昏い夜の奥底から、ふわふわと白いものが舞い落ちてくる。
 窓の向こう側に広がるその光景に。
 ふと誘われるように外に出た。
 回廊から一歩足を踏み出せば、髪にも肩にも、きらきらと灯籠の炎に光るものが落ちては消えてゆく。
 吐く息も白い。
 これだけ冷え込んでいれば、地上に降りた白い結晶は溶けることなく積もるのだろう。
 しんしんと降り続ける白に、しばしの間、言葉もなく魅入られる。

 ───少しだけ、雪は彼に似ている、と思う。
 触れたと思った瞬間に溶けて消えてしまうところとか、冷たいくせに、汚いものをすべて純白で覆い隠して、世界を美しく見せてくれるところとか。
 そんなところが、彼に。

 ……差し伸べた指先で、小さな結晶が水になる。
 つかまえていることもできないのに、何故か、それはひどく優しい現象のような気がして。
 ただ、宙を見上げて白いものを受け止める。
 ───と。
 背後で静かな、けれど確かな存在感を持つ気配がゆるりと動いた。
 そしてそれは、さく…と薄く積もった雪を踏みながら近付いて来る。

「雪見も風流でいいですが、風邪を引きますよ」

 言葉と共に、ふわりと広げられた白い布で背後から肩を包み込まれて。
 そのほのかな温もりに、どれほど自分の身体が冷えていたのかを思い知らされる。
 そのまま、後から伸びてきた形のいい手に顎を持ち上げられ、重ねられた唇の熱に一瞬、溺れそうになった。
「───ほら、こんなに冷たくなってる」
 どこか揶揄うような低い、響きのいい声に。

 ───この男のこういうところが嫌いだ、と。

 そう思った。











 ゆっくりと確かめるように肌に触れる指と唇の感触に、音もなく躰が溶けてゆく。
 熱い茶を飲み干すよりも的確に、冷えていた肢体は熱を取り戻し、更なる熱へと誘われて。
 少々肌寒いと思った室温さえ、やがて感じられなくなる。
「師叔……」
 自分を呼ぶ甘やかな声に、太公望はうっすらと瞳を開いた。深い色の瞳は、躰を侵食しつつある熱に早くも潤み始めている。
「雪を見ながら何を考えていたんです?」
「何も……」
 見下ろしてくる楊ゼンのまなざしを受け止めながら、太公望はどこかぼんやりとした声で答えた。
「では、寒いのが大の苦手なあなたが何故、雪を身に外へ?」
「別に……」
 小さな声で紡がれた返答に、楊ゼンは含み笑った。
「あなたの『何でもない』を信じるほど、僕は素直じゃありませんよ」
「……知っとるよ」
「それでもごまかそうとするんですか」
「ごまかそうとしておるわけではない」
「本当のことを言わないだけ?」
 言葉尻を捉えて楊ゼンは、揶揄うような表情で太公望を見つめる。
 ……だが。
「そういうのを嘘つきというんですよ」
「……おぬしほどではないよ」
 その言葉に。
 軽く目をみはり、それからゆっくりと微笑した。
「──そうかもしれませんね」
 低いささやきと共に唇を重ねて、太公望のやわらかな舌を深く絡めとる。
 静かに、音もなく熱が全身を浸してゆく。
 それを逃したくなくて。
 太公望は楊ゼンの背中に腕を回し、きつく爪を立てた。











「雪って、あなたに似てますよね」
「え……?」
 思わぬ言葉に、太公望は、横になったまま自分を見上げてくる楊ゼンを見つめ返した。
 既に汗も熱も引いて、今は袷の夜着をまとい、太公望は褥に上体を起こしている。
 窓から入ってくるほのかな雪明かりだけが、互いを照らし出す光だった。
「真っ白で、綺麗なものも汚いものも、全部包み込んでしまうところが……」
「─────」
「ああ、でもあなたは温かいから。そこが雪とは決定的に違いますね」
「……わしのどこが、白くて暖かいというのだ」
 どこか憮然として返した太公望の言葉に、楊ゼンは微笑する。
「全部ですよ」
 褥から持ち上げた手が、そっと太公望の頬に触れた。
「どこまでもあなたは真っ白で、僕が今、こうして触れていられるのも不思議なくらい……」
「何を馬鹿なことを……」
 太公望は眉をひそめたが、楊ゼンは動じない。
 微笑んだまま、長い指の先で、形を確かめるように太公望のやわらかな線を描く頬をたどる。
 だが、確かに彼は自分を見ているはずなのに、何故か甘やかな色の瞳に自分の姿は映ってはいないような気がして、太公望は頬に触れる手を掴んで、その動きを制した。
「───…」
 けれど、何と言えばいいのか、胸までつかえている感情が言葉にならなくて。
 太公望は、ゆっくりと上体を屈めて楊ゼンに口接ける。
 やわらかな感触と温もりが、触れ合った箇所から言い知れぬ甘さとなって、全身に広がってゆく。
「……わしは、雪などではないよ」
 触れた時と同じようにゆっくりと離れた太公望は、至近距離から甘やかな、けれど底に潜んだものを読ませない瞳を見つめた。
「そうですね」
 そのまなざしを静かに微笑んで受け止め、楊ゼンは太公望を胸に抱き寄せる。
「──むしろ、雪は僕に似てるのかもしれない。冷たくて貪欲に世界を自分の色に染めようとして……残酷だ」
 その言葉に、太公望は目を閉じた。
「──そのたとえなら、雪はわしだろう」
「違うと言ってみたりそうだと言ってみたり、忙しい人ですね」
 楊ゼンがくすりと笑うのが、そのまま振動となって重なった胸から伝わる。
「では、僕たちは二人とも雪ですか? 意味は全く違いますが……、物事にはいつでも両面があるものですしね」
「楊ゼン」
 少しだけ強い声で、太公望は青年の名を呼んだ。
 けれど、上手く感情が伝わらないもどかしさに、すぐには想いが言葉にならない。
「──おぬしは冷たくなどない。今、こうしてわしを抱いているのは、おぬしだろう? ……温かいよ、充分すぎるほど……」
 華奢な躰を抱きしめる腕に、少しだけ力が込められる。
「太公望師叔」
「…………」
「あなたのそういうところが僕は好きですよ」
「──わしは、おぬしのそういうところが嫌いだ」
「知ってます」
 その言葉と共に、楊ゼンは太公望を胸に抱きしめたまま、躰を反転させた。
 そして、太公望を褥に横たえて、自分は彼に覆い被さるように、深く澄んだ大きな瞳を見つめる。
「知ってますよ。そうおっしゃるのは、あなたが僕を好きでいてくれるからだということもね」


 ───嫌いだ、と太公望は強く思う。


 何も知らないくせに、何もかも全部知っているような顔をしているところが、一番腹が立つ。
「──嘘つきめ」
「いけませんか?」
 しれっと返してくる低い声に、もっと腹が立った。
「でも、今は嘘ついてないですよ。僕があなたを好きなのも、あなたが僕を好きなのも本当でしょう?」
「────」
「それともお嫌いですか、僕のこと」
 何でもないことのように問いかけてくる言葉に、太公望は眉をしかめる。
「……嫌いだと、言いたいよ」
 まっすぐに甘やかな瞳を見上げたまま、本気を込めて告げてみる。
「おっしゃってもいいですよ」
 けれど、その言葉にも楊ゼンは動じない。
「それでも離しませんから。好きなだけ八つ当たりしてヒステリー起こして嫌味と我儘を言っても大丈夫ですよ」
「………そんなことを言って、わしが本当におぬしの顔も見たくなくなったらどうする」
「離しません。絶対に。あなたは僕のものですから」
「…………嘘ばっかり」
 太公望は目を伏せる。
 ──本当に本気で抗ったら、彼はあっさりと腕を解くのだ。
 そのくせ、こちらの心にほんのひとかけらでも傍にいてほしいという気持ちがあったら、何を言おうがどんなに暴れようが、絶対に離れてはゆかない。
「どうして、おぬしは」
 言いかけて、太公望は口をつぐむ。


 言っても無駄、というより、言う資格がなかった。
 全部分かっているくせに、どうして何にも分かっていないのか、などと。
 分かってないのは、自分も同じ。
 口が達者なくせに、一番大切なことは口に出せないのも。



    知らない。
    何も。
    自分の望みも、彼の望みも。
    何もかもが、まるで降りしきる白い雪に遮られたように、見えない。
    その雪は、彼なのか自分なのか。
    断罪なのか、それとも癒しなのか。


    本当は、何一つ、知らない。



「──すみません」
 微苦笑を浮かべて、楊ゼンが黙り込んだ太公望の前髪を、宥めるように優しくすきあげる。
「………なぜ謝る?」
「分かりますよ、あなたが考えていることくらい」
「嘘つき」
「今夜はそればかりですね。気に入りませんか?」
「ものすごく」
 困ったな、と楊ゼンは全然困っていない笑みを浮かべた。
 その笑顔に、ふと、ひどく腹が立って。
 太公望は、肩から流れ落ちている長い髪を強く引っ張る。
「────」
 お互い目も閉じないまま、唇が触れ合うだけの口接けをして、至近距離で互いの瞳を見つめる。
 すると、楊ゼンがふっと微笑んだ。
「──お互い、因果な性格をしてますね」
「────」
 その笑みを、太公望は詰るような表情で見上げる。
「──すみません」
 その、どこか歯噛みするような苛立ちと諦めが入り混じり、にじんだ深い色の瞳を見つめて。
 楊ゼンの微笑も、自嘲するような、やるせなさを含んだ静かなものに変わる。
「でも……僕は、あなたが好きですよ」
「……知っておるよ」



 知っているけれど。
 それはまるで、触れた瞬間に溶けて消えてしまう雪のようで。
 あまりにも、二人という存在は淡く、はかなくて。
 抱きしめても次の瞬間には、腕の中には何も無くなっているのではないかと怖くなる。
 合わせた肌の温もりも、重なった唇の熱も、確かにここにあるのに。
 ───愛しいと、思うのに。

 この感覚は一体何なのだろう?
 何故、甘い感情に浸り、溺れることができないのだろう?
 どうして、どんなに熱が上昇しても、思考の片隅が冷えたままなのだろう?
 ───溺れてしまいたいと思うのに。
 たとえ、この一瞬だけでも、この感情に。
 この、男に。
 それができないのは、何故。



「──好きだよ」
「知ってます」

 甘やかな色の宝玉のような瞳を見上げて、同じだ、と太公望は思う。
 彼も決して溺れはしない。
 溺れてはくれない。
 哀しいくらいに、冷静。
 自分たちは。

 これが、修羅を抱えて生きる者の……欲望のままに嘘をつかずには生きてゆけない者たちの哀しい習性なのだとしたら。
 一人でいた時は孤独など感じなかったのに、二人でいると凍えそうな寂しさを感じてしまうのだとしたら。



 これが恋だというのなら、なんと哀しく愛しい恋をしたものだろう?



「……楊ゼン」
 呼んで、腕を差し伸べて、抱き寄せる。
 これ以上ないほどにぴったりと躰を重ねても、どうしても伝わらない部分が……、伝わってはこない部分があることがもどかしくて。
 焦れったくて、哀しくて……愛しい。
 しんしんと心に積もるものを抱えたまま、自分たちはどこまで行けるだろう。
 いつまで、この恋を胸に抱き続けていられるのだろう。
「太公望師叔……」
 ささやきと共に、口接けが降ってくる。
 額に、目元に、頬に、唇に。
 やわらかく、優しく。
 包み込むように、慰めるように。
 目を閉じて受け止め、ゆっくりと瞼を開けて男の瞳を見つめる。
 冬の夜空のような深さをたたえた、美しい宝玉のような瞳を。
「──やはり雪のようだよ、おぬしは……」
「あなたも……ね」
 その言葉に、もう一度目を閉じる。







     窓の外は雪。
     しんしんと降り積もる。


     二人の上に。
     心の上に。




     降り止まぬ、白い雪。






Fin.









というわけで、書き下ろし短編第1弾です。
普段、すごく深い処で分かり合っているような二人ばかり書いているので、ちょっと違うパターンの二人を……、と思って考えた話です。
楊ゼンも太公望も頭が良過ぎる分、こういうケースも有り得るかな、と。
まぁ、ニュアンスだけで見ていただけたらいい作品だと思ってます(^^)







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