Promised Night 6








 午後の曇り空を遮光カーテンで隠し、互いの服に指先を伸ばしながら唇を重ねる。
 一ヶ月以上のブランクを経て触れる互いの唇はどこまでも甘くて、何度口接けても、どれほど舌を絡ませても物足りなさが消えない。
 もっと欲しい、と湧き上がる思いに流されるまま、楊ゼンと太公望は互いを求めた。
「……っ…」
 耳の下から首筋へと降りてゆく熱く濡れた感触に、太公望は乱れた呼吸のまま、小さく息を詰める。
 これまでになく長い時間、触れ合いがなかったことに加え、感情が高ぶっているせいか、一つずつシャツのボタンが外されてゆくのにさえ、躰が小さくおののいてしまう。
 そして、衣服を乱してゆく楊ゼンの手の動きも、どこか性急さが滲んでいて。
「師叔……」
 甘いささやきと共に耳朶を軽くかまれて、ぞくりと何かが背筋を駆け抜ける。
「こんなに長い間離れて……寂しくありませんでしたか?」
「っ…あ……」
 はだけたシャツの隙間から胸元へと手が滑り込んでくる。
「僕は寂しくて気が狂いそうでした。このままあなたを失うくらいなら、いっそ殺された方が楽だとさえ……」
「楊…ゼンっ…」
 切なくささやく声と、やわらかくいとおしむように肌を撫でる手指の感触に、太公望は細い声を上げて乱れた。
「──っ、やぁ…っ」
 過敏な胸元を唇と舌で愛撫しながら、楊ゼンの手は性急に細い腰へと肌を伝い降りてゆく。
 ただでさえ過敏な肌をくまなく触れられて、愛戯は始まったばかりだというのに、太公望の甘い声にすすり泣くような響きが混じり始める。
「いゃ…っ……ん…!」
 遮光カーテンを引いただけの明るさの中、さらけ出された華奢な躰が、与えられる愛撫にびくびくとせわしなくおののいて。
 早くも込み上げる疼きに焦れ始めた感覚を持て余し、太公望は指先に触れたシーツを固く握り締めた。
「師叔……」
 そんな太公望を熱を帯びた瞳で見つめ、楊ゼンは更なる愛撫をやわらかな肌へと与えてゆく。
 幾つも薄紅の跡を刻みながら、細腰の窪みを嬲っていた手を、するりと細い脚の間へ滑らせる。
「──あ…っ!」
 そのまま既に濡れ始めていた中心に軽く指を絡められて、太公望は大きく躰をのけぞらせ、高い嬌声をあげた。
「やっ……は…ぁん…っ」
 溢れ出す蜜を絡めながら、楊ゼンの指先が優しく形をなぞり、過敏な箇所を撫で回す。
 そのあまりにも直接的な感覚に耐え切れず、固く閉じた目尻に涙が滲む。
 だが楊ゼンは、そんな上気して切なげな太公望の表情をいとおしげに見つめて、更に愛撫を深めてゆく。
「もっと感じて……」
 甘やかなささやきと共に身体の位置をずらして、執拗な指戯にさらされ、泣き濡れておののいている中心に口接けた。
「──やぁ…っ!」
 軽くついばむような口接けを落とした後、そのまま指よりもはるかにやわらかな舌で全体を優しく宥められ、とろとろと溢れ出す蜜を吸い取られる感覚に、太公望はたまらず甘い悲鳴を上げて逃れようとする。
 が、楊ゼンの手に押さえ込まれた華奢な脚は、快楽に萎えておののくばかりで、膝を閉じることもできない。
「…ぁ、ひ…っあ……」
 なされるがままに過敏な箇所への執拗な愛撫を受け止めて、太公望は細くすすり泣くような喘ぎを零した。
「ねぇ師叔、このまま達って下さい」
 快楽を長引かせるかのように、ゆるゆると舌と指で太公望の弱い部分を泣かせながら、楊ゼンは甘くささやく。
 そして、不規則に強弱をつけながら、濡れて張り詰めた中心を吸い立てた。
「ゃ……、いやぁ…っ!」
 その感覚に耐え切れず、太公望は高い悲鳴を上げ、がくがくと全身を震わせて一気に昇りつめる。
「────っ…!!」
 解き放たれたものをすべて受け止めて、しかし楊ゼンはそれで愛撫を止めることなく、快楽の余韻におののいている膝に手をかけ、しどけなく開かれた細い脚を更に広げさせた。
 脱力した躰は抵抗することもできずに、最奥までをその視線の前にさらけ出す。
「い…や……楊ゼンっ…!」
 これまで何度も躰を重ねてきたとはいえ、まだ明るい室内で、すべてを視られる羞恥に、太公望は泣き出しそうに顔を歪める。
 だが、
「可愛いですよ……」
 楊ゼンは笑みを含んだ声でささやき、再び顔を伏せて、太公望のまだ固く閉じた最奥へも舌を這わせてゆく。
 昇りつめた快感の余韻に、かすかにひくついている柔襞を一つ一つなぞり、その曖昧な濡れた感覚におののき始めたところで、奥へと舌先を侵入させる。
「っあ……やぁ…っ!」
 ひそやかな、けれど、みだらがましい音を立てながら繊細な秘所を優しく犯されて、太公望はシーツをきつく握り締めてすすり泣いた。
 やわらかな舌での愛撫は、あくまでも浅く、じれったいばかりの快感を募らせて。
「楊…ぜんっ…」
 込み上げてくる切なさに耐え切れず、太公望は甘い熱を帯びた声で恋人の名を呼ぶ。
「…っ…あ、も…早く……っ」
 これまでの夜の比べれば、ひどく執拗な愛撫というわけでもない。むしろ、今は技巧より性急さの方が目立つといってもいい。
 なのに、もう躰の奥が熱くてたまらなくて。
 自分ではどうしようもない熱に、焦れた腰がおののき、握り締めたシーツに爪を立てずにはいられない。
「僕が欲しい……?」
 限界を見て取った楊ゼンの、低い問いかけにも。
 ためらうことなくうなずいて。
「は…やく…っ、楊ゼン……!」
 泣き濡れた瞳を懸命に開いて、すがるように恋人を見上げる。
「師叔」
 そんな太公望に楊ゼンもまた切なげに目を細め、浅く喘いでいる唇に口接けた。
 そのまま二人は想いに流されるままに互いの背に腕を回し、何度も角度を変えながら舌を絡ませ、むさぼるような深いキスを繰り返す。
「──愛してます」
 そして、ようやく唇を離し、低くささやいて。
 楊ゼンは、熱く張り詰めた己の昂ぶりを、濡れてひくつく秘所に押し当てた。
「力を抜いて……」
 宥めるように汗に濡れた太公望の髪を片手で梳いてやりながら、腰に力を込める。
「──っ…あ……んっ…」
 いつになく感覚が昂ぶっているとはいえ、一ヶ月ぶりに楊ゼンの熱を受け入れる柔襞は、強く拒みはしないものの、きつくおののきながら奥深くまで侵入してきた異物を締めつける。
 その感覚に、楊ゼンもまた熱い息を吐(つ)きながら、太公望の額や目元に優しい口接けを落とした。
「大丈夫ですか?」
「ん……」
 そっと問いかけると、太公望は乱れた呼吸を整えようとしながらも小さくうなずいて、目を開く。
 涙に濡れた瞳の深い色に見惚れる楊ゼンを見上げ、太公望は何度かまばたきをして、小さく唇を動かす。
「な…んか……躰が、すごく熱い……」
 ひどく切なげに告げた細い声に、楊ゼンは軽く目をみはり、それから優しい熱を帯びたまなざしで、太公望の目を覗き込んで微笑した。
「僕もですよ。熱くて……あなたがもっと欲しくてたまらない」
「おぬし…も……?」
「ええ」
 うなずき、楊ゼンは太公望の唇に触れるだけのキスをする。
「この一ヶ月、あなたを失ってしまうのかと思うと本当に辛くて……。あなたが、こんな風に僕を選んでくれるなんて思わなかったから」
 今は、ただ嬉しくて。
 愛しくてたまらないのだと。
 告げる楊ゼンに、太公望も切なげな色を瞳に浮かべた。
「……わしも……」
 ひそやかにささやき、そっと手を上げて楊ゼンの頬に指先を触れる。
「本当は……今も怖い。この先に何があるのか、自分がどう変わっていくのか……」
 一歩、踏み出すことはできた。
 けれど、その先にあるのは未知の世界──未知の自分。
 十数年ぶりに得る家族との生活、いつか失うかもしれない恐怖、そんなものと表裏一体の幸せは、まるで薄氷を踏むようで。
 確かに幸せなはずなのに、怖くてたまらない。
「師叔……」
 そう訴える太鼓望を宥めるように、楊ゼンは優しいキスを目元に落とす。
「──絶対に大丈夫だとは言えません。明日のことなんて、誰にも分からない。……でも、それが怖いのはあなただけじゃない。僕も一緒なんです。
 あなたを失うのが怖い。あなたを傷付けるのが怖い。その恐怖は同じだから、一人で怖がらないで。怖くてどうしようもない時は、必ず僕に言って下さい」
 そうしたら。
 どんなに離れている時でも、すぐに帰って抱きしめてあげるから。
 寂しがらなくてもいい、怖がらなくてもいいとキスをしてあげるから。
 だから。
「逃げないで……」
 ささやかれた言葉に。
 太公望の瞳に薄く涙が滲む。
「うむ……」
 一人ではどうにもならないことでも。
 二人なら、何とかできることもあるかもしれないから。
 何があってもこの想いだけは、嘘ではないと。
 そう信じられたらいい。
「いつでも傍に……おぬしが、いてくれたら……」
 いい、と。
「師叔……」
 初めて告げられた太公望の本当の心に。
 楊ゼンはいとおしむように口接けを繰り返し、華奢な躰を強く抱きしめる。
 ただ、愛しくてたまらなくて。
 できることなら、このまま深く躰を溶け合わせて。
「二度と離れることのないように、あなたと一つになってしまいたい」
 もう二度と寂しい思いをしなくてもすむように。
 もう何にも怖がらなくていいように。
「愛してます。あなただけを……」
 ささやき、また深く口接けて。
 潤んで深みを増した太公望の瞳を切なげに見つめ、
「師叔……」
 楊ゼンはゆっくりと動き始める。
 途端に、太公望はきゅっと眉根を寄せて、細い首をのけぞらせた。
「──っ、あ…ぁ……んっ…!」
 深く、時には浅く、乱れて喘ぐ呼吸を計りながらの律動に、たちまちのうちに太公望の脳裏が真っ白に灼き付く。
 一ヶ月の空白を……長かった葛藤の日々を埋めるように、楊ゼンはゆっくりとした動きで甘く絡み付いてくる柔襞を、己の熱で慰める。
「ここ……?」
「…っは……ぁ…やあ…っ…」
 嫌だと悲鳴を上げた箇所を更に繰り返し突かれて、太公望の嬌声が甘いすすり泣きを帯びた。
 更に、胸元で固くしこった尖りを軽くついばまれ、舌先で転がされて、どこまでも体温が上昇してゆくような錯覚に囚われる。
 全身を焼く切なさに泣きながらも、細い脚はこれ以上ないほどに開かれ、それだけでは足りずに楊ゼンの腰に絡みつく。
「──っあ……楊ゼンっ…!」
 ……熱くて……甘くて。
 どうしようもなく苦しいのに、もっと欲しくてたまらない。
 こんな餓えが自分の中にあったのかと、驚き戸惑いつつも求めずにはいられなくて。
 たった一人の、狂おしい程の熱をくれる存在を太公望は呼ぶ。
「師叔…っ」
 答える声も、常にない熱を帯びた響きで。
 指先まで甘く溶け崩れそうな感覚に喘ぎながら、太公望が懸命に目を開くと、やはり狂おしいほどの光を滲ませた楊ゼンの瞳が視界に映った。
「太公望師叔」
 深く躰を溶け合わせながら、楊ゼンは低くささやく。
「僕はあなたさえ、居てくれたらいいんです。もう他の何も要らない……」
 財も才も、有り余るものを与えられはした。
 けれど、自分で望んだものは……欲しいと思ったものは、たった一つしかないのだと。
 一番最初の夜に紡いだ言葉を繰り返して。
「あなたのためなら、僕は何でもできる。だから……離れないで」
 他に失って惜しいものなど何もないから。
 たった一つだけ、何よりも大切なものさえあればいいと、腕の中の愛しい存在に口接ける。
 どこまでも、求めて、求められて。
 狂おしいほどの切なさに。
 ───熔けてしまう。
 己の存在も、腕の中に抱いた存在もないくらいに、溶けて、深く一つに交じり合う。
「楊…ゼンっ……」
 やわらかな肌に口接け、幾つもの所有印を刻み。
 指を伸ばしてすがりついた先の広い背に爪を立てて。
 互いの存在だけを感じながら、いつ終わるとも知れない、果てのない切なさの波に二人は飲み込まれ、溺れていった。







「──こじんまりとした綺麗な家を建てて、二人だけで暮らしましょう。ハウスキーパーも雇わないで……」
「わしはフラット暮らしでも構わんが」
「駄目ですよ、広い庭付きの一戸建てでないと。犬を飼うんですから」
「……ああ、おぬしの哮天犬か」
「ええ。写真でしかあなたには見せたことがありませんけれど、とても賢いピレネー犬ですよ」
「写真で見た限り、綺麗な犬だったな。真っ白でふさふさで……」
 楊ゼンの腕に頭を預けたまま、太公望は意味もなく楊ゼンの指に自分の指を絡める。
 手のひらを重ねてみたり、指先を撫ででみたり、他愛のない子供の遊びのように指先だけでじゃれあいながら、春からの生活について、とりとめもない睦言は続く。
 黄昏時を迎えた窓の外では予報通り、粉雪がしんしんと舞い始めていた。
「書斎を兼ねた仕事部屋は、一応それぞれにあった方がいいかな。どう思います?」
「そうだのう。論文の締切近くになると、絶対に室内が滅茶苦茶になるからな」
「ですよね。となると、間取りは……」
 素肌の下に熱の余韻を感じたまま、互いの温もりに寄り添う。
 それだけのことが、この上なく得がたいものに感じられて、二人は、どちらからともなくしのびやかな笑みを零す。
 そして、楊ゼンの手がそっと太公望の指をほどき、さらさらと流れる黒髪を優しく梳いた。
「──一眠りして、目が覚めたら食事にしましょう?」
「……十州飯店の飲茶がいい」
「いいですよ」
 微笑み、軽く触れるだけのキスをして。
 二人は寄り添ったまま、目を閉じた。

*               *

「今日もいい天気ですよね。せっかくの休みですし、どこかに遊びにいきます? それとも家でのんびりと?」
「そうだ
のう」  サラダのレタスをフォークでつつきながら、太公望は小首をかしげる。
「まだ本を詰めた段ボールが全部片付いておらぬから、いい加減どうにかしたいところだが……」
 これだけ天気がいいのに家の中で作業して過ごすのももったいない、と思案顔になる太公望に微笑みながら、楊ゼンはコーヒーカップに手を伸ばした。
「じゃあ、本の片付けは雨が降った時にやることにして、今日は遊びに行くのはどうです?」
「雨降りなら雨降りで、また何か思いつくくせに」
 この前の休みに雨が降った時は、雨の港も風情があって綺麗ですよと誘ったのは誰だった、と太公望は悪戯に睨む。
 だが、楊ゼンは動じることもなく、
「でも、風情があって良かったでしょう?」
 テーブルの向かい側に座る相手に微笑みかける。
「まぁのう」
 そんな楊ゼンに、太公望も軽く笑っただけで、それ以上は突っ込まない。
 代わりに、それはそれとして今日はどうしようかと、また窓の外を眺めた。
 空は明るく澄み、初夏の日差しにポプラの若葉が輝きながらそよいでいる。見ているだけでも心が浮き立つような上天気だ。
「じゃあ師叔、こうしましょう」
「うん?」
「午前中は二人で書斎を片付けて、午後から一緒に出かけるんです。それならいいでしょう?」
「……そうだな」
 提示された妥協案にちょっと考えてからうなずき、太公望は改めて楊ゼンを見つめた。
 その深い色の瞳に悪戯っぽい光が輝いているのをすかさず認めて、楊ゼンはわずかに警戒する。
 と、太公望は楽しげな口調で続けた。
「だが、おぬし、携帯電話はちゃんと電源を入れて持って行くのだぞ」
「えー、嫌ですよ」
 途端に、楊ゼンは眉をしかめて不満げな声を上げる。
「阿呆。自分の立場を少しはわきまえろ。大企業の重役が毎週末毎に音信不通にしてどうするつもりだ」
「別に大丈夫ですって。危機管理は怠ってませんし、僕や父に万が一のことが起きても、その時の対処は取り決めてありますし……」
「そういう問題ではない。緊急時にトップと連絡が取れなかったら企業全体の信用に係わるだろうが。
 良いか? 外出するのは構わんが、携帯はちゃんと持ち歩いて、何かあれば即座に戻ること。でなければ、出かけぬぞ」
 きっぱりと言い切って、太公望はカフェオレを口に運ぶ。
 それから、不満げな顔を隠さない楊ゼンに、ちらりとまなざしを投げ、溜息をついた。
「おぬしだって、仕事は大事だと言っておったくせに……。いくらなんでも浮かれすぎだと思わぬのか?」
「仕方ないじゃないですか、実際嬉しいんですから。なのに、平日はどうしても残業だの仕事上の付き合いだので、帰りが遅くなってしまうし……。週末くらいは、あなたと水入らずで過ごしたいんですよ」
「却下。気持ちは分からんでもないが、それではわしがこっちに来たことがマイナスにしかならぬ。それ以上ボケたことを言うのなら、わしは別居するぞ」
「………分かりましたよ」
 正論を述べる太公望に、楊ゼンも渋々ながら降参の手を上げる。
「仕事に身が入らないのはあなたのせいだと、他人に非難させるわけにはいきませんからね。真面目な副社長を勤めさせていただきますよ」
「そう、それで良いのだ」
 方(かた)や取り澄まし、方や拗ねた仏頂面で、わずかな間沈黙して。
 それから、どちらからともなく吹き出す。
「まったく……」
「あなただって……」
 くすくすと笑いながら、互いの顔を見つめて。
「で、今日はどこに行きます? 何か見たいものとかありますか?」
「そうだのう……」
 やわらかく問いかけられて、太公望が思案顔になった時、それまでテーブルの足元に大人しく寝そべっていた、大きなピレネー犬がぴくりと顔を上げ、窓の方に顔を向けた。
「哮天犬、お客様かい?」
 素早くその反応に気付いて、本来の飼い主である楊ゼンが窓の向こうの前庭へと目を向ける。
 と、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。
「やっぱり客か」
「みたいですね。あ、僕が出ますよ」
「いいよ、わしも行く」
 楊ゼンと太公望が立ち上がると、自分もと思ったのか、真っ白な毛皮の大型犬も立ち上がった。
「なんだ、お前も来るのか?」
 その頭を楊ゼンが軽く撫で、結果的に、二人と一匹が連れ立って玄関へと向かう。
「でも、誰でしょうね。休日のこんな朝から」
 郊外の閑静な高級住宅街の中に、巨大複合企業の後継者とその恋人の新居ができたことを知っている人間は、数としてはさほど多くない。
 太公望と水入らずで暮らしたいという楊ゼンの我儘を通して、大富豪の持ち物としては規格外にこじんまりしたサイズの邸宅はセキュリティ面は万全だが、しかし、用心に越したことはないのである。
「まぁ哮天犬も警戒してる様子はないし……ヒットマンやマスコミではないかな」
「のんきなことを……」
 少々呆れ口調で言いつつも、太公望は相手を確かめるべく玄関横のインターホンの通話ボタンを押す。
 途端。
『望ちゃーん、早くここ開けてよ』
『太公望、遊びに来たよ〜』
 聞き覚えのある、にぎやかな声が飛び込んできて。
 思わず二人は、小さく声を上げる。
「なんで……」
『太公望〜』
『望ちゃん〜』
 呟く間にも、開扉を願う呼び声は繰り返し、太公望を呼ぶ。
「……どうします?」
「どうするって……開けぬわけにもいかんだろうが」
 小さくささやき合って、太公望は眉をしかめつつも、玄関のロックを開錠した。
 途端。
「望ちゃん、久しぶりー!!」
「元気そうだね、太公望。楊ゼンに浮気なんかされてないかい? 泣かされるようなことになったら、すぐに帰って来なきゃ駄目だよ」
 けたたましいさえずりが玄関ホール中に響き渡り、思わず二人は耳を抑える。
「いいから、ちょっとは黙らんか、おぬしら!」
「それより……どうして玉鼎教授までいらっしゃるんです?」
「いや、私は来るべきかどうか迷ったのだが……やはり、心配でな。また喧嘩でもしているのではないかと……」
「………心配性もいい加減にして下さいよ……」
「まったく……」
 がっくりとうなだれた二人を、哮天犬がふさふさのしっぽを揺らしながら不思議そうに見上げる。
「──で? おぬしたちは何をしに、はるばる太平洋を越えてきたのだ?」
 そして、気を取り直したように太公望が問いかけると。
「あ、私はマサチューセッツ工科大学で学会♪ もちろん、学会の方がついでだけどね」
「僕もマサチューセッツに呼ばれたんだ。月一講義の客員教授なんだけど。でも僕、ホテルってあんまり好きじゃないから、ここに泊めてもらおうと思ってさ」
「何!?」
「ちょっと、勝手な事を言わないで下さいよ!」
「私は、お前が世話になる研究所と楊ゼンの父上に挨拶をしに来たのだ。本来ならお前の身元保証人である前総長か燃燈が来るべきなのだが、二人とも忙しいとかで私が代理を頼まれたのでな。私としても、お前たちがうまくやっているか、心配だったのは確かだし……」
「挨拶なんぞ要るか! わしを幾つだと思っておる!?」
「そうですよ、ここはユースホステルじゃないんですよ。僕たちの家を何だと思ってるんです!?」
「まぁまぁ、いいじゃないか。堅いことは言いっこなしでさ」
「そうだよ。僕らにも散々やきもきさせたんだからさ。これくらいの事をしてもらう権利はあると思うな」
「普賢と太乙が必要ないと言ったとはいえ、事前連絡をしなかったのは確かにこちらの落ち度だが、二人とも、遠路はるばる尋ねてきた旧友や恩師を追い返そうというのは、人としての道に外れた行為だぞ」
「とかもっともらしいことを言っても、要は揃って出歯亀をしに来たんでしょうが! 新婚生活の邪魔なんかさせませんからね!!」
「誰が新婚だ、楊ゼン!?」
「僕たちに決まってるでしょう!? たとえ籍は入れてなくても事実婚でしょうが、現状は」
「一緒に暮らすと言っただけだぞ、わしは!」
「あ、さっそく痴話喧嘩?」
「望ちゃん頑張って〜♪」
「楊ゼン、事実を都合のいいように解釈するのは良くないぞ。要らぬいさかいの原因になる」
「〜〜〜おぬしら全員、とっとと帰れっ!!」
 閑静な高級住宅地のど真ん中にある、瀟洒な玄関ポーチでの大騒ぎに。
 物言わぬ哮天犬だけが、飼い主と客人を順番に眺めた後、よく晴れた空を見上げ、朝ごはんの続きはいつになるのだろうと考えるかのように小首をかしげた。






end.









 というわけで最終回。やっと終わりました。
 もとより再録ということもあって、オフラインの本の完売後、少々間を取りたかったために、さくさくと公開する気は微塵もなかった作品ですが、しかし長かったです。
 オフラインでのこの作品を御存じないお客様がいらっしゃることも承知はしてたのですが……何というか、あらゆる意味で書き手としては痛い作品だったので、作業が遅れに遅れたこともお許しいただければ幸いです。

 しかし、よくもこんな話を書いたなぁと、この作品のファイルを開くたびに思います。
 3作目くらいで、自分で書いておきながら話の展開に耐え切れず、古い友人に泣きついたら、「あんたにそんな話が書けるわけがないでしょ、馬鹿だね」と思いっきり呆れられたのも、今となってはほろ苦い思い出……(T▽T)
 これと同様に再録の進まない『夢見る頃を過ぎても』もそうですが、結局、私は恋愛が主題の作品は、たとえ思いついても上手くは書けないみたいです。あらゆる意味で、もう少しとんがっている方が楽。
 このシリーズも、いっそのこと企業買収とか、大学の裏金問題とか、主人公たちが恋愛どころじゃなくなるような事件を起こしたほうが個人的には楽しかったかもしれませんね。そうしたら、全然別の雰囲気の作品になっていたでしょうが。

 待っていて下さるお客様がいる。という意地と義理だけで、最後は書き上げたような作品でしたけど、それでも無事に終わらせることができた時は本当にほっとしたことは今でも鮮明に覚えています。
 作者が愚痴を零しっぱなしという、この作品を気に入ってくださっているお客様にはとてつもなく失礼な作品ですが、何にせよ、この作品はこれで完全に完結です。
 もう一本、オマケ本のバカップル話がありますが、これはもう未来永劫お蔵入り。アホ過ぎるので、再録はしません。
 というわけで、ここまで見て下さってありがとうございました。
 御感想、御意見は……ノーサンキュー、かな……(苦笑)





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