九龍浪漫譚

 一足歩くごとに、足元でぐちゃりと濡れた淫猥な音がする。
 裸電球ばかりがぽつりぽつりと灯る薄暗い通路を歩きながら、白澤は、やれやれ、と一人ごちた。
 幅1メートルくらいしかない通路の壁は落書きや破れた張り紙だらけで、頭上には正体不明のケーブルやビニールホースが悪夢の蛇が実体化したかのようにうねり、束になりながら重く垂れ下がっている。ことに、明らかに真水ではないどす黒い水が、あちらこちらから滴り落ちてくるのは閉口ものだった。
 天井そのものも低いため、長身の白澤は時折、身をかがめなければ通り抜けることさえできない。
 だが、見た目の酷さより猶も酷いのは、臭いだった。
 ありとあらゆる悪臭が入り混じり、混沌とした奇怪な刺激臭が鼻腔を刺激する。
 無論、人の姿をしていても人ではない白澤には、それらの刺激臭も肉体的には影響を及ぼさない。
 白澤が感じているのは、汚穢(おわい)に対する淡い嫌悪感と、それを上回る現状に対する不快感だった。




 神獣白澤たるものが、故国の現政府が管理している飛び地とはいえ、こんな無法地帯に足を踏み入れているのは一体何故か。
 理由はただ一つ。依頼されたからに他ならない。
 それも単なる知人からの依頼ではなかった。日本地獄の中でも最重要人物である閻魔大王その人からの頼みで、白澤は今、ここにいる。
 依頼内容は至極簡潔だ。
『かの地に出向き、行方不明になった第一補佐官を探してほしい』
 ただそれだけである。
 聞いたところによれば、本国返還を数年後に控えた悪名高き九龍城砦、正式名は九龍寨城に治安改善のための香港政府の手が入る前に見学しておきたい。そんな理由で鬼灯は出向いたらしい。
 だが、二日間という予定の滞在期間を経ても彼が帰還しなかったため、日本地獄に最も近しい大陸の関係者として、白澤に白羽の矢が立ったのだ。
 白澤は事情を聞き、ごねることなく大王の依頼を引き受けた。
 理由としては幾つかあるが、詰まるところ、自分が引き受けるのが一番確実かつ早かったからだ。
 日本地獄の関係者が入国をするのは煩雑な手続きを経なければならないし、また、日本地獄の高官が大陸でトラブルに巻き込まれたとなると、ややこしい外交問題にもなりかねない。
 その点、白澤には中国妖怪の長としての地位と肩書きがある。もし魑魅魍魎絡みのトラブルであるのなら、自身の裁量だけで決着をつけることが可能なだけの権限が認められているのである。
 そんな理由で今、白澤は九龍寨城でも最も闇に近いといわれる光明街に足を踏み入れている。
 もっとも、ここには確かに少し前まで阿片窟があり、今現在も売春宿の巣窟ではあるが、よそから言われるほど実態は危険というわけでもない。
 司法の手が及ばない分、自警団は組織化されているし、夜社会(マフィア)たちも秩序は守って、無関係な庶民には決して手を出さない。裏社会には裏社会なりの治安の自浄作用があるのだ。
 そんな風にそれぞれの理由で他に行き場のない人々が、肩を寄せ合い、ひしめき合いながら暮らしている。それが、この九龍寨城だった。




「ここか」
 事前にここに詳しい関係者に尋ね、鬼灯が最後に目撃された地点は割り出してある。それが光明街の一角であり、そこから後は、気配が澱んでいる方向へひたすらに進むだけだった。
 そうして白澤が辿り着いた場所は、奥まったどこかの建物の小さな部屋だった。
 窓が無いため空気は一層澱み、悪臭も酷い。ほぼ闇に塗り籠められた暗い室内のその奥の壁に、白澤は天の獣の目で複数枚の呪符が貼られているのを見て取った。
「ふん、こんな目くらましでどうにかなるとでも?」
 呟き、白澤は手を伸ばす。呪符に触れるか触れないかの距離まで手を近づけると、呪符は不意に発火し、またたく間に白い灰となって塵芥が層となって積もる床へと舞い落ちた。
「疾っ」
 片手で印を結び、小さく声を掛けると目くらましはもろく崩れ、目に見えぬ幕を払ったかのように目の前の壁は薄汚れたドアへと変わる。
 そこを押し開け、真暗闇の細い細い通路を進み。
 辿り着いたその先で、白澤は拘束され、薄汚い床に転がされている鬼神を見つけた。
 目を閉じて昏倒したまま、何の反応も見せないのは、額に張られている呪符のせいだろう。多少改編されているようだが、道士が屍鬼を使役する時のものに良く似ている。
 後ろ手に縛られている手首にも同じものがしっかりと貼り付けられ、完全に動きを封じ込められているようだった。
 無論、鬼灯は単独でそこに転がっていたわけではない。
 同じ室内には、立って動いている者が幾人もいた。
「なんだお前は!」
「なんだと言われても、ねえ」
 人型の白澤は、背は高いものの只の優男にしか見えないだろう。よほど気配を読むことに長けていなければ、一目で正体を看破をするのは難しい。
 ましてや白澤が見たところ、術者を含めてそこにいるのは人間ばかりのようだった。
 幾つもの様式をつぎはぎにしたような奇妙な祭壇があるところを見ると、秘密めいた新興宗教の巣というところだろうか。
 その祭壇に一番近い位置で、不遜にも鮮やかな黄色の袍を纏っている男が、この集団の頭(かしら)に違いない。
「その鬼を返してもらいにきたんだよ。そいつは故国では結構な重要人物でね、家に帰らせてやらないと大事になるんだ」
 飄々と答えたが、当然、反応は芳しいものではない。
 ざっとそれぞれに獲物をとり、大勢の男たちが取り囲んでくる様を見て、白澤はやれやれと溜息をついた。
「人間相手に力を振るうわけにはいかないしねえ」
 全く面倒なことだよ、と呟きながら、奇声を上げつつ突進してきた男の匕首での斬り込みを足捌きのみで軽くかわす。
 続いて、背後から切りかかってきた男を、くるりと半回転することで避け、振り向きざまに首筋に鋭く手刀を打ち込み、昏倒する相手の手から青龍刀を奪った。
「ふぅん、業物ではないね。手入れもイマイチだし、残念」
 燭台の火炎を刀身に反射させつつ、刃を指先で一撫でして一人ごちる。
「ま、お前たちを相手にするには十分だ。この程度の切れ味なら、多少うっかりしても殺す羽目にはならないだろうしね」
 言いながら柄を握り直し、構えた。
 白澤の妙な余裕と、獲物を手に入れたということに懸念を覚えたのだろう。二十人を越える男たちに動揺が走る。
 それを見て、白澤は口の端にふっと笑みを刻んだ。
「こないのなら――こちらから行くよ!」
 言い放つと同時に、白澤の足は薄汚れた床を蹴る。ほんの二歩で一番手前にいた男との間合いを詰め、すばやく青龍刀を薙いで刃先を男の手首に滑らせ、手にしていた短刀を跳ね飛ばす。
 返す刃で隣りの男の青龍刀の刃を受け止め、火花を散らして跳ね返し、続けざまに手首を峰で打って獲物を取り落とさせる。
 そして、その青龍刀が床に落ちる寸前に柄を蹴って高く跳ね上げ、襲い掛かってくる敵をいなしながら、回転しつつ落ちてきた青龍刀の柄を左手でぱしりと受け止め、握った。
 両手に感じる刃の重さににっと笑み、体の前面で二本の剣を構える。
「二刀流をやるんなら、双剣の方がいいんだけどね」
 最初から左右一本ずつ持つことを想定して作られた双剣は、取り回ししやすいように刃はあまり長くなく、また、幅も細い。比べて大型の青龍刀は、両手で一本ずつ操るには重量も刃渡りもやや余る。
 だが、白澤はその腕の長さとヒトを超える膂力をもって、軽々と二本の剣を操った。
 踊るようななめらかな足捌きで間合いを詰め、間合いを取り、攻撃をかわし、踏み込む。
 左右の青龍刀を飛燕のように舞わせ、幅広の刀身は燭台の炎をぎらりぎらりと煌めかせながら敵の戦闘能力を確実に奪ってゆく。
 その様は、戦闘というよりも剣舞という方が相応しいほどに無駄がなく、美しい。
 だが、演舞ではない証拠に、ほんの五分ほどの戦闘の後には、その室内で立っているものは白澤と導師らしき黄袍の男のみとなっていた。
「さて」
 全くの流血無しとはいかなかったため、僅かに血に濡れた刃先を軽く振って払い、白澤は刃を黄袍の男に向ける。
「その鬼を返してもらおうか。これは親切で言うんだけど、その鬼は実に凶暴でね。いくら呪符を使ったって、操るのは人の身には過ぎるよ」
 それに、と白澤は笑む。
「そいつはずっと昔から僕のものだと決めてるんだ。人の子になんかはやれない」
「き、貴様は……」
「僕の名なんて知る必要はないよ。おやすみ」
 軽やかに床をけり、ひゅっと一瞬で間合いを詰めた白澤は、男の首筋に青龍刀の峰で一撃を入れて、昏倒させる。
 そして静かになった室内に視線を走らせ、全員が意識を失っていることを確認してから、左右の手の青龍刀を放り出した。
「やれやれ。本当に手間がかかる」
 重い金属がコンクリートの床に落ちる賑やかな音を背景にぼやき、悪趣味な祭壇に歩み寄って、床に跪く。
 それから、鎖で縛り上げられている鬼灯の上半身を抱き上げるようにして仰向かせた。
 額と手首に張られている鬼封じの呪符を剥がし、手に持ったまま念を籠めて炎を召喚し、浄化する。
 呪符が白い灰になったのを見届けてから続けて鎖を解き、四肢を解放して、白澤は次いで鬼灯の意識状態の確認に入った。
「うーん、完全に昏倒してるな。呪符を剥がしたのに意識が戻らないってことは、陰陽のバランスが崩れたか」
 額の中央、鼻の下、胸の中央、鳩尾、臍下丹田と順に指先を触れ、伝わってくるものを確かめる。
「こいつは特殊体質だからなぁ……。呪符が無くなったから鬼火は元通りに活性化してるけど、人の子の魂の方が上手く働いてないんだな」
 一旦死んで鬼になった鬼灯の魂魄の現状は少々特殊で、本来人が持つ三魂七魄のうち、死んで三魂が抜けたところに複数の鬼火が入り込んでいる。
 つまり、人としての魂魄の足りなくなった分を鬼火が補っている状態なのだ。
 その魂魄のうち、人の子の部分であり鬼灯の意識を司っている七魄も、三魂代わりの鬼火とは深く繋がっているため、鬼封じの呪符の影響を受けてしまったのだろう。
 七魄は、鬼火の影響を受けてはいても鬼火そのものではない。そのため、呪符がはがされても鬼火のように即、活性化するわけではないのだ。
 いわば、七魄が仮死のような状態になっているのだろうと、微弱に伝わってくる気配から白澤は診断を下した。
「仕方がないな」
 意識を失ったままの鬼灯を腕に抱え、白澤は目を閉じる。呼吸を深いものに変え、自分の中の気を陰陽正しく整えてから、静かに再び目を開けて鬼灯を見下ろした。
「不可抗力だからな。怒るなよ?」
 そっと、そう呼びかけて。
 顔を寄せ、ゆっくりと唇を重ねた。
 薄く開いていた唇から息を送り込む要領で、正しい気を鬼灯の魂魄に送り込む。
 肉体のあちらこちらの部位に宿る七魄に正しい気が満ち、再び動き出すまでそれを続け、全てが足りたところで白澤は再びゆっくりと唇を離した。
「よりによって初キスがこれとはねぇ……。いや、キスにはカウントしなくてもいいのか。人工呼吸と一緒だし、医療行為みたいなもんだし」
 ぶつぶつと言いながら、ぺちぺちと鬼灯の頬を軽く叩く。
「おーい、起きろ。もう大丈夫だろ」
「……ん、」
 呼びかけが届いたのか、小さく呻いた鬼灯がうっすらと目を開ける。
 見守っていると、二度三度とまばたきしてから、やっと闇色の目に力が戻った。
「気がついたか」
「白澤さん……?」
「そうだよ。お前、今自分がどこにいるか分かる?」
 問いかけると、鬼灯は素早く周囲に視線を走らせ、それから白澤の腕に抱きかかえられている自分に気付いて、ぎょっとした顔をする。
「何してるんです!?」
「見りゃ分かるだろ。助けに来てやったの」
 にやりと笑って告げてやれば、実に珍しいことに、鬼の顔色が僅かながらも青くなったり赤くなったりめまぐるしく変わる。
 そして鬼灯は、ひどく決まり悪げな怒ったような顔で、ぐいと白澤の胸を押しやった。
「離して下さい」
「……ま、大丈夫か」
 呪符の影響が手足に残っていることを心配したが、それは大丈夫であるらしい。白澤が腕を緩めると、鬼灯はいささか億劫そうながらも身を起こし、立ち上がる。
 そして改めて室内の惨状を見渡し、眉をしかめた。
「これは貴方がやったんですか」
「他に誰がいるって言うんだよ」
 言わずもがなの問いかけに、肩をすくめ、白澤は笑った。
「吉兆の印だからって徹頭徹尾、温和なわけじゃない。四神も麒麟も僕も、所詮は獣だ。戦うことくらい造作ないよ。たとえ人型であってもね」
「……剣、使えるんですか」
「お前には負けないよ。もっとも、その辺の剣じゃ金棒には勝てないから、お前とやるんなら莫耶辺りを仙界から取ってくるけど。あれなら鉄でも薄紙みたいに切れるからね」
「……そこまでやったら大事すぎるでしょう」
 不機嫌に応じ、鬼灯は小さく溜息をつく。
 そして、改めて白澤に向き直った。
「不本意ですが、今回は礼を言います。うさんくさい術士と思って侮った結果、危うい目に遭ったのは事実ですから」
「うん」
 珍しく素直な鬼灯に、白澤は目を細める。
 いつもこうなら可愛いのに、とは思っても口には出さない。
 そんな白澤の内心に気付くはずもなく、鬼灯は生真面目な口調と声で続ける。
 彼が話す度、肉付きの薄い小さな唇が動き、尖った白い牙がちらちらと見え隠れする。
 その様を眺めるうち、白澤は悪戯心とも情動ともつかない気分がこみ上げてくるのを感じた。
 先程、唇は重ねたけれど、あれは救急措置であってキスではない。
 ならば――。
「貴方がここに来たのは、どうせ大王の依頼があったからでしょう? 謝礼については日本に帰ってから改めて……」
「ああ、謝礼なんていいよ、今もらうから」
 言葉尻を遮り、軽やかにそう告げて。
 白澤は素早く、鬼灯の唇を盗む。
 ちゅ、と小さくリップ音を立てて離れ、目を丸くしている鬼灯の顔を覗き込んで微笑んだ。
「やっぱり人工呼吸じゃね。合意じゃないのが残念だけど」
「な……」
「ん?」
「何したんですか!? どさくさにまぎれて……!!」
「何って、キスだけど」
「〜〜〜っ!!」
 触れるばかりのキスに、一体どれ程の威力があったのか。
 頬に血の気を上らせ、袖口で唇を乱暴に拭く鬼灯は、いつになく子供っぽく見えて、白澤はおやおやと思う。
 これはもしかして、案外脈ありなのだろうか。
 鬼灯に恩を着せられることなど滅多にないため、千載一遇のチャンスとばかりにキスをしたのだが、それが思わぬ効用をもたらしたのだとしたら、吉兆の印の力も大したものかもしれない。
「ほーずき?」
 名前を読んでやると、赤くなった目元で鬼はきっと睨み付けてくる。
 そして、厳しい口調で言った。
「どんなつもりか知りませんけど!」
「うん」
「私は貴方が大嫌いです!!」
「うん、知ってるけど」
「……っ」
 うなずいてやれば、怒りのやり場が無いとばかりにきつい目を向けてくる。
 その表情を見ながら、これはやっぱり脈有りらしい、と白澤は見当をつける。
 完全に予想外だったが、本当にキスが嫌だったのなら、こんな目で相手を睨みつけたりしない。蛇蝎を見るような嫌悪感に満ちた目をするのが普通だ。
 比べて、鬼灯の目は、ただ怒っている。おそらくは、合意もなしにキスをしたことを、単純かつ複雑に怒っている。
 ―――それはつまり。
 その意味が分からないほど、白澤は野暮天ではなかった。
「とりあえずさ、帰ろうよ。こんな空気の悪いとこに、いつまでも居ても仕方ないだろ」
 空気も悪ければ、雰囲気も悪い。こんなところでは、口説き落とせるものも口説けなくなる。
 そう思いながら提案すれば、不本意ながらも同意したのだろう。くるりと踵を返して、鬼灯は歩き出す。
 途中、倒れている男たちを片っ端から蹴っ飛ばし、容赦なく踏み付けててゆくのは、この鬼らしいというべきか。
 小さく微笑んで後に続きながら、白澤はのんびりとした口調で呟いた。
「とりあえず、外に出て、うちに帰って、風呂に入ってさっぱりしてから御飯食べて、それから……」
「――それから、何です?」
 言葉を途切れさせれば、肩越しにちらりと振り返りながら鬼灯が尋ねてくる。
 だが、白澤は、さぁてね、とはぐらかした。
「ま、直ぐにお前にも分かるよ」
 笑って言えば、鬼灯は不機嫌に眉をしかめ、また前を見て狭い通路をずんずんと歩いてゆく。
 その後姿を眺めつつ、さて、あの世に帰ったらどうやってこの鬼を口説こうか、と白澤は、しばし楽しい思案にふけったのだった。

End.

舞台は30年くらい前の香港。白兵戦に強い白澤さんいいよね、という萌えの産物でした。

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