤手作りの水菓子を食べている。
 綺麗な色をしたゼリー。女の子たちに配るときと同じように一つ一つ、セロファンの袋で包んで小さなリボンをかけてみた。
 その意味を果たしてこの鬼は分かっているのだろうか。

 分かっているのかもしれない、と思う。
 だって、先程からずうっと寄りかかったままなのに、文句の声は飛んでこない。
 彼の体温も同じように白澤に寄りかかっていて、せせらぎの中に置いた縁台の上、背中合わせでバランスが取れている。
 変なの、と思った。

 想いを通じ合わせたのは桜の季節。
 最初のうちは舞い降る桜の花が見せた幻ではないかと疑っていた。

 (だって、こいつが僕を好きなんて有り得ないと思ったし)

 けれど、一晩を過ごしても鬼は消えなかった。朝まできちんと白澤の腕の中に居たのだ。
 朝の光の中で寝起きの姿を初めて目にし、自分が作った朝食を食べるところを見た。
 そして、もうダメだと思った。
 もう逃げられない。
 もう自分はこの鬼から離れてどこにも行けない。
 それはとても愚かしい錯覚だった。
 神獣白澤が逃げられないはずがない。変幻自在、どこにでも天を駆けてゆける。
 なのに、今も白澤はこうして常闇色の鬼にぴったりと体を寄せている。
 決して離れたくないと思っている。
 実に愚かだった。

 口の中に残るゼリーの甘みを感じながら、ちらりと傍らの瀬の流れにまなざしを落とす。
 浅瀬の岩にうまい具合に寄りかからせた一升瓶。
 先日手に入れた、大変に風味の良い佳酒だ。
 縁台には透明切子のぐい呑みも二つ、置いてある。
 もう一杯呑もうか呑むまいか、迷いながら白澤は身体の脇へとまなざしを移す。
 そこには湊鼠(みなとねず)の駒絽の着物の袂(たもと)があった。
 絡め織の薄く透ける地の向こう側には淡い梔子(くちなし)色の麻襦袢。風合いも色合いも実に涼しげだ。
 こんな色の着物も持っていたんだな、と思う。
 オフですから、といつもの顔で言っていたけれど、普段と違う姿で逢いに来てくれたことがひどく心を浮き立たせる。
 戸口に現れた姿を一目見て、とても綺麗だと、眩しいと思った時点で、もう末期だった。
 そんな内心を悟らせないよう、軽薄な笑みを浮かべて目線を逸らすしかなかった。

 さらりさらりと水が流れる。
 すうっと通り抜ける夏風が白澤の前髪を揺らす。
 届くのは背後の鬼の香り。
 麝香にも似た甘く重い、抹香の染みた肌の香り。
 どうしようもないほどに白澤の胸の内を騒がせる。
 湧き上がる想いで息が詰まりそうになる。


 ―――ねえ、お前。
 いつまでこうして居てくれるの。
 いつまで傍に居てくれるの。
 いつまで逢いに来てくれるの。


 いつまで――好きで居てくれるの。


 神獣白澤には心を読む力がない。
 そのことを時々もどかしく思うし、なくて良いのだと胸を撫で下ろしもする。
 だって、すべてが見えてしまったら。
 きっと、もう傍には居られなくなってしまう。
 想いの限界が、果てが見えているのに傍に居続けるなんて、そんな心が冷える真似などできるはずもない。
 だから、ただ思うのだ。
 いつまで、と。
 ねえ、お前、とただ心の中で呼びかけ続ける。

*   肩に降りかかる日差しは温かかった。
 今日はとても良く晴れていて、夏物の着物でも十分に過ごせる。
 桃源郷は常春だが、微妙に季節の移り変わりはある。
 今は盛夏だった。
 いつもの闇色の袷の着物と羽二重の長襦袢では、ここを訪れるにはいささか暑い。
 だから、少し迷ってから夏物の衣類を引っ張り出した。
 淡い梔子色をした小千谷の麻襦袢。湊鼠の駒絽の長着。
 仕立てたのはいつの頃だっただろうか。
 思い出そうとしながら袖を通し、帯を締めた。
 道々、こんな風に見た目を気にして衣服を選ぶなど、実に愚かしいと思った。
 これではまるで、いつもと違う自分を見せたいだなどと言う小娘と変わりはないではないか。
 意図としては、仕事ではなくオフなのだから夏向きの服装で行こうと思った、それだけでしかない。
 けれど、この姿を見たとき白澤がどんな顔をするか。
 歩きながら、どうしてもちらちらと頭を掠めた。

 今日はちょっと暑いから沢に行こう。良い酒も手に入れたから。
 鬼灯が店の戸を開けると、白澤はいつもの軽薄な笑みでそう言った。
 一瞬眩しげな目をしたのは、外の日差しのせいだろう。空には雲一つなかった。
 いつもの着物と色味が違うことについては何とも言われず、少しだけ肩透かしの気分を味わずにはいられなかった。
 別に何かを言って欲しかったわけではない。
 決してそうではないのだけれど。

 いつかの時と同じように二人で縁台と酒を運び、せせらぎの中に据えた。
 養老の滝から続く流れではなく、別の清らかで冷たい水の流れだ。
 草履を脱ぎ、爪先を浸すと、ひんやりと気持ちよかった。
 さわさわと足の表面を水が撫でてゆく。
 縁台に腰を下ろし、その感触を楽しんでいると、不意に背中に重みを感じた。

 重い、と文句を言ったが、返ってきたのは、うん、という生返事。
 冷たい水と沢石の中に落としてやろうかと思ったけれど、ぎりぎりで思いとどまった。
 何故なら、背中が温かかったのだ。
 肩に落ちかかる日差しの温かさとは違う。もっとじんわりと染みてくる何か。
 それに気付いてしまったら、もう縁台から突き落とすことはできなかった。

 仕方なく、傍らに置かれた水菓子に手を伸ばす。
 一つ一つ丁寧にセロファンの袋に包まれ、小さな黄色いリボンで結わえられた色とりどりのゼリー。
 この自分のためと思うにはあまりにも可愛らしい包装は、残りを色街辺りで配るつもりでいるからだろうか。
 だとしたら、少しだけ胸の奥底が灼けると思った。

 この神獣の考えていることは、いつも良く分からない。
 小さなリボンを解きながら思う。
 想いが通じ合ってから季節一つ分。
 それだけの長さを共に過ごしても、まだ良く分からない。
 逢いに来れば、いつでも綺麗で可愛らしいお菓子が用意してある。
 忙しさにかまけてしばらく桃源郷を訪れずにいれば、わざわざ異国の地獄までやってきて、憎まれ口と共に滋養によい生薬が詰まった袋を投げ付けてくる。
 なのに、言葉では何も言わない。
 こちらの目を見て話すことも少ない。
 普段は口から先に生まれたかのようにべらべらとうるさいのに。
 二人きりになると押し黙り、身体のどこかは今のように触れていても、口を開かなくなる。

 もっとも、話したいことがあるのかと言われたら、否、と答えるしかない。
 押し黙ってしまうのは自分も一緒だった。
 憎まれ口なら幾らでも言えるのに、二人きりになると何故か話題が浮かばない。
 地獄のこと、極楽のこと、生薬のこと、酒のこと。
 共通に話せるネタは、探せば幾らでもあるはずなのに。
 白澤が黙り、自分も黙ってしまう。
 こうして背中を合わせて、あるいは指先を触れて。
 それきり、黙ってしまう。

 よく冷やされていたゼリーは、つるりと喉を通った。
 甘く、果実の風味がふわりと香る。
 とても美味しい。
 そう思ったとき、白澤の声が背中越しに響いた。

「なぁ、美味い?」
「ええ」

 隠すほどのことでもないから、正直に応じる。
 そしてしばらく待ったが、反応は返ってこなかった。
 白澤は相変わらず、黙り込んでいる。
 背に、肩に、寄りかかられている感覚。重み。息遣い。
 嫌ではない。
 決して嫌だということはないのだけれど。


 ―――ねえ、白澤さん。
 どうして貴方は私と一緒に居るんですか。
 どうしてこんな風に共に時間を過ごしてくれるんですか。
 どうして、そのくせ何も言ってくれないんですか。

 いつまで――私と一緒に居てくれるんですか。


 胸に渦巻き、喉元までこみ上げている言葉の数々は、しかし、口に出して問いかけられるはずもなかった。
 溜息を押し殺し、ただゼリーを食む。
 そして食べ終えた後、鬼灯は、きらきらと涼しげに光をはじいている切子硝子のぐい呑みを手に取った。
 口元に近づければ、吟醸香がふわりと甘い。
 だが、案外に辛口の酒は、心地よく喉を焼きながら滑り降りていった。
       *    *  切子硝子を手に、二人して只、空を、水面を見つめる。
 このままずっとこうしていられたら。
 ああ、でも、できることなら言葉を交わせたら。
 もう少し素直に向き合えたなら。
 互いにそう胸の内で言葉を渦巻かせていることなど、知るよしもない。

 あの春の日。
 美しい夢幻のように舞い散る桜の花びらの中では、素直に互いを瞳に映せた。
 好きだと言葉に出すことができた。
 なのに、今はそれがこんなにも難しい。
 どうして、と溜息を押し殺す。

 いつもと違う着物がよく似合うと言ってやりたいのに。
 眩しくて目がくらみそうだよと、いつものように軽薄に言葉を紡ぎ出せたらいいのに。

 どうして何も言わないんですかと、問いたいのに。
 何を思っているんですかと聞いてみたいのに。

 何故か背中合わせのまま、動けない。
 ただただ、時間ばかりが過ぎてゆく。
 さらりさらり、するりするりと水の流れと共に二人きりの時は消え去っていってしまう。

 このまま日暮れまでこうして過ごし、それでは、と鬼灯は地獄へ帰るのか。
 ふと数時間後のことを考えて。
 それは嫌だ、と二人同時に思った。

 せっかく逢えたのに。
 互いに忙しくて、やっとのことで一月ぶりに逢えたのに。
 今を逃したら、また季節が巡ってしまうかもしれない。
 何も言えないまま、その時まで距離を隔てて過ごすのは嫌だと強く思う。

 電話もある。メールもある。連絡手段が限られていた昔とは違う。
 けれど、直接顔を見て話す機会は決して多くはない。

 だから。

「――なぁ」
「……はい?」

 口火を切ったのは白澤だった。
 鬼灯の温もり、重みを背に感じながら言葉を選び選び、告げる。

「今度……っていうか、来年か。朝顔市、行かないか」
「朝顔市……? 入谷の?」
「そう」

 何を唐突に、と鬼灯は思う。
 今年の朝顔市はとっくに終わっているし、今、目のつくところに朝顔は陰も形もない。
 どこから話題が来たのだろうと思った時。
 白澤が答えを明かした。

「なんかさ、お前の着物の色合い見てたら朝顔が浮かんでさ……浅葱色の」
「ああ……」

 言われて鬼灯は自分の着物を見下ろす。
 淡梔子に湊鼠。くすんだ色合いではあるけれど、確かに水色がかかって見える。
 見ていてくれたのか、と思った。

「お前は何色が好き?」
「朝顔ですか?」

 背中越しに鬼灯が考えている気配がする。
 藍、薄紅、藤色、水色、曙色、白、ぼかし、しぼり。
 この鬼は何色の花が好きなのだろうと想いを馳せる。
 やがて、鬼灯がぽつりと言った。

「水色がいいです。澄んだ、空色の花が」

 空色、と聞いて白澤は、はっとまなざしを上げる。
 頭上に広がるのは、澄み渡った桃源郷特有の空。
 一方、地獄には青空はない。
 ぶわりと体温が上がるような気がした。

 ―――そうなのか?
 お前は今、何を思って水色と言った?
 普段、地の底で闇の黒と血の赤を見つめているお前が。
 優しく慎ましやかな水色になど縁のないお前が。
 澄んだ空の色がいい、と。
 そう、言ったのか。

「それじゃあ、さ」

 声が震えそうになる。
 吐息が熱い。
 それらの全てを抑えて、白澤は至極何でもないことのように言った。

「来年、買ってやるよ。この空の色みたいな朝顔」

 え、と鬼灯は思う。
 今、何と言ったのか。

「朝顔市に行ったら一鉢買ってやるから、枯らすなよ?」

 返事をしようにも言葉が見つからなかった。
 空色の朝顔。
 桃源郷の、空のような。
 銘入りのものでもない限り、一鉢幾らもしないだろう。
 けれど、それを買ってくれるという。
 来年の、夏に。
 現世の朝顔市で。

 一体、どんな顔で白澤は言ったのか。
 どういうつもりで言ったのか。
 顔を見たい、と衝動のまま肩越しに振り返ろうとする。
 すると、白澤の重みがすっと引いた。

 縁台の上に片膝をつき、百八十度身体の向きを変えた白澤が鬼灯をやや上から見下ろす。
 見上げる鬼灯の瞳。
 驚きの色を残していることが、ひどく可愛いと……愛おしいと思った。
 想いのままに顎を捉え、上からそっと唇を重ねる。
 触れるだけで離れて、互いの顔さえしかとは見えない至近距離で囁いた。

「その色、すごく似合ってる。他にもあるのなら、また着て来いよ」

 言葉もなかった。
 気にも留めていないと思ったのに。
 何色を身に纏っていようと意味などないのだろうと理解したのに。
 今になってそんなことを言うのは卑怯だった。

 けれど。

「……じゃあ、そうします」
「うん」

 微笑んだ白澤は、もう一度鬼灯に口接ける。
 片手は頬に添えたまま、もう片方の手を胴に回して引き寄せれば、鬼灯の両腕も少し躊躇ったあと、白澤の背に回った。
 ゆっくりと互いの熱を絡み合わせ、その温もりと甘さに変わりがないことを確かめる。
 そして、良かった、と思った。

 何一つ、上手く言葉にはあらわせない。
 上手に気持ちを伝えることさえできない。
 ましてや、相手の心を探ることなど器用にできるはずもない。
 けれど、想いはある。
 それぞれの胸の内に、確かな気持ちは瞭然としてある。
 それだけは間違いのない事実だった。

「今夜は泊まっていけるのか?」
「今更それを聞きますか」
「どこに聞くタイミングがあったんだよ」
「それを作るのが男の甲斐性というものでしょう」

 このオタンコナス、と鬼灯は白澤を白い目で睨む。
 白澤は素知らぬ顔で肩をすくめた。
 無言のまま睨み合い未満を続けていた二人だが、やがて鬼灯が溜息をつく。

「帰るのは明日の朝で十分です」
「そっか」
「ええ」

 素っ気無い口調での返答に白澤は微笑み、それなら、と片手を伸ばす。
 置いてあった切子硝子の一つを取り、鬼灯に渡した。

「だったらさ、もう少し飲もう」
「……飲み過ぎて役に立たないなんてことになったら、寝台から蹴り出しますからね」
「お前、誰の寝台だと思ってんの」
「少なくとも役立たずには、寝台は勿体無い代物です。床で一人で寝てろ」

 互いに憎まれ口を交わしながら、酒を注ぎ合う。
 そして、干した。

 頭上の空はどこまでも青く澄み渡り、真昼の月が仄かに白く光る。
 そよぐ風とせせらぎの音の中で、二人は今、言葉にはできなくとも確かに幸せだった。

End.

(注1)湊鼠…みなとねず。藍色がかった明るい灰色。江戸後期の男性用着物の流行色。
(注2)駒絽…こまろ。夏向けの薄い絹織物の一種。糸と糸の間に隙間が多く、透けて涼しげ。
(注3)絡め織…からめおり。反物の織り方。縦糸と横糸を絡めながら織る。絽もその一種。
(注4)長着…ながぎ。くるぶしまでの丈の着物の正式な呼び名。


黒壱様の素敵なイラストにまたもや触発されました。
イラストは前回のお花見の続きということでしたので、こちらも同設定のお話です。

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