Holy Night








 真冬の噴水というのは、見ていて寒々しい。それが夜ならば尚更だ。
 けれど今夜は。
 噴水のすぐ脇に立つ、大きな針葉樹の木立をいろど彩る華やかな電飾の輝きを映して、水の飛沫が楽しげにきらめいている。
 イルミネーションにきらめきながら落ちてゆく水は、まるで宝石の雨のように綺麗で、こご凍えた夜の空気の中、いかにも冷たそうな風景であったが、どれほど眺めても見飽きることはなかった。
 星が笑いさざめくような電飾と、飛沫と。
 光で形作られたそれらは、夢幻的なほどに美しい光景で聖なる夜を包み込んでいた。
 その中で。
 楊ゼンは噴水から時計塔へと、わずかに視線を転じた。そして、自分の左腕の時計を確認する。

 ───時計塔の針は、午後九時五十二分。
 ───少しだけ進めてある、アナログ式の時計の針は、午後九時五十七分。

 ゆっくりと、だが確実に時間が過ぎているのを確かめて、楊ゼンは小さく白い息をつく。
「やっぱり……来てはくれないかな」
 たとえ飲んべえの多い飲み会であっても、一次会はとうに終わっている時刻だ。
 それなのにあの人が現れないということは、おそらく二次会へも参加したのだろう。
 仕方がないか、と楊ゼンは苦い微笑を浮かべる。
 あの人が自分の誘いを、しぶしぶならともかくも、喜んで受けてくれたことなど一度もないのだし、今夜の約束も、自分が「待っている」と言っただけの一方的なものにすぎない。
 最初から上手くゆく見込みなどなかったのだ、と自分に言い聞かせる。
 けれど。
 もう少し……そう、十時までなら待ってみてもいいだろう。未練がましいかもしれないが、どうせここまで待ったのだから。
 こんな街中の恋人たちが浮かれている夜に一人、公園のベンチで待ちぼうけの冴えない男の役を、あと数分だけ、余分に演じてみてもいい。
 そう思って、もう一度腕時計の針の位置を確認しようとした時。

 じゃり、と煉瓦を模したタイルを踏む小さな音が耳に飛び込んできた。

「───!」
 驚きと期待に全身がかすかに震えるのを感じながら、ゆっくり顔を上げると。
 小さな人影がイルミネーションを背景に立っていた。
 焦茶色のダッフルコートのポケットに両手を突っ込み、不機嫌そうに眉をしかめて。
「──何をしとるのだ、こんな時間まで」
 かなり怒っているらしい低い声に。
 とっさ咄嗟に答えることもできず、楊ゼンは目の前の人物を見つめた。
「太公望…師叔……」
 そう名を呼ぶのが、精一杯だった。




           *          *




「太公望師叔、先日言った事を覚えていらっしゃいますか?」
「──何の事だ?」
 ファイルをめくる手を一瞬止めて、太公望は斜め後ろに立つ青年を振り返った。
 案の定、その深い色の瞳には純粋な疑問しか浮かんでいないことを見取って、楊ゼンは内心、溜息をつく。
「今夜のことですよ。六時半に中央公園の噴水前で、と先週言ったでしょう?」
「駄目だ」
「何故です?」
「今夜は飲み会の約束がある」
「飲み会というと、あれですか? 独り身の教授たちの毎年恒例という……」
「なんだ、知っておるのか」
 再びファイルをめくりながら、太公望はうなずいた。
「有名ですから。一昨日も玉鼎教授の研究室で、お茶を飲みながら太乙教授が浮かれていらっしゃいましたしね。思いっきり歌うぞー!!、と」
「まーた来ておったのか。この寒いのに、工学部からここ経済学部までわざわざ茶を飲みに来るとは、あやつの酔狂には限度がないな」
 そう言いながらも慣れっこになっているのか、太公望の口調と声はあっさりしている。そして、そのままの口調で続けた。
「ま、とにかくそういう訳だ。諦めてくれ」
 書架の前に立ち、ファイルのページに目を通しながら言うその態度に、少しだけ楊ゼンは腹立ちを覚える。
「そうはおっしゃいますが、師叔。僕が聞いたところでは、あなたは出席を渋っていらっしゃったはずです」
「……誰から聞いたのだ、そんなこと」
「十日前、太乙教授がぼやいていらっしゃいました」
「……また玉鼎のところでか」
 小さく太公望は溜息をついた。
 そして、肩越しに振り返る。意外なほど強い光を浮かべた大きな瞳が、まっすぐに楊ゼンを見つめた。
「確かにおぬしの言う通り、最初は迷っておったよ。近頃、やたらと忙しくて疲れ気味だったからな。どうせ毎年あるのだから、今年はやめようかと思っておった。
 だが、連中がうるさいから行くことにした。それだけだ」
「僕がお誘いしたのは、一週間前でしたよね」
「おぬしの誘いを蹴って、同僚との飲み会に出席するのが気に食わんか?」
 鋭く切り込まれて、楊ゼンは一瞬、答える言葉を失う。
 その様子を見届けて、再び太公望は手元の分厚いファイルの視線を落とした。
「おぬしは、わしの講義を受講しているわけでもない只の院生。学生時代からの付き合いを優先するに決まっておるだろう」
 そっけない口調に、楊ゼンは小さく眉をしかめる。
「せっかくのクリスマス・イブだ。わしなど相手にしとらずに学生らしく楽しく過ごせ。おぬしとのディナーを夢見る女子など幾らでもいるだろうし、合コンもまだ間に合うだろう」
「好きでもない相手と過ごして、それが楽しいと思われるんですか」
「さぁのう。あいにくとクリスマスデートなんぞには、これまで縁がないのでな」
 そう言って、太公望は手にしていたファイルとパタンと閉じた。
「さあ、わしはまだ飲み会までに片付けたい仕事があるのだ。おぬしの今年最後の講義は終わったのであろう?」
 さっさと帰れと言わんばかりの言葉に、楊ゼンは口を開きかけたが止める。時として呆れるほど強情な彼に、この場でこれ以上、何を言ってもおそらく無駄だった。
「───分かりました。でも僕は、あなたが来て下さるまで待っていますから」
「………っ」
 そう言い、コートを手に出て行きかけた楊ゼンを、太公望がまなざしをきつくして振り返る。
「中央公園の噴水前ですよ」
 ドアの前で、その大きな深い色の瞳を見つめながら、念を押して。
「──わしは行かぬからな!」
 途端に返った声を背に受けながら、楊ゼンは太公望の研究室を後にした。




          *          *




 本当に来てくれるなんて思っていなかった。
 予定があると言うのをそれでも強引に誘ったのは、鼻であしらうような返答が悔しかったから。
 それだけだ。
 口ではどう言おうと、本当は優しい人だから、もしかしたら…と、ほのかに期待していなかったわけではない。けれど、本気ではそれを信じていなかった。
 なのに。
「どうして……?」
 問いかけに太公望は答えない。
「いつまでこんな所に居るつもりだ?」
 代わりに、不機嫌そうに眉をしかめたまま口を開き、
「さっさと帰るぞ、楊ゼン」
 そう言って、くいっと顎で示すようにして背中を向けた。
「あ……待って下さい、師叔!」
 慌てて楊ゼンも立ち上がり、後を追う。少し足を速めれば簡単に小さな後姿に追いつくことができた。
 寒いのだろう、太公望は両手をコートのポケットに突っ込んだまま、肩をすくめるようにして早足で歩いてゆく。その背中を見つめて歩きながら、ようやく楊ゼンは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「師叔」
 呼びかけに返事はない。だが、ちゃんと聞いていると知っているから、そのまま言葉を続ける。
「飲み会はどうなさったんですか? まだこの時間だと二次会は終わっていないでしょう?」
「音痴ぞろいのあやつらの歌など、二十分も聞かされたら充分に拷問だ」
 その短い答えに、楊ゼンは納得した。
 そういえば、太乙教授はカラオケ好きで有名だけど、上手いとは一度も聞いたことがなかったな、と。
 そして、太公望は二次会を途中で抜けて、ここへ来てくれたのだと理解する。
 多分、自分が来てくれるまで待つと言ったから。
 それを確認するため──あるいは、心配して。
 そう思った途端、息苦しいほどの切なさが込み上げてきて、楊ゼンはひそかに深呼吸した。
 あとはただ無言で、目の前の小さな背中を見つめながら歩きつづけて。
 広い公園を横切り、大通りまであと少しに近づいた時、背後で、チャイムと共に楽しげなメロディーが響き始める。
 ───十時。
 今夜はクリスマスイブだから、普段は夕方七時で終わる時計塔のからくりも、深夜0時まで鳴るように設定されているのだ。
 今日、四回目に耳にするメロディーを妙に懐かしいような気分で楊ゼンは聞きながら、イルミネーションに包まれた公園を後にした。









 太公望の住まいは職員寮ではなく、大学に程近いマンションの一室だった。
 比較的建築年数が新しく余計な装飾のない機能的な印象を受ける建物で、防犯のために部屋の縦列ごとに一基あるエレベーターを使い、誰とも顔を合わせることなく二人は部屋にたどり着いた。
 ドアにカードキーを差し込み、ロックを解除する太公望を、楊ゼンは何か不思議な気分で見つめる。
 中央公園から約二十分。
 市内を走るモノレールも使わずに黙々と歩いてきてしまったが、ここまでついてきても良かったのだろうか。
 だが、ためらう言葉を切り出せぬうちに太公望がドアを開け、そして、軽く振り返ったその視線で楊ゼンを呼んだ。




 玄関のロックを解除すると同時に照明とエアコンのスイッチは入るのだが、冷え切った室内は、そう簡単には暖まらない。
「寒いのう。タイマーをセットしとけば良かった」
 でも何時に帰れるか分からなかったし、とぶつぶつぼやきながら、太公望はコートも脱がないままキッチンでケトルを火にかける。
 その様子をリビングのソファーから楊ゼンは眺める。
 実をいうと、この部屋を訪れるのは初めてではない。前に一度、彼に頼まれて研究室から資料の本を運び込むのを手伝ったことがあるのだ。
 その半年以上前の記憶と何も変わらない、こざっぱりとした家具の少ない室内には装飾品のたぐいはほとんどなく、ただ本が無造作にローテーブルやサイドボードに積み上げられている。
 それらの背表紙のタイトルからうかが窺える本の内容は様々で、一番多いのは彼の専門である経済関連の書籍だが、他にも文芸書や旅行記、天文、心理学、歴史書など統一性のかけらもない。
 だが、そこから彼の人間性がかいま垣間見えるようで、楊ゼンは小さく口元に微笑を浮かべた。

 ───太公望と知り合ったのは、去年の春。

 ゼミの担当教授である玉鼎に用があって教授棟へ行く途中、キャンパスの芝生に寝転がって昼寝をしている彼を見かけて、「こんなところで寝ていたら風邪を引くよ」と声をかけたのが、最初の出会いだった。
 その時は、てっきり付属中学か高校の生徒だと思ったのだ。しかし、彼が目を開けた途端、子供のものでは在り得ないその深い色に年齢の見当がつかなくなり、戸惑った自分に、彼は起き上がりながら面倒くさそうな口調で学部と名前を尋ねた。
 そして、いぶかりつつも経済学部の四年だと名乗ると、
「四年なら自分の学部の講師の顔くらい覚えておけ。わしは経済学部助手の太公望だ。どうせサボりの中学生だとでも思ったのだろう?」
 彼はからかうような笑みを浮かべてそう言い、立ち上がって服を軽く払ってから、教授棟とは反対の方角に立ち去っていった。

 ───経済学部助手・太公望。
 先代総長・元始天尊の最後の教え子であり、学内最年少で博士号を取得していながら教授への昇格を拒んでいるという名物講師の名前は、楊ゼンも知っていた。
 だが、週一コマの講義の時以外、教室棟には現れない彼の顔を知る機会など、それまでになかったのである。
 けれど、この短い出会いで、面白い講師だという噂以上に底知れないものを楊ゼンは太公望に感じた。
 今から思えば、それは単に彼の器の深さを感じ取っただけだったではなくて、ある種の予感であったのかもしれない。
 結局、時間割の兼ね合いで彼の講義を履修することはできなかったが、学内の図書館や食堂で顔を合わせる度に少しずつ親しくなってゆき──気付いた時には好きになっていた。
 年齢より十歳は若く見える脅威の外見も、普段は爪を隠しているが、論文から垣間見える恐ろしいほどに切れる頭脳も、飄々とした温かな人柄も、彼のすべてが心惹かれるものだった。
 そうして太公望の傍に居たいがために、卒業後はUSAに戻るはずだった予定を変更して院に進学し、彼の追っかけと化してから早一年半。
 だが、太公望は楊ゼンの存在を拒むことはないが、その愛の告白は、まともに取り合おうとしなかった。
 楊ゼンが何と言おうと、いつでも口先でいなし、受け流して聞かなかったことにしてしまう。
 それが何故なのか、楊ゼンには分からない。
 太公望が自分を嫌っている気配はなく、むしろ、ふとした表情や態度から、好意を向けてくれているのを感じることの方が多いのに、彼は決して自分に応えようとはしてくれないのだ。
 だから、今夜も期待などしていなかったのに。

 ───どうして僕を部屋に入れて下さったんです?

 コートを着たまま、コーヒーを煎れている横顔を見つめ、楊ゼンはひそかに問いかける。




 熱いコーヒーをマグカップの注ぎ、片方にだけミルクと砂糖を加えて、太公望はリビングに戻った。
「ブラックで良かったな?」
「ええ。ありがとうございます」
 端正な笑みと共にカップを受け取る楊ゼンの顔をちらりと見て、太公望は自分のカップをローテーブルに置いた。いくらなんでも、コートを着たままでコーヒーを飲むわけにはいかないから、脱いでハンガーにかけ、それから一人掛けのソファーに腰を下ろす。
 少し暖まり始めた室内に、かすかな空調の音だけが響くのを聞きながら、居心地の悪い気分で太公望は自分のカフェオレをすすった。
 ───実は太公望自身もひどく戸惑っていた。
 楊ゼンが自分のマンションに──今、自分の目の前にいるという現実に。
 彼をここまで連れてくる必要などなかったのだ。
 公園で、さっさと帰れ、といえばすんだことだったのに、つい一緒に歩いてきてしまい、迷いつつも部屋にまで上げてしまった。
 マンションの近くまできた時に、まずい…とは思ったのだが、ここまで来て今更突き放すこともできなかったのだ。
 それもこれも全部こやつのせいだと、太公望は心の中で彼をなじる。
 今夜は予定があると言ったのに、どうして四時間半も、この寒空の下で待っていたのか。
 まさかとは思ったが、気になって二次会を抜け、約束の場所へ行ったら本当に待っていたのには、呆れるよりも腹が立った。
 だが……思えば、今夜彼を見つけた瞬間に──信じられないと言いたげな表情と、その直後の表現しがたい歓喜の色を浮かべた瞳を見た時に、自分は敗北を認めてしまったのかもしれない。
 でも、だからといって部屋にまで連れてくることはなかっただろう、と今更ながらに太公望は悔やむ。
 ───楊ゼンのことは、決して嫌いではない。
 若さや育ちから来るのだろう強引さも、困りこそすれうと疎ましいとは思わないし、その優しさや一途さに心を動かされないといえば嘘になる。
 しかし、嫌いではないからこそ、これは行き過ぎた事態だと思うのだ。
 とはいえ、一体どうすれば──…。

「師叔」

 ふいに甘い響きの声に呼ばれて、マグカップを手に物思いに沈んでいた太公望ははっと我に返り、顔を上げた。
 しかし、その途端に、まっすぐに見つめてくる瞳に視線を絡め取られ、動けなくなる。
「せっかく折角の飲み会だったのに、僕に付き合わせてすみませんでした。でも、駄目だろうと思ってましたから、来て下さって……本当に嬉しかった」
「……駄目だと思っておったのなら、最初から誘うでないわ」
 不機嫌な声で応じる太公望に、楊ゼンは微笑した。
「そうですね。でも、駄目もとで賭けてみたかったんです。実際、あなたは来てくれましたし」
「それはおぬしが……!」
「分かってますよ。僕が強引なことを言ったから……でしょう?」
 言葉を奪われて、太公望は眉を寄せる。
 だが、楊ゼンはそれ以上深追いせずに、セカンドバッグと共に置いてあった包みを手に取る。
「もう渡せないかと思ってたんですが……受け取って下さい。気に入らなければ、捨てて下さっても構いませんから」
「───…」
 今まで存在に気付かなかったそれを差し出され、太公望はためらいつつも手を伸ばして受け取った。
 おだやかなグリーン緑を基調にした包装紙と、品のいい艶消しの金色のリボンにくるまれた、一目でクリスマスプレゼントと分かる四角い箱。サイズは大きくなく、受け取った感触も軽い。
 見つめる視線に促されて、太公望はそっと包装を解いた。
 リボンと包装紙を外し、どこかで見たことのあるエンブレム入りの箱を開けると。
 現れたのは、白いやわらかそうな毛織物だった。
「マフラー……?」
 純白ではなく、やさしいミルク色のそれに指先を触れれば、その心地好い感触に、極上のカシミアであることが知れる。
 こんないい物を……と、思いがけないプレゼントにぼんやりしていた太公望は、楊ゼンがソファーから立ち上がったことに気付かなかった。
「……え?」
 形のいい手が視界に侵入し、マフラーを取り上げるのをなす術もなく目で追って。
 ふわり、とそれが広がって自分の肩に掛けられたことに驚く。
「ああ、よく似合いますね。ネイビー濃紺とどちらにしようか迷ったんですけど、白にして良かった」
 嬉しそうに笑った笑顔に一瞬見惚れたが、すぐに太公望は我に返った。だが、礼を言わなければと思うよりも早く、楊ゼンに名を呼ばれる。
「太公望師叔」
「ん?」
 不意に調子の改まったその声にひやりとしながらも返事をする。と、楊ゼンがゆっくり床に片膝をついた。
 わずかに低い目線から見つめられて、太公望は内心ひどくうろたえる。互いの瞳の色までもがはっきり見えるこの距離では、表情をごまかしきれない。
「なぜ今夜、僕を部屋に入れて下さったんですか?」

 静かな問いかけに。
 どくん、と心臓が鼓動を打った。

「別に……他意などない」
「師叔、目を逸らさないで」
 そむけかけた顔を、言葉で引き止められる。
 どうすればいいのか分からないまま、太公望は再び楊ゼンの視線を受け止めた。
「どうしてそんな顔をされるんです?」
「ど…んな顔をしておると言うのだ?」
 はやる鼓動に息苦しさを覚えながらも問い返す。
 すると楊ゼンは、生真面目な顔に少し困ったような表情を浮かべた。
「そうですね……」
 言いながら上げられた楊ゼンの右手の指先が、自分の頬に伸びるのを目の端に留めて、太公望はびくりと肩を震わせる。
 それを見た楊ゼンは、自嘲を含んで微笑した。
「僕が……怖いですか?」
 その辛さを押し隠した表情に、太公望は言葉を捜す。
「わしが……」
 だが、どういえば理解してもらえるのか、分からなかった。
「わしが怖いのは、おぬしではないよ」
「では、何を……?」
 重ねて問われて、唇を噛む。

 ───嫌いではないからこそ……大切だからこそ、足を前に踏み出したくないという気持ちを、一体どうしたら理解してもらえるだろう。
 これまでに誰かと付き合った経験はなかったが、この年齢になれば、恋愛が甘いだけのものではないということくらい分かってしまっている。
 臆病だと……卑怯だと言われても、年齢も違えば歩く道も違う、この青年の手を取る勇気は太公望にはなかった。

「僕を嫌いですか?」
「…………」
 嫌いなら今夜、公園に行ったりはしなかったと胸の裡で呟く。
「師叔……」
 答えない太公望に何を感じたのか、楊ゼンは細い手を取り、そっと口接けた。
 そのやわらかな感触に、太公望は小さく震える。
「太公望師叔、あなたが好きです」
 真摯な瞳に視線を絡め取られたまま、その告白を受け止めることも拒絶することもできない。
「あなたから見れば、僕は頼りない若造でしょう。でも、絶対にあなたを傷つけるようなことはしません。だから……」
 立ち上がった楊ゼンの手が髪に触れる感覚に、またもや太公望は身体を震わせて目を閉じた。
 駄目だと思うのに、制止の声を上げることも伸ばされた手から逃げることも出来ない。
「怖がらないで……」
 その言葉と共に、羽のようにやさしい口接けが額に触れる。ついで、瞼に、頬に。
 そして、小さくおののく唇をかすめる。
「師叔……」
 抱きしめられ、太公望は目を閉じたまま身じろぎもできなかった。
「……僕は、あなたに出会うまでずっと孤独だったと、そう言ったら……笑いますか?」
 太公望を胸に抱きしめたまま、その耳元に楊ゼンはささやくように語りかける。
「陳腐な口説き文句だと……。有り余るほどの財や取り巻きに囲まれていながら何を贅沢なことを言うのかと、呆れますか?
 でも、それらは僕が望んで勝ち取ったものじゃない。僕が本当に欲しかったものではないんです。だから……金鰲グループ総帥の後継者として人々の賞賛を浴びていても、いつも僕はどこか寂しかった」
 楊ゼンは、少しかすれた声で言葉を続けた。
「けれど、寂しさを感じる理由がわからなくて、僕は我儘なのかと思ってました。満足するということを知らない子供なのかと……。でも、あなたと出会って、ようやく分かったんです。自分が何を欲しがっていたのか、何が足りなかったのか……」
 太公望を抱く腕の力が強くなる。
「今はもう、あなたのことを考えるだけで僕の中の寂しさは消える。今日だって、あなたを待ちながらも僕は寂しくはなかった。来てくれるはずがないと思うのは辛かったけれど、それは寂しさじゃなかったんです」
 その言葉を、声もなく太公望は聞いた。

 ───何も気付いていなかった訳ではない。
 時には必死にさえ見える彼の自分に対する執着が、長年の寂しさの反動であることくらい、分かっていた。
 初めて見つけた『自分以外の誰か』に、本気で夢中になっているのだと。
「だから……、あなたが欲しいんです、師叔」
 決して軽い気持ちではなく、心の底から自分を求めていることを。
 知っていた。
「身勝手だと怒りますか? 我儘だと……。でも僕は、本当にあなたが好きなんです。あなたに傍に居て欲しいんです」
 けれど──…。
 二人で居れば、本当にそれだけで寂しさが埋まるのだろうか。
 人の心はいつでも温もりに貪欲で、『二人』という単位でも、また新しい孤独を生みはしないか。

 だが。
 思い悩む耳元に、楊ゼンの真摯な声が注がれる。

「同情では嫌だと言いたいけれど、もう同情でも構いません。傍に居て下さい、太公望師叔。もう他に何も望みませんから……」
 その何の飾りもなく不器用に、ひたすらに求めてくる言葉が、胸に痛みを感じるほどに切なくて。
 口にすべきではない……決して口にしてはならない言葉が、せめぎあう心の葛藤に揺れながらも、ひっそりと零れ落ちる。
「───わしは、同情などはせぬよ」
 長い沈黙の果てに呟いた小さな声に、抱きしめる腕が緩む。
「師叔……」
 至近距離で見つめられて。
「その言葉を……僕の都合のいいように受けとってもいいんですか?」
 その真剣なまなざしに、太公望は自分が口にした言葉が深い意味を持って二人を包み込んでゆくのを、なす術もなく見つめた。
「師叔」
 そして、もはや答える言葉も拒む言葉も見つけられないまま。
 名を呼ぶひどく切ない声と、瞳と。
 そっと寄せられた唇に、太公望はためらいながらも目を閉じる。
 未だ迷い、怯えているのに、触れ合う温もりに甘さを感じる自分の心が、ひどく切ない。
 だが、確かめるように何度も唇をついばむ口接けが深くなれば、甘い酩酊に何もかもを奪われる。
 初めて知る、口腔を探り、絡んでくる熱い舌の感覚に、太公望は拒むこともできずに流された。
 呼吸を奪われた苦しさと、こみ上げる切なさに似た何かに耐えかねてすが縋るよすがを求めた指が、いつしか楊ゼンを抱きしめ返す形になる。
「……っ…」
 ようやく離れた楊ゼンの唇が耳朶を甘く噛み、首筋を下りていっても、抗うことを忘れてその熱を受け止める。が、ぼんやりと薄く開いた目に天井の蛍光灯の白い光が映って、太公望は我に返った。
「よ…うぜん…!」
 鎖骨をたどるやわらかな熱の感触に、不意に背筋に慄えが走り、制止を求めて青年の名を呼ぶ。
 だが、顔を上げた楊ゼンの切ないほど甘やかな色をした瞳に、それ以上の言葉を奪われた。
「師叔」
 甘く響く声で太公望を呼び、楊ゼンは己の肩にかけられていた太公望の左手を取った。そして、その細い手の甲にそっと口接ける。
「師叔、僕を拒まないで下さい」
「──楊…」
「あなたの意思を無視して強引なことはしたくありません。でも僕は、あなたの全てが欲しいんです」
「───…」
 その我儘な言い分に、自分は物ではないと反論しても良かった。
 だが、触れて安心したがる子供のような焦燥と、それ以上に深い想いが、痛いほどに伝わってきたから。
「──ずるいのう……」
 太公望は、己の早鐘のような鼓動を聞きながら目を閉じる。
 引き返せない処へ足を踏み入れようとしているのだと分かっていても──その前で立ちすくむ自分の心を感じていても、もう抗えなかった。
「師叔……」
 自分を呼ぶ甘い声と、やさしい口接けが。
 泣きたいほどに切なかった。






next.










というわけで、LOVE TROUBLEシリーズの再録第1弾。
ところどころ文章の手直しはしてありますが、基本的に原文のままです。
同人誌の方を見て下さってる方々にはつまらないでしょうが、すみません。

本当は、再録はもう少し先の予定だったのですが、時期ネタということを考えると、やはりクリスマスシーズンにupするのが良いかな、と思って、出してみました。
後半も近日中にupしますので、待っていて下さいね〜☆





NEXT >>
BACK >>