Day and Night 3








 3. midnight





 日付が変わる頃に家を出ると、ちょうど閉店より少し前のバー・窖ANAGURAに着く。
 もっとも、それは営業時間が守られている場合の話であって、日によっては客が腰を上げないために少々営業が延長されたり、逆に客が居ないからと既に看板を下ろして片付けの最中だったり、時には帰宅途中の恋人に行き逢うこともある。
 今夜はどうかと思えば、ちょうど片付けをしている最中だった。
 楊ゼンが来る可能性を考慮しているのか、CLOSEの看板がドアにかけてあっても、鍵はかけられていない。
 少し重い、黒いドアを開けると、マスターはカウンターの中でグラスを洗浄中、楊ゼンの恋人は床にモップをかけていた。

「今日は早めの店じまいなんですね」
「うん。客が少なくてね。週明けは駄目だね〜」
 のんきな口調で答える相手は、実は天才的な科学者らしいが、見た目は年齢も素性も掴みにくい正体不明な雰囲気を漂わせるオーナーである。
 いかにも高価そうなクリスタルグラスを手にしながら、太乙は溜息まじりに小首をかしげた。
「いっそのこと、月曜だけじゃなくて火曜も定休にしようかな。どう思う、楊ゼン。君もその方が太公望と居られる時間が増えて嬉しいんじゃないかい?」
「それは……うかつなことを言うと、後で怒られそうですからノーコメントにしておきますよ。正直、どっちでもいいですしね。今の生活サイクルに不満があるわけじゃないですから」
「おやおや、随分と躾(しつ)けたものだね、太公望」
「見た目より、そやつは聞き分けがいいからな。色々と助かっておるぞ」
「だって、楊ゼン。良かったね」
「……喜ぶべきか嘆くべきか、よく分からないんですが」
 苦笑しながら、楊ゼンは応じる。

 太公望も、端から見るとかなりややこしい性格をしているが──実際に付き合ってみれば、気取りも何もない細やかな神経の持ち主なのだが──、その雇い主の方はそれ以上だった。
 得体が知れない、という言葉がこれほど似合う人物も少ない。
 以前、太公望が言った「変人だが悪人ではない」という表現が、おそらくは一番正確に彼をあらわしているだろう。
 だが、太公望のことは勿論、その後輩であり恋人でもある楊ゼンのことも嫌ってはいないらしく、こうして頻繁に顔を見せても毎回、飄々とした呑気な口調で歓迎してくれる。
 おそらくは、楊ゼンが口の肥えた辛党で、太乙が作る辛口の新作カクテルの実験台を務めていることも歓迎される一因ではあるのだろうが、それでも恋人の身近な人間に隔意を抱かれないというのは、ありがたいと楊ゼンは思う。
 ただ一つだけ、太公望との交際を面白がられつつ冷やかされるのは、いかんともしがたいのだが、太乙の口調や雰囲気のせいか、不快というほどのこともなく、苦笑しつつも聞き流せるレベルのものだから、さほど気にはならなかった。

 そんな彼の経営するバー・窖ANAGURAは、けばけばしいネオンの洪水の片隅に、ひっそりと存在している隠れ家のような店だった。
 狭い店内は、いつも綺麗に磨き上げられ、ノスタルジックなオールディーズが控えめに流れている。
 そこに常連客たちにひっそりとやってきて、気に入りの銘柄や、若い雇われバーテンが作る極上のカクテルをゆっくりと静かに干し、また来る、と告げて帰ってゆく。
 その様子は、誰もがこの小さな知る人ぞ知るバーをひどく大切なものと考えているかのようで、傍目にもひどく心地がいい。
 そして楊ゼンにとっては、それだけでなく、窖ANAGRAのどれもこれもが魅惑的だった。

 自分が生まれる前の古い曲なのに、何故かひどく懐かしいオールディーズのメロディーも。
 太公望のバーテン姿を見るのも、他人の振りでカクテルを作ってもらうのも。
 客の引けた後、太乙と他愛の無い会話を交わすのも、新作のカクテルを試すのも。
 外の喧騒から切り離され、ゆったりと静かに流れる時間も。
 どれも、本物ともイミテーションともつかない宝石のようなきらめきを放っていて、楊ゼンをたやすく魅了して離さない。
 だからこそ、表で仕事を終えた太公望が出てくるのを待つのではなく、いつもこうして店内にまで足を踏み入れている。
 否、踏み入れずに居られないのだ。
 他人と親しく付き合うことの少ない楊ゼンとしては、こんな風に深入りするのは至極珍しいことだった。
 が、太公望をきっかけとして新しい世界が開けていくのは悪い気分ではなく、むしろずっと幼い少年の頃に戻ったように心が浮き立っている。
 そんなのは自分らしくない、と思いつつも、楽しいと感じる自分を抑える気は楊ゼンにはなかった。

「太公望、お迎えが来たことだし、もう着替えて上がりなよ。施錠は私がするからさ」
 そんな楊ゼンの感情をどこまで気付いているのか、太乙は内面を読ませない口調で太公望に呼びかける。
「分かった」
 あっさり応じて、太公望は楊ゼンにちらりと笑みを含んだ視線を投げかけ、モップを片手に奥へと入ってゆく。
 学校のブレザーの制服よりも余程似合う、艶やかな黒と白を基調にしたバーテンの制服姿を目で追っていると、横から声がかけられた。

「うまく行ってるみたいだね、君達」
「そう見えますか?」
「うん。だって太公望が最近、ずっと楽しそうだからさ」
「……そうなんですか?」
「うん」
 一つまばたきして問い返した楊ゼンに、太乙はグラスを片付けながらうなずいた。
「もともと、人生楽しく過ごした者の勝ち、っていう信念のもとに、おそろしく前向きに生きてる子だけどね。なんかちょっと違うんだよ、君と付き合い始めてから」
「────」
「表面には出さないけど、本当はすごく警戒心が強い子なのに、君といる時は全然緊張してないしね。嬉しそうというと語弊があるかもしれないけど、とにかく楽しくて仕方ないみたいだよ、毎日」

 軽く笑いながら告げられた言葉に、楊ゼンは一瞬、返す言葉を見失う。
 太公望が楽しそうだというのは、一緒に暮らしていれば十分に伝わってくることだ。
 楊ゼンが同じ屋根の下にいることに、不満がないらしいことも表情を見ていればわかる。
 けれど。

「君も楽しいんじゃないのかい?」
「え?」
「雰囲気がやわらかくなったからさ。最初にこの店に顔を出した時は、高校生らしくない冷めた表情してたけどね、今はいい顔をしてるよ。年相応というか……まぁ、基本的に君は、実際年齢より上に見えるんだけど」
「そう、ですか?」
「うん。見る人が見れば一目瞭然だろうね。好きな人か好きなものか、とにかく夢中になれるものができたんだな、ってさ」
「────」

 楊ゼンは反応に困る。
 太乙の言葉は的を得ているからこそ、受け流すことも反論することも難しい。
 どう答えたものかと思いあぐねていると。
「楊ゼン、帰るぞ」
 着替えを終えて、普段着のジーンズに戻った太公望が奥から出てきた。
「太乙、あまりこやつをからかうな。わしのだぞ?」
 一目見て状況を理解したらしい太公望の言葉に、太乙は両手を軽く挙げ、無抵抗の意思表示をする。
「はいはい、分かってますって。苛める権利もからかう権利も、君にしかないっていうんだろう?」
「その通り。分かっておるのなら、ちょっかいを出すでないわ」
 雇い主の殊勝な態度に、尊大な仕草で太公望はうなずき、それから悪戯めいた視線を楊ゼンに向ける。
 その笑んだまなざしは、含みがある分、いつもよりも余計に魅力的で。
 人目がなければ抱き寄せてキスしたいところだと思いながら、楊ゼンは微苦笑を返した。
 そんな二人を端から眺めて、太乙は軽く首をかしげる。
「楊ゼン、君としては、この女王様の言い分に反論はないのかい?」
「いいえ、全然」
「あれ、随分と寛大だね」
「そう寛大でもないですけどね。でも、僕はこの人のものですから。この人が言うのなら、何でもいいですよ」
 甘く笑んだままさらりと答えた楊ゼンに、太乙はわざとらしくまばたきして太公望を振り返った。
「なんだか彼氏に思いっきり惚気られちゃったよ、太公望」
「羨ましいだろう?」
「別に羨ましくはないけどさ。君にはぴったりみたいだね」
 感心したような太乙の台詞に太公望は笑って、出入り口のドアへと足を向ける。
「では、また今夜にな」
「うん。お疲れ様。楊ゼンも今度はもう少し早めの時間においでよ。また新作を用意しておくからさ」
「分かりました」
 次には一体幾つ、目の前にグラスを並べられるのやら、と内心に苦笑を浮かべながら、楊ゼンも挨拶をして太公望に続いた。
 重いドアを閉め、狭い階段を上がると、昼間よりは大分、涼しくなった夜の空気が全身を包み込む。
 そのまま二人は肩を並べて、ネオンが消えることのない不夜城の汚れたアスファルトを歩いた。

「大分、涼しくなりましたね」
「まだまだ昼間は暑いがのう」

 交わす会話は大して意味もなく、途切れ途切れだ。
 普段どちらも互いに大しては割合、おしゃべりだが、だからといって沈黙が嫌いなわけではない。
 楊ゼンも太公望も、しゃべり続けていなければ不安になるというような性格には縁がなかったから、自分と相手の足音が重なるのを聞きながら、ただ夜道を並んで歩くことも多かった。

 毎晩ではないにせよ、楊ゼンがアルバイトの終わった太公望を迎えに行くのは、別に夜道が危険だからではない。
 付き合い始めてから知ったことだが、太公望は見た目は細くとも、実のところ、かなり腕は立つ。
 幼い頃から祖父に武道を仕込まれたとかのことで、そのあたりのチンピラや酔っ払いは問題にもならない。
 楊ゼンも、親の趣味で拳法の稽古に通ったことがあり、それを太公望に話したところ、面白半分で手合わせをすることになったのだが、結果は、本気でやったら体格や持久力の差を差し引いても、互角というレベルだった。
 だから、そういう意味では、楊ゼンは太公望のことを全然心配していない。
 数年前ならともかく、今の太公望には、不埒な連中が付け入る隙は微塵もないのである。
 なのに、いつも日付が変わる頃に家を出る理由は、ただ一つ。

 ───少しでも長く傍に居たいから。

 それだけだだった。
 家で一人、恋人の帰りを待つのが苦痛というわけではない。
 家の事を片付けたり、本や新聞を読んだりしながら、今頃どうしているだろうと考えているのも、それはそれで楽しい。
 けれど、こんな風に二人で夜道を歩く時間も捨てがたくて、出かけずにはいられないのだ。
 そして太公望の方も、そんな楊ゼンの振る舞いを拒絶したりはしない。
 言葉にしてくれるような人ではないが、彼の方もそれなりに楽しんでいるらしいことは瞳の色や表情を見ていれば分かる。
 これまで以前の素行からすれば、おそらくどちらも苦笑するしかないような(時間帯はともかくも)お散歩デートだが、それでも言葉にならない満足感が二人の間を満たしていて。
 幸せだな、と柄にもなく楊ゼンは思った。















いつでもどこでも出てくる太乙。
ある意味、美味しい役ですよね・・・・。

バカプルについては引き続き、ノーコメント。





NEXT >>
<< PREV
BACK >>