Promised Night 1








「──結婚しませんか」

 薄曇りの初冬の朝、呟くように告げられた突然の台詞に。
「───え」
 シャツのボタンを留める太公望の手が止まった。
 肩越しに振り返った、大きく見開かれた瞳を見つめ返した楊ゼンは、小さく息をついてからベッドに起き上がる。
 そして、淡いブルーのシーツにまなざしを落とし、もう一度口を開いた。
「僕が向こうに帰る前に……籍だけでも入れませんか」
「な…にを……」
「本当はあなたと一緒に帰りたいんですが、あなたも仕事がありますから、それは無理でしょう? だから、せめて……」
「楊ゼン」
「あなたがこういうことを苦手なのも、色々迷っていらっしゃることも分かってます。今すぐに答えを出すのが難しければ、婚約だけでも構いません。とにかく、どんな形でもいいから、僕とあなたの関係を誰の目にも見えるものにしたいんです」
「ちょ…っと待て、楊ゼン!」
 真剣みを帯びた低い声を、太公望は強く名を呼ぶことで遮る。
「ちょっと……待ってくれ」
 酷く戸惑った声と表情で繰り返す太公望に、楊ゼンはゆっくりと顔を上げる。
 その、言葉を受け流すことを許さない生真面目な……かすかに不安を忍ばせた表情を向けられて、当惑しきった深い色の瞳がせわしなくまばたきした。
「いきなりそんな……」
「──確かに突然かもしれませんが」
 戸惑いを隠さない、隠すことも出来ない太公望を黙って見つめていた楊ゼンは、再び膝にかかるシーツに目線を落とす。
「でも、ずっと考えていたことなんです」
 そうして響いた低い声に、太公望は絶句する。
 ゆっくりと、静かな口調で楊ゼンは続けた。
「離れたからといって、即座に思いが薄れることに繋がるとは思いません。けれど、院を卒業してしまえば、僕はこれまでのように気楽に動くことはできなくなるんです。言い訳をする気はありませんが、努力するにも……限界があります」
 崑崙グループの次期総帥として正式に経営に携(たずさ)わる以上、恋人という関係は変わらなくても、会うための時間を作ることは本当に難しくなる、と楊ゼンが告げたいことは太公望にもよく理解できた。
 だが。
「だから、形を整えたいんです。外郭から作っていくやり方は好きじゃありませんが、もうそんなことを言っていられる状況じゃない。僕の事情にあなたを巻き込んでしまうのは申し訳ないと思いますが……」
 楊ゼンの瞳が太公望を見つめる。
 どこまでも真剣に、ほんの少しだけ内面の苦悩や不安を滲ませて。
 そのあまりにも真剣なまなざしに。
 太公望は体が震えそうになるのを、左手をきつく握り締めることでかろうじて堪えた。
「僕と一緒に……生きてくれませんか。僕のことを想っていて下さるのなら、この先ずっと……」
 懇願するような響きさえ帯びた声が、しんと静まり返った朝早い室内に響く。
「───…」
 大きな瞳を見開いた太公望は、何かを言いかけるように唇を小さく震わせ、だが、言葉にすることなく年下の青年から視線を外して、わずかに顔をそむけるようにうつむいた。
「太公望師叔?」
 不安げに名前を呼んだ楊ゼンに、太公望はまなざしを逸らしたまま、まばたきをして。
 それから。
「──それは……できぬよ、楊ゼン」
 一旦引き結んだ唇から零れ落ちた声は、かすれるように小さかった。
 その言葉を耳にした楊ゼンは、極力動揺を面(おもて)に出すまいとしたようだが、それでも朝の光がカーテンに透けた薄明るさの中でも分かるほどに顔色が変わり、まなざしが微妙に鋭さを増す。
「何故、ですか」
 その顔を見ないまま、太公望は途中まで留めていたシャツのボタンに再び指をかける。
 まなざしを落とし、ゆっくりとボタンを留める仕草は、楊ゼンの表情を見るまいとしているかのようだった。
「何故…と言われても……」
 そして、低い、だが先程よりははっきりとした声で、太公望は答える。
「その気はないから、としか言えぬ」
 感情の読めない淡々とした言葉に、楊ゼンは右手でシーツをきつく握り締める。と、淡いブルーの陰影が波打って、ゆるやかなドレープを形作った。
「……それは、どういう意味です?」
「言葉通りだよ」
 畳んで置いてあったセーターを手に取りながら、太公望は応じる。
 そして、ようやく楊ゼンに顔を向けた。
 深い色の瞳が、静かに楊ゼンを見つめる。
「──おぬしと共に在ることが嫌なわけではない。が、それを目に見える形にしたいと、わしが思ったことはない」
 両手に抱えるようにしたセーターの袖口を小さく左手で弄びながら、太公望は言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「そういう……おぬしの言うような結婚や婚約という形は、わしは欲しくないよ」
「じゃあ、どうするというんです……!?」
 率直過ぎる拒絶に、楊ゼンの声が初めて激しさを帯びて揺れた。
「あなたは分かってるんですか? 不本意でもなんでも形を整えなければ、春からは会うことも難しくなると……僕はそう言ってるんですよ!?」
「おぬしこそ、わしの言っておることが分かっておるのか、楊ゼン」
 だが、詰問口調になった楊ゼンにも表情を変えることなく、太公望は溜息をつくように問い返す。
「わしは、性急過ぎるのが嫌だと言っておるのではない。この先ずっと、おぬしとの関係を『家族』という形にはしたくないと言っておるのだ」
「師……」
 あまりにもきっぱりとした、容赦のない言葉に。
 今度こそ楊ゼンは絶句する。
 顔色を無くした彼を、口をつぐんで見つめていた太公望は、ふいとまなざしを逸らして先程と同じようにフローリングの床に目線を落とす。
 そのまま、ほんのわずかな身動きさえも許さないような重苦しい沈黙が二人に伸(の)し掛かる。
「───…」
 やがて、太公望は沈黙を振り切るように一つ小さく息をついてから、セーターに袖を通し、身仕舞いを整えた。
「──講義があるから、わしはもう帰るよ」
 ベッドの上で身動(みじろ)ぎもしない恋人に一声かけて、寝室を出て行こうと動きかけた太公望を、
「師叔」
 しかし、楊ゼンが呼び止める。
 太公望はドアノブに伸ばしかけた手を、逡巡するように宙に浮かせたまま、表情を消した顔で肩越しに振り返った。
「一つだけ──聞かせて下さい」
 そして楊ゼンは、握り締めたシーツの淡い青にまなざしを落としたきり、そんな太公望を見ることなく問いを紡ぎ出す。
「あなたは……、どういうつもりで僕と付き合っていたんですか?」
「───どういう、とは?」
「あなたはよく分かっているはずです。公的な形がなければ、僕たちの関係を保つことは難しくなる。たとえ恋人といえど、公(おおやけ)に婚約もしておらず、近くに居さえしない相手に会いに行くような時間は、年に数度も作れない。院を卒業してしまえば、僕はそういう立場の人間になるんです」
「……要点だけ言ってくれ。時間がない」
 溜息をつきかけて止め、太公望は冷たいドアノブに手を置きながら短く告げる。
 だが、その淡々とした口調に、かっと楊ゼンの顔に憤りの色が昇った。
「その程度のことですか!? 僕が今、どれだけ真剣に話しているか、分からないわけじゃないでしょうに……。状況に押し流されて駄目になっても構わない程度のことだったんですか、僕とのことは……!?」
「そうは言ってはおらぬよ」
「言ってなくても、結局はそういうことでしょう。あなたには僕と一緒にいる意思がないんですから」
「別に、おぬしと一緒にいるのが嫌だとは言っておらぬだろう。ただ、形式は欲しくないと……」
「形式がなければ難しいと言ってるんです! 太平洋のあっちとこっちに離れたからといって、心まで離れるとは思ってませんよ。けれど、会う時間の少なさだけはどうにもならない。努力してどうにかなるものなら、僕だってこんなに結論を急ぎはしません!」
「────」
 かつてない厳しさで告げる楊ゼンに、太公望は引き結んだ唇を小さく噛む。
「最初から、あなたはそんな風に思っていたんですか? 結婚はしたくない、それで駄目になるのなら仕方がないと……!?」
「駄目になると……」
 決まったわけではない、と言いかけて太公望は続く言葉を飲み込んだ。
 楊ゼンは、むやみに悲観的なものの見方をする性質(たち)の青年ではない。むしろ、どんなに追い詰められた状況でも、起死回生の道を探して足掻(あが)こうとするだけの強さを持っている。
 そんな彼が、努力してもどうにもならないと……駄目になりかねないというのであれば、それは本当なのだ。己が望む回答を太公望から引き出したいがための虚言では、決してありえない。
「僕はあなたを愛しているからこそ、何があっても離れたくはない。誰にも口出しができないように、形式を整えてこの想いを守りたい。なのに、あなたはうなずいてはくれないんですか?」
「────」
「あなたはいつか駄目になるかもしれないと……そう思いながら、その許容範囲内でしか僕を愛してはくれないんですか?」
 究極の選択を迫られた時に、自分を選んではくれないのかと。
 なじるというよりも、むしろ絶望が強く響く声に、太公望は唇を噛んでまなざしをうつむける。
「その程度の……ことだったんですか?」
「───違う、と……おぬしの言葉を否定してやれたら良いのだろうな」
 どうしようもなく苦しげな楊ゼンの言葉に、胸を締め付けられるような鈍い痛みを感じながら、溜息をつくように太公望は呟いた。
「だが、おぬしが二人の関係をそういう形に持っていくことが想いの証明だと考えるのなら、わしは本気でなかったと……、いい加減な気持ちだったと思われても仕方がない」
 苦い呟きに楊ゼンが顔色を変えるのを見ないまま、ドアノブにかけた手にゆっくりと力を加えて。
「わしは元々、おぬしの期待に応えられるほど強い人間ではない。愛想を尽かされても仕方がない、と思う……」
 そして、開いたドアの隙間に、太公望は身体を滑り込ませる。
「……もう、わしは行くよ。これ以上長居したら、本当に講義に遅刻してしまう」
 乾いた小さな、いっそ優しく響いたその声を最後に。
 振り返らないまま、太公望は寝室を──楊ゼンの部屋を出て行った。














 けたたましい目覚ましの音に、意識を昏い眠りの淵から強制的に引きずり上げられる。
 のろのろと手を伸ばし、手探りでベルを止めて、太公望は深く息をついた。
 瞼の裏に薄く光が透けている。
 今日も晴れているのだろうかと思いながら、サイドテーブルに置いてあるリモコンをやはり目を閉じたまま、手探りで操作して家中の暖房のスイッチを入れる。
 そして、重くてならない瞼を開ける努力をしつつ、寝起きのぼやけた頭で、今日一日の予定を思い出そうとした。
 ───今日は講義はないし……卒論の採点の手伝いだけか。
 それなら午後からの出勤でもいいかと怠惰なことを思いながら、温かな布団の中で寝返りを打つ。
 一応の上司に当たる玉鼎は、生真面目に朝から研究室に詰めているだろうが、他人には妙なところで寛容な部分があるため、講義も何もない日に助手の太公望が重役出勤をしたところで、さほど咎め立てをすることはない。
 アルコールが入れば途端に恐怖の説経ジジイになってしまう彼だが、普段は寡黙で温厚な、非常に仕事のしやすい良い上司だった。
 ───皆、甘いからのう。
 ころんと寝返りを打ちながら、太公望は小さく溜息をつく。
 学び舎をそのまま職場にしてしまった太公望にとって、崑崙大学の教授陣は、そのほとんどが学生時代からの恩師や先輩であり同期生だった。
 学内最年少で博士号を取得した同僚のことを、誰もが気にかけ、心配してくれていることを太公望はよく分かっていたし、ありがたいとも感じている。
 ───だからといって、いつまでも甘えておってはいかんと分かっておるのだがな……。
 まだまだ人間がなってない、と自分に溜息をついて。
 のろのろと太公望は、温かなベッドから這い出した。






           *           *






 崑崙大学経済学部の研究室は、大学院棟の二階にある。
 世界的にも高名な学者を数多く輩出していながら、妙にのほほんとした雰囲気が持ち味のここでは、ありがちな派閥争いなども何故か起こることがなく、教授たちは個々に与えられている教授棟の個室よりも、こちらにたむろっていることが多い。
 研究室そのものは、専攻コースごとに与えられている教室と続き部屋の教授室、図書室を兼ねた資料室、会議室などから構成されていて、学部内のことであれば大抵はここで用が足りるようになっている。
 その一角にあるマクロ経済学講座のドアを太公望が開けたのは、正午を少し回った頃だった。


「今日は随分とゆっくりなのだな」
「ああ」
 部屋の主に肩越しに声をかけられて、太公望は曖昧にうなずく。
「少し寝起きが悪くてな……。何か急ぎの仕事でも入ったか?」
「いや。今日は朝から卒論の採点だけだ」
「ご苦労なことだのう」
「先週のうちに、お前が下読みをしておいてくれたからな。お陰でそれほど大変でもない」
「簡単にABCの三ランクに分けただけだよ。評価するのはおぬしの仕事だ」
 くすりと笑って、太公望は玉鼎のデスクに近づき、手元を覗き込んだ。
「Cランクから片付けておるのか」
「ああ。学生が一生懸命書いたものにケチをつける気はないが、やはり良い論文はじっくり読みたいからな」
「一生懸命……のう」
 肩をすくめるように言いながら、太公望はデスク上の卒業論文を指先で軽くはじく。
「正直、これは一生懸命書いたような印象は、どこにもなかったと思うがのう。五冊ばかりの専門書を適当に繋ぎ合わせただけではないか」
「───まぁな」
「おまけに、引用部分の出典も明記してない。はっきり言って卒論のレベルではないぞ。というか、レポートとしても落第だ」
 歯に衣を着せぬ太公望の物言いに、玉鼎はやや苦虫を噛み潰したような表情を端正な顔に浮かべた。
 そんな上司の表情を見やって、太公望は小さく笑う。
「ま、二月の口頭試問で、おぬしお得意の説教でもしてやるのだな。『こんなことで社会に通用すると思うのか』というやつ」
「お前、面白がっているだろう」
「勿論」
 じっとりとした目を向けた玉鼎に笑って、太公望は彼の傍を離れる。
「茶でも入れるか?」
「ああ」
「今日は……太乙のリクエストは緑茶あたりだろうから、とりあえず、ほうじ茶にしとくぞ」
「私は何でも構わない」
 出されたものに注文をつけることのない玉鼎の返事を聞き流しながら、太公望は部屋の片隅にある小さな流しで薬缶(やかん)の水を入れ替え、電気コンロのスイッチを入れる。

 今時、こんなレトロな湯沸かし器しかないのは、文系の研究室は、どこも火気厳禁だからだ。ならば、せめて電気ポットでも用意すればいいものを、何故かここにはそれさえもない。
 逆に言えば、多少の不便を忍べば研究室でラーメンやうどん程度のものなら作れるということにはなるのだが、そこまでのマメさを持った者は、残念ながらこの研究室にはいなかった。
 のんびりと湯が沸くのを待ちながら、太公望は急須に茶葉を放り込む。
 この研究室の代々の伝統で、茶葉だけは極上のものが各種取り揃えてあるため、作法をわきまえない連中が多少いい加減な入れ方をしても、決して不味い茶にはならない。
 どんな分野であれ、最先端で切磋琢磨する研究者の日常はつらいことも多いものである。何か嫌な事があった時、仕事が忙しくて疲れている時に、美味い上等の茶を飲んで、ほっと一息つけるように、というありがたい先輩方の学習結果による伝統を脈々と守りつつ、しゅんしゅんと、どこか懐かしいような音を立てて沸騰する薬缶(しかも玉鼎の趣味で、昔ながらのくすんだ金色のアルミ製)を取り上げ、とぽとぽと急須に湯を注いで待つこと約一分。
 香ばしい香りを立てる茶を二つの湯呑みに注いで、太公望は『頑固親父』と江戸勘亭流書体で大きく表記された方の湯呑み(卒業生から贈られた記念品)を玉鼎のデスクに置いた。
「卒論の上に零すなよ」
 ついつい仕事に集中しすぎて、周囲に注意が回らなくなる気のある上司にそう注意して、自分用のシンプルな湯呑みを片手に自分のデスクに向かいかけた時。
「太公望」
 ふと玉鼎が、名前を呼んだ。
「何だ?」
「いや……」
 自分から声をかけておきながら、言葉を探すように玉鼎は湯飲みを手にしたまま、少し難しい表情をする。
 常に他人に対して誠実であろうとする上司の少々不器用な性格はよく知っていたから、太公望は急(せ)かすことなく続きを待つ。
 が、玉鼎の言葉を待ちながらも、実のところ太公望は、彼が何を言いたいのか、大本(おおもと)のところは察していた。
「本来、私が口出しをすべきことではないと思うのだが……」
 だから、そう前置きして顔を上げた玉鼎のまっすぐなまなざしも、目を逸らすことなく受け止める。
「近頃、楊ゼンと何かあったか?」
「───…」
 何と答えようかと、数度まばたきするほどの時間、考えて。
「……あったよ」
 結局、太公望は素直に認めた。
 何もないといえば、本心では納得していなくとも、そうかと引き下がるだけの度量を玉鼎は持っている。
 けれど、その不器用な誠実さで、問題が解決したと確信するまで気にかけ続けてくれることも分かっていたから、太公望は他者に対する時のような口先だけのごまかしを彼に告げる気にはなれなかった。
「そうか」
 そんな太公望の心理をどこまで気付いているのか、生真面目な表情で玉鼎はうなずく。
「お前に言うのもどうかと思うが……先週のゼミの時、楊ゼンの様子が少し違っているような感じがしたのだよ。このところ、二人でいるところも見ないようだし、それで少々気になっていたのだが……。余計なことを聞いたな。すまない」
「謝ることなどなかろう」
 一回り近く年下の後輩でもある助手の自分に頭を下げる玉鼎に、太公望は苦笑する。
 経済学者としての名は、年齢的な若さも手伝って、太公望の方が目立つことも無きにしも非ずだが、彼も崑崙大学前総長・元始天尊の教え子であり、けれん味のない正統派の理論の構築には定評のある世界的な経済学者なのである。
 実績を考えればもっと傲慢になってもいいくらいなのに、どこまでも律儀に礼節を守る彼は、堅苦しさを感じさせる一方で、他者から全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せられる人望の持ち主でもあった。
「わしたちのことを気遣ってくれているのが分からぬほど、わしも無神経ではないぞ」
「だが、赤の他人の私が余計な差し出口を言ったのには代わりがないだろう」
「だからといって、謝るほどのことではなかろう」
「しかし……」
 いいから、と更に言い募(つの)ろうとした玉鼎を、太公望は苦笑しながら片手で遮った。
 彼らしいといえばそれまでだが、本当に感心するしかない不器用さであり、誠実さである。
 在籍しているのが崑崙大学でなければ、間違いなく熾烈な学閥争いからはじき出されるか、自分からそこからは一線を画して出世コースを外れ、、到底三十そこそこの若さで教授になどなれなかっただろう。それどころか、研究の成果を目端の利く輩に盗用されたりして、陽の目を見ることもなく失脚しかねないタイプである。
 人柄の良さ、研究に対する真摯さが必ずしもプラスになるとは限らないのが、競争社会のつらいところであり、そういう意味では、彼は運が良かったと言うべきなのかも知れない。
 苦笑しつつ、太公望はゆっくりと口を開いた。
「わしと楊ゼンが今、少し揉めているのは確かだよ。ちょっとした意見の食い違いがあってな」
「……そうか」
 何と言えばいいのか分からないような表情で、玉鼎は気遣わしげにうなずく。
「だが……珍しいな。お前たちは、小さな喧嘩はよくしているようだったが、こういう本格的なのは……」
「そうだな。初めてだな」
 懸命に言葉を選んでいるらしい玉鼎の感慨に、太公望は微笑未満の溜息を小さくついた。
「わしもあやつも、もう子供でいられる年ではないし……。それなりの主義主張を持った大人同士が話せば、意見が食い違ってしまうこともある」
「────」
「おぬしに余計な心配をさせるようで悪いが、大したことでないとは言えぬよ。……正直、難しい」
 考えながらゆっくりと言葉を紡いだ太公望を、玉鼎は案じる表情で見つめる。
 そんな彼に、太公望は自嘲気味に微笑した。
「すまぬな」
「いや……」
 暗に、簡単に解決することではないと……、とりあえずのところは黙って見守っていてくれと告げた、太公望の言葉の真意を正確に理解しているらしく、玉鼎は自分が当事者になったような沈鬱な色をまなざしに滲ませ、太公望の謝罪を無用のものとして否定する。
 そして、彼らしくもない小さな溜息をついた。
「楊ゼンもそういう所があるようだが……お前は一度決めたことは滅多に翻意しないからな。多少の衝突はやむを得ぬ場合もあるだろう」
「否定はせぬが、おぬしには言われたくないよ。筋金入りの頑固者のくせに」
「確かに私は融通が利かないがな。お前には負けるさ」
 ほろ苦い、互いをいたわるような微笑を交わして、二人はこの話題が、ここで打ち切られることを暗黙のうちに了解する。
「太公望」
「ん?」
「余計な世話だろうが……、私で足りることがあれば遠慮なく言えばいい。一応、これでもお前の上司だからな」
「……うむ」
 不器用だが温かい気遣いに微笑ってうなずき、太公望は自分のデスクに向かう。
 そして、卓上の端末を起動しながら椅子を引いて腰を下ろした。
「わしは、こっちで来月締切の論文をやっておるから、用があったら呼んでくれ」
「分かった」
 ──それきり、二人は短い仕事上のやり取り以外、取り立てて会話を交わすこともなく、昼下がりの研究室には静かな物音だけが響いた。






to be conthinued...










満を持しての、最終章の登場です!! ……と言いたいところですが。
正直、かなり腰が引けております。ご要望がある以上、お応えするのが管理人の務めですが、しかし、このメロドラマっぷり……。
製作当時、余りにも文章が浮かばずに七転八倒、四苦八苦、文字通りに悶え苦しんでいた暗黒の記憶を思い出してしまって、現在かなりブルーです。おかげで手直しする気力も湧かずに、WordドキュメントからHTMLドキュメントに移植しただけの手抜きっぷり。
しかし、公開することにした以上、一応ストーリーの推移に沿って年末〜年明けにかけて全話をアップする予定です。
なお、オフ本時のおまけ『It's my life (別名:楊ゼンのアホ日記)』は本を買って下さった方のみの特典ということで、再録は未来永劫しませんので、どうぞ悪しからず〜m(_ _)m





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