Silent Christmas








 神様を信じない。












 玄関のチャイムが鳴る。
 どうしてこうも毎年、同じ時刻なのかと感心しながら、雑誌をテーブルに放り出し、ソファーから立ち上がって玄関に向かう。
 お互い、合鍵などという洒落たものは持っていないし、携帯のナンバーを知っていても、この相手にかけるということはしないから、直接部屋に出向いて、鍵を開けてもらえなければ帰るしかない。実に原始的でシンプルだ。
 たまには締め出してやろうかとも思いつつ、ロックを外してドアを開ける。

「こんにちは」
「……やっぱり来たのか」

 極上の笑みを向けてくる相手に、ひとつ溜息をついて、迎え入れる。

 ───これが、自分たちの今日のための儀式だった。








「大分、冷え込んできましたよ。さすがに雪は降りそうにないですけど」
「ふぅん」
 コートを脱ぎながらの楊ゼンの言葉を、太公望は半ば聞き流す。
 どんなに外が寒かろうと部屋の中にいれば関係ないし、それよりも彼が両手いっぱいに持参してきた手土産の方に興味が向いてしまっているのである。
「よくも毎年、これだけ極上のやつばかり持ってくるのう」
「そりゃ当然でしょう。あなたと飲むんですから」
「別にわしは、酒なら何でも構わんのだがな」
「知ってますけど、だからといって、いくらなんでも今日、コンビニでカップ大関を買ってくるわけにはいきませんよ」
「まぁのう」
 太公望の口調はそっけないものの、口元には小さく笑みが浮かんでいる。
 子供のように瞳をきらめかせながら、極上のシャンパンのラベルに見入っているのを、楊ゼンは微笑しつつ見つめた。

 やがて、シャンパンの品定めに満足したのか、続いて太公望は他の手土産の方に手を伸ばす。
 ローテーブルの真ん中に置かれた綺麗な箱を丁寧に開いて、中を覗き込んだ途端、今度は本当に嬉しげな満面の笑みになった。
「綺麗でしょう?」
「うむ」
 繊細なデコレーションを施されたケーキを見つめたまま、太公望は素直にうなずく。
 そうして、元通りに箱を閉じてから、小さく笑った。

「何です?」
「いや、キリストなどどうでも良いが、美味いものを食べる口実になるのなら、クリスマスも悪いものではないと思ってな」
「……去年も一昨年も、同じこと言ってませんでしたっけ」
 無神論者の太公望らしい言葉の揚げ足を取りつつ、楊ゼンも笑う。
「確かにね、街中が浮かれてますし、それを単純に嬉しがるほど子供じゃありませんけど、僕もクリスマスは嫌いじゃありませんよ。なにせ、あなたに会いに来る口実になる」
「………おぬしの無神論ぶりも、相当なものだのう」
「あなたの幼馴染ですから」
「人に責任を転嫁するな」
 いつもと同じシニカルな口調で言いながらも、太公望の機嫌のいい表情は崩れない。
 暖かな部屋の中で、美味しそうな食べ物に囲まれていれば、人間、なかなか仏頂面にはなれないものである。
 食い意地の張っている人間なら、尚更であった。






「街の人出はすごかったですよ。シャンパンやターキーを買った輸入食品コーナーも、ケーキを買ったティフィンも、カップルだらけでした」
 一体どこからあんなに出てくるんでしょうね、と言いながら、楊ゼンは勝手知ったるキッチンでコーヒーとカフェオレを入れる。
 二人きりでいる時は、何故か茶の類を入れるのはすべて楊ゼンの役割だった。
 そして、ここのキッチンは、冷蔵庫の中身はほとんど空のくせに、何故かコーヒー豆と茶葉だけは極上のものが各種揃っている。
 そのいい加減さがどのあたりから出てくるのか不明だったが、偏った生活感を持つキッチンは、この部屋の住人には似合っていた。
「さぞ注目を浴びただろう? おぬしが、その中で一人で買い物をしておれば」
 面白がるような口調で問いかけつつ、ソファーに腰を下ろしたまま、太公望はマグカップを受け取る。
「カップルにはいい迷惑だ」
 ちゃんと甘くしてある熱いカフェオレをすすりながら、くすくすと笑う。
 普段クールで、楊ゼンに対してはとりわけシニカルな太公望にしては珍しく、今日は笑みが絶えない。
 クリスマスの奇跡というより、単に冷蔵庫の中に美味い物が詰まっている状態が嬉しいだけなのだとは分かっていたが、それでも楊ゼンは悪い気はしなかった。

「まぁ、そうでしょうね。僕なんか目に入ってないカップルもないではなかったですけど、8割方の男は苛々した顔を恋人の手前、必死に押し隠してましたよ」
 ブラックコーヒーのカップを手にしたまま、楊ゼンも太公望の隣りに腰を下ろして、香り高いセピア色の飲み物に口をつける。
「で、面白がってついつい流し目を送るわけか」
「いくら僕でもそこまではしません。まっとうに恋愛している女の子を悪い遊びに誘う趣味はないですからね」
「ほう、それは結構な心がけだのう」
「所詮、僕は遊び人ですから。分はわきまえてますよ」

 稀代の女たらし、と称される楊ゼンではあるが、それでも女性と遊ぶ時にはいくつかの約束事を自分に課している。
 自分からは誘いをかけないこと、あくまでも遊びと割り切れる女性しか相手にしないこと、どんな相手でも特別扱いしないこと、プレゼントは絶対に受け取らないことなどだ。
 女性は好きだが、けれど一時とはいえ、自分を遊び相手に選んでくれた相手を傷つけて面白がる趣味はないし、また逆に勘違いされるのも困る。
 この先、半永久的に定まった恋人など作る気がない以上、これらの事項は今後も放蕩生活を続けるためには必須なのだった。

「僕みたいな男はね、クリスマスだのバレンタインだのには大人しくしているに限るんです。こういう日にデートすると、女性は勘違いしますから。完全に割り切っているはずの相手でもね」
「たった一晩のことなのにな」
「不思議ですけどね。でも絶対に駄目なんですよ」
「……で、それと、わしのところに来るのとどういう関係がある」
「他に、こういう日を一緒に過ごせる相手がいませんから」
「たまには、大人しく膝を抱えて寝ていようとか、そういう気にはならぬのか?」
「秋口の謹慎で、それはもう飽きました」
「………本当に頼りない忍耐しか持ち合わせとらんな、おぬしは」
「代わりにテクニックと持久力があるからいいじゃないですか」
「たわけ」
 少々下世話な台詞に肩をすくめる太公望に、楊ゼンは笑う。

「でも、そう言いつつも悪い気はしてないでしょう?」
「──どうしてそう思う」
「だって、あなた、今日はずっと機嫌がいいままですよ」
 言いながら、軽く触れるだけのキスをすると。
「……確かに、な」
 大きな瞳が、面白げにまばたきをした。
「約束もしてないのに、毎年せっせと美味いエサを運んできてくれるのには感謝しておるよ」
「──どうせ感謝するなら、言葉より態度で表してもらえる方が嬉しいんですけど?」
 至近距離から瞳を覗き込み、誘いかけるように軽く首を傾けた楊ゼンに、太公望の瞳が更に悪戯な光を浮かべる。
「まだ夕方前だぞ?」
「そんなこと気にするあなたじゃないでしょう?」
 もちろん僕も、と続いた言葉に。
 今度こそ太公望は小さく笑った。
 それから、左手に持っていたマグカップをローテーブルに置き、ゆっくりと両腕を楊ゼンの首筋に回す。
 そのまま、瞳を見つめながら軽く唇を触れ合わせ、微笑した。
「……クリスマスだしな。たまには甘やかしてやるよ」
「キリスト教って同性は御法度じゃなかったですか?」
「神罰を恐れるくらいなら、わしのところに来るな」
「死んだ後のことなんてどうでもいいですよ。天国に行こうと地獄に落ちようと、生きている僕には関係ない。あなたに触れられないことの方が、よほど問題です」
 くすくすと笑い合いながら、二人はキスを繰り返す。
 そして、ゆっくりと楊ゼンは太公望をソファーに押し倒した。






          *          *






 パタン、とドアが開閉する音が響いて、楊ゼンはそちらへとまなざしを向ける。
「大丈夫ですか?」
 パジャマの上だけを着たまま、フローリングの床をぺたぺたとソファーへ移動する太公望のけだるげな歩調に微苦笑して、キッチンから声をかける。
 と、
「だるい」
 即座に、やや不機嫌な返事がかえった。
「昼間からがっつきおって……」
「充分に加減したでしょう? どっちかというと物足りなさそうでしたよ、あなたも」
「うるさい」
 ふん、と太公望はソファーに身体を投げ出したまま、そっぽを向く。

 男でも女でも、快楽に泣くほどによがらされてしまうと、終わった後しばらくは身体が言うことを利かなくなる。
 いわゆる腰くだけの状態になって、どうにもこうにも力が入らないのだ。
 その後、しばらくして動けるようになっても、全身の微妙な倦怠感はなかなか消えない。
 そして楊ゼンと太公望の場合、たとえ時間にすれば短い情事であっても、互いのツボを心得ている以上、腰くだけになるのに必要十分な快楽を得ることは簡単なのである。

「でも、もう終わってから1時間近く経ってるんですから、そろそろ大丈夫でしょう?」
 言いながら、自分が買ってきた極上の生ハムだのチーズだのをオードブル風に盛り付けた皿を手に楊ゼンがソファーに歩み寄ってくる。
 皿をローテーブルに置いて、楊ゼンは太公望の髪に手を伸ばした。
 目元までかかる長めの前髪を、さらりとかき上げる。

「どうせ寝るなら、全部食べてから寝て下さいよ。せっかく買ってきたのに食べてもらえなかったら、僕がかわいそうでしょう」
「……おぬしの傷心など知ったことではないが、確かに食い物に罪はない」
 憎まれ口をたたきながらも、髪を梳く楊ゼンの手を振り払いはしない。
 シャワーを浴びて一応は乾かされているものの、まだ湿り気の残った癖のない髪は、いつもよりもやわらかく楊ゼンの指から零れ落ちてゆく。
 そんな太公望に微笑して、楊ゼンは、あらわになった額に軽く口接けた。
「すぐにメインのターキーもできますから、もう少し待ってて下さい」
 その言葉に太公望は仏頂面のまま、うなずきもしない。
 が、だからといって美味を前に敵前逃亡できるような彼ではないことを知っていたから、楊ゼンもそれ以上は何も言わずに笑ってソファーを離れた。






 前菜類は冷たいまま、ターキーは注意書き通りにオーブンレンジで温められてからテーブルに並んだ。
 それに加えて、フルート型のシャンパングラスがそれぞれの手に取られる。
 照明の光を受けて淡い金色にきらめく極上の酒は、目にも楽しくて、太公望の表情にも笑みが戻る。
「本当に簡単ですよねぇ」
「………何が」
 乾杯の意をこめて、触れ合ったクリスタルガラスが高く澄んだ音を立てるのを聞きながら、太公望は半ば予想がついていることを問いかける。
「あなたの御機嫌取り。美味しい料理と美味しいお酒。このキーワードを知ってる限り、あなたとの関係は安泰ですかね」
「わしがそんなに甘いと思うか?」
「甘いですよ、昔からあなたは」
 シャンパンを一口飲んでから、楊ゼンは微笑った。

「だから、時々計ってみたくなるんです。どこまで酷いことを言ったら、あなたは僕と縁を切るだろう、とかね」
「────」
 楊ゼンの言葉に、再び太公望の表情から笑みが消える。
 だが、先ほどよりも遥かに不機嫌な──冷ややかといってもいい表情にも楊ゼンは動じない。
「今もね、かなり気分を悪くしてるのに、それを僕にはぶつけないで自分の中で消化してしまうでしょう? そういうところが甘いんですよ」
「──わしに怒鳴られたいわけか?」
「どちらでも」
 いっそ優雅なほどに楊ゼンは微笑する。
「どっちでも同じことですから。許されるのも怒鳴られるのも。あなたが僕に対してする何かには違いないでしょう」
「…………」

 どんな形でも、互いが関わっているのなら──向き合う何かがあるのなら。
 それが何であろうと構わない。
 憎しみでも同情でも快楽でも。
 互いから互いへ流れるものがありさえすれば。

「──心配せんでも、わしの神経をここまで逆なでするのはおぬしだけだよ」
 諦めたように溜息をついて、太公望はこくりとシャンパンを飲み下す。
「僕にこれだけ挑発してやりたいと思わせるのも、あなただけですよ」
 楊ゼンもまた、低く笑う。
「あなたを見てると、どうも性質の悪い衝動が起きるみたいで……。つい、怒らせてみたくなるんですよね」
 これって、小学生が好きな子をいじめるのと同じですかね、と笑う楊ゼンに肩をすくめて、太公望は行儀悪く皿の上のターキーを摘んで口に放り込む。

 チキンよりも一際味の濃い、ワイルドな風味は豊穣な大地を感じさせて。
 どことなく野性の本能が蘇るような、隣りにいる存在を挑発したいような気分が湧き上がってくる。
 それは、もしかしたら今、彼が感じているものと同種の感覚ではないのかと。
 ふと、目の前に立ち込めていた霧が晴れるように気が付く。

「──闘争本能、か?」
「かもしれませんね」
 太公望の短い問いかけに、楊ゼンはくすりと笑った。
 手にしたシャンパングラスの中で、細かな気泡が金色の中をきらめきながら立ち上ってゆく。
「所詮、雄ですから。毎日、コンクリートのジャングルで安穏と暮らすのは退屈すぎて、ついあなたを構いたくなるのかもしれません」
 あなたの神経を逆なでするのが一番スリルがあるから、といつもと変わらぬ声で淡々と告げ、楊ゼンはグラスをテーブルに置いた。

「もう少し、他のところで退屈しのぎを見つけてくれると、わしが楽なんだがのう」
「それじゃ、あなたが退屈してしまうでしょう」
「退屈も悪くはない。何も変わらないのも、珍しくて面白かろうよ」
「でも、きっとすぐに飽きますよ。僕がいなかったら」
「ずいぶんと自惚れたことを言う」
「それくらいでなければ、あなたの相手はできません」

 ようやく小さな笑みを浮かべた太公望に、楊ゼンも微笑する。
 そのまま、どちらからともなく口接けて、触れるだけのキスをした。

「──今は、生存本能が優先だからな」
 性欲よりも食欲、と太公望は先回りして釘を刺す。
 それに少しだけ楊ゼンは惜しそうな顔をしたが、けれど、反論はせずに太公望から離れる。
 太公望を怒らせるのは虎の尾を踏みつけるような楽しいゲームだが、だからといって必要以上に機嫌を損ねたいわけではない。
 今日はこれが限度だった。
 引き際をわきまえて、グラスに新たなシャンパンを注ぐ楊ゼンに、太公望もいつもと変わらない様子でターキーをつまみ上げ、チーズとシャンパンの取り合わせに目を細める。


 装飾などまったくない、シンプルな細長いクリスタルグラスに注がれた金色の中で、細かな気泡がきらめきながら夢のようにはじける。


 他愛ない会話と共に、テーブルの上の高級惣菜が粗方消えて。
 淡い金色にきらめく最後の一口を唇に含んで、楊ゼンは太公望を抱き寄せる。
 細い身体は、いつもと同じように媚びるわけでもなく素直に応じ、ごく自然に唇が重なった。
 シャンパンの芳醇な香りを受け取り、飲み下す太公望の舌の動きを追い、楊ゼンはアルコールのせいでいつもより熱くなっている口腔に舌を深く侵入させる。
 翻弄されるのを待っているかのようなやわらかな舌を絡め取り、とりわけ過敏な上顎の裏を執拗なほどに舌先でなぶる。
 互いの背に腕を回し、追い追われるような戯れを何度も繰り返して、相手の熱を測って。
 最後に下唇を甘く噛んでから、ゆっくりと楊ゼンは唇を離した。
「───…」
 上がりかけた息を整えながら、太公望が目を開く。
 至近距離からまっすぐに見つめてくる、挑むような濡れた深い色に、楊ゼンはぞくりとしたものが背筋を駆け上がるのを感じた。

「──食後直ぐ、などというのは御免だからな?」
「分かってますよ」
 体内にわだかまり始めた衝動を敢えて押さえ付け、楊ゼンは微笑む。
 どうせなら、徹底的に焦らし長引かせた方が、後々得られるものは大きい。
 そう分かっているからこそ、甘やかにささやく。
「とりあえず今は、悪戯だけです」
「悪戯」
「ええ」
 答えと同時に、パジャマの裾から伸びるほっそりとした脚に手を触れる。
 素足をさらしていても寒くない程度に空調の設定温度は上げてあり、無防備な肌を膝から太腿へ撫で上げると、腕に抱いたままの体がかすかに反応した。

「食後の休憩は1時間くらいでどうです?」
 すべやかな肌の感触を楽しみながら問いかけると、深い色の瞳が軽く睨むように見上げてくる。
「──これを1時間?」
「ええ。いいでしょう?」
「────」

 不機嫌そうな顔をしたところで、沈黙も逃げない身体も同意の証し。
 そう判断して、細いうなじに唇を落とす。と、また小さく抱きしめた背筋が震えた。
「サービスしますよ。クリスマスですから」
「クリスチャンでもないのに、そんなこと理由になるか」
「あれ、さっきあなたも理由にしたでしょう」
「過去の話だ」
「3時間前が過去ですか」
「おぬしにとっては未来の出来事か?」
「……過去ですね」

 それみろ、と意地悪く笑う太公望が小憎らしくて、楊ゼンは抱いた背筋をするりと撫で上げる。
「───っ」
 途端に、太公望は息を詰めて身体をのけぞらせた。
「それだけ減らず口を叩けるなら、手加減の必要はありませんね」
「手…加減なんぞ、おぬしがしたことがあるか?」
「さっきはしましたよ。誰かさんが文句をつけるから」
「当たり前だろう……っ、飯の前に……」
「そうですよね。食事の前も後も嫌なんですよね、あなたは」

 だから、と手を止めて、楊ゼンは太公望の瞳を覗き込んで微笑む。

「1時間、悪戯だけなのはあなたのリクエストですから」
「自分の趣味の責任を、わしに押し付けるな!」
「あなたと僕の趣味が違うなんて、一度も聞いたことはありませんよ。……少なくとも、この問題に関しては」
「ど…こが……一致して……!」
 再び、作為を持って過敏な肌の上を動き始めた手に、抗議の言葉も途切れる。
 そして、これ以上無駄な憎まれ口を言わせないために、楊ゼンは薄い唇に噛み付くように口接けた。











「……そろそろかな」
 ちらりと、サイドボード上の時計の針を確認して、楊ゼンは布越しに弄んでいた胸の小さな尖りから手を引く。
 と、腕の中の太公望が恨めしげに眉をひそめながら、潤んだ瞳を開けて年下の青年を睨み上げた。
 普段は血の気の薄い頬が淡く上気し、乱れた呼吸を何とか抑えようとしているのは、下手な商売女よりもよほど色気があって。
「──まさか、2度目もここでと言うんじゃなかろうな?」
 問いかける声はかすれていて、思わず楊ゼンは微笑を誘われる。

 声が嗄れている原因は、嬌声を上げすぎたからではなく、その逆で、極力まで声を抑えようとして声帯に無理な圧迫がかかったせいだ。
 着衣をほとんど乱さないままのゆるやかな、しかし執拗な愛撫を長時間続けられても、熱の解放を求める声を一度も上げなかった精神力は賞賛ものだと楊ゼンは思う。
 女性にはまず有り得ない、彼のこういう意地っ張りなところが、一番動物的な本能をかき立てられるような感じがして好きだった。

「もちろんですよ。ソファーも悪くはありませんが、じっくり楽しむには向いてませんから」
 言うより行動が易し、と笑いかけながら華奢な躰を腕に抱き上げ、立ち上がる。
 途端、肌にパジャマの布地が触れる感覚が辛いのか、太公望は顔をしかめて、楊ゼンの胸に顔を伏せるようにきつく目を閉じた。
 あらわになったうなじの、つけたばかりの薄紅の跡にもう一度口接けながら、寝室へ続くドアを開け、居間の照明とカーテンが開けられたままの窓が作る薄明かりの中、綺麗にメイクされたベッドの毛布を剥ぎ取って、華奢な躰を下ろす。
 スプリングのきいたベッドの上に横たえられて、ようやく安堵したように太公望は小さく息をついた。

「さて、どうしましょう?」
 寝室のドアを閉めて、ベッドに上がりながら楊ゼンは悪戯っぽく問いかける。
 と、即座に太公望のきついまなざしが返った。
「おぬしは、いちいち聞かねば動けぬほどガキなのか?」
「そうじゃないつもりですけどね。でも、セックスは一人でするものじゃありませんから、あなたの希望も聞かないと」
「……この期に及んで、一体どう答えろというのだ?」
「そりゃ色々あるでしょう。手順でも体位でも」
「────」
 呆れきった険悪な表情で睨み上げる太公望を見下ろし、楊ゼンは首をかしげる。
 その広い肩から、さらさらとほどいたままの長い髪が零れ落ちた。
「答えていただけないと、先に進みようがないんですが?」
「───…」
 実に嫌そうに溜息をつきながら、太公望は気だるげに手を上げ、楊ゼンのシャツのボタンに手をかけた。

 プラスチックの模造品ではない本物の貝ボタンを外すでもなく右手の指先でいじりながら、空いている方の左手の指を楊ゼンの目元から顎へ、更に首筋へと這わせてゆき、鎖骨の上で遊ばせる。
 さりげない動きではあるが、細い指先には男を煽るだけの情感が込められていて。

「わしは、このまま眠っても一向に構わんが?」
「本当に?」
「もちろん」
 素っ気なく答える太公望に微笑して、楊ゼンは彼がしたのと同じように、まっすぐに見上げてくる目元から首筋、そして鎖骨へと指を滑らせる。
 更にそこで手を止めずに、パジャマの布地越しに指を這わせて胸元にたどり着く。
「───っ」
 硬くしこったままの小さな尖りを指先で転がすと、太公望の躰が小さく跳ねた。
「──こんな状態で眠れるんですか?」
「放…っておけば、そのうち……収まる」

 確かに、それは事実だった。
 太公望は滅多に楊ゼンを拒絶しないし、こうして誘うような仕草をすることもあるが、基本的には淡白なのである。性欲より食欲睡眠欲の方が遥かに凌駕する性格上、興奮が収まらずに眠れないということは、まずない。

 溜息をついて、楊ゼンは太公望の細い首筋に口接けを落とす。
「──いいですよ。僕の負けです」
 これで眠られたら馬鹿もいいとこだと、ぼやきまじりに薄い肌を唇でまさぐりながら、パジャマのボタンをはずしてゆく。
「負けてしまったものは仕方ないですから、せいぜい勝利者に御奉仕させていただきますよ」
「どうせなら眠らせて欲しいんだがのう」
「そういう台詞は、僕のシャツのボタンから手を離してから言って下さい」
「ふぅん?」
 鼻で笑うようなそぶりをしながらも、太公望の細い指は貝ボタンを一つずつ外し始める。が、楊ゼンの唇が、胸元付近まで降りていった時だけ、よどみのない動きが一瞬静止した。

「期待してます?」
「何が」
 太公望の手が止まったことに即座に気付いて、楊ゼンは含み笑いながら敢えて胸骨の間の浅い窪みに唇を落とす。
「だって、すごく美味しそうですよ」
 楊ゼンの指先が、白い胸元の飾りの周囲をなぞる。
 その中心は紅く染まり、まるで食べられることを待っている小さな果実のようで。
「────」
 肝心のところに触れそうで触れない愛撫に、太公望は吐息だけで小さく笑って、最後の貝ボタンを外した。
 そして、楊ゼンが太公望に覆い被さる格好になっているために、布の重みで自然にはだけられた青年の胸に、指先を触れる。
 肌の上に指先で落書きをするような、でたらめな動きはまるで小さな子供の遊びのようなのに、楊ゼンを見上げる瞳は微妙な笑みを浮かべていて。
 するりと細い手が、青年の引き締まった脇腹にすべる。

 互いの肌に悪戯をしながら、2人の視線が交錯する。

「いいんですか? 煽ったりなんかして……」
「わしは遊んでおるだけだが?」
 あくまでもとぼけた答えしか返さない太公望に、楊ゼンが艶やかに微笑む。
「とっくに限界のくせに」
「──っ!」
 言葉と同時に、脚の間を楊ゼンの膝頭に軽く刺激されて、シーツに横たわった躰がびくりとのけぞる。
 が、太公望はきつく眉をひそめて、その感覚をやり過ごし、もう一度悪戯な微笑を刻んだ濡れた瞳で楊ゼンを見上げた。
「だから……だよ」
「?」
「おぬしにも多少は悪戯してやらねば、割に合わんだろうが」
「──それって、御自分を追い込んでるだけの気がするんですけど」

 一瞬、心の底から呆れて。
 けれど、次の瞬間には、あまりにもこの人らしくて楊ゼンは笑った。

「やっぱり最高だなぁ、あなたは」
 笑いながら、華奢な躰を抱きしめる。
 と、それを幸いとばかりに、すかさず太公望の指が楊ゼンの背骨をたどり出す。
 お返しに、胸の小さな果実を押しつぶすようにして愛撫すると、押し殺した喘ぎが太公望の唇から零れた。

「徹底的に泣かせてあげますよ」
「おぬし…如きが?」
「偉そうな口を利くのは止めといた方が良いですよ。前戯込みのたった1時間で腰くだけになってたくせに」
「そ…れと……泣くのとは…別問題、だろう」
「一緒です。どうにかしてくれって泣きながらお願いしても、やめてあげませんから」
「大…層な自信……だな」
「ええ」

 快楽をこらえながらでも、憎まれ口をたたき続ける唇は放っておいて、いじられて更に紅と硬さを増した胸の尖りに口接ける。
 小さな果実に歯を立て、舌先で転がすと、組み敷いた躰が息を詰めてのけぞった。
 が、それは拒絶というよりもむしろ誘う仕草のようで。
 細いしなやかな腕が、胸元を愛撫する楊ゼンの頭部を抱え込むように抱き寄せる。

 そのまま2人は、誘い誘われて快楽の波間におぼれた。










「──っ…あ……んっ…」
 躰の奥深くまで楊ゼンを受け入れたまま、襲い来る快楽からなんとか意識を散らそうと、太公望が小さく首を振る。
 それを許さずに、楊ゼンは細い脚を抱え上げて、更に深く柔襞に己の欲望を呑み込ませた。
「ぁ……く…っ…」
 とろけきった内部をゆるゆると擦られて、たまりかねたように太公望が快楽をこらえる艶めいた表情で、楊ゼンを睨み上げる。
 だが、吐息は声にならず、擦れ合う部分から生まれる甘すぎる感覚に躰がのけぞり、楊ゼンの肩にきつく爪が立てられる。
 それは際限のない繰り返しで。
 切なげに眉をひそめ、快楽に溺れた甘い表情を見下ろしながら、大したものだな、と楊ゼンは頭の片隅で考える。

 既にベッドに場所を移してから、かなりの時間が過ぎている。
 楊ゼン自身、もう2度も太公望の中に熱を注ぎ込んでいるし、抱かれている太公望の方はといえば、何度達ったか数え切れない。
 けれど、意固地な彼はいまだに理性を手放すことも拒んで、焦らすような愛し方ばかりする男を睨みつけ、文句を言おうとするのだ。
 楊ゼンが技を尽くして与える快楽にはばまれて、もうずいぶん前からそれには失敗し続けているとはいえ、それでも諦めようとしない根性は賞賛ものだった。

「でもね……」
 螺旋を描くようにゆるやかに腰を動かしながら、胸元の小さな尖りの一方を爪弾くように指先で愛撫しながら、もう一方に口接けて歯先でごく軽く擦り立てる。
「───あっ…!」
 いじられ続けてどうしようもないほど過敏になった性感帯に与えられる刺激に、柔襞がびくびくと慄え、咥え込まされた熱塊をきつく締めつけた。
「そういう風に意地を張られるほど、泣かせたくなるって知ってます?」
 もっときつい刺激をねだるように揺れる細腰に含み笑いながら、楊ゼンはささやく。
 あなたが知らないわけはないけれど、と心の中で付け加えながら。
「本当にメチャクチャにしてやりたくなりますよ……」


 他の誰にも出来ないほど、ひどく泣かせて。
 他の誰にも出来ないほど、ひどく怒らせたい。

 そうしたところで何があるとも思わないけれど。
 この干からびた心には、他の何も響きはしないから。


「ねえ?」
 わずかに上体を起こして、焦れきって淫らにひくついている柔襞を鋭く抉る。
「っあ……!!」
 と、突然の激しい動きに、太公望は抑えきれなかった高い嬌声を上げた。
「……望」
 滅多に口にしない彼の名を呼び、狂喜するようにきつく絡み付いてくる内部を押し開くように何度も深く突き上げてやると、うわずってかすれた声がすすり泣きに変わり、とろけそうな甘さを帯びてきて。
「──ぁ…やぁ…っ、楊ゼン…っ」

 感極まった響きで名を呼ぶ、その声が。
 快楽中枢を灼きつくす。

「もっと……呼んで……」
 他の誰にも与えられない熱に溺れながら、ひたすらによく見知った躰をいとおしむ。
 強弱をつけながら、熱い蜜をあふれさせてよがり泣いているやわらかな肉襞を  己の欲望で慰め、白くすべやかな肌のいたるところに紅い跡を刻んで。
 どこまでも高みへ──あるいは底のない深みへと自身と相手を導いてゆく。
「──楊…ぜん…っ…」
 名を呼び、わずかに瞼を開けて見上げてくる深い色の瞳は。
 快楽に染まって揺れながらも、本当は何もかもを見透かしているようで。
「望……」
 己の空虚さを、ふと笑いたくなって、そんな自分を見られないように唇を重ねることで彼の瞳を閉ざさせる。

 深く舌を絡ませて、何度も何度も相手をむさぼり合う。
 楊ゼンは細腰を強く抱き寄せ、太公望は逞しい肩に赤い爪跡をつける。

 そのまま何もかもが溶け合って。

 最後に堕ちた処が、はるかな高みだったのか──あるいは果てのない深みだったのか。
 それはもう、どちらにも判別はつかなかった。





          *          *





「───ケーキ」
「は?」
 ぼそりと隣りから響いたかすれた声に、楊ゼンはとりあえず、手にしていた煙草を灰皿でもみ消す。
 そのわずかな時間に、彼が何を言いたいのか気付いた。
「……そういえば、食べ忘れてますね」
 ターキーとシャンパンメインの食事が終わるか終わらないかと同時に、前戯に突入したのである。当然、冷蔵庫の中に鎮座ましているデザートの存在にまでは、思考がたどり着くわけもなかった。
 だが、それは甘いものを好まない楊ゼンの場合であって、甘いものには目のない太公望までもがケーキの事を忘れていたということに、内心、楊ゼンは首をかしげる。
「……考えてみれば、今月は比較的長続きする相手ばかりだったから、ここに来たのは半月ぶりですもんね。あなたも結構飢えてたってことですか」
「おぬしと一緒にするな」
「じゃあ、どうしてケーキの存在を忘れたんです?」
「思い出す前に、おぬしが手を出してきたからだろうが」
 かすれた声で文句を言いながら、ひどくけだるげに太公望は寝返りを打って楊ゼンの方に向き直る。
 いつもと変わらない、不機嫌な光を浮かべて睨みつけてくる深い色の瞳に、楊ゼンは微笑した。

「正直に、ケーキより僕とのセックスの方が魅力的だったって認めたらどうですか?」
「そんなわけあるか。たわけ」
「説得力ないですよ。動けなくなるくらい楽しんだくせに」
「わしが動けんのは、おぬしのせいだろうが!」
「僕を煽ったのはそっちですよ。あなたが誘わなきゃ、もう少し手加減できましたって」
「おぬしの手加減は、手加減と名乗る方がおこがましいわ」
「そのくせ、手加減したら物足りなさそうにするくせに」
「しとらん!! 底無しのおぬしと一緒にするな!!」
「そりゃ確かに、僕は節操なしですけどね。あなただって人のことを言えた義理じゃないでしょう」

 ふん、とそっぽを向いた太公望を見つめつつ、楊ゼンは取り出した新しい煙草を少し迷った後、箱に戻した。
「まぁいいじゃないですか。今日は美味しいシャンパンと美味しいセックスを楽しんだんですから。明日は美味しいケーキを楽しめると思ったら、朝が待ち遠しくなるでしょう?」
「阿呆」
「冬場ですし、冷蔵庫に入れっぱなしなんですから、心配しなきゃならないほど味は落ちませんよ。きっと」
「おぬしの保障のどこが当てになる」
 言いつつも、さすがに疲れ切っているらしい太公望は、気だるげに目を閉じて毛布に顔を埋める。
 美味いケーキに未練はあっても、さすがに今から食べようという気にはなれないらしい。

 そんな彼に含み笑って、楊ゼンは手元の灰皿をサイドテーブルに戻し、自分もベッドに横になる。
 そして、直ぐそばにある太公望の髪に手を触れた。
「───明日、美味しい紅茶を入れてあげますから」
「……そんなものでごまかせると思うなよ」
「でも、ごまかされてくれるでしょう?」
 癖のない黒髪は、さらさらと指から零れ落ちてゆく。
「だってあなた、僕には甘いですから」
「……調子に乗るな、ダァホ」
 目を閉じたままの呆れたような声は、吐息交じりでひどく眠たげだった。
 それに気付いて、楊ゼンは太公望の髪をゆっくりと撫でる。
「───…」
 無言のまま、そっと撫で続けているうちに呼吸が寝息に変わって。
 太公望が完全に眠りに落ちたのを確認してから、楊ゼンはそっと羽根布団を彼の肩まで引き上げた。







「──汝、罪を犯した右手を切り捨てて天国の門をくぐれ、か」
 全能なる神は悔い改めない限り、罪人を認めない。
「ならば、人間のあなたは、一体どこまで僕を許してくれるんでしょうね……」

 呟いた言葉は、静かに聖なる夜の静寂に呑み込まれて消えた───。






end.










というわけで、年末年始企画の第1弾。
なのですが、これを書いている今現在、既にクリスマスイブは残すところ1時間ちょっと。
はたしてupが今日中に間に合うのかどうか、非常に怪しいです(T_T)

さて、相も変わらずの2人。
お互い、心に砂漠を抱えているのを知っていながら、互いに知らない顔をしている人たちなので、どこまでいっても平行線のまま。
けれど、このところ、楊ゼンがどうも太公望との距離感にこだわるそぶりを見せるので、クリスマスだというのに会話が殺伐としていてすみません。
あと、時間との戦いに負けてHもかなりぬるめとなりました。次が合ったらリベンジ狙いますので、見逃していただけると嬉しいです(T_T)





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