Rainy Blue 1








 年にたった1日だけ。
 夜が嫌い。
 雨が嫌い。

 一人が、嫌い。








 玄関のチャイムが鳴る。
 真夜中までにはまだ間があるが、他人を訪ねるには少々遅すぎる時刻。
 けれど、ためらうことなくすぐにドアを開ける。
「遅かったですね」
 金のかかったマンションの無機質な通路に立っているのは、夕方から降り出した雨に濡れた、一つ年上の幼馴染。
 雫がしたたって頬に張り付いた髪も、正装とまで堅苦しくはなくとも、きっちり黒で統一した衣服もすべてがずぶ濡れで、駅からここまで傘もささずに歩いてきたことが知れた。
 どうせこんなことだろうと思っていたから、用意してあったタオルを差し出す。
「シャワー、使って下さい。この季節に風邪を引くと長引きますから」
 その言葉に、かすかにうなずいたようなうなずかないような。
 けれど、無言のまま、素直に彼はタオルを受け取り、脇をすり抜けてバスルームに向かった。








 ようやくバスルームから彼が出てきた時、既にTVの洋画劇場は終わっていた。
 不必要にうるさい、品のないCMを消して、振り返る。
 着替え代わりに貸したシャツは華奢な彼には大きすぎて、肩も腰も布が余ってだぶついている。その裾から、すらりと細い綺麗な脚が伸びているのが、清楚な印象でありながらひどくなまめかしい。
「何か飲みますか?」
「……いや」
 TVの音が消えた静かな室内に、今夜初めて彼が発した言葉はしんと響いた。
 足音をほとんど立てずに彼はフローリングの床を横切り、ソファーの隣りに腰を下ろす。
 そして、ことんと右肩に頭をもたれかけさせてきた。
 常の彼なら絶対にしないような仕草に、つい微苦笑を誘われる。
「疲れてるみたいですね」
「まぁのう。半日、正座しとったようなものだからな」
 軽く目を閉じ、彼は答える。
「周りはジジィばっかりだし……」
「どうせ愛想笑いばかりしてたんでしょう、可愛い子ぶって」
「おぬしには言われたくない。いつぞやのパーティーの時、良い子ちゃんぶって挨拶回りしとったおぬしには寒気がしたぞ」
「そんなこともありましたね。あれは……うちの創立六十周年記念でしたっけ?」
「ああ。わしは嫌だと言ったのに、無理やりジジィに引きずっていかれた」
 憮然とした言葉に笑みがこぼれた。
「まぁ確かに、わざわざ改まった挨拶なんかしなくても、僕たちは……ねぇ?」
「……小学生の時からお互い知っておるからな」
「……おまけに、こんなこともしてる仲ですし?」
 その言葉に反応して顔を上げた彼の顎を指先で支え、やわらかな唇に軽く口接ける。
 深い色の瞳を覗き込むと、真っ直ぐに見つめ返してきた後、彼はゆっくりと再び肩に顔を伏せた。
「──まぁ、うちにとって金鰲グループは最大の取引き相手だからな。そう簡単に縁は切れぬよ」
「そうですか?」
「ん?」
 問い返した言葉の含みに気付いたのか、もう一度彼は顔を上げた。
「いずれ崑崙グループは、西岐総合商事と合併することもあるんじゃないんですか?」
「──邑姜か」
「ええ」
「耳が早いな」
「僕と姫発は同じゼミですよ。キャンパス内の同じエリアをうろうろしていれば、嫌でも目に付きます」
「詳しいことは知らぬが……姫発は、どうもあれにベタ惚れみたいだしのう」
 くすりと笑った彼が一瞬、兄の顔になる。
「だが大丈夫だろうよ。たとえ西岐と提携するにしても、金鰲と手を切るのはうちにとって損失が大きすぎる」
「そう願いますよ。そちらと切れたら、うちのグループは立ち行かなくなるんですから」
「よく言う。うちより景気がいいくせに……」
「昨年の決算でうちが勝ったのは、たまたまです」
 小さく笑い合い、そして、まだ湿り気を帯びたままの彼の髪にそっと触れる。
「──妹さんは一緒にいなくてもいいんですか? 今夜は……」
 問いかけると、瞳の色が静かに深くなり、伏せられた。
「……法要が終わって、ジジィどもと料亭へ行く前に帰らせた。多分、今頃は誰かのところにいるだろうよ」
 そう答えた彼の頭を、ゆっくりと肩に引き寄せる。その動きに彼は抗わなかった。
「───九回忌だと」
「……もう、そんなになるんですか」
「うむ」
 低くうなずく彼の温もりを肩に感じながら、目を閉じる。




 年に一度だけ、彼が嫌いな日があるのを知ったのは何年前だったか。
 一年にたった一日だけ、彼は雨と夜とを嫌う。
 大切な人が交通事故で失われたのは、ひどい雨の降っていた深夜だったから。
 その日だけは、誰もいない空間が好きな彼が、一人でいることが嫌いになる。




 肩口に頬をすりよせるようにして温もりを求めてくる人を、両手を伸ばして抱きしめる。
 華奢な身体は簡単に胸の中に納まってしまって、ひどく頼りなかった。
 わずかにのぞくこめかみや、さらさらと流れる髪に何度も優しいキスを落とすうち、彼の腕も背に回る。
 すがりついてくる細い腕に何を求められているのかは分かっていたが、気付かないふりをして、優しい温もりだけを注ぐ。
 何度でも何度でも、繰り返し。
 焦れた彼が、シャツ越しに背に爪を立ててきても。気付かないふりは止めない。
 意地が悪いほどにひたすら優しく抱きしめて、羽のようにやわらかなキスを贈る。
「───…」
「何です?」
「──どうして…」
 問いかけてくる声は、彼らしくないと思えるほどに細かった。
「どうして、この日だけはわしを抱かぬのだ……?」
「……答えなければいけませんか?」
 静かに応じれば太公望はゆっくりと顔を上げた。深い色の大きな瞳が、至近距離から真っ直ぐにまなざしを向ける。
「前から不思議だったのだ。おぬしならむしろ……こういう日こそ、わしを抱こうとするのではないのか」
 滅茶苦茶に泣かせて、何もかも忘れられるように仕向けるのではないかと。
 問われた声に苦笑する。
「まるで色情狂みたいな言われ方ですね」
「楊ゼン」
 凛と響く静かな声に、今夜初めて名前を呼ばれて。
 改めて目の前の人を見つめる。
 珍しく言い逃れを許そうとしない、深く澄んだ瞳の色は、まるで稀有な宝石のように綺麗で。
 その色にまなざしをすいよせられたまま、ゆっくりと浅く色付いた唇に口接けた。
 唇を重ねて、けれども互いに瞳は閉じないまま、相手の瞳に映る己の姿を見つめる。
 そして、触れる以上に口接けを深めることはせず、唇を離してもう一度、細い躰を抱きしめた。
「──抱くのは簡単なんですよ」
 腕に感じる温もりに目を閉じながら告げる。
「黒い服を着ると、途端にあなたは艶っぽくなりますしね。今夜、びしょ濡れのあなたを玄関で出迎えた時から、ずっと欲情してますよ。今だって、そんな危ない格好をしてくれて……。僕があなたの脚のラインに弱いこと、知ってるでしょう?」
「それなら……」
「でも嫌なんです」
「────」
「今夜だけは、キス以上のことはしないと決めてるんですよ」
 どうして、と問われた声には答えない。
「夜が嫌なら一晩中、明かりをつけていればいい。雨の音が嫌なら、一晩中話をしていてあげますよ。一人になるのが嫌なら、ずっとこうしていてあげますから」
 今夜だけは、と。
 耳元で優しくささやくと、ぎゅっと彼の細い手がシャツを握りしめてきた。
「……ずるい……こんな時ばかり……」
「──すみません、意地が悪くて……」




 ───意地が悪いのは、ほんの少しだけ彼が羨ましいから。
 誰かがいなくなったことを悲しめる彼が、ほんの少しだけ妬(ねた)ましいから。

 幼い日、「いい子でね」と頭を撫でてあでやかに微笑み、二度と帰ってこなかった人がいた。
 視界をかすめて消えた、長い髪と赤く彩られた長い爪が、最後の記憶。
 何故その人がいなくなったのか、幼かった自分には分からなかったが、悲しいとは思わなかった。
 いつも大勢の人に取り巻かれ、華やかにはしゃいでいたその人には、抱きしめられた記憶さえなく、最後の最後に頭を撫でられた感触は、、ひどく居心地の悪いものでしかなかった。
 それから何年も過ぎて面影も薄れた頃、引き出しの奥から発見した一枚の写真。
 驕慢な笑みを浮かべ、女王のように美しいあでやかな姿は、男を破滅に導く気配が濃厚に漂っていて、自分に同じ血が流れていることを自覚させるには充分だった。
 一人の相手では満足できない精神構造は同じだから──いなくなった人の心理が分かるから、その人を嫌悪したことも憎んだこともない。
 懐かしく思い出すこともないし、今どこで何をしているのか、風の噂でどんな醜聞を耳にしたところで何とも感じはしない。

 だから。
 今夜、雨に濡れてここへきた人が。
 こうして温もりを求め、寄り添ってくる人が。

 妬ましくて、愛しい。

 誰かがいなくなったことを痛みとして感じられる彼の心が羨ましいから、今夜だけは悲しんで欲しい。
 何一つ、ごまかさずに。
 その心が感じるままに、悲しみを噛みしめていて欲しい。
 ───自分には決して、叶わぬことだから。




「今夜だけは、こうさせていて下さい」
 あなたが辛いことは分かっているけれど。
 あえて意地の悪い優しさを突きつける。
 それを分かっているくせに、毎年こりずにやってくるあなたが悪いのだと、心の中で苦笑しながら。
「……ずるい……」
 どこか切ないささやきとともに、細い腕に強く背を抱かれる。
「──そこまで言うのなら、今夜は絶対に寝かさぬからな。夜が明ける前に……雨が止む前に眠ったりしたら、金輪際、指一本触れさせてはやらぬから」
「分かってます。絶対にあなたを夜の中に置き去りにしたりはしません」
 今年もまた去年と同じ約束をして、華奢な躰を強く、包み込むように優しく抱きしめる。







 多分、腕の中にいる人がいなくなったら、その時初めて、この心は誰かを失う悲しみを知るのだろう。
 たとえ愛しているかどうかは分からなくても。
 愛が何かは分からなくても。
 彼がいなくなったら、きっと、この心は痛む。
 二度と会えないことを、今の彼以上に嘆いて苦しみ、何も考えられないようにして欲しいと願うのだろう。


 その予感が愛しいから。

 今夜だけは。

 このままでいる我儘を許して。















というわけで、また「Only you」の続編です。この2人には単に気が合うとかだけではない繋がりがあってもいいかな、と思って書いてみました。
でも、別に私は妲己ちゃんを楊ゼンの母親と思ってるわけじゃありません。(それはそれですごく面白いネタだから、いつかやりたいと思ってますが) 今回はたまたま設定に合ったからです。
誤解の内容に書いておきますが、楊ゼンの女たらしは母親に対するトラウマじゃないですよ。あくまでも、遺伝。女性不信の裏返しで女たらしになるほど、うちの楊ゼンは可愛い性格してません。






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