Day and Night








 いつもと同じように玄関の鍵を開け、上がり框(かまち)に鞄を置いて靴を脱ぎかけて。

「おかえりなさい」

 降ってきた声に、思わず顔を上げた。
 それはもう、何年も聞いたことのない……そして、口にしたことのない言葉で。
 思わず苦笑ともなんともつかない笑みが零れる。
 けれど。
 おかえりと言われたら、返す言葉は一つ。
 リビングのドアに軽くもたれて、何ともいえない笑みでこちらを見つめている長身の青年に向けて。

「ただいま」













 1. afternoon





 昼休みが終わったばかりの屋上は、まったく人気がない。
 グラウンドの上に広がる青い空を独り占めにして、楊ゼンは何をするでもなく階段室のコンクリート壁に背を預けていた。
 秋に片足をかけたばかりの今日は、風もほとんど無く、全開にしているらしいどこかの教室の窓からは、英語のテキストを朗読する教師の声がかすかに響いてくる。
 グラウンドでは、サッカーをやっているらしい無秩序に騒ぐ声が、時々跳ね上がる。
 昼下がりの時間は、ひどくのんびりと流れていた。
 今ごろ、自分の教室は物理の授業中だな、と何となく楊ゼンは考える。
 今はまだ大丈夫だが、三学期に入ったら多少、サボりまくっている授業の出席単位数を計算しなければいけなくなる。
 もっとも多少出席が足りなくとも、入学以来一度もその地位を譲ったことのない学年首席に落第などという自体は、まず有り得ない。
 気楽な事実ではあるが、誰にも咎められないということが退屈を増幅させているのも、また、事実だった。

 どうするかな、と冬服に変わったばかりの真昼の日差しの中で、とりとめもなく楊ゼンの思考は流れる。
 現在途中の五限目と、その後の六限目が残っているが、今日はもう授業に出る気はしない。五限目が終わったら、教室に鞄を取りに行ってそのまま帰ろうか、と思案する。
 校内の人気ない場所で、こうして時間を潰すのも嫌いではないが、四間目からサボり続けている今日は、そろそろ飽きがきた。
 どうせ昼寝するのなら、家で誰かが帰ってくるのを待ちながらの方がいい、と思う。
 第一、学校では『彼』は目線も合わせてはくれないのだから。

 今日は、校内ではまだ一度も、『彼』とは会えていない。
 たとえ校舎が同じでも、学年と教室の階が違っていると、それだけで接点は殆どなくなってしまう。
 おまけに、教室移動の時や休み時間に、運良く廊下や階段で擦れ違うことがあっても、まるで知らない人間のように存在を無視される。
 綺麗に、そこに居ることさえ気がついていないかのように。
 完璧に無視して、『彼』は通り過ぎてゆく。
 二人の間では当たり前になっているそれが、ささやかながらも揉め事の原因になったのは、つい昨日のことだ。

 もっとも、揉めたといっても大した話ではない。
 校内ですれ違う時、せめてこちらに気づいていることくらい合図して欲しいと楊ゼンが軽い調子で陳情し、彼が素っ気ない口調で却下する、そんないつもと同じやりとりに過ぎなかった。が、昨日はたまたま楊ゼンがしつこく(といっても同内容のことを三度)繰り返したために、向こうの機嫌が悪くなったのである。
 だからといって根に持つ相手ではないし、楊ゼンも適当なところで切り上げて話題を転換したから、大事には至っていない。
 喧嘩というのも大げさな、どこにでも転がっているような日常茶飯事の出来事だった。

 『彼』と個人的に言葉を交わすようになってから、早や数ヶ月。
 向こうの性格も大分、把握できてきたし、学校内での事に関しては自分が何を言っても無駄、ということも分かりかけてきている。
 だが、学校の外ばかりでなく、校内でも他人の目をかすめて甘い想いに浸れたら、それはそれで楽しいのではないか、と時々、思わないでもないのだ。
 なにせ自分たちは、同棲までしている恋人同士であるのにもかかわらず、学校では一度も口を利いたことがないのである。
 高校生という立場上、嫌でも一日の大半を校内で過ごさなければならないのに、付き合い始めてから数ヵ月になる今も、学校(ここ)での自分たちは何の接点もない赤の他人の顔のまま、すれ違いを繰り返している。
 まるでいつか再放送で見た、犬猿の仲の優等生と不良生徒が実は夫婦という大昔の学園ドラマのような関係に、面白さを感じないわけではない。
 ないけれど。
「でも、あの人のそういう所が好きなんだしな……」
 溜息まじりに呟きながら、と楊ゼンは制服の上着の内ポケットから、煙草の箱を取り出し、一本を咥える。
 そして、火をつけた時。

 階段室のドアが開いた。

 ところどころにサビの浮きかけたスチール製のドアは、少々立て付けが悪く、開閉されるたびにかすかな軋み音をあげる。
 この高校が全国でも指折りの名門進学校だからといって、生徒全員が真面目なガリ勉というわけではない。
 が、授業をサボる生徒もそれほど多いわけではなく、誰だろうな、と楊ゼンは手にした煙草を隠すこともなく、自分以外のサボリの常連の顔を思い浮かべた。
 けれど、次の瞬間、聞こえたのは。

「やっぱり、ここにおったか」
「え!?」

 聞き慣れた声に、思わず楊ゼンは煙草を取り落としかける。
 コンクリート床に腰を下ろしたまま、ばっと左を振り返ると。
 そこには、たった今、思っていた人が立っていた。
「……どうして、こんな所に?」
「うん? いつものヤツだよ。ただ、今日は何となく思いついてのう。階段を降りるのではなく昇ってみたのだ」
 そうしたら、おぬしが居た、と笑みを見せられて、楊ゼンは言葉を続けられなくなる。

 『彼』こと、太公望は、この学校の前生徒会長であり、全国模試でもトップを争う秀才であり、品行方正、明朗快活な人望厚い優等生だった。
 が、それは表向きであって、授業に退屈して眠くなると、「気分が悪くなりました」の一言で保健室のベッドに直行する悪癖の持ち主だということを楊ゼンは知っている。
 そして、彼の本性はそれどころでは無いことも。
 実によく知っていた。

「いい天気だのう。これだけ天気がいいと、さすがに保健室で昼寝するのも惜しくなる」
「だからですか」
 保健室のベッドで惰眠をむさぼるのを、校内における至上の楽しみとしている彼が、気持ちよさげに伸びをするのを見て、楊ゼンは苦笑まじりの溜息をつく。
 そして、手にした煙草の灰を落としながら言った。
「まったく……。それじゃ喜ぶ気にもなれませんよ。あなたが初めて、校内で声をかけてくれたっていうのに」
「なんだ、そんなこと」
「その他人事みたいな言い方、やめて下さいよ。この件については、昨夜も言い合いしたばかりじゃないですか」
「記憶にないのう、そんな半日以上も前のことなど」
「………あのですね」
「いいではないか、現にこうして今、学校の屋上で話をしておるのだし」
 くすくすと笑いながら、太公望は楊ゼンの隣りに無造作に腰を下ろす。
 そして、悪戯な笑みを滲ませたままの瞳で、楊ゼンを見上げた。
「保健室に行くと断って教室を出た時、なんとなくおぬしのことを思い出した。それで階段を逆に昇って屋上に来てみたら、やっぱりおぬしが居た。それだけの話だ。素直に現実を喜べ」
「………嬉しくないとは一言も言ってないですよ」
 あっさりし過ぎているせいなのか、かえって回りくどい太公望の告白に、楊ゼンは諦めたように肩をすくめて。
「僕を思い出して下さってありがとうございます、先輩」
 半分皮肉めいた口調で言い、太公望の唇に軽いキスを贈る。
 太公望の方も、それを笑って受け止め、手を伸ばして楊ゼンの肩から流れ落ちる長い髪を一房、指に絡め取った。
 その仕草に誘われるまま、煙草を揉み消した楊ゼンは、細い身体に腕を伸ばしてゆるく抱き寄せる。
 太公望も抵抗することなく楊ゼンの肩に手を置き、戯れるような軽いキスを何度も二人は繰り返した。

「……なんか、新鮮ですよね」

 キスの合間に楊ゼンが言うと、太公望もくすりと笑う。
 そして、最後に少しだけ深く舌を絡め互いを感じてから、唇を離したついでに太公望は、ぐいと楊ゼンの肩を両手で押しやった。
「ここまでだ」
「え〜?」
「たわけ。新鮮だろうが何だろうが、鍵のかからぬ屋上で、これ以上のことができるか」
「じゃあ鍵のかかる場所ならいいんですか」
「それは、その時の気分次第だな」
 楊ゼンが一瞬、見惚れるほど綺麗で不敵な笑みを見せて。
 半ば楊ゼンの膝に乗り上げていた太公望は、あっさりと離れて、元通りコンクリート床に腰を落ち着ける。
「本当にいい天気だな。空が真っ青だ」
「まだ暑いですけど、秋なんですよね。朝晩は大分、涼しくなってきましたし」
「そうだな」

 しばらくの間、並んで空を見上げる。
 高く澄み渡った空には、小さな雲が一つ二つ浮いているだけで、あとは何も無い。
 やがて、軽く息をついて、太公望は立ち上がった。

「先輩?」
「そろそろ五限も終わるからな、わしは保健室に行く。来室記録はちゃんと残しておかぬと、担任から問い合わせが行った時に困る」
「はいはい」
 優等生をやるのも人生ゲームのうち、という彼の妙な哲学を聞かされている楊ゼンは、苦笑をしながらも引きとめはしない。
 が、ふと思いついて、太公望を呼んだ。
「僕はもう帰りますけど、先輩はどうするんです?」
「このまま六限が終わる頃までは寝る予定だが……。放課後はまだ生徒会の引継ぎが残っておるからのう、帰りは少し遅くなる」
「じゃあ、今日の買い物は僕が行っておきますよ」
「おぬしが?」
 肩越しに振り返った太公望は、口調ほどには驚いた顔はしていなかった。
 その深い色の瞳を見つめて、楊ゼンは笑って告げる。
「大丈夫ですよ。大分、スーパーに行くのも慣れましたから。買うものは冷蔵庫に貼ってあるメモの通りでいいんですよね?」
「買うものは良いが……」
 まぁ、最終的には一人で行かねば、買い物の極意は身に付かぬか、と太公望は呟いて、楊ゼンに向き直った。
「生ものは鮮度と値段、加工食品は製造日と添加物と値段、冷凍食品は冷凍庫の空き具合と相談。この三点だけはくれぐれも注意するのだぞ。目当ての商品が無くて足りぬのは構わぬが、余計なものや妙なものは買うな」
 その立て板に水のような勢いの諸注意に、楊ゼンは思わず微苦笑を零す。
「分かってますって。買い物に行くたびに、あれだけしつこく言われれば嫌でも覚えますよ」
「それなら良いがな。とりあえず、今日のところは任せる」
「はい。じゃあ、また後で」

 最後にさりげないキスをかわして、太公望はするりと楊ゼンから離れてゆく。
 その後姿を、コンクリート壁に上半身を預けたまま、楊ゼンは見送った。
 そしてまた、空を見上げる。

「……こんなのでも、少しは進歩したって言うのかな」

 ぼやくような呟きとは裏腹に。
 その口元には小さな笑みが浮かんでいた。















またまたMidnightの続き。
けれど、あまりにも文章のまとまりが悪いのでファイル分割しました。すみません。





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