花天

 やっと今日の分の書類仕事にケリをつけて、お香はやや遅い時分に己の店へと足を運んだ。
 お香の店は、衆合地獄のほぼ中央にある。
 もっとも、主に極卒たちの溜まり場となっている席数の多い居酒屋は、厳密な意味ではお香の持ち物ではない。表立って看板に明記はしていないが、実は閻魔殿による公営であり、お香の立場は言わば、雇われママである。
 この居酒屋ができたのは、今から数百年前、現世は江戸時代の頃だ。それまでは無かった一膳飯屋や料亭が現世にできたのを参考に、地獄にも極卒たちの息抜きの場として作られたのである。
 既に主任補佐だったお香は、鬼灯からの提案を受け、この店を作るために率先して働き、開店後は経営を任された。
 接客業も飲食業も初めての経験だったが、生来の面倒見が良く社交的な性分に合っていたのだろう。
 客に給仕しながら会話をするのも、店で出すメニューを決め、従業員たちを仕切るのも、何もかもが楽しくて、開店以来、お香はずっと多忙な時間をやりくりしながら、できる限り自分自身が店に出るように務めている。
 そんなわけで、日付が変わるまであと一時間という時刻であっても、お香は構わずに勝手口から店に入り、鏡の前でちらりと自分の姿を確認をしてから、座敷席へと出た。
 時刻が時刻であり、極卒のシフト交代の時間とも少しずれがあったから、店内は割合に空いている。
 その中を、すいと一瞥して、お香は右手側の席に見慣れた姿を見つけた。
 後姿ではあったが、背に染め抜かれた色鮮やかな紋は、彼が誰であるかを一目で知らしめている。
 お香は微笑んで歩み寄り、ぐいぐいと強い酒を煽っているそのひとに声をかけた。

「鬼灯様、今夜はお一人ですか」

 座っても良いか、と聞くような野暮な真似はしなかった。彼がこの店に来たことそのものが、『話しかけてくれても構わない』というサインを表しているのである。
 ましてや一人での来訪であれば、遠慮することなど何もない。極卒たちは誰彼と無く鬼灯に声をかけ、相談を持ちかけるのが、この店での常だった。
「ええ。ここしばらく忙しくて酒を飲む暇もありませんでしたからね。今日は社員食堂をやめてこちらに来ました」
「ありがとうございます」
 微笑み、お香は新たな酒を空になった彼の枡に注ぐ。手酌でも全く気にしない彼だが、お香の酌を拒むような野暮もしない。
 酒豪揃いの鬼の中でもずば抜けて酒に強い鬼灯は、真夏に冷水を飲み干すかのように一合枡の酒を一息で飲んでしまう。美味しいのはいいんですが酔えないのは少しつまらないんですよねぇ、と時折零している彼の顔色は、今夜も平静のままだ。
 その落ち着き払った顔のまま、彼は枡を一旦脇に置き、箸を取って鯛の兜煮を熱心につつき始める。健啖家でもある彼の魚の食べ方は、まさに骨とヒレだけを残す非常に綺麗なもので、いつもお香は見るたびに感嘆させられた。
 そんな風に少しばかり彼の様子を見守った後、おもむろにお香は口を開く。
「鬼灯様、つい二日前、白澤様がおいでになったのですけど」
 もって回った言い方は彼も自分も好きではない。直球で固有名詞を出すと、鬼灯は顔を上げてお香を見やり、目線で先を促した。
 鬼灯の顔は面白がっているような表情ではないが、しかし、少し前まで白澤の名を聞くたびに浮かべていた険悪な表情でもない。わずかに眉間に皺がよってはいるが、これまでのことを思えば、それは十分に可愛らしい部類の反応だった。
「ぼやいていらっしゃいましたわ。鬼灯様が信じて下さらないって」
「――あの馬鹿……」
 お香が続けた言葉に、眉間のしわが深くなる。
 だが、それだけだった。鬼灯は兜煮の大き目の身を口に運び、もぐもぐと咀嚼する。
 そして、それを飲み込んでから、再びお香へと視線を合わせた。
「気にしなくていいですよ。アホの戯言です。第一、それは私とあのひとの問題ですから」
 素っ気ない言葉に、お香は小さく首を傾ける。
「否定はなさらないのね」
「何をですか」
「お付き合いなさってること」
「事実ですから」
 さらりと鬼灯は答えて、今度は兜煮の大きな目玉を口に放り込む。
 その様子は、あまりにもいつも通りだった。――白澤の名前にキレないことだけを除けば。
 もともと鬼灯は、羞恥心とか見栄とかを持ち合わせない強心臓の持ち主である。一般的にはあまり外聞が良くないと思われることであっても、事実は事実として決して隠さない。
 そういう意味では、全くもって正しい反応だったが、白澤との交際に関することであってもそうなのかと、少しばかりお香は意外に思った。
 それはさておき、オープンな付き合いだということは、関係について問えば、内容によっては答えてくれるということでもある。そうと分かってしまうと、どうしても好奇心がむくむくと頭をもたげてくる。
 何しろ、鬼灯とは幼い頃からの付き合いだが、彼が恋人を持ったのはお香が知る限り、これが初めてなのだ。
 ゴシップにはさほど興味のないお香だったが、しかし、この男の恋物語となると、さすがに話は別だった。
「鬼灯様、少しだけお聞きしてもいいかしら? アタシの純粋な好奇心からくる質問だから、お嫌だったらノーコメントでも一向に構わないんですけど」
「どうぞ」
 人間の年齢で言えば、お香よりも一つ二つ年下の青年鬼は、おでんの盛り合わせをつつきながら応じる。
 大根とコンニャク、もち巾着、玉子が彼のお気に入りの具材だ。牛スジより蛸足の方がより好みらしいが、鉢の中には見当たらない。頼まなかったのか、既に食べてしまったのかは分からなかった。
「鬼灯様は、ずっと前から白澤様のことはお好きだったでしょ? なのに、どうして今まで何も無くて、今更なんです?」
 そう問いかけると、大根を割っていた鬼灯の箸がぴたりと止まる。
「――答える前に、私の方から聞きたいのですが」
「ええ」
「お香さんは何故、気付きました?」
 顔を上げた鬼灯の表情はいつもと変わりないが、闇色の瞳が純粋な驚きを滲ませている。その色を見つめながら、お香はにっこりと笑った。
「鬼灯様の態度や物言いから分かったわけじゃないのよ。その点は、御安心なさって下さいな」
「では、どうして……」
「女だから、ってことになるんじゃないかしら」
 鬼灯が態度とは裏腹に、本当は白澤のことを嫌ってなどいないと気付いたのは、いつの頃だったか。
 もう数百年も前のことを思い出そうと、お香はまなざしを半ば伏せた。
「いつだって鬼灯様と白澤様は喧嘩ばかりなさってたけれど、本当に仲の悪い者同士の喧嘩とは雰囲気が違ってたのが一つ。お二人のやりとりには、アタシたち女でも割り込めないと感じたのが一つ。あとは女の勘、かしら」
「女の勘ですか」
「ええ。特にアタシは衆合地獄の獄卒ですもの。惚れた腫れたには、どうしても敏感なんです」
 だから、長年見ているうちに最初は疑念を、そのうち確信を持ったのよ、と微笑んで告げれば、鬼灯は複雑そうな顔で枡酒を煽った。
「これだから女性は侮れませんね。特にお香さん、貴方は」
 嘆息交じりに言い、空になった枡に手酌で酒を注ごうとするのを制して、お香は徳利を取り上げ、自分が注ぐ。
 その酒を今度は半分ほど干したところで、鬼灯は枡に目線を落したまま、口を開いた。
「今更、というのは、むしろ私の方が聞きたいです。あのアホには聞かなかったんですか?」
「聞きました。でも、何となくタイミングだと思ったんだよね、としかおっしゃらなくて」
 聞いたままを伝えれば、鬼灯は顔をしかめる。
 なんだそれは、と険悪に呟いたところを見ると、彼自身もこれまで不思議に思いつつも、問いただしていなかったらしい。
 おかしな話だが、常に前向きで、些末事に対しては大雑把なところのある彼の性格からすると、『何故』を確認することには、さほど意味を見出せなかったのかもしれない。『何故』を訊いたところで、何が変わるわけでもないからだ。
 付き合うと決めたのなら、過去はつつかず、その先のことだけを考える。それはそれで健全だとお香は思う。
 だから、鬼灯が、
「私の方は、単に拒絶する理由がなかっただけですよ。私の方から行動を起こす気はなかったんですが、向こうがその気になったのなら、まぁいいかと」
 と言った時も、それはそれでこの男らしいと、すんなりと納得してしまった。
 そして、小さくくすりと笑って、鬼灯が綺麗に骨だけにした兜煮の皿を脇へと下げる。
「もしかしたら、ずーっとこのまま鬼灯様と白澤様は喧嘩ばかりを続けていかれるのかと、アタシは思ってたんですけど。お二人とも楽しそうでしたし」
「楽しそう、でしたか」
「ええ。お二人とも。ですから、鬼灯様は御自分からは動かれなかったんじゃなくって? このままでもいいと思っていらしたから」
 大嫌いだと言いながら、他愛ない嫌がらせを繰り返して白澤を怒らせる。その様は、好きな子をいじめる小さな男の子のようだと、お香はずっと思っていたのだ。
 そして、人とは異なる心の有り様を持つ神獣が、お前なんか大嫌いだと言いながらも、その驚嘆すべき度量の大きさで鬼灯の嫌がらせを受け止めていたことも、端からは実に良く見えた。
 二人の度重なる喧嘩を男たちは単純に、お互い大嫌いなのだな、反りが合わないのだなと受け止めていたようだったが、女たちはそこまで単純ではない。女が立ち入れない、男同士の絆とでも呼ぶようなものには、とても敏感だった。
「ねェ、鬼灯様。お付き合いはそうしてOKなさったのに、どうして白澤様のことを信じるとおっしゃってあげないんですか?」
 これまで見てきた二人の様々な光景を胸に思い返しながら、お香は問いかける。
 先日、浮気しないと幾ら言っても信じてくれないと愚痴っていた白澤は、そう言いつつも、取り立てて嘆いている様子はなく悲壮感は微塵もなかった。
 その時はお香も、彼の品行不良は何千年も累積しているのだし、鬼灯が信用ならないと思うのも無理はない、だから、白澤も彼らしく鷹揚に構えているのだろうと解したのだ。
 だが、こうして鬼灯を目の前にしていると、どうも違う気がしてならないのである。
「どこをどうしたら、あの好色が浮気をしないというのを信じられるというんです?」
 闇色の瞳は、その奥にあるものを読ませようとはしない。
 だが、鬼灯は差し出された誠実を受取らないような性格ではないことをお香は知っていた。
 うわべだけの巧言令色には厳しく冷淡だが、真心は決してないがしろにしない。その点については、お香は強い信頼をこの鬼神に抱いている。
 その思いを込めて、真っ直ぐに鬼灯を見つめながら言った。
「白澤様は確かに軽薄ですけど、嘘はおっしゃらない方よ。あの方が口先だけの約束をなさるのを、アタシは一度も聞いたことありませんもの」
 だから、彼が浮気をしないと言ったのなら、それは誠心誠意からの誓いなのだとお香は思う。
 そして、それを鬼灯も分かっているはずだと。
 じっと見つめてくる彼の鋭いまなざしから目を逸らさずに、お香は問いかける。すると、驚いたことに鬼灯がすっと目線を逸らした。
 手を伸ばして徳利を手に取り、強い酒を手酌で枡に注ぐ。
 そして、それを飲み干す男の喉の動きをお香は見つめた。
 鬼灯の首筋は無駄な肉がなく、筋張っていて案外に細い。その中で目立つ喉仏が飲み干す動きに合わせて動く。枡を持つ手も同じく、筋が張っていて大きく、指が長い。
 しっかりした手首の骨はごつりと硬そうに皮膚を押し上げ、そこから綺麗に筋肉のついた太からず細からず゙の腕が伸びる。
 やや仰のいた横顔は端整で、半ば伏せられた睫毛は真っ直ぐに長く、目元にえもいわれぬ翳りを作っている。
 彼のことは幼い頃から知っていた。笑顔というものをまずもって見せない子鬼だったが、顔立ちそのものは愛らしい子だった。
 それから長じた今まで、彼のことはずっと間近に見てきたが、いつ見ても、とても美しい男だとお香は思う。
 持って生まれた造形美もあるが、それ以上に面(おもて)にも表れている厳しく凛とした気質や、肉体の隅々にまで行き渡っている業火のような気迫が、彼という鬼を内から輝かせている。
 近くに居過ぎたことと、根本的に好みのタイプではないことから、色恋の目で彼を見たことはないが、長じた彼に『男』を感じることは時折あり、その度に、彼に愛されるひとは幸せだろうと思った。
 仕事で多忙すぎるが、鬼灯は懐に入れた相手のことはとても大切にする男である。彼なりに細やかな気遣いを向け、深い愛情を傾けるだろうと確信できる誠実さが彼にはある。
 ただ、肝心の意中の相手に対してだけは、男の意地なのか稚気なのか、それらが激しくねじ曲がってしか表れないようだったから、本当に男というものは仕方がないわねと呆れ半分で見ていたのだ。
 そんな女には理解しがたい張り合いをしていた男たちも、しかし、千年余の月日を越えて、ようやっと正面から互いに向き合うことにしたらしい。
 それでも、彼の中にはまだ何かしらの意地なり、こだわりなりがあるのだろう。お香の問いかけは、どうやらそこに触れてしまったようだった。
 もっとも逆鱗というわけではなさそうなので、お香は従業員に新たな徳利を持ってくるよう合図をしながら、鬼灯が口を開くのを待つ。
 やがて、鬼灯は干した枡を手にしたまま、ぽつりと言った。
「私は、あのひとを許せなくなることが嫌なんです」
 低く抑えられたその声は。
「信じて裏切られた時、自分がどれほどの怒りを抱くのか正直、想像がつきません。その挙句、あのひとを許せなくなることが一番嫌なんです。あのひとは、私が何をしようと許してくれるのに」
 告白にとても似ていると、お香は思った。
「対等でないとお嫌なの?」
「そこまで身の程知らずじゃありませんよ。私は人の子で、鬼です。神獣の心の寛さに太刀打ちできるはずがない。単なる意地です」
 そう言い、鬼灯は新たに従業員が運んで着てくれた徳利を見て、ありがとうございます、と続けた。
 新たな徳利をお香が向ければ、空の枡を差し出す。そしてまた、酒を煽った。
「でも、本当は裏切られることなんてないと信じていらっしゃるでしょ?」
「――それは半々です。あのひとは嘘を言わないというより、嘘をつく機能そのものがあのひとに無いことは分かってます。ですが、今言ったように私は、あのひとを許せなくなりたくないんです。だから予防線を張っているんですよ」
 全面的に信じられる存在だということは知っているし、芯のところでは信じている。それでも信じないのは自分にストッパーをかけるためです、と鬼灯は言った。
「あと、信じると言ったら最後、あの駄獣は舞い上がって手に負えなくなるでしょうからね。むしろ、そちらの予防線の意味の方が大きいです」
「それは確かに……」
 もともとの気質が浮かれ気味の神獣である。永久(とわ)を誓う恋人に真心を受け入れられたら、一体どんな反応をするか。
「けれど、一時のことじゃあないかしら? 白澤様はそうそう後に引く性格はなさってないでしょう?」
「その一時が鬱陶しいんですよ」
 返ってくる答えは、全くもって冷淡で彼らしいことこの上ない。お香は小さく笑った。
 そして、全てに納得する。
 鬼灯と白澤は、これまでと何一つ変わりない。ただ、もう少し正面から向き合うことにし、二人きりのやわらかな時間も共有することにしただけだ。
 二人とも所詮男であるから、相変わらず意地を張り合い、いがみ合いはするだろう。けれど、それは二人にしか通じないコミュニケーションであることは、これまでと何も変わりなかった。
「でも、安心しましたわ」
「? 何がです?」
「鬼灯様が幸せそうで」
 思いを丸めて直球をぶつけると、鬼灯の目が僅かに見開かれる。
 その闇色の瞳を見つめて、お香は言った。
「鬼灯様は幸せでないと駄目なんです。そうでなかったら、アタシたち獄卒は絶対に許しませんから」
 彼には珍しい、理解不能の色が秀麗な面に浮かぶ。何をさせても有能な鬼灯にも幾つかの欠点があるのだが、これが彼の一番駄目な部分だった。
 だが、その駄目な部分さえ尊いのだ。自分たち獄卒にとっては。
「鬼灯様はアタシたち獄卒の誇りなんです。鬼灯様がアタシたちの一番上にいて下さることが、どれほど頼もしく誇らしいか。だから、アタシたちは鬼灯様が不幸になることは絶対に許しません。その相手が偉大な神獣様であっても、一歩だって引きませんよ」
「――――」
「分からないって顔、なさってますね」
 お香が笑いかければ、鬼灯は目をまばたかせ、それから小さくうなずいた。
「私は貴方がたの上官です。ですから、信頼していただけるのはありがたいですし、そうでないと困ります。ですが、幸せを義務付けられるほどのことを私は何かしましたか?」
「してるんですよ、毎日」

 日々、閻魔大王の横に立ち、大量の書類をさばき、地獄中を足繁く視察して回る。その姿を見るだけで、獄卒は安心するのだ。
 今日も地獄は恙無(つつがな)い、たとえ平穏無事でなくとも、きっと大丈夫だと。
 そして鬼灯の多忙に思いを馳せ、お休みになっておられるのだろうか、あまり無理をされていないといいが、と考える。
 そんなかけがえのない上官に、彼が遠慮なく甘えることのできる恋人ができたと聞いて、自分たちがどれほど安堵したか。
 しかも、相手は吉祥の兆しであり、漢方の祖たる白澤である。鬼灯の健康管理もこれからはきっとしてくれるだろうと、獄卒たちの期待は厚い。
 そして、白澤もまた。
 先日、彼が店を訪れた際に、お香が獄卒を代表してその旨を告げたならば、彼は一二もなく、笑ってうなずいてくれたのだ。
 分かっているよ、絶対にあいつを傷付けたり不幸になんてしたりしないよ、もしそんな真似をしたら獄卒総出で八つ裂きにしてくれていいよ、と。
 それを聞いて、どれほど嬉しかったか。
 その場に居合わせた獄卒たちが、どれほど大きな歓声を上げ、その場には居ない上官のために何度乾杯をしたか。
 だが、情はあるのに愛されることに疎い鬼灯は、そんな獄卒たちの祈りにも似た思いに気付かない。
 けれど、それで良かった。
 恐ろしく有能なのに好意には少々鈍い、鬼神鬼灯のままで、自分たち獄卒には十分だった。

「すみません、分かりません」
「鬼灯様は鬼灯様のままでいいってことですわ。それからもう一つ、こちらは分かりやすいと思いますけど、女性獄卒の中には本気で鬼灯様に憧れていた子もいるんです。その子たちのためにも白澤様と幸せになって、彼女たちの想いを佳い思い出に変えてあげて下さいな」
 そう告げれば、鬼灯はまた驚いた目をする。
 彼が衆合地獄に視察に来るたび、一体何人の女性獄卒や亡者たちが熱いまなざしを送っていたことか。お香が知るだけでも、一人や二人といった数ではない。
 まったくもって色恋沙汰には鈍い、朴念仁の第一補佐官様だった。
 思いがけない事実を突きつけられたせいだろう。鬼灯は少しばかり困ったような無表情になり、やがて小さな吐息と共に口を開いた。
「吉祥を告げる瑞獣と一緒にいるんです。不幸になんかなりようがないですよ」
「ええ」
「あのひとがへらへら笑ってる様子を見ると、色々と気が抜けるんです。能天気すぎて腹も立ちますけど、私は――」
 あのひとのそういう所が好きなんです、と、それはとても素直な告白だった。
「そうなんですか」
「ええ。ですから、心配しないで下さい。私は大丈夫ですから」
 そう言い、鬼灯は枡を長卓に置く。
 そして、長居をしました、と言った。
 時計を見れば、既に零時を回っている。もう少ししたら、シフト交代した夜勤務の獄卒たちが店に押し寄せてくる頃合である。
 一方、鬼灯の勤務時間は、定時は朝から夕方までだ。そろそろ休まねば明日の勤務に障るのだろう。
 お香が従業員に合図をして勘定をさせ、金額を提示すると、内容を一瞥した鬼灯は現金で支払った。衣服と揃いの漆黒に鬼灯紋を染め抜いた愛用の札入れを懐にしまい、立ち上がる。
「それじゃ、また来ます」
「ええ。ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 目下に対しても礼節を守る鬼灯は、金棒片手にぺこりと会釈して去ってゆく。
 眠りを知らない花街の色とりどりの明かりに照らし出される鬼灯紋。鮮やかに夜に浮かぶそれが見えなくなるまでお香は見送り、それから、ほうっと吐息を零して。
 弟のように愛おしい、そして、誰よりも敬愛する鬼神の幸せを心から祈りつつ、店内に戻った。

End.

<< BACK