Because,I love you.

【1】鬼灯の場合


「あ」
 会社の玄関まで来て、鬼灯は外が雨であることに気付いた。
 降り出したばかりだろうか。さほど強くはない雨足がアスファルトを浅く濡らしている。
 今日の天気予報はどうだっただろうと考え、夜遅くから雨と言っていた朝のお天気お姉さんの声を思い出した。
「まだ深夜じゃないだろうが……」
 現在時刻は、夜の九時半。鬼灯の感覚では、夜遅くというのは夜十時以降だ。労働基準法でも深夜勤務は夜十時以降を指すと規定されている。
 今日はそれまでに帰宅できるつもりだったから、傘は持ってきていなかった。ロッカーに折り畳み傘があることにはあるが、ビルの施錠時間が迫っている今、わざわざ取りに行くのも憚られる。
 仕方がないと鬼灯は溜息をつき、携帯電話を取り出してメールを一本打った。
『これから帰ります』
 短い文面は定型と化していて、「こ」と「か」の予測変換であっという間に入力は終わってしまう。
 送信キーを押し、携帯電話をスーツの内ポケットにしまった鬼灯は、暗い雨空を恨めしく見上げてから外へと足を踏み出した。


 鬼灯の部屋に同居人ができたのは、昨年末のことである。
同居のきっかけそのものは碌な話ではない。単に、部屋を訪れる度に私物を増やしてゆく姑息な恋人にブチ切れた結果である。
 スーツの着替えと歯ブラシから始まり、およそ一年かけて部屋着、コーヒーカップ、ノートパソコン、茶碗、グラス、大量の本、ラーメンどんぶり等々、果ては枕まで持ち込んだところで、鬼灯の堪忍袋の緒は切れた。
 姑息な真似をする前に何がしたいのかはっきり言えと怒鳴りつけ、「一緒に暮らしたいです」という本音を土下座と共にやっと引き出したのだ。
 その頃には恋人である白澤の生活空間は殆ど鬼灯の部屋に移っていたから、同居の開始に至っては、残り僅かな荷物を運び込めばそれで済む状態だった。
 引っ越し作業は、晴れた土曜の朝、鬼灯の部屋から出かけて行き、夕方に箱一つを戻ってきただけの実にあっさりしたもので、改めて恋人がどれほどの量の私物を持ち込んでいたかを思い知らされた鬼灯は、心底呆れ果てたものだ。
 以来、一ヶ月。
 想像していたよりも二人での生活は平穏で、それなりの衝突の覚悟をしていた鬼灯は、少々の拍子抜けをせざるを得なかった。
 しかし、思い返してみれば、白澤が入り浸り始めた時点で、冷蔵庫の中身の整理の仕方や、シャツや下着の畳み方、洗面所の石鹸の置き場所等、様々な点で既に意見の食い違いは生じていたのである。
 その度毎に二人は喧嘩し、話し合い、怒鳴り合い、妥協し合ってきた。
 結果、いざ本当に一緒に暮らし始めた時には、殆どの問題は解決済となっていたのだ。
 今では、ゴミは出しておくよ、だの、風呂は洗っておきました、だの、当たり前のように声を掛け合い、実にスムーズに二人は日常生活を営んでいる。
 鬼灯自身は、同居にはさほど乗り気だったわけではない。むしろ、なし崩しの結果である。
 だが、それでも残業で疲れて帰った夜におかえりと笑顔で迎えられることや、自分が先に帰った時に夕飯の支度をしながら、相方の帰宅を待つのは悪いものではなかった。


 やっと駅の屋根の下に辿り着き、鬼灯は息をつく。
 会社のビルから駅までは徒歩十分弱の距離であるから、この程度の降りならばビルの庇の下を伝って来れば、さほどひどく濡れはしない。
 問題は、地元の駅からの道程だった。
 鬼灯の住む賃貸マンションは、駅から十五分余り歩いたところにある。雨足は徐々に強まりつつあるから、地元駅に着く三十分後には完全に本降りになっているに違いない。
 駅前にあるコンビニでビニール傘を買うかと、余計な散財に眉をしかめながら改札を抜けて地下鉄に乗る。
 そして、暗いトンネルを窓ガラス越しに眺めながら、乗り継ぎを一つ経て揺られること三十分。
 幾らか空いた車両の座席から立ち上がり、鬼灯は電車を降りた。
 慣れた道順で改札を出て、駅出口に向かう。
 濡れたアスファルトの匂いを感じ、また雨の中を走るのかと心の中で溜息をついたその時。


「鬼灯」


 明るい声に名を呼ばれた。
 顔を上げて見れば、左前方の壁際に同居人が立っている。
 濃紫のダウンジャケットにフィッシャーマンズセーター、チノパンというラフな格好は、彼が仕事帰りではないことを示していた。
「どうしたんです? 蛍光灯でも切れました?」
 駅から数分の距離のスーパーは夜十一時までの営業だ。そこに何か買いに来たついでだろうかと問いかけると、馬鹿、と笑われた。
「お前、今朝、傘を持って出なかっただろ」
 ほら、と二本のビニール傘を掲げられて、鬼灯は目をまばたかせる。
 一本が濡れているのは、白澤がここに来るまでに使ったからだろう。けれど、乾いてきちんと畳まれたままのもう一本は。
「わざわざ……?」
「そうだよ。感謝しろよ?」
 にっと笑われて、返す言葉が出ない。
 まさか、と思うのは失礼なことなのだろう。けれど、まさか、こんな風に迎えに来てもらえるとは思いもしなかったのだ。
 同居を始める以前は、鬼灯は自宅で白澤を迎える側だった。合鍵は一応渡してあったが、白澤は妙に律儀なところがあって、鬼灯の留守中に勝手に上がり込むことはしなかった。
 そんな関係だったから、付き合い始めてから過ぎること一年余、彼の出迎えを受けるのはこれが初めてのことだったのだ。
「ほら」
 乾いた方の傘を渡され、鬼灯は不思議なものを見る思いで受け止める。
 ゲームの主人公が謎のレアアイテムを渡された時は、こんな気持ちなのだろうか。そんな馬鹿なたとえを考えながらも、手の中に納まったビニール傘の柄の重さを確かめた。
「ありがとう、ございます」
「ん」
 どうにか礼を言えば、白澤は笑う。
 そして、帰ろう、と鬼灯を促した。
 二人揃って地下鉄の通路から地上に出る階段を上り切り、強くなった雨音を聞きながらビニール傘を開こうとする。
 ―――そこで、鬼灯は途方に暮れた様子で空を見上げている女性に気が付いた。
 年の頃は三十前後だろうか。仕事帰りのOLらしい雰囲気の女性である。
 考えたのは、ほんの三秒程だった。
「この傘、どうぞ」
 女性に向けて、自分の傘を差し出す。
「ビニール傘ですから返却は結構です。邪魔になったら捨てて下さい」
 戸惑った顔で振り返った女性に、言葉を重ねて告げた。
「私はこいつの傘に入れてもらいますから。どうぞ遠慮なく」
 大通りから少し外れたこの辺りは、流しのタクシーもなかなか通らない。既に夜も遅い時間である。いつまでもこんなところに女性を立たせておくのは危ない、というのが案外に良識的な鬼灯の判断だった。
 彼女の手元に傘の柄を向けると、女性はおずおずと手を開いて傘を受け取る。
 彼女の手がきちんと柄を握ったのを見て、鬼灯は自分の手を離した。
 そして、彼女がありがとうございます、と深々と頭を下げるのに会釈してから、傍らで待っていた白澤を振り返り、歩み寄った。
「お前、本当に馬鹿だねえ」
 呆れたように笑う白澤の目は、言葉とは裏腹にひどく優しい。
 その瞳を見ながら、鬼灯は小さく肩をすくめた。
「貴方より私の方が気付くのが早かっただけでしょう。今回は私の勝ちですね」
「〜〜〜お前ねえ、こんな時まで勝ち負けを持ち出すんじゃないよ」
「いいから、さっさと傘を開いて下さい。私は疲れてるんです」
「ったく……。はいはい」
 ばさっと濁った音共にジャンピング式のビニール傘が開かれる。
 おいで、と誘うように傘を傾けられて、鬼灯はその側へと寄った。
 ありがとうございました、という女性の声に、肩ごしに振り返ってもう一度会釈してから、歩き出す。
 大の男二人でのビニール傘一本使いは、どうやっても傘が小さい。左右どちらかの肩は濡れざるを得ないのだが、幾らも歩かないうちに鬼灯は、自分の左肩の濡れ方が少ないことに気付いた。
 もしやと確認すると、白澤は当たり前のように風上に居て、傘の雫も鬼灯の側には垂れないよう傘を少しばかり傾けて持っている。
 こっそりと盗み見してみれば、彼の反対側の肩はびしょ濡れだった。
「――馬鹿ですか」
「は? 何、急に」
 突然の罵声に、白澤が戸惑った顔で振り返る。
「貴方が馬鹿だと言ったんです。さっさと帰りましょう」
 理由など、わざわざ説明する気にはなれない。
 本当にこの人は、と鬼灯はそれ以上の言葉を惜しみ、無言で足を速めた。当然ながら、傘を持つ白澤も歩調を速めて鬼灯が濡れないように付いてくる。
 ―――本当に馬鹿だと思った。
 今日は営業先から直帰するから定時過ぎくらいに帰れるよ、どうせお前は月次決算前で残業だろ、と自慢げに笑っていたくせに。
 きっと一人、部屋で悠々とくつろいでいただろうに。
 こんな風にわざわざ迎えに来て、せっかく持ってきた傘を見ず知らずの他人に渡してしまう馬鹿な相方に怒りもせず、自分の肩をびしょ濡れにして。
 早く帰りたい、と心の底から思う。
 寒いのが得意ではない鬼灯のために部屋を暖めることにやたらと熱心な白澤は、おそらく今夜も暖房をつけっぱなしにして出てきているはずだ。
 あの暖かい部屋に帰って、濡れた服を着替えさせて、熱いコーヒーでも入れて。
 それから、後は。
 ちらりとまなざしを向けると、白澤もふとこちらを振り向いて、目が合う。
「ん?」
「――何でもないです」
 何、と瞳だけで笑まれて、鬼灯はつんとそっぽを向いた。

 ―――こんなにも気持ちは溢れているのに、言葉に出しては何も言えない。
 これが初めての恋だから、想いを言葉で伝える方法など知らない。
 けれど、それでも共に暮らす部屋で二人きりになれば。

 冷たい夜の空気に晒されているはずの耳がじんわりと熱くなるのを感じながら、鬼灯は濡れた夜の歩道を、白澤が差す傘に庇われたまま、ひたすらに足早に歩いた。

*               *


【2】白澤の場合


 さあさあと雨の降る音がする。
 その中で独り、鬼灯は駅の出口近くに佇んでいた。
「遅いですねえ」
 腕時計は一旦帰宅した際に外してしまったから、今、時刻が分かるものは携帯電話しかない。二つ折りのそれを開いてデジタル表示を確かめ、再び閉じる。
 今日は八時半頃には終われると言っていたのに、既に時刻は夜九時を十五分ほども回っている。
 鬼灯と白澤が勤める会社は、ここから地下鉄で乗り換え一つであり、時間にしてちょうど三十分ほどかかる。移動時間を少し余分に見ても、そろそろ帰ってきても良い頃合いだった。
 手の中の携帯電話を見つめ、メールを打とうか、と鬼灯は考える。
 何時頃に帰るんですかと聞いて、遅くなるようならば、一旦帰ってもいい。
 しかし、問題はメールを打ったとしても残業中であれば、それに気づかない可能性があるということだった。
 今日の白澤の業務予定は、来週明けにある大きな契約を賭けたプレゼンテーションに挑むための最終的なチェックだと聞いている。当然、担当者である白澤には大きな責任がかかっている。
 そういう状況に置かれた時の白澤は、常の軽薄さを完全に消して仕事に集中する。私用の電話やメールには気付いても、決して応答しないのだ。
「今日は一度もメールが来てないしな……」
 普段は外回りの移動途中などに、美味しそうなものを見つけたとか、良さそうな店を見つけたとかで写真付きメールを送ってくることも少なくない白澤が、今日は一度もメールを寄越していない。それだけでも状況は知れるというものだ。
 思案しながら時刻表示を見つめ、ひとまず九時半までは待とう、と鬼灯は決める。
 会社のビルはセキュリティの都合上、許可を取らない限り、九時半までしか居られないことになっている。
 つまり、どれほど遅くなっても九時半過ぎには、白澤からの帰るメールなり、今日はもっと遅くなるメールなりが来るはずなのだ。
「まったく……。予定より遅くなるのなら遅くなると、分かった段階でメールの一本くらい寄越しなさいよ」
 呟きながらも、本当に仕事に集中する時には、そういうことすら忘れる男だと分かっている。
 そして、そういう男だからこそ。
「私も馬鹿ですねえ」
 改めて肩の力を抜き、鬼灯はコンクリート製の壁に背を預け直した。


 ピピッ、と手の中の携帯電話が電子音を響かせたのは、九時半を回り、見切りをつけて一旦帰ろうかと踵を返しかけた時だった。
 携帯電話を開き、メールを確かめれば『遅くなった。これから帰る』という文字列が並んでいる。
 それを一読した鬼灯は溜息をつき、電話を閉じて再び壁に寄りかかった。
 これからまた三十分待つのかと思うとうんざりだったが、ここで帰ってしまっては、わざわざ出てきた意味も無くなってしまう。
 一旦行動した以上、何かしら意味のあることに結び付けたいのが鬼灯の性分だ。仕方がない、と諦める。
 耳に届く雨の音は、鬼灯が駅まで来た時と変わらず、さあさあと響いている。夕方から降り始めた雨は明日の朝まで降り続くと予報では言っていた。
 夜が更けるにつれて、空気もしんしんと冷えてきている。
 ―――早く帰ってきなさいよ、馬鹿。
 じんと冷たくなったつま先を感じながら、鬼灯はマフラーにそっと口元を埋めた。

*               *

 ああ、疲れたな、と眼精疲労からくる頭痛をこめかみに感じながら、白澤は駅の改札を抜ける。
 今日はただでさえ忙しい日だったのに、同僚の一人がプレゼン用のデータの一部をふっとばし、超特急でその部分を作り直す羽目になったのだ。
 作業チームの中では白澤が一番パワーポイントの操作に習熟している上に、チームリーダーという立場上、必要なデータについても最もよく理解している。
 そんなわけで、白澤は他の資料の最終チェックをサブリーダーに任せ、自分は午後からデータの再入力にかかりきりになっていたのだった。
「遅くなっちゃったなぁ」
 予定では八時過ぎには仕事に目途が付き、八時半には退社できるはずだったのに、既に時計の針は十時である。
 忙しすぎて、鬼灯に遅くなるというメールすら打つ時間がなかったから、もしかしたら怒っているかもしれないと不安になる。
 今日の鬼灯は、月次決算が済んで、その間に溜まっていた伝票類の記帳ももう一段落しているから、一時間ほどの残業で帰宅予定だと聞いていた。それはつまり、鬼灯が夕飯の支度をして、白澤の帰宅を待つということである。
 先に帰れる方が買い物をして、料理をするというのは、正式に同棲を始める以前からの二人のルールだった。
 それなのに、白澤は今夜、予定変更の連絡を入れなかったのだ。
 さすがに夕飯は、もう食べ終えているだろうが、機嫌を損ねている可能性は少なくない。妙に細かい所のある鬼灯は、ルール破りには厳しいのである。
 怒られるのは嫌だなぁ、疲れてるから明日にしてくれないかな、でも謝るだけは謝らないと、と考えながら地下鉄の出口に向かって歩いていた白澤は、ふと目を上げて階段の上、出口のすぐ手前にいる人影に気付いて目を瞠った。
「鬼灯?」
 何故こんな時間にこんな所に、と疲れも忘れて残りの階段を駆け上がる。
 向かい合ってみれば、間違いなく今頃はマンションにいるはずの恋人だった。
 どうしたのだと見つめると、硬質な瞳が真っ直ぐに白澤を見つめ返してきた。
「遅かったですね」
「あ、うん。ごめん、連絡入れなくて。ちょっと忙し過ぎたもんだから」
「そんなことだと思ってましたよ」
 肩をすくめて鬼灯は応じる。その仕草にも声にも、怒りは伺えない。
 怒っていないのだろうかと不思議に思いながら、白澤は肝心なことを問いかけた。
「それよりも、お前はどうしてここに? 何か用でもあった?」
 黒いダウンジャケットにブラックジーンズと、黒ずくめの私服は、彼が予定通りに帰宅したことを示している。
 駅前のスーパーに買い物でもあったのかと考えたが、それにしては荷物がない、と思ったところで、白澤は彼が手にしているものに気付いた。
 鬼灯も白澤の視線に気付いたのだろう。はい、とそれを差し出してくる。
「貴方、今朝は寝坊したから天気予報を聞いてなかったでしょう」
「――うん」
 二度寝してしまったのを鬼灯に放っておかれて、遅刻寸前でマンションを飛び出したのだ。当然、天気予報をチェックする余裕などなかったし、夕方からの雨に備えて傘など持って出ているはずもない。
 会社から駅までは同僚の傘に入れてもらって事なきを得たが、地元駅からはコンビニで傘を買うしかないかと諦めていたのだ。
「だから……持ってきてくれたのか?」
「傘立てにこれがあるのに気付きましたから、何となく気まぐれで。次があるとは期待しないで下さいね」
 肩をすくめつつ押し付けられた傘に、何とも言えない感動を覚えつつ白澤はそれを受け取る。
 だが、その際に触れた鬼灯の指。それが氷のように冷たくて、ぎょっとなった。
 鬼灯は特に血行の悪い性質ではない。貧血体質でもないから、手足はいつでも温かい方だ。
 なのに今、彼の手は冷え切っている。
 その意味は。
「お前、いつからここにいた?」
 まさか、と思いながら白澤は尋ねる。
 すると鬼灯は、ふいと目線を逸らした。
「そんな大して待ってませんよ。貴方、今から帰るってメールくれたじゃないですか」
「馬鹿言え! そのメールに合わせてお前が部屋を出たんだったら、こんなに手が冷たくなったりなんかするもんかよ」
 しらばっくれようとする鬼灯に苛立ちを覚えて、離れていったばかりの手首を掴む。手のひらで包み込んだ手は、やはり芯まで冷え切っているような冷たさだった。
「一時間、待ってたのか」
 昨夜、今日の予定を聞かれた時に八時半には退社できるだろうと答えた。つまり、この駅に着くのは九時頃の予定だったのだ。
 だが、今の時刻は。
 馬鹿、と怒鳴りたい気持ちは、直ぐに異なるものにとって代わる。
 寒がりなのに、自分の言葉を信じて、こんな所で一時間も立っていたのだ。
 自分が朝、天気予報のチェックをすることを忘れたために。
 忙しさにかまけて、メールの一通すら送る時間を惜しんだがために。
 たった独りで通り過ぎてゆく人たちを眺めながら、ずっと自分を待っていた。
 待っていてくれたのだ。
「ごめんな」
 目の奥がつんと痛くなるのを感じながら、心の底から白澤は詫びる。
 時間通りに帰らなかったことで、何かあったかと心配させてしまったのだろうか。それとも、突発事項は仕事にはつきものだと、割り切って考えていてくれたのだろうか。
 いずれにしても、ひどく切ない話だった。
「鬼灯、本当にごめん」
「いいですよ、別に。仕事だったんでしょう?」
 ひどく感傷的になった白澤の声とは裏腹に、鬼灯の声はいつも通り淡々と響く。
「それは勿論。ちょっとデータの作り直しがあって」
「今日一日、貴方がメールを寄越さないんですから、そんなことだろうと思ってました。忙しいことは想像がついたのに、帰るメールが来る前に部屋を出た私が馬鹿だったんです」
「お前は馬鹿じゃないよ」
 無感動に語る鬼灯がたまらず、白澤はその身体を抱き締める。
 公共の場だということは分かっていたから、抱擁はほんの一秒か二秒だけだった。けれど、鬼灯のダウンジャケットの表面も外気と変わらない程に冷え切っているのは十分に感じられて、いっそう胸の内が切なくなる。
「帰ろう」
 経理部の敏腕課長らしく締まり屋の鬼灯は、部屋が無人になる時は必ず冷暖房のスイッチを切ってしまう。今夜も例外ではあるまい。
 とにかく部屋を暖めて、風呂を沸かして、そして。
「お前、晩飯は?」
「食べてると思います?」
 はたと大事なことに気付いて問えば、あっさりと答えが返る。
 真っ青になった白澤に、鬼灯は逆に問い返した。
「貴方は食べる暇、あったんですか?」
「僕? いや、コーヒーだけ。時間なかったし、お前が家で何か作ってくれてるだろうと思ったし」
「じゃあ、丁度いいじゃないですか」
「そういう問題か?」
「そういう問題ですよ」
 ぽんと音を立てて、鬼灯はビニール傘を開く。
 そして白澤を振り返った。
「仕事が忙しかっただけで、事故に遭ったわけでも体調が悪くなったわけでもない。きちんと貴方は帰ってきたじゃないですか」
 だから、いいです。
 そう言われて。
 白澤はやり場のない感情を持て余しながら、自分もまた傘を開く。
 既に雨の中で待っていた鬼灯は、白澤が隣りに並ぶのと同時に歩き始めた。
 しばらくの間黙々と歩いていた白澤は、やはり我慢がならず、鬼灯の右手を自分の左手で掴み、握り締める。
 相変わらず鬼灯の手はぞっとするような冷たさで、反射的に束縛を逃がれようとしたが、白澤は離さなかった。
「誰も見てないよ」
 こんな雨の夜には、道を通る人も多くない。車もハレーションで歩道の様子など確かに見えるはずもない。
 せめて今、これくらいはさせてくれと想いを込めて指を絡めれば、鬼灯は諦めたように手の力を抜いた。
「鬼灯」
「何ですか」
「迎えに来てくれて、ありがとうな。あと、待っててくれて、ありがとう」
「……途中で帰って、また来るのが面倒くさかっただけですよ。せっかく駅まで来たのに無意味にするのも嫌でしたし。傘を持ってきて、ただ帰るなんて馬鹿みたいでしょう」
「うん」
 うなずき、きゅっと絡めた指に力を込める。
「愛してる」
 込み上げる想いのままに告げれば。
 一瞬の沈黙の後。
 短い答えが返った。
「知ってますよ」
「うん」
 白澤はうなずく。
 そう、いつでもきちんと分かってくれているのだ。この恋人は。
 口では冷淡なことを言い、時には実力行使をも厭わない鉄拳制裁主義者であっても。
 理解して受け止め、きちんと返してくれる。
 交差点の信号が赤になったのを見て立ち止まり、隣を見る。
 視線が合った。
 街明かりを受けて夜空のようにきらめく美しい瞳に誘われるように顔を近づける。
 鬼灯は拒まなかった。
 ほんの一秒、唇を合わせて離れて。
 目を開けた鬼灯が、真っ直ぐに白澤を見つめて言った。
「帰りましょう」
「――うん」
 二人の部屋へ。
 何よりも愛しく、かけがえのない我が家へ。
 うなずいた白澤は、ビニール傘を叩く雨の音を聞きながら大切な恋人の手を握り締め、街路灯に照らされた夜の道を歩いた。

End.

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