海の見える部屋で








 時間はありますか、と尋ねたら。
 無い、と無情な返事が来た。
 続けて、今は手が離せないから、用があるなら来いと、味も素っ気も無い文章が携帯電話に届いて。
 それでも会いに行った。
 残された時間は、もう随分と少なくなっていたから。






 この呼び鈴を押すのは、一体何年ぶりのことだろう。
 そんな感慨に浸りながら、玄関のチャイムを鳴らすと、少しの間があってドアが開く。
「おう、来たか」
 そのタイミングも、かけられる声も、三年前と同じで、少しばかり眩暈がしそうだった。
 口に出せば盛大に呆れられるだろうが、何度このチャイムを鳴らしてもドアを開けてもらえない夢を、この三年間に幾度見たか分からない。
 何の返事も返らないドア。
 あるいは、おぬしに用などないとすげなく追い返されるドア。
 その度ごとに自分は呆然と立ちすくみ、二度と戻らない言葉を心底後悔した。
 けれど、そんな悪夢はもう過ぎた話なのだと証明するかのように、招き入れられる。
 そして、あの頃とは違う目線の高さが、これは現実なのだと教えてくれて。
「ジジイは奥におるが……挨拶してゆくか?」
「そうですね」
 うなずいて、同意する。
 それもまた、三年前の再現だった。
 一階奥の居間でゆったりとくつろぎ、将棋や囲碁の棋譜とにらめっこをしていたり、読書をしていたり、時にはその姿勢のままうつらうつらしている彼の祖父に、お邪魔しますと一言かけてから、二階の彼の部屋に上がったり、そのまま外に遊びに出たり。
 そんな無邪気な日々は、遠く消えてなくなったはずなのに、けれど、まだここには名残が残されていて。
 こんなにも簡単なことだったのか、と今更ながらに思う。
 あの日の翌日、ごめんなさいと、勇気を出して一言謝ってしまえば、おそらくその後の三年はなかったのだろう。
 それまでと変わらない、当たり前のように傍にいられる日々が続いていたはずだ。
 けれど、何としても彼に追いつきたかった自分にはそれはできなかったし、また、酷い言葉を投げつけた後に彼と顔を合わせるだけの勇気もなかった。
 今から思えば、気負った子供の考えすぎだったのだと分かるが、つい先日までは本当に深刻だったのだ。
 悩んで、後悔して、苦しんで。
 これほど苦い三年間は、この先一生、経験することはないだろう。
 だが、それでも、回り道をしながらでも何とか辿り着いたから、また再びここに……彼のすぐ傍に居られる。
 気付かないうちに迫ってしまったタイムリミットを思えば、時間の浪費を悔やむしかなかったが、それでも、二度と言葉を交わせなかったかもしれない可能性を思えば、十分に幸せだった。
「じい様、客。といっても、わしのだが」
 彼が声をかけながら襖(ふすま)を開けると、庭に面した明るい和室の窓際で、囲碁の棋譜とにらみ合っていた老人が振り返った。
「おお。誰かと思えば楊ゼンか」
「御無沙汰してます」
「うちに来るのは久しぶりじゃの。ま、ゆっくりしていきなさい」
 この三年間、まったく縁が切れていたのは彼自身とだけで、彼の祖父とは近所同士、道で会えば挨拶する間柄は何も変わっていない。
 自然、交わす挨拶も気負いのないものになった。
「では、わしらは二階に居るから」
「うむ。茶を入れる時には、わしにも持ってきてくれ」
「はいはい」
 祖父が何かを言いつけ、彼がぞんざいに返事をする。
 それも、ひどく懐かしく感じられるやり取りだった。
 そして、何やかやと言いながらも、彼はいつも祖父の希望を叶えてやるのだ。
 何も変わっていないのだと──変わったものがあるとしたら、それは何かと思いながら、彼に付いて居間を辞去し、短い廊下を歩いて二階へと上がる。
 この三年間は自分にとっては長い月日だったが、所詮、たかが三年だった。
 そうして通り過ぎる間にも、そこここにある家具の配置は何も変わっていなくて。
 そのことにまた込み上げる懐かしさ、あるいは切なさに目が眩みそうになった。

*            *


 一歩足を踏み込んで、楊ゼンは太公望が何故、暇が無いと言ったのか理解した。
「……結構、凄まじいですね」
「だから、忙しいと言っただろうが」
 二間続きのかなり広いはずの太公望の部屋は、いまや足の踏み場も無い状態だった。
 散乱し、積み上げられているのは主に本だが、他にも様々なものが棚や箪笥(たんす)から引っ張り出され、幾つもの段ボール箱に分類されて詰められかけている。
 引越し準備の最中であることは、一目瞭然だった。
「この状態で僕を呼んだということは、もしかして手伝わせる気ですか?」
「もしかしなくとも、その気満々だ」
 間髪入れずに返った答えに、楊ゼンは、そういえばこういう人だった……、と思い出す。
 この三年間、太公望のことを想い詰めるあまりに忘れかけていたが、本来の太公望は、寛容な一方で、使えるものは何でも使うというような合理的で容赦ない一面も持っている人間だった。
 おかげで楊ゼン自身、子供時代に宿題を手伝ってもらう代わりに、ちょっとした用事などでどれほど便利に使われたか知れない。
 それこそ、おつかいだとか家具の移動だとか。
 山のようにある記憶を一つ一つ数え始めたら、きっと日が暮れるだろう。
「不満なら帰って良いぞ。つーより、そもそもわしが忙しいと言っておるのに、会いたいと来たのはおぬしの方だろうが」
「……誰も文句なんか言ってませんよ」
 文句を言ったら最後、追い返されるだけだということは、十五年以上も前に学習済みである。
 潔く上着を脱いで、手近にあった椅子の背にかけさせてもらい、楊ゼンは幼馴染に向き直った。
「で、何から手をつければいいんですか?」
「うむ」
 すると、我が意を得たりといわんばかりの笑顔で、太公望はまだ半分も片付いていない本棚を指差したのだった。




 何だか切ない、と思いながらも、楊ゼンは指図されるままに、太公望が選び出す本を段ボール箱にきっちりと収まるように詰めてゆく。
 好きな人が遠くへ行ってしまうというのに、その手伝いをするほど虚しくて切ないことが、この世にどれくらいあるだろうと思うと、つい手が止まりそうになるのだが、あいにく、彼の想い人はそんな怠慢を許してくれる人ではなかった。
 一応、楊ゼンと太公望との関係は恋人未満の幼馴染であるはずなのだが、それの意味するところは、つまり楊ゼンの気持ちを太公望が拒絶していないというだけで、実態は楊ゼンの片想いに等しい。
 ゆえに、それらしい情緒は何もなく、それこそただの幼馴染のように他愛のない会話を交わしながら、幾つもの梱包済みダンボールを作ってゆく作業が二時間ほど続いただろうか。
 やっと人がくつろげるだけの空間が、居間として使っている部屋の方にできたところで、休憩にするか、と太公望が声をかけた。
「茶を入れてくるから、ちょっと休んでおれ」
「手伝いますよ」
「別に良いよ、これくらいはな」
 多少の駄賃はやるよ、と笑って太公望は、部屋を出て行く。
 取り残されて、楊ゼンは改めて今いる部屋の中を見回した。
 この部屋も、家具の配置は三年前とまったく変わっていなかった。
 違う所といえば、元から多かった本棚の本が更に増えていることと、パソコンが新しく買い換えられていること、それくらいだろうか。
 中学生や高校生の三年間とは違い、大学の三年間というのは、さほど大きな変化のある期間ではないのかもしれない。
 けれど。
 この部屋を太公望は出て行くのだ、と楊ゼンは思う。
 もちろん、彼自身は帰ってくると言い切ったし、今梱包している荷物にしても、中身は必要最低限のものばかりで、大半の物はここに残される。
 それでも、梱包用ダンボールがそこここに置かれた室内にいると、この春から太公望はここには居なくなるという現実が、今更ながらに楊ゼンの心に重くのしかかってきて。
「……無駄にしたよなぁ」
 あの三年間がなければ、とまた溜息が零れ落ちる。
 ずっと傍にいたままだったなら、自分の気持ちを打ち明けるきっかけは掴めず、関係を変えることもできなかったかもしれないが、代わりに、彼が進路を選ぶ際に、遠くへ行かないで欲しいというくらいの意思表示はできたかもしれない。
 もっとも自分の性格上、格好をつけて口先では、あなたの行きたい所へ行くのがいいんじゃないですかなどと、分かったようなことを言っていた可能性もあるのだが。
 それでも、きっと太公望は、その下にある自分の気持ちを汲んでくれただろう。
 そして、いつまで経っても……と苦笑しながらでも、家から通えるような所を進路に選んでくれたかもしれない。
「ああ、でもそれじゃあ僕は、あの人に甘えっぱなしということになるな。だったら、これで良かったのか……」
 呟いた時、階段を上がってくる軽快な足音がして、ドアが開き、太公望が戻ってきた。
 トレイに載っていたマグカップの一つを楊ゼンに渡し、手近にあった巨大クッションを引き寄せて自分も腰を下ろすと、くつろいだ姿勢でもう一つのマグカップを取り、菓子器に持ったお茶請けの豆おかき(おそらくは祖父のリクエストに合わせたのだろう)を二人の間に置いた。
「ご苦労だったのう。おかげで、かなり捗(はかど)った」
 そう言ってから、からかうような微笑を浮かべた目を向けてくる。
「随分と複雑そうな顔をしておるな」
「それは仕方がないでしょう」
 ああ完全に面白がられている、と思いながら、楊ゼンは憮然と答えた。
 昔からこの人はこうなのだ。
 こちらの心理など簡単に読んで、それをからかい、揚げ足を取り、……そして最後には少しだけ甘やかしてくれる。
 そんな年上の幼馴染が、感情が複雑な意味を持つよりもずっと前から、自分は大好きだった。
 毎日、その日遊んでもらったことを思い返し、そして明日は何をしようかと、何を教えてくれるだろうかとわくわくしながら眠りについた幼い日々。
 宝石のように遠く、甘い記憶は、今でも自分の心の一番奥底に眠っている。
「あなたが居なくなることなんて考えたくないのに、その引越しの手伝いをさせられてるんですから。僕の機嫌が良くなるわけなんかありません」
 そう言うと、太公望は面白げに笑った。
「おぬしも大概、諦めが悪いのう」
「諦めが良かったら、とうにあなたの事なんか忘れて、可愛い彼女でも作ってましたよ」
「その方が、余程おぬしの青春は単純で、幸せだっただろうに」
「そう思えたら良かったんですけどね」
 溜息混じりに、楊ゼンは視線を太公望に向ける。
 ───実のところ、この三年の間に、両手に余るくらいの人数の女の子との付き合いはあった。
 だが、長続きしたためしはないのである。
 最初に声をかけてくるのは相手の方からであり、楊ゼンの方が相手に惚れ込んだことはなかったし、その上、心の中ではいつでも手の届かない想い人と彼女を比較していた。
 そういう最低な状況に甘んじていられる女の子というのは、まず滅多にいない。
 かくして、一方的に交際を申し込まれ、付き合い始めてから数ヶ月で振られる、というのが楊ゼンの女の子付き合いのパターンとして確立されていた。
「自分でも馬鹿だと思いますけど、仕方がないんですよ。あなた以外の人といても、全然楽しくないんですから」
 そう言い、目の前の相手を見つめる。
 太公望は、相変わらず少し面白がっているような微笑を浮かべていた。
 深みのある色の瞳が、楊ゼンの背後にある窓の向こうの空の明るさを映して、静かにきらめいている。
 太公望自身にどれほど自覚があるのかは知らないが、彼は綺麗な顔立ちをしていた。
 決して派手な造作ではないが、男女を問わずに綺麗だと思わせるような何か──たとえば宗教画や神仏像に通じるような独特の透明感を持った、普遍的な綺麗さだった。
 そこに、ぴりりとした辛味と、相手を丸ごと受け入れてくれるような温かさを併せ持つユーモアに満ちた性格が加わると、単に綺麗なだけではない、生身の人間だけが持ち得る抗いがたい魅力が生まれる。
 実際、太公望は恋愛感情の有無を問わず、誰からも好かれた。
 三年の学年差があったために、具体的な交友関係を楊ゼンが知る機会は殆どなかったが、その名残というか、中学や高校に入学するたび、先代の名生徒会長の逸話は耳にたこができるほどに聞かされたものである。
 そういう人を、物心付いた頃からどころか、生後すぐから間近に見て育てば、その人以外目に入らなくなっても仕方がない、と楊ゼンは思う。一種の刷り込みに近いかもしれない。
 だが、自分が掛け値なしに好きだと思える人間は、おそらく一生の間に太公望一人しかいないだろう。それは推測ではなく、もはや確信だった。
「おぬしも大概、趣味が悪いのう」
「あいにく、自分ではそうは思ってませんから」
 からかうような口調に平然と返すと、太公望は更に微笑を深める。
 ああ、こんな感じだった、と楊ゼンは思い出す。
 太公望が何かからかうようなことを言い、自分がそれを切り返す。下らない掛け合いを延々と続けたり、相手をやり込めようと躍起になってみたり。
 そんな他愛のない時間を、ほんの子供の頃から自分たちは心底楽しんでいたのだ。
「まあ、あなたに対して言いたいことは色々ありますけどね。今はこれで十分ですよ」
「すげなくされて、こき使われて?」
「ええ。そのお駄賃にコーヒーを入れてもらって。僕的には、そう悪くない状況です」
「……案外に控えめだな?」
「謙虚で遠慮深いと言って下さい」
 その切り返しに、太公望が噴き出す。
 くっくと笑いながら、手にしていたマグカップを床の上に置いた。
「本当におぬしは変わらぬのう」
「それは褒め言葉になってませんよ」
「別に褒めてはおらぬがな」
 でも、と太公望は顔を上げる。
「おぬしのそういう所、わしは昔から嫌いではなかった」
「え……」
 その瞬間の楊ゼンは、かなり間抜けな顔をしていただろう。
 楽しそうに笑いながら、太公望は続けた。
「せっかくだから駄賃代わりに一つだけ教えてやるが、おぬしがわしを無視し続けた三年間は、わしもそれなりに寂しかったよ」

 ほんの子供の頃から、春夏秋冬を共に過ごし続けて。
 それが、ふいに断たれて。
 仕方がないのだろうと、そういう時期がきたのだと納得しながらも、どことなくしっくりこなかった。
 共に笑い、泣き、怒っていた相手が、もう傍にはいない。
 毎日少しずつ、それに慣れてはいっても、やはりほんの少し、何かが足りなかった。
 声を交わすことも、会うこともなくなって。
 そのことが、ただ。

 寂しかった。

「師叔……」
「ま、わしの方は完全におぬしの八つ当たりのとばっちりだからな。悪いと思っておるのなら、その分を労働で返せ」
「……それは幾らでもやりますけど」
 言いながら立ち上がった太公望につられるように、楊ゼンも立ち上がる。
 もう少し謝るなり言い訳するなり、何かしら言いたいと思ったものの、上手い言葉が見つからないでいるうちに、太公望は部屋の片付けを再開し始めてしまい、楊ゼンの言葉は封じられてしまう。
「この本は、こっちの棚でいいんですか」
「うむ」
 こちらに何も言わせないのは、わざとだろうと思いながらも、楊ゼンは太公望のやり方に従う。
 どんな事柄であれ、昔からこの幼馴染に逆らえたためしはないのであり、その力関係は今も変わっていない。つまりは、そういうことだった。

*            *


「これで大体片付いたかのう」
「ですね」
 部屋の入り口近くに積み上げられた運送会社の段ボール箱と、すっきりと物の片付いた棚や机の上をぐるりと見渡して、やれやれとばかりに太公望が疲れた肩を片手で軽くもみほぐす。
 そうしながら、窓の外をちらりと見やった。
 春の初めの空は、早くも夕映えに染まり始めている。
「何だかビールでも欲しい気分だな」
「一仕事終わりましたからね。買いに行きます?」
「そこまではのう。缶チューハイなら、まだ冷蔵庫に何本か残っておった気もするが」
 まあいい、と太公望は窓辺によって、夕暮れの風景を眺めた。
 近所にある楊ゼンの家もそうだが、この太公望の部屋からも海が良く見える。
 海に向かって傾斜している丘陵の中腹にあるこの辺りからだと、ちょうどこの季節、緩やかにカーブを描く湾の向こう側の岬の端に、夕日が落ちてゆくのが眺められるのだ。
 そして今も、朱金色に輝く大きな太陽が、ゆっくりと岬の影に近付いてゆく。
 海全体が液体の黄金に変わったかのように、波がまばゆく照り返しながら打ち寄せるのを、しばらくの間、無言で見つめた。
「──引越し先はもう決まったんですよね?」
「うむ」
 やはり海の見える部屋にした、と太公望は答えた。
「一度くらい、海の見えないところで暮らしてみても面白いかもしれないと思ったのだがのう。すぐに我慢できなくなるのが目に見えておったから、最初から海辺にしておいた」
「あなたらしい」
「あっちも、ここと似たような感じだったよ。台風の直撃数は倍以上のようだがな」
「昔っからあなた、海が荒れると、浜の様子を心配しつつも結構喜んでましたもんね」
「まぁな。晴れているのが一番だが、どんな海でも、見るとそれなりに何かしらあるものだ」
「それも知ってますけど」
 窓辺に寄って、手を伸ばせば届くほどの距離に座り込み、ぽつりぽつりと言葉を交わしていると、いよいよ太公望がいなくなるのだという実感が染みてくる。
 やっぱり少し……かなり辛いな、と思いながら楊ゼンは隣りを見る。
 海と同じように夕日に照らされた太公望の顔は、どうしようもないくらいに綺麗だった。
 このままずっと、こうしていられたらどんなにいいかと思うのに、どうする術もない。
 十日後には、太公望はこの街からいなくなる。
 この三年間のように意図的に避けて会えないのではではなく、どれほど会いたいと思って探しても、見つからなくなるのだ。
 所詮同じ国内、会いに行けばいいと、誰でも言うだろうが、時間と費用を考えたらそんな簡単な距離ではない。大学をサボってアルバイトをしたり、会いに行ったりでもしようものなら、それがばれた途端に縁を切られると分かっていては、そう無茶もできなかった。
「毎日メールしても、怒らないで下さいね。返信はしてくれなくてもいいですから」
 そう言うと、波を見つめていた太公望が振り返る。
 海と同じように夕映えを映しこんだ瞳が、ただ綺麗で。
 胸が痛いほどに、好きで好きでどうしようもなくて。

 キスをしたい、と思った。

 夕映えの中で、ふっと太公望が笑う。
「おぬしは昔から、寂しがりだったな。わしに置いてゆかれそうになると、すぐにべそをかいた」
「……いくつの頃の話ですか」
「今でもだよ」
 微笑んだ顔がいつになく優しい、と思う間もなく太公望の左手が上がって、そっと楊ゼンの頬を撫でた。
 その優しい感触が合図だったかのように、楊ゼンの中で何かが揺れて。
 ああそうだ、と思う。

 いつでもこちらの心理を読んでしまう人だった。
 その上でからかって、揚げ足を取って、そして最後には、少しだけ甘やかしてくれる人だった。
 昔も、そして、今も。
 そして、そんな人が自分は好きで好きで。

「───…」
 ゆっくりと近付いた唇が重なっていたのは、ほんの数秒程度のことだった。
 そっと離れると、目を開けた太公望は楊ゼンを見つめ、それから少しだけ考えるような表情をした後、不意にいたずらっぽく微笑して両腕を伸ばしてきた。
 首を引き寄せられ、驚きながらもその誘いに乗って再び唇を重ね、感触を確かめるように幾度か触れるだけの軽いキスを交わしてから、少しずつ口接けを深めてゆく。
 信じられないと思いながらも、ずっとこうしたかったという思いの方が遥かに強く、そして、想像していたよりもずっと甘くやわらかな感触に、たちまちのうちに溺れる。
 太公望も拒むことなく、誘い誘われるような戯れに二人して夢中になった。
 互いの体に腕を回し、何度も角度を変えては飽きることなく舌を絡めて貪る。そんな長く貪欲なキスがようやく途切れたのは、互いに酸欠気味になって、呼吸が続かなくなったからで。
 最後に太公望の熱を帯びたやわらかな下唇に軽く歯を立ててから、楊ゼンは唇を離し、荒くなった呼吸を整える。
 それから、言うべき言葉を探した。
「師叔……」
「うん?」
「かなり慣れてません?」
 自分と同じようにまだ少し呼吸が乱れたまま、こちらの腕に体重を預けていた太公望は、聞かれた途端に笑い出した。
「おぬし、人のことが言えるのか?」
「それはそうですけど」
 何だかなぁと、複雑な気分に楊ゼンは陥って呟く。
 互いに二十歳を過ぎていて、純情ぶる年齢でもない。
 太公望がこれまで誰かと付き合ったことがないと思ったこともないし、まさか初々しい反応を期待していたわけでもないが、何というか、自分と互角に渡り合う技量の持ち主だということが、どうにも微妙な感じだった。
「何だ、文句があるのか」
「いえ、それはないんですけど。ちょっと意外だったというか」
「悪くはなかっただろう?」
「それは勿論」
 悪いどころか、これまで最高の感覚だった。
 ずっと恋焦がれていた相手だという事を差し引いても、かなりお釣りが出るだろう。
 だからこそ複雑なのだが、しかし、一生忘れられない経験の一つになったことは確かだった。
「あなたは?」
「そうだのう……」
 そちらはどうだったのかと問いかけると、腕の中で太公望はいたずらに目をきらめかせる。
「まあまあ、だな」
「まあまあ、ですか」
「うむ」
 くすりと笑って、太公望は楊ゼンを押しやり、離れた。
 それから楽しげに楊ゼンを見やる。
「ちょっと前まで付き合ってたのが、年上の美人だったからな。スタイルもテクも、極上だった。あれを超えるのはちょっと難しいぞ」
「……男として、かなり羨ましい話に聞こえるんですけど」
「そりゃもう。一年ちょっとの付き合いだったが、彼女のファンには相当にやっかまれたよ」
「……どうして別れたのか、聞いてもいいですか」
 微妙な質問だったが、太公望のほうは気にした様子はなかった。
 少しだけ考えるように首をかしげ、答える。
「どうしてと言われても……。まぁ、互いに忙しくなってスケジュールが合わなくなったし、もともと熱烈な恋愛関係というわけではなかったし。友達の延長線上のような付き合いだったから、とりあえず終わりにしようかという感じで、あっさり、だな」
 それを聞いて、自分の付き合い方よりはかなりマシかな、と楊ゼンは思う。
 何しろ、自分の方は一人の相手と半年ももったことがないのである。その短い付き合いを楽しんでいたかというと、それすらなかった気がする。
 引きかえ、太公望がそれなりにその時々の相手と上手くやっていたのなら、それはそれでかなり、男としてというより人間として羨ましい話だった。
 だが、過去は過去であり、自分にとって大事なのは今だ。
 相手が相手なだけに、過ぎた事にこだわっていると、肝心の一番大切なものを失いかねない。
 それが分かっているから、慎重に話の筋を戻そうと試みる。
「じゃあ、とりあえず今は、それらしい相手は僕だけなんですよね?」
「一応な」
「それならいいです。あなたの好きだった人に焼餅焼けるほど、僕は偉い立場じゃないですから」
 そう言うと、太公望は、おやという表情になった。
「意外に謙虚だな?」
「キス一つで自惚れるほど、僕は単純じゃないですよ。あなたとは何年の付き合いだと思ってるんです?」
 多分の話だが、太公望が本当に恋愛感情を向けてくれるようになったら、自分には判るだろうと思う。心理戦には負けるが、それでも相手の感情程度のことなら感じ取れるくらいには、付き合いは長い。
 そして、そのアンテナをもって判定する限り、太公望が自分に向けている感情は、恋愛にはまだ程遠かった。
 無論、それなりの愛はあるだろう。そうでなければ、キスなどさせてくれる人ではない。
 だが、せいぜいが家族のような友人のような、親愛の情の延長線上だ。
 この程度のことで自惚れ、浮かれたりなどしたら、それこそ愛想を付かされ、捨てられかねなかった。
 と、
「──何です?」
 念願のキスをした割には複雑な顔をしている楊ゼンの頭を、太公望がまるで子供にするように、よしよしと撫でる。
「いや。賢い子供にはご褒美をと思ってな」
「……あなた、本当に僕を何だと思ってるんですか……」
「聞きたいか?」
「いいえ。言わないで下さい」
 どうせ、ポチとかハチ公とかいう答えが返ってくるに決まっている。
 彼に懐き、どこにでも付いて行こうとする自分を、犬みたいだと彼が言ったのは、一体幾つの時だったか。
 そして、幼かった自分も、本当に太公望の飼い犬だったら別々の家に帰らなくてもすむのに、などと思い、実際に口に出して言っていたのだから、どうにも救いようがない。
 だが、それくらいに彼が好きだったのだ。
 だから今も、複雑な気分になりながらも怒れなかった。
「もう何でもいいですから。僕があなたを好きだってことだけ、忘れないで下さいね」
「うむ。それくらいはな」
 小さく笑って、太公望は窓の向こうへと視線を向ける。
「すっかり日が暮れたな……」
 また一日、今日という日が終わってしまったと言いたげな呟きに、楊ゼンもいつの間にか暗くなった黄昏時の海を見下ろした。
 空の一部はまだ明るさを残しているものの、東の空から濃紺の夜の帳が迫り、星が淡くまたたき始めている。
「師叔」
「ん?」
「あなたが行ってしまう日まで、毎日会いに来てもいいですか? 都合はあなたに合わせますから」
 海を見つめたまま、楊ゼンは言った。
 あと十日しか一緒に居られないのなら、せめてその十日間を大切に過ごしたいと思う。
 十日後に別れたら、次に会えるのは早くても五月の連休あたりになる。
 楽しく過ごした想い出があれば寂しくないなどと、寝ぼけたことを言う気はない。どんな想い出があろうと、好きな人に会えないのは寂しいに決まっている。
 だから、会えるのなら、その時間を一分一秒でも無駄にはしたくなかった。
「──良いよ」
 短い沈黙の後、太公望が答える。
 彼が今、時々見せる優しい瞳で自分を見ていることが、楊ゼンには分かっていた。
 そして、そんな人が、泣きたいくらいに好きだと思った。






end.










 久しぶりの海岸物語。というより、続き書く気はなかったんですけれども。
 しかも、喫茶店の直後の話なので、季節が五ヶ月くらい違いますし。
 でも、何となく彼らのその後が気になって、つらつらと考えていたらネタが浮かんできたので、ちょっと頑張ってみました。

 とはいえ、書いていてものすごく楽しかったです。
 なーんのひねりもない恋愛ものなんですが、逆に言えば、うちの作品の中では一番平凡な設定の二人なので、その分、会話なんかも気楽にかけましたしね。

 喫茶店を書いた当初よりもこの二人が好きになってきたので、またいつか、続きが書けたらいいなと思います。
 実際に続くかどうかは分からないんですけど、でも、このままだと、この話を読まれた方が焦れて消化不良起こしそうな気もするので……。
 とはいっても、どう転んだって某真夜中シリーズみたいにベタ甘にはならないので、期待されるだけ無駄ですよ?
 というわけで、ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m





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