Angelic day








「ねぇ望ちゃん」
「ん?」
「いい加減、観念して楊ゼンと付き合い始めたって、本当?」

 ───爆弾は、いつもと同様、天使の微笑みと共に落とされた。








 何はさておき、とりあえず太公望は、ぶっちゃけてしまったプラスチック製の湯呑みを片付ける。中身の茶は既にほとんど飲んでしまった後で、実害らしい実害はなかったのがせめてもの救いだろうか。
 今日の最後の講義が始まってから約十分が過ぎたこの時間帯、学食の人口密度はかなりまばらになっているのも、喜ばしい状況には違いない。
「で、実のとこ、どうなの?」
「──おぬしの目には、わしとあれが付き合っておるように見えるのか。というより、そもそもわしが、あれと付き合うと思うのか?」
「全然」
 至極あっさりと、しかも極上の笑顔付きで答える友人に、太公望は心の底から溜息をついた。
「でも、この一ヵ月間、あの遊び人が一度も女の子連れてないんだよね。で、女の子の代わりに、街中で一緒に御飯食べてる望ちゃんが時々目撃されてるんだよ。疑われても仕方ないと思わない?」
「思わない」
 テーブルの上のポテトチップスに手を伸ばしながら、太公望は素っ気なく応じる。
 下手に受け答えすれば、この幼馴染の親友を面白がらせるばかりだということは、身に染みて分かっている。
 それはもう、とてつもなく深く。
「どうせおぬしは退屈しておるだけだろうから、今更、どうしてそんなことを訊くとは言わんが……」
「その言い方、失礼だよ。僕は純粋に望ちゃんのこと、気にかけてるのに」
「面白がっとるの間違いだろう」
 溜息まじりに、太公望は普賢に向き直った。
「──で?」
「で、って?」
 可愛らしく首を傾げつつ、普賢はにこにこ笑っている。
 太公望と同い年のはずなのに、その仕草がナチュラルにハマるあたりが、かなり怖い。
「……分かっておるくせにとぼける癖は、いい加減に治さぬか?」
「でも、これが僕のキャラクターだし」
「───…」
 これだから、と太公望は心の中で呟く。
 普賢は気心の知れた貴重な友人ではあるが、何ともかんとも扱いにくい相手なのである。
 他人を手玉にとって、意図した通りに動かすことなど朝飯前のはずの自分が、彼にだけはどうも頭が上がらないのだ。
 なのに、彼はやたらと勘が鋭く、こちらの考えを先回りして独自に動いていたりして、ありがたがるべきか悔しがるべきか困惑させられることもしばしばだったりする。
 こういう相手には、回りくどい手法は無意味どころか逆効果にしかならない。
 諦めて、太公望は空になった安っぽい湯呑みを指先で弄びつつ、問いかけた。
「──何か噂が立っとるのか?」
「何も無かったら、冒頭の質問にはならないと思わない?」
「思う。……で、その内容は」
「質問形式で言った通りかな?」
「────」
 予想通りの返答に、太公望は眉をしかめた。
「……おぬしの対処は?」
「『望ちゃんに本当のところを聞いておくよ』」
「……………」
「僕だって大変なんだよ。望ちゃんと友達ってだけで、次から次に噂の真相を聞きに来る奴がいるんだから」
言いながら普賢は、わざとらしく疲れたような溜息をつく。
 『噂の真相を聞いておく』という返答で、一体何が疲れるのかは不明だが、普賢がこういう物言いをした時は、ここで謝っておかねば話が先に進まないことを、太公望はよく知っている。
 しかし、何を謝らなければいいのか、イマイチ分からない。
「それは悪かったと思うが、そもそもの原因はわしではないぞ」
「うん、楊ゼンだよね」
「……分かっておるなら、矛先をわしに向けるな」
「でも、学年も学部も違うから、楊ゼンと顔を合わせる機会ってなかなか無いしね。望ちゃんから言っておいてもらおうと思って」
「わしは伝言板か?」
「僕としては、糸電話の方が好みかな?」
 にっこりと告げられた言葉に完全に脱力して、太公望はテーブルにつっぷした。
 せめて留守電くらいにはならないのか、いや拡声器と言われるよりはマシかも、と意味不明の思考が一瞬、脳裏を通り過ぎる。
 が、安っぽい樹脂製のテーブルになついていても仕方ないので、非常に気は進まなかったが、渋々口を開く。
「───噂の概要は」
「概要だけでいいの?」
「それ以外いらん」
 なんだ、つまらない、という呟きは聞き捨てる。
「そうだねー」
 言葉を選ぶように、普賢が口元に人差し指を当てるのを、太公望はテーブルにつっぷした姿勢のまま、顔だけを上げて見守った。
「色々あるんだけどね、共通してるのはまず、このところ楊ゼンが女の子の誘いを全部断ってて、その口実が今、謹慎中だからってこと。でも、それ以上説明しないらしくてさ」
「………もういい、後は分かった」
「最後まで聞きなよ、結構面白いから。まず謹慎理由の双璧が、うっかりヤバい相手に手を出して反省中っていう説と、うっかり避妊に失敗して反省中っていう説」
 楽しげに、普賢は指折り数え始める。
「次点が、やりすぎて食傷気味、もしくは一時的に不能になった説」
「……それはまず有りえん。あやつの女好きは天性だ」
「あと、悪い病気を移されて治療中説。この説は、男の間では信憑性が高いんだけど、女の子には人気ないんだよね」
 そりゃそうだろう、と受け答えをする元気も太公望には無かった。
「で、一番面白がられつつも有り得ないって言われてるのが、本命ができた、もしくは実は本命がいて、その相手に怒られた説。本命候補の名前は、これまでに聞いただけで五十人越えてるかな」
 嬉々とした普賢の言葉を聞きながら、もう一杯茶をもらってこようかな、と太公望は思考をあさってに跳ばす。
続きが予想できる以上、もう現実逃避を図るしかない。
「この説も女の子には人気無いんだけどね、一つだけ例外があってさ。相手は誰だか分かるよね?」
「────」
 分からなければ馬鹿だろう、と太公望は心の中で呟いた。




「で、実際のところ、真実はどれなの?」
「……何故わしに聞く」
「だって望ちゃんが知らないはずないでしょ? 自称謹慎中も一緒に御飯食べたりしてるんだし」
「……一応、あれも幼馴染だからな。食事くらいはするが、だが女子供じゃあるまいし、余計なことは何も……」
「望ちゃんは、そういうことをわざわざ聞いたりはしないと思うけど、でも彼の方は聞かれなくても望ちゃんには話すでしょう?」
「───…」
 性格を知り尽くされている相手に言い逃れはきかない。
 だが、と太公望は思う。
 噂の相手と一緒に外に食べに行ったのは、この一ヶ月で二回だけだ。しかも、大学の周辺ではなく、環状線に乗って幾つか先の駅まで遠出している。
 にもかかわらず、何故噂がそこいら中に飛び交っているのか。
 その理由は、ひとえに二人の外見が原因だった。
 ぶっちゃけた話、外出するたびに追っかけとでも言えばいいのか、そういうパパラッチかストーカーもどきの連中が後をつけてくるのである。
 そして、暇な連中は事細かに二人の行動をメールで流し、情報交換をしているらしく、それこそ、ファンサイトまであるという噂なのだ。
 とはいえ、そういうことは昔から比較的頻繁にあったために慣れっこになっていて、楊ゼンも太公望もほとんど彼らの存在を気にしてはいない。
 こういう手合いにプライバシー侵害だの肖像権だのを説いても仕方ないことは分かっているから、繁華街の人ごみの中で追っかけを撒いてしまえば、あとは忘れてしまうのが常である。
 が、こういう内容の噂が立つのであれば、もう少し対処法を考えなければいけないかもしれない、と太公望は思う。
 本音としては、楊ゼンとの関係が他者にバレたからといってどうということもないのだが、それに付随して起きる騒動はわずらわしいし、それに一応、彼も自分も大企業の後継者である以上、醜聞は立たないに越したことはないのだ。
 が、今は噂よりも目の前の幼馴染をどうにかすることの方が急務だ、と太公望は思考を切り替えた。
「……わしは知らぬよ」
「日本語は正確に使ってくれないかな」
 頬杖をついて短く答えた太公望に、普賢は口を尖らせた。
「そういうのは、『知ってるけど言う気はない』って言うんだよ」
 そして、あーあと溜息をつく。
「やっぱり望ちゃんは口が堅いね。自分のことも秘密主義だけど、他人のこととなるとそれが倍増するんだもん」
「──分かっておるなら、最初から聞くでないわ」
「でも百聞は一見にしかずって言うでしょ? 僕にだって直接聞かなきゃ分からないことは、いくらでもあるよ」
 嘘をつけ、と思いつつも、にっこり笑った相手に突っ込む気力はなかった。
 やはりもう一杯、茶をもらってこようか、とプラスチック製の湯呑みを指先でつついた時、
「でもさ、楊ゼンってば望ちゃんに一体何をしたの?」
 問われて太公望は眉をしかめる。
「一緒に御飯を食べに行くってことは、望ちゃんは別に怒ってないんだよね? それなのに、あの遊び人が前代未聞の自主謹慎をするってことは……」
「普賢」
 溜息まじりに太公望は、カマをかけようとする幼馴染の名を呼んだ。
「どうしてわしが、あやつの謹慎に関係あるのだ?」
 だが、普賢はきょとんとして言い返す。
「どうして楊ゼンが、望ちゃん関係以外のことで謹慎しなきゃいけないの?」
「だから、なんでわし絡みで……」
「だって、自主謹慎するほどのダメージを彼に与えるものなんて、他にないじゃない」
「────」
 言い切られて太公望は一瞬、言葉に詰まる。
 が、すぐに言い返した。
「そんな買い被った関係ではないぞ」
「そうかなー?」
 首をかしげた表情が、いかにも面白げに微笑んでいて、太公望は眉をしかめた。
 が、あえて藪をつついて蛇を出すこともないから、自分からはそれ以上何も言わない。
 普賢もまた、無言のうちに太公望の質問拒否を了承したのか、その点についてはそれ以上突っ込まなかった。
 代わりに、
「それにしても、一体、彼のどこがいいんだろうね?」
 頬杖をついて、普賢は、指先で空の湯呑みをはじく。
「外見と金持ってる以外に、とりえってある? 僕は彼のこと、小学校の頃から知ってるから、どうしても評価は辛くなるけどさ。望ちゃんは、どこを気に入って付き合ってるわけ?」
「──だから、そういう誤解されそうな物言いは止めぬか」
 確かに楊ゼンとは一緒に食事をすることもあるし──それ以上のこともないではないが、太公望としては、決して恋人として付き合っているつもりはない。
 ただでさえ、妙な噂が蔓延しているらしいのに、これ以上騒がれるのはごめんだった。
「飯くらいは一緒に食うが、どこが気に入っているということもない。ただの幼馴染だよ」
「ただの、じゃないでしょ」
「わしにとっては、ただの、だ」
「嘘つき」
 上目遣いに見上げる相手に、太公望は、ふん、と顔を背ける。
 そもそも、普賢には全部知られている、というか気付かれているのがまずいのだ。
 幼馴染みの勘なのか、どうも普賢は、高校時代に始まった楊ゼンとの関係を当初から気付いていた節がある。
 もちろん、こちらからバラすようなことは口にしたことはないし、カマをかけるような言葉に引っかかったこともない。
 だが、時々、普賢は思い出したように、こうして秘密をつつくような発言を向けてくる。
 それがまた、建前ではなく本音の部分を突いてくるような鋭い言葉ばかりなものだから、余計に始末が悪い。
「他人からどう見えようと、おぬしがどう思おうと、ただの腐れ縁だ」
 繰り返した太公望に、普賢は肩をすくめた。
「まぁ望ちゃんが、そう言い張るならいいけどね。望ちゃんの悪趣味は今に始まった問題じゃないし」
「……おぬしに人のことが言えるのか?」
「望ちゃんほどゲテモノ趣味じゃないもん。いくら御飯を奢ってもらうにしても、僕はもう少し相手を吟味するよ」
 お茶や食事、もしくは飲みに誘われたら、食べるだけ食べ、飲むだけ飲んで、極上の笑顔と共に勘定を残して去るという技を得意にしているエセ天使は、にっこりと笑う。
 立ち回りが上手く、また一見天使のような雰囲気でごまかしているため、決して人に知られてはいないのだが、普賢もまた、そういう面に関しては相当の曲者だったりするのである。
 いまいちモラルに欠けていることに関しては、所詮、この場にはいない話題の主も含めて全員、同じ穴のムジナなのだ。
 しかし、それを指摘するのもむなしい、と太公望は今日何度目か分からない諦めの溜息をついた。

 と、その時。

「やっぱり、ここでしたか」
 聞き慣れた声が、頭の上から降ってくる。
 いつのまにか、四限目の講義が終わったらしい。時計を見れば、針が四時半を指している。
「久しぶりだね、楊ゼン。望ちゃんを誘いにきたの?」
「ええ。団欒中を申し訳ありませんが、今日は僕の方が先約なので、この人をお借りしていきますよ」
「いいよ、別に。ちょっとお茶飲んでただけだし」
 にこにこと挨拶をする二人に、太公望は頬杖をついたまま、視線をあさっての方向に向けた。
 二人が笑顔で会話をしているところなど直視したくない、という本音に正直に従った行動である。
 が、普賢がそれを見逃してくれるはずも無い。
「でも水臭いな。望ちゃんってば、一言も君と今日、約束があるなんて言ってくれなかったんだよ。ずっと君について話してたのに」
「おや、そうなんですか。何か話題になるようなことがありましたか?」
「もちろん。そういえば前から聞きたかったんだけど、君、望ちゃんと付き合う気はないの? っていうか、付き合ってないの?」
 脈絡なく発された質問に、ずるり、と太公望が頬杖から滑り落ちる。
「残念ながら。この人が女性なら、一二もなくお願いしますと言うんですけどねぇ」
「でも、望ちゃんなら並みの女の子よりずっと可愛いでしょ?」
「それは認めますよ。脚も綺麗ですし。けれど、やっぱり抱きしめた時に寂しいというのは、僕にとって重大な問題なんですよ」
「やっぱり、ふかふかしたやわらかい方が好み?」
「ええ。本当に惜しいんですが」
「けどさ、女の子になっても望ちゃんは薄っぺらいと思わない? だったら、今でも一緒でしょ?」
「確かにそれはそうでしょうね。となると、一考の余地があるかな?」
「あるある」
 あはははと笑う二人に、太公望は完全にテーブルに沈没した。
 自分も大概、神経の太い性質だが、この二人には絶対にかなわない、と心の中で呟いて。
「阿呆な会話も、そこまでにしておけ」
 ガタンと椅子を引いて、立ち上がる。
 反論する気力もなくなるような会話から逃げるには、現場から逃走するのが一番早道に決まっている。
 今日の講義がすべて終了した今、学食は再び混雑し始めている。これ以上、人々の注目を集めて噂の的になるのは、何があっても避けたいところだった。
「とにかく、わしらはもう帰るからな」
「うん。また月曜にね、望ちゃん。楊ゼンも、ほどほどにね。望ちゃんを泣かせたりしたら、僕が許さないから」
「素直に泣かされてくれる玉じゃないですよ、この人は」
「それは分かってるけど。一応、警告♪」
「……忠告ではないのか?」
 がっくりと疲れながらも、太公望はバックパックを背負う。
「ではな」
「失礼します」
「うん、バイバイ」
 ひらひらと右手を振る普賢に見送られて、足早に学食を出た太公望は、人の流れが途切れた辺りで立ち止まり。

 何よりも先に、楊ゼンの脇腹に思いっきり肘鉄を食らわせた。

「──八つ当たりは止めてくれませんか? 結構効くんですよ、それ」
 わずかに顔をしかめたものの、見かけよりもずっと鍛えている楊ゼンは、それほど痛そうな様子は見せない。
 そんな楊ゼンを睨み上げ、太公望は今度は足を踏んづけようとする。が、楊ゼンがさっと足を引いたので、それは未遂に終わった。
「まったく……足癖の悪い人ですね」
「女癖の悪いおぬしより、百倍マシだ!!」
「それはそうでしょうけど」
 苦笑しつつも、面白げに自分を見下ろす楊ゼンに、太公望は気を鎮めるため一つ息をつく。
 そして、キャンパスの北門に向かって歩き出しながら口を開いた。
「──済んでしまったことに今更文句を言っても仕方がないが、今後、何があろうと絶対に謹慎なんぞするなよ」
「ああ、あの噂ですか。僕とあなたが実は付き合っているという……」
「そういう噂が立つような真似はするなと、わしは言ったはずだぞ!?」
「だからきちんと否定したでしょう、今」
「あのイカレた内容の会話で否定したことになると思っとるのか!?」
 このボケ!!と太公望はきついまなざしを楊ゼンに向ける。
 だが、楊ゼンは動じることなく、いつもと変わらない口調で応じる。
「でも、聞いた人間が所詮、冗談だと思えるレベルにまとめたじゃないですか」
「タチが悪すぎるわ」
 ふん、とそっぽを向く太公望に、楊ゼンは面白げに笑った。
「あなたって本当に面白いですよね。本音では外聞なんてどうでもいいくせに、噂になるのは嫌がるんですから」
「噂の的になって喜ぶ阿呆は、おぬしだけだ」
「別に喜んでるわけじゃないですよ。でも、こそこそと隠れて遊ぶのは僕の趣味じゃありませんから、放ってあるだけです」
「わしには表立って遊ぶ趣味はない」
「外じゃ指一本、触らせてくれませんしね」
 部屋の中では積極的なのにな、というぼやきは無視する。
「でもまぁ、噂も今週で終わりですから。来週の半ばには多分、立ち消えてますから安心して下さい」
「そうなることを心の底から願うぞ。一ヵ月ぶりだからと選り好みせずに、手当たり次第に遊んでくれ」
「そうあっさり言われるのも寂しいんですけどねぇ」
 小さく笑いながら楊ゼンは、でも、と続ける。
「今日と明日は、あなたに付き合ってもらいますから。たっぷり時間はありますから、期待して下さいね」
 その言葉に、太公望は隣りを歩く青年を見上げた。
 頭一つ高い位置から、悪戯めいた微笑を浮かべた瞳がこちらを見ていて。
 太公望は、眉をしかめる。
「──おぬし、一体何のために謹慎しておったのだ」
「反省はしましたよ、十分。二度とあんな真似はしませんから、安心して下さい」
「……そういうことではなくて。そもそも、わしは気にしておらぬのだから、謹慎は所詮、おぬしの自己満足だろう? なのに、何故、わしがおぬしの禁欲の後処理に付き合わねばならぬのだ?」
「それはもちろん、あなたとが一番いいからに決まってるでしょう。もっといい相手が他にいれば、そっちに行きますよ。久しぶりなんですし」
「────」
 何を分かりきったことを、という態度で言うのも言われるのにも問題がある気がして、太公望は溜息をつく。
 何だかなーと眉をしかめつつも、けれど、一緒に駅の改札を抜けて、環状線のホームへ向かっているあたりが自分もいい加減だ。
 噂になるのは嫌いでも、楊ゼンの品行不良を責めたり誘いを断ったりできるほど、まともなモラルを持っているわけではないのである。
 まぁ良いか、と溜息交じりに呟いた声を、耳ざとく楊ゼンが聞きつける。
「その気になってきました?」
「全然」
 自分のテリトリー以外では、諦めはついても、そっちのスイッチは入らない。不思議な話ではあるが、何故か太公望はそういう性質なのである。
 そのことを知っている楊ゼンは、そっけない返事に少々つまらなさそうに肩をすくめた。
「──これからお茶飲んで、食事して、マンションに帰るまでですか。先は長いなぁ」
 ぼやく横顔は、どこまでが冗談でどこまでが本気なのか、瞬時には判別しがたい。
 しかし、
「たかが数時間のことだろうが」
 太公望はあっさりと言い捨てて、ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
 が。
 後ろから手を伸ばした楊ゼンが、太公望の肩を掴んで電車からホームに引き下ろした。
「何……」
「やめましょう」
「は?」
「全部省略。コンビニで何か買って帰りましょう」
 目を見開いた太公望は、楊ゼンの台詞に唖然となり。
 それからゆっくりと、大きな瞳がじっとり据わってゆく。
「───今からコンビニで弁当でも買って」
「ええ」
「わしかおぬしの部屋に、一緒に帰るというのか」
「そうです」
 一瞬の間を置いて。
「たわけ!!」
 太公望はボリュームは抑えたものの、鋭く年下の青年を怒鳴りつけた。
「まだ五時だぞ! 大学周辺のコンビニは学生だらけだろうが! 噂を助長するようなことをしてどうする!?」
「いいじゃないですか、別に。皆、面白がってるだけなんですし。すぐに忘れますよ」
「おぬしのゾウガメのような神経と一緒にするな!」
「あなただって、繊細という性質じゃないじゃないですか」
「おぬしよりは百倍マシだ!! おぬしの頭の中には、やることしかないのか!?」
「当たり前でしょう。毎日のように遊んでたのを、一ヵ月間も謹慎してたんですから」
「ダァホ!!」
 男なら当然、と悪びれもしないのに肘鉄をくらわせ、ホームに入ってきた次の電車に青年の腕を掴んで引き摺り込む。
 楊ゼンを捨てて、この場から逃走することを一瞬、考えないでもなかったが、しかし、学生で混雑し始めた駅のホームで追いかけっこをするよりは、電車に乗ってしまう方が、まだ目立たないに違いなかった。
「おぬしはもう、何があっても二度と謹慎なんぞするな。おぬしが何かすると、火の粉が全部わしに降りかかってくる」
 ドア付近に立ちながら、小声で太公望は目の前の相手に毒づく。
「だから、謹慎しなければいけないようなことは、もう二度としませんって」
 本格的なラッシュにはまだ遠いが、それでも混み始めた電車の中で、さりげなく太公望をかばいながら、楊ゼンは苦笑した。
「でも……」
「何だ?」
 じろりと不審げに見上げる太公望に、楊ゼンは笑いかける。
「いえ、この期に及んでも縁を切るとは言わないんだなと思って……」
「──切ると言ったら、おぬしはおとなしく切れてくれるのか?」
「今は嫌ですね。あなたに恋人でもできれば、話は別ですが」
「なら言うな」
 ふん、と太公望はそっぽを向いた。
「そうですね、すみません」
 どこか子供っぽい、怒ったその横顔に、楊ゼンは微笑しながら謝罪する。

 ───切れない絆があるなどとは決して思わない。
 どちらか一方が気を抜けば、簡単に人と人の繋がりなどほどけてしまう。
 駅に電車が止まり、ドアが開いて人が乗り込んでくるたびに、さりげなくかばってくれる腕の温かさを知っているから、どんな悪態をついても、曖昧な繋がりを壊してしまうような言葉だけは、軽はずみには口にしない。

 一度出てしまった言葉は返らない、そして、居なくなってしまった人は二度と戻ってはこないから。

「……おぬしも分かっておるだろうに」
「ええ」
 そっぽを向いたまま、ぼそりと呟いた声に、楊ゼンも素直に応じる。
「時々、本気でおぬしを殴りたくなるよ」
「知ってます。それを抑えてくれてることもね」
「───…」
「あなたのそういうところ、僕は好きですよ」
「わしは、おぬしのそういうところが嫌いだがな」
 笑みを含んだ声でさらりと告げられた言葉に、太公望は憮然と返す。
 そして、駅に停まった電車のドアが開くのを待って、するりと下りた。
 人波に逆らわず、改札口に向けて流されながら、やはり楊ゼンはごくさりげない当たり前のような仕草で、小柄な太公望をかばう。
 自動改札機に切符を飲み込ませ、大通りに向かって歩き出した時。
 ───ごく控えめな音量で、携帯の着信音が鳴った。
「あ、と……」
 すぐに自分のものだと気付いた太公望は、足を止めて上着のポケットから携帯を取り出す。
「普賢からメールだ」
「先輩から?」
 通行の邪魔にならないよう、操作しながら壁際に寄って。
 小さな液晶画面を見つめた太公望は、そのまま凍りついた。
「どうしたんです?」
 その様子に不審を覚えた楊ゼンも、ひょいと上体を屈めて画面を覗き込む。
 と、そこには。


『お楽しみ中に邪魔してごめん(^^)
 たった今、駅の構内で君たちが痴話喧嘩中との目撃情報をGet☆
 詳細な続報も、ぞくぞく到着中♪
 というわけで、楊ゼンに伝言。
 君が望ちゃんの隠れファンに闇討ちされるのは構わないけど、望ちゃんに何かあったら、百倍にして返すから覚悟しといてね(^^)
 それじゃ、二人とも楽しい週末を(^^)/~~~』


「〜〜〜〜〜〜」
「……まぁ、あの状況で目撃者がいない方がおかしいですよね。となると、後つけてきてる奴も一人や二人じゃないだろうな」
「〜〜〜誰のせいだと思っておるのだ!?」
「仕方ないでしょう。僕もあなたも目立つんですから。しかも、今は噂のヒトなんですし」
 あっさりと答える楊ゼンの足を、思いっきり踏みつけようとして。
 だが、今度もさっと足の位置を楊ゼンがずらしたために失敗に終わる。
「僕の足を踏んづけるよりも先に、やらなきゃいけないことがあるでしょう?」
「〜〜〜〜〜〜」
 余裕めいた顔で諭されて、睨み返しながらも太公望は深呼吸して、握りしめていた携帯の電源を切ってポケットにしまった。
「何人だ?」
「ざっと判るところで七〜八人ですかね。その辺りの柱の影と、さりげなく行きつ戻りつしているのが数人」
「実数は、その倍と見てもいいな」
「おそらく」
 その返答に、太公望はしばらく考え込む。
「西に回りますか」
「いや、今日は北から回る。こうしてわしらがもたもたしているのだ。何人か仲間がいれば、さっさと分かれてあの通りで張っとるだろう」
「いつもあの辺で撒いてますからね」
「そう。だからいつもと違う方向に行って攪乱する。そろそろラッシュが本格化してくる時間帯だから、素人を撒くのは簡単だよ」
「ええ」
 悪戯を企む子供のような目をして、不敵に笑った太公望に、楊ゼンも微笑を浮かべる。
「あの通りは週末は特にごったがえしておるし、店に入ってしまえば、まず見つからぬからな」
「知らなければ見過ごしてしまうような、ほんの小さな看板しか出てませんからね」
 共犯者の顔で、うなずき合って。
「じゃ、行きましょうか」
 二人は、人の流れの中へと足を踏み出す。
 いつもと変わらない、少し早めの足取りで行き交う人々をすり抜けてゆく。
 存在感のある二つの後ろ姿は、ひどく人目を引くにもかかわらず、またたくまに都会のハレーションに飲み込まれ、消えていった。







            *           *







 翌週。
 稀代の女たらしと、女の子よりも可愛いのに中身は男前な秀才の熱愛疑惑はいっそう盛り上がり、その後、また女たらしが女の子の誘いを受け付けるようになっても、二人が卒業してしまうまで疑惑の噂は消えなかったという。






end.










というわけで、ひさびさのOnly youシリーズです。

この作品はもともと、「Crimson Scar」の続編として用意してあったものです。
が、12345HITを踏まれたNK様が、「普賢が出てくる話」というリクエストを下さった時、他に普賢ちゃんの出てくる話を思いつけなかったので、これをリク作品とさせていただきました。
無能な管理人のお願いを快く承諾して下さったNK様に、改めてお礼を申し上げます。
なのに、恩を仇で返すこんな品のないお話で申し訳ありません(土下座)

で、久しぶりに男前でクールな師叔を書いたのですが、彼って何を考えてるのか、さっぱり分かりませんでした☆
こういうことは私の場合、珍しいのですが、どうも想定していた以上に複雑怪奇な性格に育ってしまったみたいで・・・(ー_ー;) もともと読みきりのつもりだった作品だからですかね〜。
今回書きながら、なんとなく彼にはまだ隠された過去とかあるような気もしてきたので、またネタが浮かんだら書きたいなと思ってます^^
このシリーズについては、そのうちオフセ化も考えてますので、良かったら感想文句等下さいね〜(^_^)





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