Long Vacation 1








 学生生活最後の夏に、少々強引に父から休暇をむしりとったのは、本心のところ、明るい気持ちからではなかった。
 むしろ、その逆だったと言ってもいい。
 たとえ1週間でもいい──正確には、互いに多忙な身だったから、それ以上の休暇を取ることは現実的に無理だった──あの人と二人だけで過ごしたかったのだ。
 理由は、と問うなら。
 ───不安。
 その一言に尽きる。
 といっても、あの人から自分に向けられる想いを疑ったことなど一度もないし、具体的に何があったというわけでもない。
 それは、非常に漠然とした感覚だった。
 けれど、この夏が学生として過ごす最後の夏だと言うことが、僕を感情的にさせていた。
 文学的な表現をするなら、未来が見えない、ということになるのだろうか。
 自分の歩む道が決まっていないわけではない。決まっていないどころか、金鰲グループ総帥のただ唯一人の子供として生まれた時から、将来は定められていた。
 それを嫌だと思ったことはないし、将来的にもその道を踏み外したいとは思わない。
 けれど──この先、共に歩みたいと願う相手の心のうち裡が僕にはどうしても見えず、そのことが表現しがたい不安を生み出していた。



 あの人が想いを受け入れてくれた冬以来、それとなく将来のことを口にしたことは何度かある。
 それらの言葉をあの人は受け流しはしなかったが、返事はいつでも曖昧だった。
 たとえば、この春に二人で夜桜を見に行った時にも。
 来年も共に桜を見たいと告げた僕に、あの人は、やわらかな……静かな口調で、約束など当てにならないと応じたのだ。
 欲しいのは約束そのものではなく、約束をしてくれる心だと口説けば、ようやく、互いの想いが変わらなければ、とだけ答えてくれた。
 しかし、その桜がどこ何処のものなのかは──崑崙市内の同じ桜なのか、金鰲グループが本拠を置くボストンの桜並木なのか、あるいはそのどちらでもない土地の桜なのか、重ねて問うことはできなかった。
 僕の中には、それについてもう答えがある。訊かれたら、いつでも答えることが出来る。
 だが、あの人の中には。



 何故、あの人が明確な言葉を口にしたがらないのか、その理由が分からないほど自分も子供ではない。
 それは、多分にあの人の生い立ちに起因することであり、またそれぞれの立場の相違も、あの人を悩み迷わせる原因の一つであることは間違いない。
 そして──僕がうわべだけの言葉で納得することができない性格であることも、あの人は知っている。
 それでも、あの人の言葉なら、それが明白な偽りだと分かっていても信じたふりをすることも。
 だから、何も言わない……言えないのだ。
 今はまだ。
 それが分かるから、本当は結論を急かしたくはない。
 けれど、この学園都市で暮らす日々に終わりが近付いているという現実が、僕をどうしようもない焦燥に駆り立てる。



 今はまだ、結論を迫りたくはない。
 強引に押したら、見た目よりもはるかに繊細なあの人のことだ。おそらく何もかもが駄目になる。
 だから、その代わりに……言葉を求めない代わりに、この夏は一秒でも長く一緒にいたかった。
 理屈でも何でもない。
 ただ、あの人の存在を──その心を感じていたかった。
 それだけのために、渋る父親をかきくどき、最後は脅すようにしてまで休暇の約束を取り付けたのだ。
 馬鹿なことをしていると思わないでもない。
 恋に溺れて自分や周囲を見失えば、己のみならず、あの人をも不幸にする。
 けれど、そうと分かっていても。
 離れたくなかった。
 どうしても……どんな無理をしてでも、僕はあの人から離れたくなかったのだ───。












「夏休み、どこかに出かけませんか?」
 そう楊ゼンが切り出したのは、真夏というにはいささか早い、七月に入ったばかりの休日。
 雨続きの空を窓の向こうに見つつ、太公望の部屋でくつろいでいた時だった。
「夏休みって……おぬしはまた実家に帰るのだろう?」
 初夏とはいえ気温の上がらない雨の日は、温かい飲み物が嬉しい。
 楊ゼンが入れてくれたカフェオレのマグカップを手にしたまま、太公望は首をかしげた。
「ええ、帰りますけどね。でも、今年は休暇の前半だけという約束になっているんです」
「父君が寂しがるのではないのか?」
「仕方ないですよ。修論もそろそろ本格的に取りかからないといけませんし……、この辺で父にも子離れしてもらわないとね」
「まぁ、そうかものう」
 太公望も何となくうなずく。
 楊ゼンの父親は、合衆国に本社を置く世界的な巨大複合企業・金鰲グループの総帥である。
 太公望には直接の面識はないのだが、楊ゼンから話を聞く限りでは、かなりの子煩悩かつ親馬鹿な父親らしく、自慢の息子が長期の休暇に入るたび、秘書として手元に置きたがる。
 楊ゼンもいずれは、父の跡を継いで金鰲グループ総帥となる身であるから、それを嫌がることもなく、むしろ積極的に働き、経営者としての実績を作ろうとしていた。
 しかし、今年の夏は少し違うらしい。
「それに、何といっても僕はあなたと一緒に居たいですから。せっかくの休みなんですし……」
「修論の準備をするのではないのか?」
 カフェオレをすすっていた太公望は、ちらりと視線を横目で投げかけた。が、楊ゼンは気にしない。
「もちろん、休みの間中、付き合えとまでは言いませんよ。あなたにも色々と予定があるでしょうし、僕も何かと忙しい身ですし……。だから、8月の下旬あたりに一週間くらいの予定でどうですか?」
「ふむ」
 マグカップを口元に持っていったまま、太公望は小首をかしげる。
 基本的に学会というのは、真夏や真冬にはあまり開かれない。熱さ寒さの厳しい季節に研究発表だの討論だの、そんなうっとうしいことは誰もしたがらないからだ。
 とはいえ、気鋭の若手経済学者として太公望の名は広く知られており、肩書きはたかが大学講師であっても、それなりに忙しい。
「そうだな……。H大での非常勤の集中講義は八月前半だし、九月早々に論文の締切が一つあるが、そんなものはどうにでもなるし……。良いのではないか?」
「本当ですか!?」
 それなりにごねられることを予想していた楊ゼンは、意外なまでにあっさりとOKを出した太公望に、ぱっと喜色を浮かべる。
「うむ」
 そんな楊ゼンに太公望は微笑してうなずいた。
「ただし、条件が一つ」
「──何です?」
「行き先は国内にしてくれ。海外に行くのは学会の時だけで十分だ」
「国内……ですか」
 さすがに予想外の申し出だったのか、楊ゼンは太公望を見つめたまま、まばたきする。
 そのまなざしを受けて、肩をすくめるようにしながら太公望は説明した。
「わざわざ海外に行かなくとも、国内で涼しいところはいくらでもあるだろう? スイスは秋の終わりにシンポジウムで行くし、カナダは先月、学会で行ったし……。わざわざ休暇の時にまで重いスーツケースを持って飛行機に乗りたくない」
「……まぁ、それは確かに」
 太公望の言葉に、楊ゼンは顎に指先を当ててうなずく。
「──そうですね。僕もどうせ、父の秘書をしている間に一度は欧州と南米に出張しなきゃいけないでしょうし……。たまには国内というのも、かえって新鮮でいいかもしれませんね」
「だろう?」
 頬杖をついて、太公望は笑った。
 そんな恋人を見つめて、楊ゼンもやわらかな笑みを浮かべる。
「じゃあ、行きたい場所をピックアップしておいてくれますか?」
「おぬしの希望はないのか?」
「僕はあなたといられるのなら、どこでもいいですから。それに、あなたが行きたがるような場所は、ある程度見当はつきますしね。好きなところを選んで下さい」
「本当に文句は言わぬか?」
「ええ」
「ふぅん」
 面白そうに瞳をまばたかせて、太公望は微笑んだ。
「分かった。考えておくよ」
 そして、雨が降りやまない外に、視線を向ける。
 その深い色の瞳が、雨の向こうの夏空を思っているかのようにやわらかくきらめいているのに、楊ゼンはしばしの間、言葉もなく見惚れた。






             *           *






「疲れてませんか?」
「いや、どうせ座っておるだけだし……。おぬしの方こそずっと運転しっぱなしで、いい加減疲れぬか?」
「まだ二百キロくらいですからね。これくらいの距離なら、なんということはないですよ。前に一度、一日で八百キロ走った時は、さすがに目的地のホテルにたどりついた途端、ベッドに倒れこんで寝ちゃいましたけど」
 8月下旬の平日とはいえ、さすがに夏休みだけあって高速道路のサービスエリアはそれなりに込み合っている。
 カフェのテーブルでアイスコーヒーを頼み、一息つきながら、のんびりと二人はくつろいだ会話を交わしていた。
「八百キロって……また何故だ?」
「仕事で欧州に行った時なんですけどね。あいにく、空港が近くにない場所で……、そこへ行く途中までは飛行機を使おうと思ってたんですけど便が少なくて、列車も接続が悪くて……。結局、車で行くのが一番早かったんですよ」
「へえ」
 頬杖をついたまま、太公望は感心したようにまばたきした。
「巨大企業の会長秘書も楽ではないのう」
 その言葉に、楊ゼンは苦笑する。
「まぁ僕はちょっと特別ですけどね。普通の秘書はボスの補佐が主な業務で、単独で出張することはそれほど多くありませんから。でも、それでも楽な仕事じゃないですよ。うちの父は仕事人間ですし」
「確かに、上司が仕事熱心だと部下は大変だろうな」
「ええ」
「おぬしも妙に完璧主義のところがあるからのう。そういうところは、父君似か?」
「かもしれませんね」
 首をかしげた太公望に、楊ゼンは微笑して答える。
「うちのグループは組織が既に確立してますから、本当は会長が睡眠時間を削ってまで仕事をする必要はないはずなんですけどね。父は祖父の基盤を引き継いだとはいえ、実質一代で身を起こした人ですから、部下に任せてじっとしていることが苦手なようですよ」
「ふぅん」
 太公望は納得したようにうなずいた。
「まぁワンマンにならなければ、トップが仕事好きというのは悪くはないがな。その点、金鰲グループはバランスがいいように見えるよ。本社でも会長のワンマンにならず、組織が上手く分割されて、それぞれの部署がきちんとやるべきことをやっている。
 おぬしにも経営者として天性のバランス感覚があるようだし、多少、生真面目すぎる嫌いはあるが、結構いい二代目になるのではないか?」
 何気ない調子で言われた言葉に、楊ゼンは一瞬、反応に迷う。
 が、
「あなたにそう言っていただけるのは嬉しいですよ」
 それ以上、会話の内容を深める方向は避けて、微笑を返した。
「わしの言葉なんぞに喜んでいてどうするのだ?」
 そんな楊ゼンに対し、太公望は悪戯っぽい笑みを見せる。
「エコノミストの言うことは所詮、机上の空論だぞ。経済は時と場合に応じて予想もつかぬ動きをする生き物だし、企業は人間が動かすものだ。おまけに、わしは経営学の専門家ではないしな。大外れの予言に終わる可能性だって大きいのだぞ?」
「ひどいな。それじゃ僕がぼんくらな二代目になるってことですか?」
「だから、わしは知らぬって」
「ずるいですよ、師叔」
 くすくすと笑う太公望に、楊ゼンも苦笑する。
 そして、苦笑したまま続けた。
「──でも信じますよ、僕は」
「ん?」
「だって、あなたの景気予想が外れたことは、僕が知る限り一度もありませんから。専門外でも、あなたの僕とグループに対する評価を信じますよ」
 今度は、太公望が苦笑する番だった。
「困った次期総帥殿だのう」
 だが、言葉ほどには困った雰囲気でもなく、ストーローでアイスコーヒーのグラスを軽くかき混ぜながら、
「──きっととか絶対とかいう言葉は、学問の世界では禁句だが……」
 何気ない口調のまま言った。
「……きっと大丈夫だよ、おぬしなら」
「え……」
 思わず太公望の顔を見直した楊ゼンの耳に、凛と響くやわらかな声が繰り返す。
「おぬしはきっと、良い経営者になるよ」
 その言葉は淡々としすぎていて、奥に秘められた真意は見えない。
 もしかしたら、この先、楊ゼンの傍らに自分の存在は必要ないと、そう言いたいのかもしれない。
 けれど。
「──ありがとうございます……師叔」
 誰よりも敬愛する相手に自分の力を認めてもらえたことに、純粋な喜びが湧き上がってくる。
 その感覚を噛みしめるように、楊ゼンは右手をひそかに握り締めた。
 それきり、穏やかな会話はわずかに途切れる。
 が、太公望はなんでもない顔をしたまま、ストローでグラスの中の氷をつつき続け、少し溶けかけた氷が触れ合って、カラカラと涼しげな音を立てた。
「──そろそろ行きましょうか」
「うむ」
 楊ゼンがうながすと、太公望はやわらかな表情でうなずく。
 そして、残っていたアイスコーヒーを飲み干して、二人は立ち上がった。








 休暇の行き先を決める時、海よりも山がいい、と太公望が指し示した地図の一点を見て、楊ゼンは正直なところ、少なからぬ驚きを感じた。
 その場所に問題があったわけではない。むしろ、そこは美しい森林や渓流のある景勝地として名高い、行楽地としてはかなりメジャーな観光名所である。
 多少、崑崙市からは距離があるものの自動車でも充分に行ける所であるし、一週間のんびりするにはいい所だった。
 が、そんな場所を彼が選ぶとは、楊ゼンは予想もしていなかった。
 何しろ、太公望には夏休みにまつわる深い傷跡があり、長い間、夏の山地には進んで足を向けることはなかったはずなのである。
 それなのに今回、あえて十二年前の悲劇を髣髴(ほうふつ)とさせるような旅を彼が望む理由が、楊ゼンには分からなかった。
 しかし、太公望の方は嬉々としながら、ガイドブックやネットで収集した観光情報をあれやこれやと広げていて、楊ゼンのひそかな懸念は、軽く笑い飛ばされてしまったのだ。


 ───師叔、本当にいいんですか?
 ───何がだ?
 ───ですから、行き先は……。
 ───おぬし、何か不満があるのか?
 ───いえ、僕は構わないんですけど……。
 ───なら、いいではないか。


 おかしなやつだのうと笑顔で言われて、楊ゼンは結局、それ以上を追求する機会を逃した。
 実際、彼の家族に不幸がおきた現場がどこだったのか、楊ゼンは具体的なことは知らない。
 もしかしたら、今度の旅行の目的地とはまったく違う土地での事故だったのかもしれないが、しかし、一抹の不安というか微妙な気鬱さをぬぐうことはできなかった。
 けれど今、こうして西に向かって車をひた走らせていても、助手席の彼の表情が特に変化することはない。朝、車に乗り込んだ時と同じ、なんとなく楽しげな、穏やかな瞳で通り過ぎる風景を見ている。
「師叔、寝ていてもいいですよ。昨夜、あんまり眠れなかったでしょう?」
「ああ、うん」
 声をかけると、窓の外から楊ゼンに視線を移して、太公望は少し照れくさそうな笑顔でうなずく。
「出張以外で旅行に行くなんて久しぶりだからのう。何だか落ち着かなくて……」
 そこまで言って、太公望はふと気付いたように楊ゼンを見直した。
「ということは、おぬしもあまり寝てないのではないのか?」
 旅行当日の朝にバタバタするのは避けるため、太公望は昨夜、旅行かばん持参で楊ゼンの部屋に泊まったのである。
 付き合い始めてから半年と少しの恋人同士がマンションの一室で夜を過ごすとなれば、必然的に同じベッドで眠ることになり、そして同衾していれば、否が応でも相手の状態は夢うつつに伝わってくる。
 相手が寝苦しそうにしていれば、自分の方も目が覚めてしまうのは、ある程度は仕方がないことではあるのだが、今日の楊ゼンは、長距離をドライブしなければならないのだ。
 さすがにまずかったかと表情を曇らせた太公望に、楊ゼンは苦笑まじりの声をかけた。
「大丈夫ですよ、僕はもともと、そんなに睡眠が必要なたちじゃありませんから。でも、あなたは7時間は寝ないと駄目でしょう? 着いたら起こしてあげますから、それまで寝てていいですよ」
 優しい言葉にうなずきつつも、しかし太公望は微苦笑を浮かべて答える。
「だが、わしも今日は眠くはないよ。何というか、昨夜からずっと目が冴えたままで……」
「まるで遠足前の小学生みたいですね」
「失礼だのう」
 むくれた調子で返すが、しかし声は笑っている。そんな太公望にちらりと視線を走らせて、楊ゼンも微笑した。
「まぁそれならいいですけど、高速を下りたらすぐに山道に入りますから。酔いそうになったら寝てしまうのが一番ですよ。あなた、酔い止めは嫌いでしょう?」
「うむ」
 確認めいた問いかけに、太公望は大きくうなずく。
「何故だか知らんが、あの錠剤の匂いだけで気分が悪くなるからのう。でも今日は多分、大丈夫だよ。気分もいいし、おぬしの運転は上手いし……」
「大事な人を隣りに載せていれば、普通は慎重になりますよ」
「140キロオーバーでのクルージングが慎重か?」
「僕にとっては安全速度です。合衆国にいる時や欧州に行った時は、こんなものじゃないですよ。春のイギリスでのこと、覚えてるでしょう?」
「ここはイギリスじゃないぞ」
 肩をすくめて微笑う太公望を、運転の合間に横目で見やりながら、楊ゼンもようやく気分が晴れてくるのを感じた。
 何故、太公望が二人で過ごす休暇にこの行き先を選んだのかは、やはり分からない。
 けれど、彼が短い夏休みを楽しもうとしているのなら、それをよりよいものにするよう努めるのが楊ゼンの役目だった。
「師叔」
「ん?」
「楽しい旅行にしましょうね」
 その言葉に一瞬、軽く目をみはった後。
 太公望は夏空のような笑顔でうなずいた。








             *            *








「のう、そろそろ陽が沈むぞ」
 宿泊先のホテルにチェックインし、部屋に荷物を置いたところで、ベランダから振り返った太公望が楊ゼンに呼びかけた。
 老舗のホテルのツインルームは落ち着いた色調でまとめられ、ゆったりとした広さとあいまって心地好く旅人をくつろがせてくれる。その中を横切って、楊ゼンはコテージ風のベランダに出た。
「ああ、本当だ。綺麗ですね」
 目の前に広がる深い森は早くも宵闇にくら昏く沈みかけていて、その向こう、西の稜線に夕陽が赤く燃えながら、ゆっくり落ちてゆこうとしている。
 わずかに目を細めてそれを見つめている太公望が、ふと愛おしく思えて、隣りに立った楊ゼンは、そっと手を伸ばして細い肩を抱き寄せた。
「──こら」
 と、その仕草を咎めるように、太公望が上目遣いに楊ゼンを軽く睨む。
「誰に見られるか分からぬから、外でこういうことはやめろと言っておるだろうが」
「誰も見てませんよ」
「そう言いながら、目撃されたことが何度あった?」
 じろりと睨み挙げながら、太公望は肩に置かれた楊ゼンの手を払いのける。
 夏の観光シーズンのピークは既に過ぎているが、それでもフロントで聞いたところによれば、ホテルはほぼ満室に近いらしい。黄昏時に差しかかった今、観光から帰ってきた宿泊客やこれからチェックインする客が、このベランダから見える、ホテルの玄関に続く小道をいつ通りかかるか分からないのである。
 現代においては、同性のカップルも市民権を得ているから、それ自体は別に問題にならない。が、同性愛だろうが異性愛だろうが、通常、ラブシーンを他人に目撃されるのは恥ずかしいものであり、人並み以上の羞恥心を持つ太公望が激しく警戒するのは当然だった。
「つれないですねぇ。せっかく、こんな所まで来たのに」
 甘さの足りない恋人の態度に文句を言いながらも、楊ゼンの声は笑んでいるようにやわらかい。
「それとこれとは別だ。旅の恥はかき捨てなんて言葉は、わしは知らぬからな」
 そして、太公望も年下の恋人が別に気分を悪くしていないことを分かっているのだろう。声も表情も、あくまでも素っ気ない調子を崩さない。
 そんな太公望に微笑し、楊ゼンは性懲りもなく再び手を伸ばして、華奢な身体を胸に抱きこんだ。
「──楊ゼンっ!?」
「愛してますよ、太公望師叔」
 突然抱きしめられて驚く太公望の耳元に甘くささやき、そっと顎に手をかけて顔を上げさせる。
 そして、薄い色の唇に口接けようとした瞬間。
「───!」
 咄嗟に太公望が手を上げて、楊ゼンの顔を押しのけた。
「だから、するなと言っとるだろうが! 何度言わせれば分かるのだ、ダアホ!!」
 だが、楊ゼンもそれくらいでめげるような可愛い性格はしていない。
「じゃあ、外でなきゃいいんですね?」
「!?」
 その言葉と共に、ひょいと太公望を抱き上げて、さっさと室内に戻り。
 もがいて抵抗する華奢な身体を、そのままベッドに押し倒した。
「こら…っ……ん…!」
 たやすく唇を重ねられ、吐息さえも奪うような深いキスに、楊ゼンの手に押さえ込まれた太公望の手首からゆっくりと力が抜ける。
 巧みに煽られ、誘い出されて。
 いつしか太公望は、自分から舌を絡めて楊ゼンに応えはじめる。
 やがて、軽く触れるだけのキスを最後に離れた楊ゼンは、浅く乱れた呼吸を継いでいる太公望を見下ろして小さく笑った。
「ずいぶんキスが上手くなりましたね」
 ささやきながら額や頬、目元から首筋へとキスの雨を降らせる。
「ちょっ……楊ゼン!」
 そして、やわらかな薄い耳朶を軽く噛んだ途端、太公望はびくりと躰を震わせた。
「やめぬかっ! まだ夕食前だぞ!」
 器用な指がシャツのボタンをはずし始めるのに抵抗しようとしても、利き腕の手首はいまだに捕らえられたまま、のしかかる楊ゼンの重みに四肢を巧みに押さえ込まれていて逃れようがない。
「楊ゼンっ!」
 だが、先程よりもせっぱつまった制止を求める声には耳も貸さず、楊ゼンは白い肌にいくつもの口接けを落とし、ゆるやかに華奢な躰を煽ってゆく。
「駄目ですよ、師叔。キスだけでこんなにも感じてるのに、我慢なんかしたら……」
 シャツ越しに硬くなり始めた胸の尖りを探り当て、軽く歯を立てた途端、甘い声が零れ落ちて。
「やっ……楊ゼン…!」
 そのまま小さな尖りをやわらかく歯先で擦り立てられて、華奢な躰がびくびくとおののき始める。
「ね……?」
「ね、じゃないっ…!」
 懸命に自由のきく右手で楊ゼンの肩を押しのけようとするが、力で適うはずもなく、よどみのない手の動きに太公望の服は乱されてゆく。
「一体、おぬしは何しにここまで来たのだ!」
「もちろん、あなたと楽しい休暇を過ごすためですよ。夏休みに入って以来、先週までまともに会えなかったんですから」
「それがこれか!?」
 非難に満ちた声に、すべやかな胸元に口接けを落としていた楊ゼンは顔を上げて微笑む。
「恋人同士の婚前旅行ときたら、当たり前でしょう」
「!?」
 その返答に思わず絶句した太公望の唇に、軽く音を立ててキスをして。
「というわけで、たっぷり楽しんでくださいね、師叔」
 理性過多な恋人が我に返る前にと、さっさと楊ゼンは事を再開したのだった。






end.










というわけで、LoveTrouble夏の章の再録です。
が、Wordからメモ帳に移植する作業をしながら、自分で砂をザアザアと吐きました。
昨年、原稿をやっていた最中も砂を吐きまくり、書くのが嫌で嫌で、締切間際まで友人に愚痴りまくっていた記憶があるのですが・・・・。
なにゆえに、こんな思いをしつつも、このシリーズをラストまで書き続けたのか、正直謎です。
太公望が楊ゼンにベタ惚れの可愛いラブコメなんか大嫌い・・・・・(号泣)
以下次号。





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