Soundless Session








 突然のクラクションに振り返ったのは。
 門から出てすぐのこと。
 すべるように近づいてきて、真横に停まったのは、綺麗に磨き上げられたシルバーのスポーツカー。
 そして、ゆっくりと助手席側の窓ガラスが降りて。

「ちょっと待っておれ」

 無言のまま十秒ほど、相手の顔を見つめていた太公望は、くるりと今来た道を引き返し、出てきたばかりの立派な門の中へと戻ってゆく。
 そして、数分後に戻ってきた時には。

 両手に大きな段ボール箱を抱えていた。







 開けられたトランクに、すかさずバックパックと新たな荷物である段ボール箱を積み込んでから、身軽になった太公望は助手席に乗り込む。
 そして路肩に停めてあった車が発進したところでようやく、年下の幼馴染にいつもの少しだけシニカルな笑みを向けた。

「随分いいタイミングで来たな」
「3日の時に、7日に戻ると言っていたでしょう? で、寝起きの悪いあなたなら、出るのはせいぜいこれくらいの時刻かなと。意外なくらい大当たりでしたね」
「そうだな。あと十分も遅ければ電車に乗っておっただろうよ。そうしたら、本は宅急便で送ってもらうしかなかった」
「ああ、やっぱりあの箱の中身は本ですか。重そうだったから、多分そうだろうとは思いましたけど」
「久しぶりに家に帰って本棚を見たら、読み返したい本や手元にあった方がいい本が結構あってのう。後から送ってもらおうと思って昨夜、詰め込んだのだ」
「僕もですよ。トランクにあったでしょう?」
「ああ」

 そういえば色々積んであった、とうなずく。
 それでもきちんと太公望の荷物が載る分のスペースを空けてあるあたりが、小憎らしいと思ったのだが、敢えてそれは表情に出さずに、太公望はダッシュボードのあたりを見やった。

「普段は特に要らぬのに何故、車で戻るのかと思ったが……」
「荷物を運びたかったというのもありますけど、これも一応、手元にあった方が便利なものなので。マンションの駐車場も、ちゃんと契約してあるんですよ。ずっと空きっぱなしでしたけど」
「ほう」
「あなたは車は使わないんですか? 免許は取ったでしょう?」
「自分で運転するのは面倒だよ。出かける時は電車の方が楽だ」
「僕は車の方が楽ですけどねぇ」
「渋滞が嫌いなのだ。苛々するし、どんなに眠くなっても寝るわけにはいかんし……」
「そういう時は、どこか店に入って時間を潰すか、車を停めて一眠りするかすればいいんですよ」
「そんなくらいなら、さっさと電車で帰って寝るわい」
「……ま、それも正しいですけどね」

 言いながら、楊ゼンはなめらかにシフトチェンジして加速する。
 車を運転することそのものが好きらしい彼の愛車は、オートマティック車ではなくマニュアルミッションのスポーツカーだ。
 太公望も人のことを言えた義理ではないが、好き嫌いのはっきりしている楊ゼンは、好きなものにはとことんこだわりを見せる。
 主流のオートマを選ばず、流行のワゴンや4WDを好まない、また普通は標準装備のナビゲーションシステムやABS(オートブレーキングシステム)を無駄なものとして装備から外してしまう、時流を無視した彼の愛車に対するこだわりは、車に興味のない太公望にとっては無意味なものだったが、嫌いではなかった。


 しばらくの間、太公望は黙って流れてゆく景色を見送る。
 楊ゼンの実家から太公望の実家までは、道路が混んでいなければ約40分、大学は都心の向こう側だから、どんなに順調に行っても1時間以上。
 ご苦労なことだな、と太公望は胸の内でひとりごちる。
 勝手に予定を聞き出して、勝手に迎えに来たのだから、そのあたりのことを妙にありがたがったりすまながったりする気はなかった。
 だからといって逆に、馬鹿なことだとけなすつもりもなかったが。
 言ってみれば、都合よく来た乗合タクシーに荷物を抱えて乗ったようなものだ。
 楽なのはありがたいと、単純に思う。


「少し混んでますから、眠くなったら寝ちゃっていいですよ」
「今日は仕事始めだからのう。まぁ多少の渋滞は仕方がないよ」
「ええ。午前中ならもう少しすいてたんでしょうけど」
「わしのせいではないぞ」
「誰もそんなこと言ってませんって。先手を打つということは、何かやましい部分でもあるんですか?」
「おぬしじゃあるまいし。たかが送迎タクシーになったくらいで、いい気になろうとしても無駄だぞ」
「………もしかして、先日のこと怒ってます?」
「怒っておったらどうする?」

 先日のことというのは勿論、4日前、太公望の実家に遊びに来た楊ゼンが泊まりついでに、寄るな触るなと念を押した太公望を結果的に篭絡してしまった一件のことである。
 太公望が目覚める前に、さっさと楊ゼンは帰宅してしまったのだが、あっさりしているようで時々、妙に根に持つ太公望の性格を熟知している分、ちょっぴりまずいことをしたかな程度の意識はあったらしい。

「別にどうもしませんけど。あなたが怒るというのなら、それはそれで珍しくて面白い気もしますし」
「───そう言われると、無性に無理難題でも吹っかけたくなるのう」
「いいですよ。何でもどうぞ?」
「では、火ネズミの皮衣を持って来い」
「最高級のミンクファーのコートじゃ駄目ですか?」
「五色に光る竜の珠でも良いぞ」
「大粒ダイヤのエンゲージリングでどうです? 3カラットくらい……ああ、でもあなたの指は細いから、石が大きすぎると似合わないかな」
「ツバメの子安貝」
「プレゼントしたら、本当に結婚して下さるんですか?」
「いいや、もらうだけもらって月に帰る」
「それじゃ結婚詐欺ですよ」
「かぐや姫は、結婚詐欺師ではなかったのか?」
「少なくとも、あなたには立派な詐欺師の素養がありますけど?」

 小さな笑い声が車内に響き合う。
 こういう他愛もない会話は、楽しい。
 ほとんど流れが止まってしまった渋滞でさえ、悪くないと思える程度には。

「───疲れぬのか?」
「はい?」
「左足。クラッチ踏みっぱなしだろう?」
「ああ……」

 スポーツカーは概して、ファミリーカーよりもアクセルだのブレーキだののフットペダルが重い。
 ましてや、この車はマニュアルミッションだ。
 ギアチェンジするたび、発進や停車をするたびに、重いクラッチを踏みつけなければならない。
 こんな風にノロノロの渋滞ともなれば、ごく短い停車時間にギアをニュートラルに入れ、休む以外、常にクラッチに足を置いていることになる。
 考えるだけで、左足が筋肉痛を起こしそうだった。

「別にどうということはないですけどね。まぁ、女性とか筋力のない人には辛いかもしれませんけど」
「オートマにすればいいのに」
「嫌ですよ。確かに、昔に比べれば性能が良くなってきてるみたいですけど、動かしているという実感がありませんから。タコメーター(回転計)もついてませんしね。面白くないですよ」
「野蛮人」
「何とでも。誰に何と言われようと、主義は曲げません」

 予想通りの返答に、ふん、と頬杖をついて、窓の外を眺める。
 昼頃までは晴れていたはずの空が、今は少し曇っている。一体いつの間に雲が出てきたのか、太公望は己の記憶を探るが、はっきりとした答えは見つからなかった。
 ふと、楊ゼンがシフトレバーに置いていた左手を伸ばして、カーステレオをONにする。
 スピーカーから抑えた音量で流れてきたのは、アルトサックスの音だった。

「ジャズ?」
「ええ。耳障りだと思ったら止めて下さい」

 自由自在に変化する旋律に、しばらくの間、耳を傾ける。
 どちらかといえばテンポはゆっくりめで、メロディーにもいかにもジャズっぽい癖はない。
 ひかえめなピアノの音だけをバックに、高らかにアルトサックスが歌っている。

「眠くならぬか?」
「渋滞で苛々するよりいいでしょう? 好きな音楽なら眠くはなりませんよ」
「ふぅん」

 曖昧に応じて、頬杖をついたまま、豊かなメロディーが流れるのに身を任せる。
 考えてみれば、どんな音楽を普段聞いているのかということを知ったのは、これが初めてだった。
 互いの部屋を行き来していても、オーディオからどんな音楽が流れているか気にしたことはないし、CDラックに並んでいるタイトルをきちんと見たこともない。
 そしてそれは、彼の方も同じに違いないのだ。

 年月だけは経っているのに、自分たちは相手のことを何も知らない。知りたいと思ったことさえない。
 目の前にある現実や現象。
 それだけが必要十分なもので、見えない部分などどうでも良いのだ。

 何が好きで、何が嫌いで。
 何が嬉しくて、何が辛いのか。

 そんなことを知ることに何の意味もない。



 信号が青に変わる。
 少しだけ──ほんの20メートルほど車が動いて、また停まり、そのうちにまた信号が変わって。
 いくつも続く車体の向こう、わずかに目線を上げた位置に。
 曇った街と空の浅い灰色に、赤い光が映える。

「──そういえば……」

 前方の赤信号を見つめたまま、楊ゼンが口を開く。
 右手は軽くハンドルに添えたまま、左手はシフトレバーの上で、アルトサックスの旋律に合わせてごく小さく、途切れ途切れに人差し指がタップしている。

「聞くのを忘れてましたけど、来年、卒業したらどうするんです?」

 何でもないことのように。
 紡がれた問いかけに、一つまばたきをする。

「──聞いてどうする?」
「そりゃ、あなたが日本からいなくなるようなら、僕も考えなきゃいけませんから」
「どうして、おぬしが?」
「だって女性はどこにでもいますけど、あなたは一人だけですからね。あなたを抱きたくなるたびに国際線に乗るのは、いくらなんでも効率が悪いでしょう?」
「それをやったら間違いなくキング・オブ・馬鹿だな」
「ええ。それでもあなたは、僕が押しかけていったら相手をしてくれるとは思ってるんですけどね」
「……ベッドが空いていればな」
「空けといて下さいよ。前もって連絡はしませんけど。これから行くと言ったりしたら、即座にあなたは行方をくらますでしょうから」
「当然」

 表情も変えずにうなずく。

『約束をしない』

 すべてが偶然であり、気まぐれの結果であるように。
 そう演出するのが、いつの頃からか2人の間の不文律としてある。
 何故、端から見ればそんな奇妙なことを、ごく自然に続けてきたのか。
 その答えは、多分、どちらも知っているだろう。
 口に出さず、認識さえする気がなくても。

「で、どうなんです? 留学する気はあるんでしょう?」
「………ないとは言わん。が、聞くだけ無駄だぞ」
「どうしてです?」
「────」

 渋滞は、本当に都心部だけだったのだろう。
 ノロノロと数キロを進んだところで、ようやく脇道へ逸れ、更に幾つかの交差点を越えて右折した途端、目の前が開けて車はスムーズに走り出す。
 これまでの道筋にも、バイパスとおぼしき脇道に何台もの車が渋滞を抜け出ていったが、本線が渋滞していればバイパスとて混むものだ。
 それを考慮した上で、楊ゼンは30分ばかりの間、敢えて渋滞に耐える道を選んだのだろう。
 こういう変則的な経路の選び方は、実のところ、ナビゲーションシステムにはできない。
 道路地図があれば十分、と言い切る彼は、どうやら実走行によって都内の道のほとんどを覚えているらしい。

「……別に、おぬしが追ってこようがどうしようが、それはおぬしの勝手だがな。たとえ留学するにせよ、わしがそこにいつまでいられると思う?」
「───ああ、なるほど」

 楊ゼンとて馬鹿ではない。
 一を聞いて十を察することのできる彼は、それだけで太公望の言いたいことを理解したようだった。

「そもそもが、留学は条件付きということですか」
「そういうことだ」
「元始会長は今、お幾つでしたっけ? 七十……」
「七十六歳。やたらと丈夫なジジィだが、年を考えればいつ倒れてもおかしくないよ」
「何かあれば、即座に帰国して会長就任ですか」
「それ以前に、今の大学の卒業まで無病息災でいてくれるかどうかが問題だろう?」
「大丈夫そうな気はしますけど……厳しい条件ですねぇ」
「うむ」
「あなたと同時に留学したとしても、僕だけ取り残されたら意味がないし……」

 どうしようかな、と呟く年下の青年に、太公望はほんのりと呆れを感じる。

「おぬし、下半身のために大学を休学するつもりだったのか?」
「大事な問題ですよ。人類の繁栄には繋がりませんけど」

 賢い遊び人は、避妊と病気予防をおこたらない。
 確かに天下の金鰲グループ次期会長が、そこいら中に種をばら撒いていたら、かなりの問題となるには違いなく、面倒事を嫌う彼は、その辺りは十分に気を配っているようだった。
 というより、そもそも将来的に自分の子供を持ちたがってさえいないように太公望の目には見える。
 そういう気分は、分からないものでもなかった。

 根本的にどこかが捻じ曲がっているのだ。
 どちらも、それぞれの形で。

 人として一番大切な部分が。


「あなたが再来年、留学するのなら本当に僕も休学しようかと思ってたんですけどね。この分だと考え直した方が良さそうだなぁ」
「心の底から頼むから、考え直してくれ。小学校から延々続いて留学まで一緒だなんて、わしは死んでも御免だぞ」
「でしょうねぇ。でも、僕の留学は、ほぼ既定の路線なんですよ。だから、どうせならあなたと同じとこが便利だとは思ったんですが」
「下半身の始末がか」
「他に何があります?」
「………あっさり肯定されるのもムカつくんだがのう」
「だったら他の理由を挙げて下さいよ」
「そんなものがどこにある?」
「でしょう?」

 応じながら、楊ゼンはクラッチを踏み込んでギアシフトをトップからセカンドに落とし、軽くブレーキを踏みながら、ハンドルを切って交差点を左折する。
 同時に、右足をアクセルに踏み変えて、ゆるく加速しながらギアシフトをセカンドからサードに切り替え、ハンドルを直して車体をまっすぐに立て直す。
 意識することなく、ほとんど感覚のみで行っているらしい一連の動作は流れるようで、わずかな無駄もなかった。
 おそらく同乗者がいない時は、もっと加速した状態でコーナーを曲がっているのだろうと余裕のある操作に思いながら、太公望は流れては消える風景を目で追う。

「でも、あなたの方の事情がそうならどうしようもないですしね。大人しく異国の空に旅立つあなたを見送って、その気になった時に押しかけていくことにしますよ」
「………それはおぬしの勝手だが、今のように付き合っている相手と別れるたびに来るのはよしておけよ」
「多い時は3日おきになっちゃいますからね」

 笑い話にならないようなことを笑って、楊ゼンは赤信号に車を停める。
 ここまで来れば、太公望の現在の住居であるマンションまではすぐだ。
 立ち並ぶビルの陰に、ちらりとその姿が見える。

「月に一度くらいなら、お互い負担にはならないでしょう?」
「……その程度ならな」
「今更、最初の頃のペースに戻すのはどうかという気もしますけど、それくらいなら僕も我慢できるでしょうから」
「そういえば、秋口の謹慎も1ヶ月だったのう」
「ええ。女性も抱かないとなったら、それくらいが限度ですよ」

 普通に遊んでる分には、そこまでのことにはなりませんが、と言っているうちに、車は通りから1本入ったところにあるマンションの前に横付けされる。
 エンジンを止めた途端、それまで流れ続けていたアルトサックスの音も立ち消え、不意に訪れた静寂に、物足りなさとも物寂しさともつかない心地を感じながら、二人は車を降りた。
 トランクを開け、まずバックパックを太公望に渡した後、当たり前のように楊ゼンは太公望の荷物である段ボール箱を取り出す。
 結構な重量のあるそれを苦もなく片手で抱えて、空いた方の手でトランクを閉めてから、太公望を振り返った。

「部屋の鍵は?」
「あるよ」

 普段愛用しているバックパックのポケットを探って、太公望はキーホルダーの付いた鍵を取り出す。
 ちゃり、と金属が乾いた音を立てた。
 そのままマンションの玄関に向かった2人はロックに暗証番号を打ち込み、エントランスにあるエレベーターに乗り込む。
 仮にも崑崙グループの御曹司なのだから、望めば億ションとて簡単に購入できるだろうに、太公望は大学に近いという理由だけで、かろうじて高級マンションに分類できるレベルのここに暮らしている。
 部屋が2LDKと広くないのも、片付けるのが面倒だからだ。
 掃除婦を雇えばいいと祖父などは言うが、せっかくの自分の城に他人を踏み込ませるのは御免である。
 国内有数の資産家に生まれついてしまったせいか、かえって物欲の薄い太公望には広い部屋は無用の長物だった。

 9階でドアを開いたエレベーターから降り、5つ目の部屋の前で立ち止まる。
 鍵を開けた太公望に続いて、楊ゼンも中に入った。

「この荷物はどうします?」
「そっちの部屋に置いといてくれ」

 玄関を入ってすぐ右側にあるドアを楊ゼンが開けると、室内には大きな本棚とデスクトップタイプのパソコンを置いた大きなデスクが、どんと居座っている。
 デスク上や床の上に無造作に本が積み上げてあるのが、いかにも太公望の部屋らしかった。
 床の空きスペースに段ボール箱を下ろして、楊ゼンは奥のリビングへと向かう。

「コーヒーくらいは飲むだろう?」
「ええ。それくらいの時間なら、駐禁切符は切られないでしょうから」

 楊ゼンの現在の住居であるマンションは、ここから少し離れた高級住宅街にある。
 どちらかというと貴族的な嗜好が強い彼は、通学の便よりも生活の快適さの方を選んだのだ。
 とはいえ、やはり他人をプライバシーに立ち入らせることを嫌う性質であるため、若い男が一人でどうにかできる空間の限界として、3LDKの広さでしかない。ただ、間取りが広く、天井も高いために狭いという印象は微塵も感じさせない部屋である。

 彼がいる時にキッチンに立つのは、一体いつ以来だろうと思いながら、太公望は年末に買い求めたばかりのコーヒーの封を切って、2杯分をドリッパーに入れる。
 普段、一人でいる時は自分ですべて茶の用意をしているのだから、これくらいは何でもない。
 にもかかわらず、楊ゼンが毎回この部屋に来るたびにコーヒーを煎れるのは、彼が勝手に始めたことであり、止めさせる道理もないだけのことだった。

 数分の時間をかけて、深い色合いのコーヒーが2つのカップに注がれる。
 楊ゼンの分はそのまま、自分の分には実家の厨房から失敬してきたミルクと砂糖を加えて、太公望は楊ゼンがくつろいでいるリビングのソファーへと歩み寄る。

「ありがとうございます」

 楊ゼンが軽く礼を言い、カップを受け取ると、あとはただ沈黙だけが広がった。
 コーヒーを飲み干した後──あるいは飲み干す前に、どちらが先に口を開くのか。
 少しだけ太公望は考える。
 沈黙を破るのも、このまま保ち続けるのも、どちらも自由だ。
 自分自身にとっても、楊ゼンにとっても。
 許されるのはこの程度──ほんのささやかな気まぐれ程度の自由しかない。

 もっとも、自由を得ることが難しいわけではない。
 すべてを捨ててしまえばいいのだ。
 人々の非難を受けることを覚悟した上で、己に与えられているもの、背負わなければならないものすべてを捨てて、身一つで逃げ出してしまえば、後は己の才覚次第で好きなように生きることができる。
 肩書きも地位もなく、家族もなく、たった一人で。
 だが、そうまでしてしたいことがあるのかと問われたら、沈黙するしかない。
 その気になれば何でもできると思う反面、執着するものも何もないのだ。
 所詮、与えられた道を歩む人生が己には似合いなのだろうと、自嘲するでもなく冷めた心で思う。

 だから。

 ほんのささやかな自由の枠内で生じた行動には、一切意味を見出さないのだ。
 一秒先のことも考えはしない。
 何もかもが気まぐれ、偶然であるように。
 何一つ、想像も計算もしない。
 自分のことも、彼のことも。

 ただ、日が昇りまた沈むように。
 雨が降り、そして止むように。
 本能のみで生きる野生の獣のように、成り行きに身を任せる。
 それはおそらく、今傍にいる相手も同じなのだろうと思いながら。



 いつしか窓の向こうで霙まじりの雨が降り出していることに気付いても、どちらも黙ったままだった。
 意地を張っているのでも、相手の出方を待っているのでもなく。
 ただ静かに沈黙が降り積もる。

 やがて。
 コツ…と小さな音とともに楊ゼンが空になったカップをローテーブルに置き、その手でソファーの背に寄りかかるようにして立っていた太公望の肩を引き寄せる。
 どちらともなく瞳を伏せ、軽く唇を重ねるだけのキスをして。

 小さく二人は笑った。






end.










というわけで、ようやく終わりました年末年始企画・第4弾。
予定は大幅に遅れましたが、予告通りの太公望視点です。
が、彼はなかなか心理的に突っ込ませてくれなくて、どうにもこうにも淡々とした文章になってしまいました。まぁ、意味のない会話主体のやりとりは彼ららしくていいかなとも思うんですけど。
でも、「無理難題」と書いた途端にかぐや姫が浮かんだ辺り、文章そのものは調子がよかったようで、比較的すんなりと書けた感じです。

余談ですが、楊ゼンの愛車は今年5月発売予定の日産・フェアレディZ。色はシルバーです。この車は写真だとイマイチなのですが、実物は素晴らしく美しいので、興味のある方は5月を過ぎたら日産のショールームに走って下さい。
ジャズについては、このシリーズの楊ゼンが聞いていそうな音楽は他に思いつかなかっただけの話で、私自身が詳しいわけではありません。アルトサックスの音は好きですけどね。

では、年末年始どころか完結に約1ヶ月かかりました企画もこれで終わりです。
シリーズそのものはまだ続くので、気長に続編を待っていて下されば、そのうちまた何か出るでしょう。
では、ここまで読んで下さってありがとうございました。m(_ _)m





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