海岸通りの喫茶店 4








「それにしても、おぬしも要領が悪いのう。それともタイミングが悪いというべきか……」
「……何故です?」
 淡々と呆れたような口調でけなされても、真っ向から反論するだけの根拠が見つからず、楊ゼンは手にしていたコーヒーカップをソーサーに戻す。
 すると、太公望は自分のコーヒーカップを傾けながら、器用に肩をすくめて見せた。
「おぬしの告白が、あと二ヶ月早ければな。わしも県外に行く気が変わったかもしれぬのに」
 その言葉の意味を飲み込むのに、数秒必要だった。
「……そう、なんですか!?」
「可能性としての話だがな。地元と他県と、進路を真剣に天秤にかけるくらいのことはしたのではないかのう」
 そこまで薄情な性格はしてないつもりだし、とまるで他人事のように言う恋人未満の幼馴染の言葉に、楊ゼンは心底打ちのめされる。
 だが、何が何でも年上の幼馴染に、言うべきことは言わなければ、と焦って決意したのは、つい先日、太公望が大学の卒業後、遠方の大学院を進路に選んだと聞いた時なのだ。
 今更二ヶ月前になどと言われても、どうしようもない。
「まぁ、そういう妙な要領の悪さがおぬしらしいと言えば、おぬしらしいがな」
 普段は卒がないのに、肝心な時に肝心な場所で時々ずっこける、と容赦なく指摘されて、更に楊ゼンはテーブルに沈む。
 けれど、そうしていても何の解決にもならないことは明らかだったから、のろのろと顔を上げた。
「──それで、僕はどうすればいいんですか」
「どう、とは?」
「僕の進路ですよ。あなたを追いかけるのを、あなたは許してくれますか?」
 大学院でも就職でも、はたまた編入でも構わない、と思いながら問いかけると。
「いいや」
 即答されて、思わず楊ゼンは、太公望の顔をまじまじと見つめる。
 だが、太公望は済ました顔で、悠々とコーヒーカップの中身を飲み干して。
「おぬしは、この街で指をくわえて待っておれ」
 あっさりと言い切った。
「……どうしてです?」
 情のない言葉に対して、楊ゼンが激昂に至らなかったのは、何となくそんな風に言われそうな気がしていたからだった。
 なにしろ四年近く前、楊ゼンが何の迷いもなく志望校を太公望と同じ高校にした時ですら、彼は微妙な顔をしたのである。
 おぬしなら、もっと良い所にも行けるのに、と言いながらも、それ以上強くは反対しなかったのは、彼自身、通学に三十分以上かけるのが嫌で、中の上ランクの地元の高校を選んだという弱みがあったからだろう。
 しかしその時は、自分の後ばかり追いかけるのは、視野を……進路を狭めていることになるのではないかと、危惧してくれていた彼の心遣いが分からず、どうして手放しで認めてくれないのだろうと、心の中で密かに不満を感じた。
 けれど、今は。
「待っていろ、って……」
 問いかける楊ゼンの声が聞こえないようなそぶりで、太公望は片頬杖をつき、窓の外へと視線を向ける。
 そして、何でもない事のように続けた。
「もともと半永久的に他所へ行く気はなかったからのう。ひとまず博士課程まで済んだら戻ってくるつもりで、選んだ進路だ。そんなものに、おぬしが付き合う必要はない」
「でも……」
 それでは、何年も会えない、と思う。
 修士課程から博士課程までフルに履修するなら、最短でも六年かかる。
 その間、じっと指をくわえていろというのだろうか。
 あるいは、それがオトモダチからという意味なのだろうか?
「──おぬし、相変わらず思っていることが顔に出るのう」
 よほど情けない顔になっていたのか、こちらを盗み見していたらしい太公望がくすりと微苦笑して、再び窓の外へと視線を向ける。
 海岸通りにあるこの店からは、街並みの向こうに緩やかに曲線を描いて伸びる海岸線と、寄せては返す冬の海が良く見える。
 夏には海目当ての観光客で、それなりににぎわうこの喫茶店も、今は楊ゼンと太公望以外には、声高にお喋りしている中年の女性四人組が居るだけで。
「戻ってくるよ、ちゃんと」
 にぎやかというより、かしましいといった方が似合う女性客たちの声をBGMに、そう言った太公望の声は、少し笑んでいるようにやわらかく、静かだった。
「海以外、何もない街だが、わしはここが気に入っておるのだ。この喫茶店も、ここにしかないし……。だから、休暇ごとに戻ってくるよ」
 声と同じく、静かに笑んだ瞳のまま、太公望は楊ゼンへと視線を戻した。
「だから、おぬしも好きな所で好きなことをして、休暇には戻ってくればいい。おぬしが言いつけを守って、良い子で待っておれば、何かご褒美をやっても良いかもしれぬ気になるかもしれぬしな」
「……一体どれくらいの確率なんですか、そのご褒美は」
「五パーセントくらいかのう」
 問いかけると、太公望は実に楽しそうに答えて。
 その笑顔に、楊ゼンは、仕方がない、と切ない思いで溜息をつく。
 昔から、自分に対しては甘くて優しい反面、彼なりにこうすべきだと判断した一線を越えることについては、頑固なくらいに厳しかった人である。そんな彼から、何らかの譲歩を引き出すことは不可能に近い。
 ましてや、自分はまだ、オトモダチの立場しか認めてもらっていないのだ。
 それならせめて、この先数年の間に、会えないことや声を聞けないことを寂しいと思ってもらえるくらいの存在にはなろう、いや、なりたい、と儚い希望を抱いて、目の前の人を見つめた。
「電話とかメールとか……、してもいいですか?」
「良いよ」
「あと、たまには会いに行っても?」
「事前に、わしの都合を確認してからならな。あと、平日に大学をサボって来るのは禁止」
「じゃあ、いいです」
 淡々と答えてくれる人に、少しだけ肩の力が抜けて。
「あなたの言う通り、僕もとりあえず今の大学を卒業するまでは、ちゃんと自分のことを考えながら、この街であなたの休暇を待ってます。……だから」
「だから?」
 次の一言を言うには、これまでで一番の勇気が要った。
「遠くに行ってしまっても、僕のことも、少しは考えて下さいね?」
 そう言った途端。
 太公望は楽しそうに破願して。
 そんなこと……、と笑った。
「のう楊ゼン、おぬしは、わしが一体どれくらい薄情な人間だと思っておるのだ?」
「そういうわけじゃ……」
 くっくと笑いながら聞かれて、ひどく決まりが悪くなる。
 が、幸い、太公望はそれ以上は突っ込んでこなかった。
「大丈夫だよ」
 代わりに、そう言って。
「オトモダチから始めてやると言っただろう。ちゃんと考えるし、思い出すよ。……それくらいの感情は、わしの中にもちゃんとある」
 テーブルの上に置いていた楊ゼンの手を、宥めるようにぽんぽんと軽く叩いて、それから太公望はレシートに手を伸ばした。
 たった今もらった言葉の余韻に浸る間もなく、そこに書かれている請求金額を確かめる彼の目の動きに、慌てて楊ゼンは自分の財布を取り出す。
「僕が出しますよ」
「別に良いよ、これくらい」
「いいえ、出します」
 言い張ると、太公望はくすりと笑ってレシートを渡してくれた。
「強情者」
「あなたほどじゃありません」
「とてもそうとは思えぬがのう」
 立ち上がり、コートを羽織って。
 先に出ておるから、と言い置いていった太公望を目の端で見送り、レジで代金を払う。
 と、釣銭を手渡してくれながら、初老のマスターがふと口を開いた。
「仲直りできたようだね」
 普段は穏やかなばかりで無口なマスターが、そう言ったことに少し驚きながらも、楊ゼンはうなずく。
 だが、マスターの言葉も当然と言えば当然だった。
 この小さな街の小さな喫茶店で──彼の目の前で、自分たちは三年前、仲たがいしたのだ。
 いつも一緒だったのに、あの日以来、一人でしかこの店を訪れなくなった太公望と、足を踏み入れようとしなかった自分。
 きっと彼は、そんな二人の子供を、他人ながらも心配してくれていたのだろう。
 決して口に出しては何も言わず、態度にも出さなかったとしても。
「ええ。何とか許してもらえました」
「それは良かった」
「はい、本当に」
 釣銭を受け取り、財布をポケットにしまって。
「また来ます」
 その挨拶を最後に、楊ゼンは店を出た。




 店の外に出ると、太公望はガードレールに寄りかかるようにして、街並みの隙間から見える海を見下ろしていた。
 太公望は本来極端な寒がりで、冬の海はコタツの中から見るものだ、などと普段は豪語しているのだが、さすがにこの街を出るともなると、それなりに胸中を去来するものがあって、海から吹きつける寒風など気にしていられないのだろう。
 あるいは、この冷たい潮風すら、今の彼にとっては大切なものなのかもしれない。
「海岸に行きます?」
「……そうだな」
 楊ゼンが声をかけると、少しだけ照れたような困ったような顔で、太公望は振り返る。
「行こうか」
「ええ」
 そのまま連れ立って歩き出しながら、楊ゼンは肩越しに、自分たちが今出てきたばかりの喫茶店を振り返る。
 ───潮風にさらされて、外壁の塗装も看板も色あせた、海岸通りの古い喫茶店。
 春になって太公望が居なくなったら、今度は自分が一人で、足繁く通うことになるのだろう。
 彼がいつもしていたように、コーヒーカップを傾けながら本のページを開き、たまには会計の際にマスターと言葉を交わしたりして。
 『Souvenir』という店名に似つかわしい、この店に。

「楊ゼン?」
「何でもないですよ」
 楊ゼンが少し遅れたことに気付いて、太公望が振り返る。
 何でもない、と答えて、楊ゼンはすぐに後を追った。






end.










 さて、いかがでしたでしょうか。
 うちでは少しばかり珍しく、割合オーソドックスな恋話になりましたが、こういうタイプの話だと、どうしても楊ゼンがヘッポコになってしまう辺りが、何ともかんともしがたい感じです。
 というより、師叔が漢前すぎるのでしょうかね。今回の師叔は女王様ではないですけど、でも楊ゼンよりは男らしいもんな……。とにかく、こんなに弱虫毛虫な楊ゼン書いたのは、初めてかもです。

 今回、喫茶店でネタを考えた時、思いついた……というか、思い出したのは、今から十五年も前、初めて保護者なしで喫茶店に入った時のことでした。
 喫茶店天国・名古屋の原住民らしく、それまで週に最低1回のペースで両親に連れられて通っていた店なのに、同級生の友達と一緒でも異様に緊張して怖かったなぁと思い出したのが、そのままネタになった形です。
 今では初めて入る店であっても、全然平気なんですけどね。大概、文庫本を持ち込んで長居しますし。

 というわけで、久しぶりに勢いだけで書いた作品でしたけど、楽しかったです。
 皆様にも、楽しんでいただけたのなら嬉しいのですが。
 もし御感想などありましたら、是非ともお聞かせ下さいね〜。


※ Souvenir : スーベニア。思い出。形見。土産物屋。





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