海岸通りの喫茶店 1








「あ……」
 やはり今日も、彼はそこに居た。
 本を読んだりする時にだけかけるフレームレスの眼鏡に、片頬杖をついて。
 直射日光の届かない、けれど明るい壁際の席で、ハードカバーのページをゆっくりとめくっている。
 一気に緊張を帯びて高まる鼓動を落ち着けようと──どうせ無理なことは分かっていたが、一つ深呼吸をして、道を横切り、そのドアを開ける。
 それは実に、三年ぶりのことで。
 途端に、ちりりりん、とドアにかけられたベルが優しい音を立てた。

 ごく普通の、と言っていいだろう。
 三十年も前からある喫茶店の店内は、綺麗に磨き上げられているものの、今時のカフェとは似ても似つかないどっしりとしたテーブルと椅子、少しばかり日に焼けてくすんだ壁紙など、そこここに時代を感じさせる。
 観光シーズンを外れた今、店内に客の姿は少なく、テーブル席は2箇所が埋まっているだけだった。
 だが、ゆったりと満ちる挽き立て、淹れ立てのコーヒーの香りが心地好く鼻をくすぐる感覚は、何とも表現しがたく胸を騒がせる。
 そんな、カフェでもコーヒーハウスでも、ティーハウスでもなく。
 そこはまさに、喫茶店、としか呼びようの無い店だった。

 楊ゼンが店内に足を踏み入れても、彼は本から顔を上げなかった。
 それ自体は別段、おかしなことではない。喫茶店の客は、いちいち他の客が入ってくるたびに顔を上げはしないし、それ以前に彼は、本を読み始めると周囲のことが一切認識できなくなる本の虫だった。
 ───けれど。
 マスターに軽く会釈するのが精一杯のまま、彼が居るテーブル席の横へと歩み寄り、立ち止まる。
 そうしてようやく。
 彼は顔を上げてくれた。





 ───その瞬間の彼の顔を、何と形容すればいいだろう。





「──席を御一緒してもいいですか」
 驚きに軽くみはられた目を見つめながら、楊ゼンは用意しておいた台詞をかろうじて紡ぎ出す。
 すると、更に驚きを重ねたように彼はまばたきをして。
 数秒間固まった後、ほんのかすかに唇を動かしかけて──きゅっと引き結んだ。
 そして、
「……すまぬが、わしはもう帰るところだ」
 まなざしを落としてハードカバーの本を閉じ、鞄の中にしまって。
 嫌悪の表情ではない、けれど敢えて感情の色を消したような無表情のまま、コートを着込んだ彼は、さっさと立ち上がりレシートを掴んで、脇をすり抜けていってしまう。
 それは、楊ゼンが店内に足を踏み込む前に一応、予想していた範囲の反応だった。
 が、それでも、あからさまな拒絶にいざ直面するとなると、話は別であって。
 すれ違って行く彼を咄嗟に引き止めることもできず、楊ゼンがはっと我に返った時には、彼の姿は店のドアの向こうに消えていた。
「すみません!」
 カウンターの向こうで、穏やかな風貌におやおやと言いたげな表情を浮かべた初老のマスターに、楊ゼンはあわただしく謝罪して、自分もまた店を飛び出す。
 ノスタルジックな木枠の窓を透かして、店を出た彼がどちらへ歩いていったのかは見えていたが、楊ゼンが外に出た時には、その後姿は、もうその先の曲がり角を曲がる所だった。
 そして、そうして見つめる間にも、彼の姿は角の向こうへと消えてしまって。
「──ああもう!」
 滅多にない悪態をつき、もう恥も外聞もなく駆け出して、後を追いかける。
 そういえば、昔から持久力はないのに、歩くにしても走るにしても足は早い人だった、と思いながら。




「待って下さい!」
 すたすたと競歩と見まごうような早足で行ってしまう人にようやく追いついたのは、海岸へと緩やかにうねりながら下ってゆく坂道の、ほぼ真ん中だった。
 先ほどは掴めなかった腕を掴んで、楊ゼンが足を止めると、仕方なく彼も立ち止まる。
 昔ならいざ知らず、今は自分の方が頭一つ分以上、背丈があるのだ。強引に引きずってゆくには少しばかり重過ぎるはずで、彼には気づかれないよう心の中で、楊ゼンは互いの体格差にこっそり感謝の言葉を唱える。
「───…」
 腕を掴み、掴まれ、数秒の間、互いの態度を咎めるようなまなざしで相手を見つめて。
 先に視線を逸らしたのは、彼のほうだった。
「──何の用だ」
 そして、離せ、というように掴まれた腕を引く。
 楊ゼンもそれには抗わず、素直に手を下ろした。
 一旦こちらが捕まえることに成功した以上、離した瞬間に逃げる人ではないし、それに腕を掴んだまま話したいことでもない。
 そうして、決して走ったからではなく少しだけ乱れた呼吸を整えてから、ゆっくりと言った。

「あなたが、遠くに行くと聞きました」

 ぴくりと彼の肩が反応する。
「卒業したら……行ってしまうと」
「──それが?」
 返ってきた声は、静かだった。
 否、そうではなく、それ以外の声が出せなかったのかもしれない。
 ゆっくりとスローモーションのように顔を上げ、こちらを見た人の瞳は何とも言いがたい複雑な色をたたえていて。
 ああ、やはり、と思う。
「おぬしには関係のないことだろう?」
「いいえ」
 即座に否定すると、彼の瞳がかすかに揺れた。
 そんなはずはない、と言いたげに。
「関係は、あります。僕にとっては大事なことです」
「──何故?」
 それでも重ねて言えば、分からない、と彼の表情が訴える。

 ───当然の反応だった。
 彼に、こちらの意図が……あるいは気持ちが分かるわけがないのである。
 何しろ、あの頃の自分自身が、何も分かってはいなかったのだから。
 そして、自分に対しては、時々悪意があるのかないのか分からない揶揄をまじえながらも、肝心な時にはいつも誠実な兄のように接してくれていた彼のことだ。
 どうしようもないほどに子供だった自分が投げつけたあの日の言葉を、そのまま額面通りに受け取ったに違いない。
 そのことが今更ながらに歯噛みしたいくらいに口惜しくて、一気に次の台詞を言った。

「あなたがこの街に居るのと居ないのとでは、全然違うからです。これまでは、いつでもあなたはあの喫茶店に居た。僕はあの日以来、店の中には入れませんでしたけど、前を通れば、あなたがコーヒーを飲みながら本を読んでいるのが見えた。
 それがあるのと無いのとでは、全然違う。少なくとも、僕にとっては天と地ほどにも違うんです」

 楊ゼンが強い口調で告げると、驚いたような表情で、それでも更に分からないとばかりに、彼は小さく首を横に振った。
「──何だ、それは……」
「何だと言われても、それが僕の正直な気持ちです。僕は……」
「ちょっと……、ちょっと待て」
「何です?」
「あの時、構うなと言ったのは、おぬしのほうだろう?」
 たまりかねたように困惑の極地の表情で言った彼に楊ゼンは、ああ、と思う。
「子供扱いするなと……もうわしのことは要らぬと言ったのは、おぬしではないか」
「要らないと言ったのは、あなた自身のことじゃありません!」

 ───やはり傷つけてしまっていた。
 子供扱いされるのが嫌で、温かな手を振り払ったあの日。
 もう勉強を教えてくれなくていい、要らない、と言ったのは、子供なりの精一杯の見栄で、強がりだった。
 ───たったそれだけのことだったのに。

  「僕はあなたに子供扱いされたくなかった。本当に、それだけのことだったんです。子供扱い抜きで、あなたの傍に居たいといつも思ってました。でも、あれ以来それができなくなりましたから……」
 驚きの表情のまま、かすかに眉をひそめる人を見つめて告げる。
 ……こんな距離でこの人を見つめるのも、三年ぶりのことだった。
 あの日以来、楊ゼンは挨拶すら、近所に住む年上の幼馴染にしなくなったのだ。
 否、できなくなった、と言ったほうが正しい。
 あの日投げつけた言葉と振り払った手は、その直後に自分自身にも激しい自己嫌悪を起こさせたから。
 かといって、彼に子供扱いされたくないのは本当だったから、謝る言葉を見つけることもできず、そのまま三年が過ぎて。
「それでも、あなたは同じ街に居たから、この道を通ればいつも、あの店であなたを見かけることができた。それでいいんだと思ってました。
 あなただって僕と話したくなかったでしょうけど、僕だって、昨日、あなたが春から居なくなることを聞くまで、もうあなたに話しかける資格なんかないと思ってましたよ。でも……!」
「ちょっと待て、何を言っておるのだ、おぬしは」
「だってそうでしょう? どんな顔をして、あなたに声をかければ良かったんですか? あなたにあんな勝手なことを言って、傷つけてしまったのに……!」
「傷つけた、って……」
 太公望の戸惑ったような声を、楊ゼンはほとんど聞いていなかった。
 ただ必死に言い募る。
 この機会を逃したら、もう二度とないのだと思いながら。
「でも、僕はどうすればいいのか分からなかったんです。本当に……。それでも、あの時、あなたを傷つける気はまったく無くて、」

 その言葉を遮ったのは。
 顔面に投げつけられた両手分の手袋だった。

「ダァホっ!!」
 それが手袋だったからといって、決闘を申し込んだつもりは彼にはないだろう。
 たまたま利き手に手袋をはめないまま持っていたから、それを投げつけただけなのに違いない。
 もし本を持っていれば本を、クリームパイを持っていればクリームパイを、遠慮なく顔面に投げつけていただろう。
「人のことを勝手に……」
 眉を吊り上げてこちらを見上げる瞳は、そういう瞳だった。
「このダァホが! 人の話を聞きもせずに勝手なことばかり言うでないわ!」
 本気で怒り狂った声で怒鳴りつけて、彼は身をひるがえす。
 そのまま坂を駆け下りてゆく姿を、成すすべもなく見送った。

「だって……しょうがないじゃないですか。もうあなたは居なくなってしまうんですから。今言わないと……」

 あの人に本気で怒鳴られたのは、小学生の頃以来だ、と思いながら。
 溜息をついて、楊ゼンはアスファルトに落ちた一組の手袋を拾い、砂埃を払う。
 黒いスエードのそれは、明らかに自分にはきつすぎるサイズで。
 いつの間にあの人の身長を追い越してしまったのだろうと、今更ながらに溜息をついた。






to be continued...










久しぶりの単発作品です。

楊太めぐりをしていたら、楊太喫茶店企画という素敵企画を発見しました。(TOPからリンク中)
喫茶店大好き人間としては、すごく参加したかったのですが、問題は文章をコンパクトにまとめられない私の悪癖。
私が書くと、どんな短編ネタでもそれなりの長さになってしまうので、他の人の迷惑になるブログ投稿は泣く泣く遠慮。自分の家でupすることにしました。
つまりは、独り喫茶店企画? ……なんて寂しい人(T_T)

悪癖のままに続いてしまってますけど、短いネタなので、あと1〜2話で終わります。
珍しく、ネタを思いついた当日にプロットもメモも無しに書いているので、正確な長さが読めないんですが、3話以上になることはありません。
というわけで、以下次号です(^_^)





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