君が見ていた夢の、色。





夢見る頃を過ぎても   −第一章−

3.花風







 深山の庵は小さい。
 大き目の部屋が二つ、小さめの部屋が二つ。それから狭い炊事場と狭い物置。あと狭い浴室もあるものの、直ぐ近くに小さな温泉が湧き出しているから、ほとんど使ってはいない。
 大き目の部屋は、居間と書庫。
 小さめの部屋は、主人の私室と客室。
 それでも一人では広すぎると、庵の主人は笑う。
 そして、建物面積の二倍くらいの小さな庭には、二十本ほどの花木と数十種の草花が植わり、野趣を損なわず、見苦しくない程度に手入れがされている。
 いずれの草木も、この辺りではありきたりの種類ばかりで、花木は庵を建てたときに適当な若木を移植したもの、草花は勝手に生えたらしい。
 自生している所まで見に行けばいいのだが、部屋の中から花が見えないのは寂しいし、根が不精だからと主人はやっぱり笑って言った。
 人間の立ち入らない山中にある、優しい花に囲まれた小さな庵。
 趣味は悪くないが質素な調度品は必要十分で、室内はどこも小綺麗に片付けられている。
 主人は、小柄な少年の姿をした自称世捨て道士。
 楊ゼンがここに居着いてから、既に七日が過ぎようとしていた。








 楊ゼンが見たところ、庵の主人──呂望は、今一つ掴み所のない人物だった。
 彼自身は百年を越えるほどしか生きていないと言うが、到底そうは思えない瞬間も多く、まるで、悪戯で利かん気の少年に見える時もあれば、永い時間を生きたずっと年かさの仙道に見えることもある。
 普段は静かな微笑をたたえているけれど、時には陽気に煌めく深い色の瞳も、どこまでも澄んで沈んでゆく淵を覗き込んだかのようで、底に何が隠されているのか見当も付かない。
 ただ、全体の印象として。
 彼は光ではなく、影だった。
 彼自身が好む穏やかな春ではなく、寂しく物憂げな晩秋に似た気配を、小柄な身にまとっていた。
 なのに──時々、残照のようにまばゆく温かな光の気配がする。
 まるで、小春日のように。
 それは、もしかしたら本来は光だったものが、何らかの理由で影に変質してしまったということなのかもしれない。
 もしくは、日蝕のように光が影に隠されてしまっているだけなのか。
 いずれにせよ、彼の小さな後ろ姿には、いつでも深い寂寥がまとわりついているのに、時折、笑顔や瞳が一瞬のプリズムのように、鮮やかに煌めくのだ。
 その光と影のアンバランスさが不思議と魅力的で、呂望という存在に強い好奇心を抱くと同時に、惹かれつつあることを楊ゼンは自覚しないわけにはいかなかった。
 しかし、単純に惹かれて好意を抱くには、量りかねる部分が多すぎる。
 そもそも、彼が記憶を失くした相手に対して、何をどう考えているのかが楊ゼンには分からない。
 厄介者扱いするでもなく、かといって憐れんだり同情したりすることもなく、おまけに旧知の間柄であるはずなのに、失った記憶に関する情報はほとんど口にしようとしない。
 楊ゼンが居候する以前もこんな暮らしぶりだったのだろうと思わせる、ごくごく自然な態度で、他愛のない会話をし、笑い、花や鳥を愛で、書物に親しんで日がな一日を過ごしているのである。
 それこそ、まるっきり楊ゼンの記憶などどうでもいいと思っているような態度で、その点が楊ゼンにはやや不可解だった。
 過去の記憶そのものがないために他のケースを知らないが、常識的に考えれば、親しい相手が記憶を失った場合、思い出してほしいという願望が見え隠れするものではないのだろうか。
 自分と過ごした日々をまるごと忘れ去られるというのは、つまり、それまでに培った友情や愛情の喪失であり、互いの関係は白紙に戻るということである。
 それらを一度に、一方的に破棄されるというのは、通常、人間にとって絶大な苦痛であるはずだ。
 けれど、呂望にはそんな感情の影が見えない。
 楊ゼンに過去の記憶がないと知った瞬間にはひどく動揺した瞳を見せたが、その後は直ぐに「思い出せないものは仕方ない」と、あっさりした様子になり、思い出そうと思い出せまいと構わないという態度を崩さない。
 もちろん、楊ゼンも一切を語ろうとしない呂望の態度に、全く『嘘』を感じないわけではない。けれど、楊ゼンの記憶に対する執着がないという素振りには、真実の匂いしかしなかった。
 だから、自分たちは旧知ではあっても、友人ではなかったのではないかとも、楊ゼンは考えたのだ。
 呂望が見せている親和的な態度は、何らかの目的があっての擬態に過ぎないのではないか、と。
 もとより妖怪仙人と人間出身の道士である。敵方の彼を自分が使者として訪問した際に、不慮の事故で記憶を失った、というのはたやすく推測できるケースだった。
 だが、それとなく妖怪仙人と人間出身の仙道の関係を尋ねた時、呂望は両者の関係は、今は落ち着いている、と答えた。
 双方の詳細な組織関係や現状についての知識も失われていたから、今の楊ゼンには、彼の返答が嘘か真かの判別はつかない。
 だが、その時ほんの一瞬、彼の瞳に陰りが走ったのが見えたから、問い返したのだ。

 ───今は?

 呂望は即答しなかった。
 だから、重ねて問うた。
 ──では以前、何かがあったわけですね? たとえば、妖怪仙人と人間出身の仙道の争いとか?
 その問いにも、彼は答えなかった。
 ただ、静かな……かすかに翳りを帯びた表情が、無言の肯定を示していて。
 ──その時に、僕とあなたは知り合ったのですか?
 そう尋ねた時、ふっと視線を上げてこちらを見た彼は、ゆっくりと小首を傾げて再び視線を落とした。
 そして、
 ──確かにそうだが……それ以上のことは自分で思い出してくれぬか。
 小さく微笑したのだ。
 ──呂望!
 やんわりと回答を拒絶し、そのまま立って庭に出て行こうとした彼を思わず呼び止めていた。
 深い考えも何もなく、ただ衝動的に。
 ──あなたは僕を……憎んではいないのですか?
 何故、そんなことを尋ねたのかは分からない。咄嗟に言葉が口をついて出た。
 だが、振り返った呂望は大きな瞳を丸く見開いて、思いがけぬことを訊かれたと言いたげな呆気に取られた表情をしていた。
 ──おぬしを? 憎む? まさか!
 それから、やわらかく微笑して、
 ──確かにおぬしとの出会い方は最悪だったと言ったが、その後、おぬしに対して嫌な感情を持ったことは一度もないよ。

 そう、答えたから。
 ……では、あなたにとって僕は何だったのですか、と。
 尋ねようとしたけれども、訊けなかった。
 ほんの一瞬だったが、彼が今の自分ではない、失われた過去の楊ゼンを探すような目をしたから。
 だから、結局。
 分かったことは一つだけだった。
 呂望には何かひどく辛い過去があり、自分はそれを知っていたはずだ、という確信。
 それだけ。
 おそらく、妖怪と仙道との間で何が起きたかは、哮天犬に乗ってこの国をめぐれば判明するのだろう。
 けれど、自分の記憶と共に失われた呂望の過去を詮索するような行動は、彼を傷つけるように楊ゼンには思われた。
 何一つ、呂望は語りたがってはいないのだから。
 しかし、ならば問うまいと思う気持ちに反比例して、自分が何を知っていたのか、そして呂望が自分にとってどんな存在だったのかという、己の記憶に対する問いかけが大きく膨らみつつある。
 最初は記憶を失くしたとはいっても、さほど不安もあせりも感じていなかったのに、日が経つにつれて少しずつ余裕が殺(そ)がれていくのだ。
 傍に呂望がいると。
 忘れてしまった自分の過去と、彼の過去。
 そこに何があったのか。
 小さな──言いようのない寂しさが覗くせいで余計に小さく見える後ろ姿や、雲間に輝く青空のような時折の笑みを見るたびに、奇妙な焦りを覚える。
 彼を傷つけているもの──頑ななまでに過去を語りたがらない理由が気になって仕方がない。
 おそらく。
 これはもう、単なる好奇心の段階ではない。
 不審を感じるからこそ、つかみ所のない相手に単純に惹かれるわけにはいかないと思っているのに、時間の経過と共にずるずると深みにはまっていく自分が確かにいる。
 だが、それが嫌なら、今すぐここを離れてしまえばいいのだ。
 なのに、何も分からないうちに逃げ出すような真似はできないと、訴えかけてくるものが心の裡にある。
 それがプライドなのか好奇心なのか、もしくは、そのどちらでもないものなのか、それは未だに定かではないけれど。
 矛盾した己の心理に、楊ゼンが軽く唇を噛んだ時。

「楊ゼン」

 小さな足音と共に、庵の主人が近付いてきた。
「ここに居ったのか」
 そして、数歩を離れた距離でふと歩みを止め、呂望は楊ゼンを見つめて口元をほころばせる。
 何かと問う前に、高くも低くもなく、凛と透る声が言葉を紡いだ。
「そうしておると、木蓮が良く似合うのう」
「──え?」
 言われて楊ゼンは少し目を見開き、顔を上に向けて自分が背を預けていた花木を見上げる。
 ほのかに淡黄色を帯びた白い大きな花は、ふっくらとまろやかに花片を開いている。
 すっきりとした姿の樹木の、まだ新芽が伸びていない梢に優しいかたちの花が咲いているその様は、この上なく清雅で、はっとするほどに美しい。
 楊ゼンは思わず視線を戻して呂望を見返したが、彼はやわらかく微笑するばかりで、それ以上何も言わずに見つめている。
「……何か用でしたか?」
 彼のまなざしが不意に面映(おもはゆ)くなって、つと視線を逸らし、楊ゼンは口調が素っ気なくならないように気をつけながら尋ねた。
「ああ」
 忘れるところだった、という表情で呂望はうなずいた。
「突然ですまぬが、今日これから客人が来るのだ」
「客人?」
 思いがけぬ単語に問い返すと、呂望は笑顔でうなずく。
「わしの古い知り合いでのう。少々変な奴だが、医学や科学に詳しいから診てもらうと良い。いくら今のところ異常がないとはいえ、おぬしは頭部を強打したのだからな」
「別にいいですよ。僕は妖怪ですから、自己治癒能力も人間とは比べ物になりませんし」
 楊ゼンの返答に、呂望は少し困ったような顔になった。
「だが……好奇心の強い奴だから、記憶喪失と聞けば、まず間違いなく頼まれずとも診察しようとするぞ。ましてや、その患者がおぬしときてはのう……」
 その言葉に、ふと楊ゼンは耳を留める。
「その言い草だと、客人は僕の知人だった相手ですか?」
「うむ。おぬしとはそれなりに付き合いのあった奴だよ。だから……」
 呂望の声にも口調にも、何の屈託もなかった。
 ただ。
 深い色の瞳だけが笑っていなかった。
「おぬしの知りたいことに答えてくれるやもしれぬよ」
 そう言った瞳に浮かんでいたのは。
 哀しげな。
 どこか自嘲するような。
 けれど、何かを切望しているような、哀願するようなかすかな光。
「……そうですか」
 その瞳の意味は分からない。
 けれど。
 だからこそ。
 うなずくことしか、楊ゼンには出来なかった。








 呂望の客人が来訪したのは、昼過ぎ、一番のどかな時間帯だった。
 巨大な宝貝ロボット──黄巾力士というらしい──に乗ってやってきた人物は、肩の辺りで癖のない髪を切りそろえた、端整な顔立ちのすらりとした青年だった。
 外見は、人間でいうなら二十代後半に差しかかったところだろうか。
 だが、穏やかでありながら超然とした雰囲気には、彼が永い年月を生きてきた存在であることをうかがわせる何かがあった。
 客人は屈託のない、むしろ外見に比すると子供っぽいともいえるような態度で、久しぶりの再会をひとしきり喜んだ後、楊ゼンの方を向き直った。
「楊ゼン、こやつは太乙真人だ」
 仙号と雰囲気から察するに、おそらく相手はかなり高位の実力者であるだろうに、呂望は何の気兼ねもない態度で彼を紹介する。
 その対等というより、ぞんざいと言った方が正しい紹介の仕方に、改めて呂望の素性に疑問を感じながらも、楊ゼンは拱手して目上の相手に対する礼を示した。
「お聞き及びでしょうが、不慮の事故によりここ数日以前のことは忘れてしまいましたので、申し訳ありませんが、改めて初めましてと申し上げます」
 その言上(ごんじょう)を聞いた太乙真人は目を丸くし、次いでくすくすと笑い出す。
「やだなぁ。そんなに改まらなくてもいいよ。忘れちゃったものは仕方ないんだから。でも君が記憶喪失とはねえ」
 言いながらすたすたと近付いてきて、太乙真人はほとんど目線の変わらない楊ゼンの顔を覗き込んだ。
「顔色は悪くないね。岩で頭打ったんだって? 吐き気とか痛みとかは無いかい?」
「太乙! 診察するなら中に入ってからにせい!」
 気遣いもへったくれもなく、いきなり問診を始めた太乙真人を、呂望は呆れた声で咎めた。
「あ、それもそうだね。じゃあ居間を借りるよ」
「うむ。楊ゼン、すまぬがこやつの気が済むまで適当に付き合ってやってくれ」
 肩をすくめるようにそう言うと、呂望はくるりと背を向けて庭に行こうとする。
 その様子に、いささか慌てて楊ゼンは彼を呼んだ。
「呂望」
「ん?」
「あなたは……」
「わしは居らぬ方がいいだろう。庭で太乙が持ってきてくれた仙桃を食べておるから、終わったら呼んでくれ」
 手に持った重そうな包みを軽く掲げて揺らしながら、笑ってそう言い、呂望はさっさと庭に続く枝折(しお)り戸を開けて行ってしまう。
 呆気に取られて見送った楊ゼンに、
「彼もああ言ってくれたことだし、中に入りなよ」
 太乙真人が声をかけた。
 楊ゼンが振り返れば、彼もまた、にこにこと底の知れない満面の笑みを浮かべている。
 何となく、自分はこの人物が苦手だったのではないかという、根拠はないが限りなく正しい気がする本能的な直感を覚えながらも、仕方なく楊ゼンは彼の言葉に従った。





 太乙真人は、勝手知ったる他人の家という様子で迷いもせず、庵の玄関をくぐる。
 そして、中に進みながら、ちらりと楊ゼンを振り返った。
「君は、彼を呂望と呼んでいるんだね」
「──彼が最初にそう名乗ったからですが……本当の名前は違うんですか?」
「いや、呂望は正真正銘、あの子の本名だよ。私が保証する」
 そう言われても、太乙真人という人物そのものがまだよく分からないから、その保障がどれくらいの信頼に値するものなのか、楊ゼンには分からない。
 だが太乙真人は、軽く眉をしかめた楊ゼンを振り返ることもなく、玄関を入ってすぐ左手の居間に入り、卓の椅子に腰を下ろした。楊ゼンも内心、軽い困惑を覚えながらも、彼と向き合う位置に腰を下ろす。
「さてと……。じゃあ、さっきの続きを始めようか」
 好奇心に満ちあふれ、嬉し楽しくて仕方がないという様子を隠そうともしない彼の笑顔に、楊ゼンは呂望の『少々変な奴』という評を思い返した。
「彼がなんと言ったかは知りませんが、記憶を失くしたこと以外、僕の身体に異常はありませんよ?」
 ここは先に牽制しておくべきだろうと考え、そう言ったのだが、太乙真人は意に介せず、
「それはそうだろうけどね。でもまぁ、万が一、後から何か後遺症が出た時に、私があの子に怒られないための方便ということで、ちょっと我慢してくれないかな。──繰り返して聞くけど、気分が悪いとか、頭痛がするとか、身体の不調を感じるようなことはあるかい?」
 重ねられた問いに楊ゼンも諦めた。こうなれば、さっさと答えて問診を終わらせてしまうに限る。
「いえ、何も」
「手足の痺れなんかは?」
「ありません」
 短く素っ気ない返答に、太乙真人はにっこりと笑った。
「そう。じゃあ多分、問題はないね。けど、もし何か異常を感じたらいつでも連絡して来るんだよ。あの子の通信機は、私のところに直通になってるから」
「直通?」
「うん。昔、あの子がこの庵を建てた時に、新築祝い&引っ越し祝いとして、直通に設定した通信機を取り付けてあげたんだ。あの子は要らないって怒ったけどね。こっちもそう言うだろうってことは分かってたから、最初から絶対に外せないように細工してさ。──といっても、あの子がその気になれば全部無駄なんだけどね」
「……何故ですか?」
 軽い口調で答える太乙真人の言葉に、いささか常識外れなものを感じて楊ゼンは問うた。
 そもそも仙道は、他者に干渉することを好まない。ましてや世間を捨てて隠遁している相手には、なおさら接触を控えるということくらい、記憶喪失の楊ゼンでも分かっている。
 そんな仙人界の倫理からすると、彼の行動は、仙道としては異常なお節介としか思えない。
 だが、
「あの子には、他に甘えられる相手がいないからね」
 太乙真人は、あっさりと答えた。
「私が強引に通信機を押し付けておけば、何かが起きた時にSOSを送る気になるかもしれないだろう? 実際、今回は役に立ったわけだし」
 そう言って太乙真人は、微笑の欠片もない楊ゼンの目を覗き込む。
「──私とあの子の関係が気になるかい?」
 含み笑いながらの言葉に、一瞬、楊ゼンは理由もなく激しい敵愾心を覚えた。
 だが、
「……なぁーんてね」
 彼は、くすりと口元をほころばせる。
「関係ってほどのものは無いよ。あの子はうんと年下の兄弟弟子で、甘え下手の子供を私が一方的に構ってただけ。それをまた、あの子がすごく嫌がるから余計に面白くてねぇ」
「───…」
 太乙真人の言葉に嘘は感じられない。
 しかし、根底にある呂望への保護者めいた感情もまた、真実なのだろうと楊ゼンは思った。
 そんな楊ゼンに、太乙真人はなんとも言いがたい苦笑を向ける。
「それにしても君、本当に全部忘れちゃったんだね。今、私が言ったことだって本当は全部、君は知ってたことなんだよ」
 非難するでもなく。
 呆れるでもなく。
 そうなってしまったのか、と、ただ現実を受容する微笑。
 それがどういった意味合いのものなのか、今の楊ゼンには分からない。
「……あなたは僕のことをよく御存知でしたか?」
「まぁ、それなりにね。でも、こうして話していると何となく分かってくるだろう? いまいち反りが合わないってことは」
 面白そうに太乙真人は笑う。
「君と私は気質が違いすぎるからね。私は風に逆らわない性質だけど、君はそういうのは嫌いみたいだから。君が惹かれるのは、どんな逆風にもくじけない、諦めの悪いタイプじゃないのかな」
「───それは彼のことですか」
「今のあの子が、そういうタイプに見えるのかい?」
「……いえ、よく分かりません」
 今ここで、呂望という存在の輪郭を思い出そうとすればするほど、それはぼやけて曖昧になっていく。

 ───彼を包んでいるのは、晩秋に似た寂寥。

 時折きらめく、雲間から差し込む陽光のような笑み。
 過去を一切語ろうとしない彼が、何を考えているのか、本当はどういう人物なのか、自分は何も知らない。
 分かるのは、彼を構成するアンバランスな光と影の存在だけ。

「僕には、分かりません」
 小さく眉をしかめ、楊ゼンは冷めた声音で繰り返した。
 太乙真人は卓に肘をつき、指を組んだ両手に顎を乗せた格好で、そんな彼を見つめる。
「君は、あの子のことを知りたいと思うのかい?」
「……知りたくないといえば、嘘になりますね」
「何故?」
 重ねて問い掛ける太乙真人の瞳は、波一つない水面のように平静で、意図するところが読み取れない。
「僕にも好奇心はありますよ。相手が何一つ話そうとしなければ、気になるのは当然でしょう。第一、悪意は感じなくても得体の知れない相手と一緒にいるのは、あまり気分のいいものではありませんから」
「それなら、自分の洞府に帰ればいい。場所が分からなければ、私が送っていってあげるよ」
「相手の得体が知れないからといって、逃げるような真似はしたくありません」
「本当に?」
 本当に?
 問いかける言葉が、楊ゼンの胸中で反響する。
 本当に?
「君は、あの子の傍にいて、あの子に惹かれないのかい?」
 淡々とした口調で、太乙真人は問いを重ねてゆく。
「ほんの数日でも、こんな近くに居れば分かるだろう。あの子がどんな人間なのか」
 何故か、その静かに響く声の余韻が耳の奥から消えてゆかないことに、楊ゼンは軽い苛立ちを覚えた。
「得体が知れようと知れなかろうと、時間が経つうちにそんなことはどうでもよくなってこないかい?」
「───…」

 過去など知らない。
 彼が何を考えているのかなど知らない。
 他の人間を覚えていないから、比べることも出来ない。
 けれど。
 時折の、あの笑顔。
 青空のような、陽光のような、まばゆい煌めき。
 優しい、この上なく優しい温かさ。
 ───分かっている。
 記憶などなくとも、あんな笑顔は世界中のどこを捜しても、滅多に見つからないものだということくらい。

「君は本当に、単なる好奇心や得体が知れないという理由だけで、あの子のことを知りたいの?」
「───あなたは僕に、何を言わせたいんです?」
 低く抑えた声で、楊ゼンは問い返した。
「何と答えさせたいんですか」
「……別に」
 だが、太乙真人は微笑したまま、少し首を傾けた。
「他意はないよ。……ただ、そんな理由なら、何も教えてあげられないなぁ、と」
「────」
「そんな相手には私が何を言ったところで、結局、あの子のことを本当に理解できるわけがないからね」
 いかにも保護者めいたその言い方が、何故か妙に楊ゼンの癇に障った。
「では、あなたは理解していらっしゃるんですか?」
 しかし、鋭くなった声にも太乙真人は動じない。
「過去の記憶の有無は関係なしで、常に君よりはあの子の事が見えていると思うよ。私にとってはいつでも、あの子は初めて会った時と同じ、小さな子供のままだから」
「……つまり、僕には彼が見えないと?」
「そうは言わない。君と私では視点が違う。私が見たのとは違うあの子を君は見ていただろうし、今後見ることも可能だろうね。
 ただ、私はあの子と知り合った時からずっと、年の離れた友人という距離を変えようと思ったことがないから、映像がピンぼけすることもないんだ」
 ……太乙真人の言わんとすることは分かる。
 多分、過去の自分も、呂望に惹かれたのだ。
 おそらく、理性で割り切ることが出来なくなるくらいに。
 少し距離をおけばたやすく理解できることが、解らなくなるほどの距離を望むほどに。
「でもまぁ、この際、過去も私の事情も関係ない。もう一度聞くよ。君は本当に、単なる好奇心や得体が知れないという理由だけで、あの子のことを知りたいの?」
 これが最後、と言われなくても分かる問いかけに、楊ゼンは右手の拳を握り締める。
 脳裏に浮かぶのは、この数日ですっかり見慣れてしまった庵の主人の小さな姿。

 何も語ろうとしない彼の態度に不審を覚えているのに、ずるずると引きずられるように惹かれていくのは嫌だ。
 得体が知れない相手に惹かれるなんて、御免だ。
 こちらの問いかけに答えようとしない彼はずるい。
 彼はこちらの過去や性格を知っているのだろうに、フェアじゃない。
 だからといって、不戦敗を宣言するのも、このまま立ち去るのも気に食わない。
 だから。
 情報が欲しい。
 過去に何があったのか。
 彼が一体、何者なのか。
 ──本当に?
 不意に、脳裏にその問いが蘇る。
 ──本当に、そんな理由で彼の事情が知りたいのか?
 ──本当に?

 ……ほんの子供のような姿をした人。
 身じろぎもせず、一心に桃の花を見上げていた横顔。
 空翔ける鳥を追いかける遠いまなざし。
 自分を見上げて微笑む、深い色の瞳。
 木蓮が似合うと言った、よく透る声。

 ──違う。
 この数日の間に見た、いくつもの呂望の表情が……姿が鮮やかに蘇る。
 はかない胸の痛みと共に。
 得体が知れないから? フェアじゃないから?
 ──否。
 それはただの言い訳。
 本当は、単に。
 ──彼の孤独の理由を解き明かして、そして抱きしめてやりたい。
 もう、そんなに傷つかなくてもいいと言ってやりたい。
 静かな微笑の裏にのぞく孤独を見るたびに感じる、奇妙な焦燥。
 その感情の正体は。
 ──切なさ。
 そんな顔をしないで欲しいと言いたいのに、その理由を知らないから何も言えない自分が苛立だしい。
 どうして見ているだけで胸に痛みを覚えるのか、その感情の在り処さえ分からない自分が。
 もどかしい。
 ……それでも。
 理由さえ分からないまま、否応なく惹かれてゆく自分がいる。
 もう、引き返せないところまで踏み込んでしまっているのだと、本当は気付いている。
 何も分からないまま立ち去るのは、逃げるようだから嫌なのではない。
 孤独を抱えた彼を一人置き去りにしたくないからでもない。
 ──自分が、離れたくないだけだ。
 ただ、彼を知りたいだけだ。
 何が彼を傷つけているのか。
 どうしたら笑ってくれるのか。
 ──それが知りたい。

「……あなたも、相当意地の悪い方ですね」
 まなざしを伏せて、溜息をつくように楊ゼンは言った。
「あの子の友人だからね」
 にっこりと笑う太乙真人に、楊ゼンはもう一度溜息をついた。
 そして、問いに答えるべく口を開く。
「本当は、彼の素性なんてどうでもいいんです。彼が何者であろうと構わない。
 僕はただ、彼自身を知りたい。彼が何を考えているのか、何を望んでいるのか、今の僕には分からない。いずれは思い出すかもしれない。でも、今、彼を理解したいんです」
 その言葉に、太乙真人は満面の笑みを浮かべる。
「よく出来ました。──そもそもね、君は他人に関心を持つタイプじゃないんだよ。余程の相手でなければ、名前さえ覚えようとはしなかった。そんな君がたった一人だけ、初対面の時から強い関心を見せて執着した相手が、あの子だったんだ。だから、この先何度記憶を失っても、君はきっと、あの子に出会うたびに惹かれる。惹かれないわけがないと思うよ」
「何度も記憶を失うなんて、冗談じゃありませんよ。こんな不自由な思いをするのは一度で十分です」
 さらりと一つの謎を解き明かしてくれた太乙真人に内心感謝しつつも、楊ゼンは憎まれ口を叩く。
 彼が相当な見識を持つ人物であることも、呂望ばかりでなく自分のことも考えてくれているということも、この短い時間で十分に解ってきていたが、誰しも素直に応対したくない相手というのがあるのだ。
 しかし、太乙真人の方は感受性が鋼鉄製のシェルターで覆われているのか、気にする様子もなかった。
 それどころか、にこにこと笑って口を開く。
「──で、めでたく双方の主張が折り合ったところで、何でも聞きたいことを聞きなさい、と言いたいんだけどね。悪いけど、彼について、これ以上の質問はノーコメント」
「なっ……」
「私は強い者の味方なんだ」
「どういうことです!?」
 思わず楊ゼンは、卓を手のひらで叩いて立ち上がる。
 人の心を暴き立てておいて、その態度は一体何なのか。
 自分は一体、何のために……、と込み上げた憤りに、楊ゼンは我を忘れかける。
「怒らないでおくれよ。だって、あの子は君よりずっと強いから。やっぱり、強い方の味方をしたくなるのが人情ってものだと思わないかい?」
 しかし、相変わらず春風に吹かれる柳のような風情で微笑しながら、太乙真人は答える。
「何なんですか、その理屈は!?」
「正論だろう? 君は忘れてしまっているけど、本当にあの子は強いんだよ。それこそ可哀相なくらいにね」
 その言葉に、ふと楊ゼンの憤りが止まる。
 微笑しながらの言葉だったが、どこかひとかけら、ひどく真摯な響きがあった。
「それにね」
 だが、楊ゼンが深く意味を考える前に、太乙真人の言葉が邪魔をする。
「わざわざ私が教えなくても、きっと君は思い出すよ」
「───何故、そう言いきれるんです?」
「だって、私は君の事故治癒能力のレベルを知っているからね。たとえ事故の時に頭部がひどく傷付いたとしても、間違いなく脳細胞も脳神経も完全に修復されているはずだ。過去を思い出せないのは、衝撃で一時的に記憶をしまってある引き出しの開け方を忘れてしまっただけだよ」
「記憶の引き出し?」
 太乙真人はうなずく。
「そう。忘れていたことを不意に思い出すというのは、誰にでもある現象だろう? 記憶細胞や情報伝達神経が破壊されない限り、記憶というのは時間の経過と共に薄れてはいっても、完全に消滅する事はないんだ。
 その点、変化の術で構築されている人型の時の君の細胞は、真の意味で破壊されるということは滅多に在り得ない。確かに傷付けば血が流れるけれど、変化している以上、傷口も出血も一種の見せかけなんだよ。もちろん、負傷に伴い多少の消耗はあるけど、原型に戻っている時以外、君は真の意味では肉体的に傷付かないんだ。
 だから、君の記憶そのものは失われていないと、私は断言できるよ。忘れてしまったのは、引き出しの鍵の開け方さ。きっかけがあれば、君の記憶は必ず戻る」
「───…」
「第一ね、忘れたままで生きてゆけるほど、君の記憶は軽くないよ」
 太乙真人は、さらりとそう言った。
 ひどく重い言葉であるのに、まるで何でもないことのように。
「──過去に何かあったのは彼ばかりでなく、僕もだということですね」
 言葉を返すのには、ほんのわずかだが時間が要った。
「まぁね。でも、あの子の味方ばかりしてるのも不公平だから、一つだけ教えてあげるけど、あの子がこんな山中に隠遁している理由は、君とは直接関係ないよ。これは、あの子自身の理由によるものだから」
「間接的には?」
「どうかなぁ。私から見ると、間接的にもあまり関係ないような気がするけどね。でも、あるのかも知れないな。ま、その辺は自分で確かめた方が早いよ。私も、あの子の何もかもを分かってるわけじゃないから」
「……分かりました」
 これ以上は何を聞いても答えを得られないだろう、と楊ゼンは直感する。
 けれど、ほんのひとかけらとはいえ、太乙真人が与えてくれた情報はありがたかった。
 呂望に惹かれる自分を押しとどめるための言い訳を破棄させてくれたことには、今一つ感謝できなかったが。
 もう後戻りできないという自覚など、できることならしたくはなかった。
 ある意味、今の自分は本当の自分ではないのだから。
「ずいぶん時間が過ぎちゃったな。悪いけど、あの子を呼んできてくれるかい?」
「はい」
 先程立ち上がったままだった楊ゼンは、そのまま居間の出入り口に向かいかけて、ふと足を止める。
「太乙真人様、いろいろと助言をありがとうございました」
「いいよ、かしこまらなくても。お礼を言われるほど、私は君の疑問に答えてない」
 それはまったくその通りだったが、それでも一応礼儀にのっとって、楊ゼンは拱手した。
「──では、呂望を呼んできます」
「うん」
 頬杖をつき、笑顔でうなずいた太乙真人を後にして、楊ゼンは呂望が待っているはずの庵の庭へと向かった。








 楊ゼンと太乙真人が居間にこもってから、既に半刻近くが経っている。
 花の盛りを過ぎ、ひらひらと薄紅の花片が舞い落ちる桃の木の下に座り込んだ太公望は、ぼんやりと散りゆく花や、その向こうの春の空を見上げながら三つの桃を種子だけにしていた。
 だが、仙桃の果汁は酒精を多分に含んでいるはずなのに、食べても食べても酔えない。
 それは、今だけのことではなくて、ずいぶん前からのこと。
 いつの頃からか、どれほど飲んでもまともに酔えなくなった。
 こうして甘い仙桃をかじっていても、物哀しい、ひどくやりきれない気分になるばかりで。
 だから、好物であったはずの仙桃も、この二十年は、こうして太乙真人が時々見舞いがてら持ってきてくれる以外、まず口にすることはなくなっていた。
 ……楊ゼンも、そのことを薄々察していたようで、彼が手土産に仙桃を持参することもなかった。
 ふとそのことを思い出し、いま彼らは何を話しているのだろうと思った時。
 枝折り戸を開閉する小さな軋み音が、耳に届いた。
「呂望」
 よく響く声で、楊ゼンが名を呼ぶ。
「すみません、お待たせしてしまって」
「構わぬよ。お陰でのんびりと花を眺めながら仙桃を食べることができた。話はすんだのか?」
「はい」
 そうか、と太公望は立ち上がり、衣服についた砂を軽く払う。傍らに置いてあった仙桃の包みは、楊ゼンが軽く布の端を結び直して手に持った。
「すまぬのう」
「いいですよ、これくらい重くも何ともありませんから」
 言いながら二人は玄関までのごく短い距離を歩く。
 そして、庵の中に入り。
 居間の出入り口前で、
「僕は、これを置いてくるついでにお茶でも煎れてきますから」
 楊ゼンはそう言い、さっさと奥へ進んでいってしまった。
 その後ろ姿を少しだけ見送って、太公望は居間へ入る。と、客人は頬杖をついたまま、笑顔で右手をひらひらと振った。
「楊ゼンは?」
「茶を煎れてくると……」
「そう。相変わらず気遣いが上手いね。そういうところは記憶が失くなっても、変わらないものなのかな」
「──太乙」
「面白い状況に呼んでくれたものだね、君も」
「……すまぬ」
「怒ってないよ。面白い、って言っただろう?」
 とりあえず座ったら、と勧められて、太公望は彼の向かいに腰を下ろす。
「それにしても、古い名前を引っ張り出したんだね」
「……わしとて、こんな名前を名乗るつもりなどなかったよ」
 珍しく、太公望はポーカーフェースを作っていなかった。
 伏せたまなざしが、後悔の思いをはっきりと太乙真人に伝える。
「でも、名乗っちゃったものは仕方ない、か」
 そんな太公望を、痛ましいと思う感情を隠した穏やかな瞳で見つめ、太乙真人はくすりと笑う。
「いいんじゃないの? 少なくとも私は懐かしいよ。『太公望』なんていう重い名前より、本当はずっと似合ってるかもしれないね」
 あ、御両親がつけてくれた名前なんだから、似合っていて当たり前か、と笑った。
「太乙」
「本当のことだろう? 君は『呂望』で『太公望』だよ」
 そう言い、それから軽く首を傾けて、問いかける。
「で? 私に何をして欲しいんだい?」
 その言葉に、太公望はぴくりと細い肩を反応させる。
「楊ゼンはお茶を煎れてくると言ったんだろう? あんまり時間はないよ?」
「太乙」
「私は楊ゼンに何も教えてないよ。彼はいろいろ聞きたかったみたいだけど、君はそんなことは望んでない。そうだろう?」
 まなざしを上げて太乙真人を見つめた太公望は、ひどく不安定な表情をしていた。
 感謝や自嘲や、そんないろいろなものが混じった瞳で。
 穏やかな表情の太乙真人を見つめる。
「蓬莱島の方は問題ないよ。記憶喪失じゃどうしようもないからね。執務は燃燈や張奎くんが代行してくれてる。楊ゼンが君のところで療養するというのにも、異論は出なかった」
「……そうか」
「皆、お節介でお人好しだからね。何のかんの言いながらもさ」
 そう言って、太乙真人は微笑った。
「でも驚いたよ。いきなり記憶喪失だって連絡がきて、何を見聞きしても驚くなとか言われて。急いで来てみたら、懐かしい名前を聞かされたんだからね。状況説明なしに、狙った相手をなし崩しに当事者に引き込むっていうのは、本当に君らしいよ」
「──すまぬ」
「どうして謝るんだい? 私は、君のそういう姑息なところがすごく可愛くて、昔から気に入っているのに」
 皮肉のような台詞を、本気としか聞こえない穏やかな声で太乙真人は言った。
「それで、これからどうする気? 君が古い名前を名乗って、何も説明していない以上、このまま楊ゼンが記憶を取り戻さなかったら、仙人界の現状の認識に、大きな齟齬が出るかもしれないよ。既に、仙人界なんていうものは過去の遺物なんだから。
 それに、いくらなんでも父親二人に関する記憶まで失くしたままというのは、人道的に問題があるんじゃないかい?」
 だが、太乙真人の言葉に、太公望は小さくかぶりを振った。
「いや。楊ゼンの記憶は必ず戻るよ」
「どうして断言できる?」
「理由はないが、そんな気がするのだ」
「────」
 それは、単なる思い込み、つまり太公望の願望ではないのか、と太乙真人は思ったが口には出さなかった。
 第一、太乙自身、必ず記憶は戻ると確信している。
 彼は絶対に、太公望や師父、父親のことを──あの日々の記憶を忘れたままではいない。
 それは彼だけのことではない。太公望も自分も、当時の仲間は一人残らず、たとえ何度記憶を失くそうとも絶対に思い出すだろう。
 忘れられるわけがないのだ。
 自分のためにも。
 喪われた人々のためにも。
 あの、戦い続けた日々を。
 流された血と涙の色を。
「それなら別に問題ないじゃないか。昔の名前を名乗ったことだって、ちょっとした御愛嬌ですむよ。彼は君のことをよく知ってるんだから」
 だが、再び太公望は首を横に振った。
「それでは駄目なのだ」
 静かに、真剣なまなざしで太公望は言葉を紡ぐ。
「わしが今していることは、覚めれば消える夢物語だ。一時の夢なのだよ。夢は夢のままであればいい。現実にする必要などない」
「太公望」
「あやつの記憶が戻る時に、わしは夢を終わらせる」
 ポーカーフェースを忘れた、苦いものを懸命にこらえる表情に、太乙真人も微笑を忘れて、彼を気にかける年長の友人の顔になる。
「……それでいいのかい?」
「それで充分だ」
「誰も君のことを責めはしないよ」
 ──忘れられるはずのない、あの日々を忘れたふりをしても。
「いいのだ。これはわしの我儘──わしの弱さだ。だから、目覚めたら忘れてしまう夢でいい。それ以上は望まない」
「そう……」
 切なげな瞳で、それでもはっきりと言い切った太公望に、太乙真人は溜息をついた。
「それならいいよ。私は君の味方のつもりだし、君がそういうつもりなら協力してあげるよ」
「──すまぬ、太乙」
「いいよ。それで、私は何をすればいい?」
 そう尋ねた時。

 ───ふっと太公望のまなざしが冷えた。

 深い色の大きな瞳が、凍りついた冬の夜空のように冷たく、昏く、一瞬にして色を変える。
 その変化に、思わず太乙真人は息を飲む。
 ──長年、太公望を見てきた。
 だが。
 こんな瞳は目にしたことがない。

「いずれ、楊ゼンの記憶は戻る。だから記憶が戻ったその時、わしはあやつの──」

 低い、感情の失せた声が太乙真人の耳を打つ。
 ──そんなにも。
 感情の色を失った瞳を見つめ、冷えた声を聞きながら、太乙真人は心の中で呟く。

 ──そんなにも、君にとって楊ゼンは特別なのか。
 彼が記憶を失った。
 ただ、それだけのことで、哀しいほど他人の心ばかりを気遣う君が、こんなことを思いついてしまうくらい。
 哀しいほど負けず嫌いで強い君が、思わずこぼれ落ちた弱さをすぐさま拾い集めて、ごまかすこともできないくらい。
 君が、そんな瞳で、彼の心を無視した策を語るくらいに。
 ──それほどまでに、彼を求めているのに。
 君は、そんな自分を切り捨てる。
 必要ないと。
 自分の心が軋み、悲鳴を上げていることさえ無視して。
 何故だろう。
 何故、君はこんな形でしか自分に休息を許せないんだろう。
 こんな。
 残酷な。

「本気で……言ってるんだね?」
「もちろん。ずっと考えていたが、これしか思いつかなかった」
「──そう…」

 彼を傷つける。
 だが、それ以上に。
 君自身を傷つける。
 そんなこと、君には分かっているのだろうに。

「分かった。それくらいは何でもないよ。五日、待ってくれるかい」
「うむ」

 うなずけば。
 見たこともない色の瞳が、安堵したように輝く。
 君は、自分の心の傷など気にしてはいない。
 最初から。
 今でも。そして、これからも。
 そんなことはよく知っている。
 それでも。

 ───それでも、私は君の幸せを祈っているよ。

 口に出してはもう、今は言えないけれど。









....To be continued












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