RAIN RAIN 1








 僕は、それでもあなたを愛せば良かったんですか?
 それとも、初めから───・・・・。






            *            *






 この仕事を引き受けたのは、半分は気まぐれだった。
 依頼内容のプログラムが、それなりに興味を引かれる、俗な言い方をすれば、そそられるものだったことと、提示された報酬が相応のものだと判断したからだ。
 その2つは、契約社員という立場ではあれど、一応半年ばかりの間は毎日出勤するというかなり面倒な条件を、まぁたまにはそれもいいかと鷹揚にうなずける程度には、魅力があった。






 そして入梅宣言が出された今日、案内されている半年間だけの職場は、いかにもソフトハウスらしい近代的で無駄のない設計の、小奇麗なビルだった。
「ここが、今日から君に働いてもらう場所だ。直接のボスになる奴は、多分中にいるけど・・・・・起きてるかな?」
 ベンチャー企業から立ち上がったこの会社は、社員も皆、若い。案内してくれている男も、自分より1つ2つ上なだけだろうと楊ゼンは推測する。
 だからといって、さすがにプログラマーやシステムエンジニアの集合だけあって、同年代であっても別段馴れ馴れしくもならないドライな物腰は、あまり人付き合いの好きでない楊ゼンにとっては、ありがたかった。
 そんな思惑には構わず、男はぞんざいにノックしてから、返事も待たずにドアを開ける。
 途端、馴染んだ電子臭が、楊ゼンの鼻をくすぐった。
「お待ちかねの助っ人が来たぜ・・・・・って、やっぱり寝てるのか。おい、起きろよ!」
 ずかずかと室内に入り込んでゆく男の後姿を、ドアの所に立ち止まったまま目で追うと、奥のブラインドを下ろした窓際にソファーが置かれている。
 そこに誰かが横になっているらしく、楊ゼンの目には靴を履いたままのスリムジーンズに包まれた足だけが映った。
「・・・・・うるさいのう。わしは今日の明け方まで3日間徹夜だったのだぞ・・・・」
「だから、助っ人が来たって。とにかく挨拶だけでもしろよ」
「・・・・・ああ、例のフリーのプログラマーを雇うという話か。いつから来るのだ?」
「今日から。21日からだって言ってただろ?」
「んなこと、覚えておるものか」

 ───え・・・・?

 半分寝ぼけているような、ややかすれた声に、楊ゼンはぎくりと身体をこわばらせる。
 高くも低くもない、凛と透るのに、どこか底知れない深みを持った声。
 まさか、聞き違いであって欲しいと思った時、ここまで案内してきてくれた男が楊ゼンを呼んだ。
「こっちに来てくれ。どうしても君のボスは、ここから動きたくないらしいんだ」
「───・・・」
 一瞬、躊躇したものの、その声に抗うわけにもいかず、心拍数が上がるのを感じながらゆっくりと室内に足を踏み込む。
 背筋に冷たい汗が滲むほどの緊張に押し包まれながら、並んでいる幾つものワークステーションの向こう側に、気だるげな仕草でソファーから起き上がる人物を見た瞬間。




 声を聞いた瞬間、予想していたのに、心臓が止まりそうになった。




「おぬしか」
 前髪を片手で軽く梳き上げながら、彼はさらりと微笑した。
「聞いての通り、今、うちは人手不足でパンク状態でな。本来フリーのおぬしに毎朝通勤させるのは悪いが、半年間頼む」
「・・・・・それだけか? 相変わらず愛想なしだな」
「別に良かろう。くどくどしい挨拶が好きな奴ではないし、第一、初対面の相手でもない」


 その台詞に。
 くらりと眩暈を感じる。
 一瞬の間に沸騰し、見極める隙もなく脳天を突き抜けていったのは。

 ───憤り、だったろうか。


「あれ、そうなのか?」
「昔、学生時代に家庭教師をしておった時の教え子だ。このところ忙しくて、誰が来ると名前までは聞いとらんかったから、驚いたといえば驚いたがな。まぁ、忘れるような顔でもないしのう」
「そりゃそうかもな。ま、何にせよ知り合いならちょうどいいや。半年間、上手くやってくれ。
 それじゃ、俺は戻るよ。3階もパンク状態なんだ。連日徹夜してるのはお前だけじゃないんだぜ」
「知っておるよ」
「じゃあ、詳しい仕事内容や、分からないことは全部こいつに聞いてくれ。知り合いなら言うまでもないだろうけど、性格は見ての通りふざけてるが、頭だけは人並み外れて切れる奴だからさ」
 そして、笑いながら男は楊ゼンに軽く片手を挙げ、傍らをすり抜けてゆく。
 しかし、ここまで案内してくれた礼もロクに言えないまま、楊ゼンはただ、目の前の人物を凝視していた。
 パタン、と音を立ててドアが閉まり、後は電子音と空調の音だけが、妙に耳につくようになる。
「さて・・・・。まずは久しぶりと言うべきかのう」
 だが、目の前の相手の緊張や動揺は気にも留めない表情で、彼はあっさりとした笑みを向けた。
「かれこれ・・・・8年ぶりか? あの頃でもわしより背が高かったが、また少し伸びたようだのう」
 髪の長さはそんなに変わっておらぬが、と微笑む人に。


 またもや、めまいを覚える。


「助っ人を頼んだとは言っておったが、おぬしとはな。まぁ、思うところは色々あるだろうが、一度契約をした以上、半年間はきっちり働いてもらうぞ」
「───・・・」
「ん?」
 呟くように唇から零れた声を聞き取れなかった彼が、ごく普通の顔で聞き返す。


 その表情さえも、神経を逆撫でして。


「───それだけ、ですか」
「・・・・何がだ? いい年した大人なのだから、主語と目的語は正確に言ってくれ」
 言わぬものを察してやるほど、わしは優しくないぞと、悪戯っぽくも皮肉っぽくも見える微笑は、あの頃と何も変わっていなくて。


 ───抑え、切れない。


「あなたが僕に言うべきことは、それだけですか!?」
 思わず楊ゼンは、声を荒げていた。
 しかし、彼は表情を変えることもなく、むしろ微かに面白がるような瞳で楊ゼンを見つめ返す。
「そういえば、あの頃も感情的になると、筋道の通らぬことを時々おぬしは言ったな」
 そして。
 声以上に深い色の瞳が、まっすぐに楊ゼンの瞳を見上げた。
「間違えるでない。離れていったのは、おぬしの方だっただろう」


 ───誰かが自分の意志で決めたことに口出しするほど、わしはお節介な性質ではないよ。


 いつか聞いた声が。
 決して引き止めようとはしなかった、あの時の瞳が。

 眩暈を、引き起こす。






               *            *






「好きです」
「うん」
「だから、うん、じゃなくて。好きです。世界であなただけです。愛してます。どう言ったら答えてくれるんですか?」
 欲しいのは生返事じゃないと、華奢な躰を抱きしめた背中を、細い手が優しく撫でる。
 だが、その優しささえもが、子供扱いされている証しのようで、楊ゼンは胸の裡を苛立たせた。
「ねえ、一度くらい言葉にして言って下さい」
 額や頬に幾つもキスを落としながら、年下扱いされるのにはうんざりしているのにもかかわらず、こんな言い方しかできない自分に余計に苛立ちつつも、甘えてねだる。
 キスを繰り返し、やわらかな耳朶を軽く噛んで、細い首筋に唇をずらしてゆくと、つけたばかりの薄紅の印が目に映った。
 その花片のような跡に指先で触れながら、もう一度、年上の人の瞳を覗き込む。
 と、深い色をした瞳は、やはり底が見えないまま淡く微笑しているばかりで。
 また甘やかして、有耶無耶のうちにごまかそうとしているのだと、楊ゼンは咎める色を目線に込めて、腕の中の相手を睨んだ。
「子供扱いばかりして・・・・。言ってくれないのなら、このまま朝まで眠らせてあげませんよ」
「それは困るのう」
 おぬしは平気だろうが、二十歳を越えると徹夜はこたえる、と笑う声は、やはり掴み所がない。
「だったら言って下さい」
「そんなに言葉ばかり欲しがってどうする」
「どうするって・・・・・聞きたいんですよ。あなたは、僕が好きだと言っても、何にも感じないんですか」
「感じなくはないがのう」
 笑みを含んだ、高くも低くもない声は、深くて耳にひどく甘い。
 本当に欲しい言葉は言ってくれなくても、この声を聞いているのは、溺れてしまいたいほどに心地好かった。
「じゃあ言って下さい。一度きりで良いですから」
「それではすまぬだろう」
 突き放すというほどの厳しさではない。が、やんわりと笑う声が甘えを受け流す。
「たった一言に、これだけこだわるおぬしだ。一度きりで本当に満足できると、自分で思うのか?」
「─────」
 穏やかな指摘に反論しようとして、けれど言葉が見つからずに黙り込む。
 確かに、一度きりで我慢できるという保証はない。というより、絶対に無理だろう。
 初めの頃は月に一度程度だった肌の触れ合いにも、またたく間に溺れて、ほんのわずかな時間でも別れ難くなってしまったように、甘い言葉も一度与えられたら、二度と忘れられなくなるに違いない。
 だが、それを素直に認められるほど、楊ゼンもまだ大人ではなかった。
「───だから、言ってくれないんですか?」
「ん?」
「一度ではすまないから、僕がいくら望んでも何も言ってくれないんですか?」
 図星を突かれた反動で、なじる調子になった問いかけにも、彼は淡い微笑を見せる。
「そんなことが理由ではないよ」
「だったら、どうして」
「そうだのう」
 何かを思うように、ふと彼は遠い目つきをした。
 どこまでも静かな、穏やかな表情で。
「そのうち話してやるよ。おぬしがもっと大人になって、わしの言葉を理解できるようになったら、その時に」
 そんな言い逃れがあるものかと反論したかったのに、喉下まででかかった言葉は結局、音声にならなくて。
 深く遠く、どこまでも澄み切った彼の表情だけが、残像のように心に焼き付いた。








 ───あの頃の自分は、いつも飢えて渇いて、彼を形作っている甘いものがひたすらに欲しくて躍起になっていた。
 今から思えば、それこそが子供だったことの証し。
 けれど、あの頃は、そのことを絶対に認めたくなかった。
 子供だったからこそ、自分が彼と対等な存在には程遠いことを、絶対に認められなかったのだ。
 だからといって、一足飛びに大人になれるはずもなく、結局はどうしようもない苦さと共に、自分が大人ではない、幼い存在であることを思い知らされただけだったのだけれど。






               *            *






「僕は───・・・」
 言いかけて、言葉が惑う。
 ───自分は何をしたかったのか。
 あれから8年。
 幼く無力な高校生だったあの頃の自分は、何を望んでいたのか。
 嵐の中心の無風状態にも似た、何も考えられない思考を、ただ高速で空回りさせながら、目の前の人の微笑を見つめた時。
 不意に楊ゼンの脳裏に閃く。
 ───自分は。


 この人に、傷ついた素振りをして欲しかったのだ。


 数年ぶりに偶然再会した、自分を捨てた相手を見て、過去に感じたはずの痛みを蘇らせて欲しかったのだ。
 けれど、この人は平然と微笑んでいて。
 まるっきり古い知人にめぐり合ったのと同じ、その穏やかな表情に、自分一人が胸をかきむしられている。

 どうして、自分を目の前にしてそんな風に微笑っていられるのかと。
 なじりたい気分の一方で、やはり、と決して認めたくなかった、けれど本当は分かっていた思いが、泡沫のように澱んだ水底から浮かび上がってくる。

 あの時、彼が一言も反論せず、引き止めもしなかったのは。
 つまり本当は。


 ───あの時、捨てられたのは、愚かな子供だった自分の方だったのではないのか?


 目の眩むような感覚と共に、あの日、いつもと同じ表情で別れを受け入れた人に感じた、底のない淵に落ちてゆくような絶望を楊ゼンは思い出す。


 ───どこかで期待していた。
 別れを告げる自分の言葉に、彼が傷ついた瞳を見せることを。
 目を伏せて、傷ついた表情を隠そうとする仕草を。
 本当は愛していたことを・・・・・・そして、何気ない言葉の積み重ねが年下の恋人を傷付けていたことに気付いて、悔やむ表情を見せてくれることを。
 間違いなく、あの日の自分は期待していた。
 けれど。
 目の前のこの人は、いつもと同じ表情で、それがおぬしの結論かと聞き。
 うなずくと、それならそれでいい、と。
 いつもと同じ、淡く微笑した、深い色に澄んだ瞳で。


「─────」
 内臓をかき回され、ひっくり返されるような、言い知れぬ感覚に楊ゼンはきつく唇を噛み締める。
 だが、彼は何も言わず、ただその様子を見つめていただけだった。
「僕は・・・・・」
 静かなまなざしを痛いほどに感じながら、楊ゼンは言葉を搾り出す。
「僕はもう、あの頃の子供じゃない。8年も経ったんです」
 平静を装おうとする声は、しかし隠しようもなく揺れる。それを、1つ深呼吸することで、楊ゼンは取り繕った。
「お互いに知らなかったこととはいえ、あなたが半年間、僕の上司になるというのなら、それはそれで従います。あなたの言う通り、この会社と契約をしたのは僕自身ですから」
「うむ」
 低く紡いだ言葉に、上出来だとでもいうように、彼は頬杖をついて笑う。
「確かに、おぬしは成長したらしいのう。あの頃のおぬしなら、即座に踵を返して、明日には違約金を上乗せした契約金を叩き返しておっただろうにな」
 8年分、彼も歳を取ったはずなのに、何も変わらない声に胸が波立つ。
 けれど、楊ゼンは無表情の下にそれを隠した。
 あの幼かった頃のように、感情を何もかもあからさまに垂れ流して、内心を見透かされるのは、もう御免だった。
「では、改めて半年間、頼む。聞いておるだろうが、この部署は、もともとわしを含めて3人いたのを1人が2ヶ月前に引き抜かれて、1人が先月、労働基準法をはるかに無視した超過勤務に耐えかねて辞めたせいで、まったく手が足りておらぬのだ。破格の契約金を払っておる以上、遠慮なくこき使わせてもらうからな」
 楊ゼンは、そう言う彼の表情を、さりげなさを装った視線で鋭く観察する。
 だが、目の前の青年の、内心の葛藤を本当にどうでもいいと思っているのか、彼の表情はどこまでも普通だった。
「ええ。──それで、あなたのことは何と呼べばいいですか?」
「何とでも。一応の肩書きはあるが、こういう職場では意味のない、ただの渾名みたいなものだからのう。おぬしの呼びやすいように呼べば良い。呼び捨てでも良し、あの頃のように師叔と読んでくれても良し」
「───では、太公望師叔と呼ばせていただいてよろしいですか」
「ああ」
 彼の返事には、一瞬の惑いも、ひとかけらの躊躇いもない。
 うなずき、ようやくソファーから立ち上がる人を見つめながら、楊ゼンは、あえて古い呼び名を選んだ自分の意地の悪さと、それと表裏一体に存在している感情を苦く噛み締めていた。






to be contined...










久しぶりの続き物でない新作です。といっても、この作品自体は『続く』ですけど。
まぁ、前中後で終わる短い話(しかも、一話もかなり短い)なので、私の中ではあまり続き物という意識はなく、読み切りを書いている感覚に近いのです。

この話は前提として、ちょっと大人向けの話です。ベッドシーンが多いというのではなくて、精神的に大人でないと難しい作品。なので、モチーフはありきたりの恋愛小説でも、結末はありきたりとは全然違う方向に蹴り飛ばす予定でいます。

そんなわけで、そのうち梅雨入りしたら(沖縄地方はもう入梅してますし、北海道に梅雨はありませんが)、灰色の空とビル街に降り続ける細い雨を思い描きながら、鬱陶しい季節に鬱陶しい小説という取り合わせを楽しんでみて下さい。

以下、待て次号。





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