銀曜日のおとぎばなし 1








 それは、美しい森と湖に囲まれた王国の、よく晴れた昼下がり。


 黒い衣装で全身を包んだ青年が門番に軽く声をかけて、一面に花が咲き誇る前庭に足を踏み入れた途端。
「王天君!」
 その向こうに建つ立派な館から、薄い水色のドレスを身にまとった一人の少女が駆け出してくる。
「そんなドレスで走るな! 転ぶぞ!」
「平気じゃ!」
 そのままの勢いで走ってきた少女は、青年の腕にぶつかるように掴まって勢いを止め、一つ息をついて顔を上げる。
 艶やかな黒髪にふちどられた色白の顔立ちは繊細で、まだあどけなさを残した表情がとても可愛らしい。
 すっきりと弧を描く眉も、つやつやとした桜桃のような唇も、女性なら誰でも羨むような整った形だったが、何よりも深い緑色の大きな瞳が印象的な美少女だった。
「待っておったのだぞ。早く行こう」
 青年の腕を両手で掴み、せがむように小首を傾げる。
 だが、その甘えるような仕草に王天君と呼ばれた青年は、軽く眉をひそめた。
「どうした、そんなに慌てて」
「いいから早く! お祖父様が来てしまう!」
「はぁ? ジジィがどうし……」
「こりゃ、呂望!!」
 問い返しかけた語尾に、大きなしわがれ声がかぶる。
 きゃっ、と小さく叫んだ少女の向こうを見ると、館の玄関のところで白鬚の老人が両手を振り上げていた。
「今日は大事な客人がみえると言ったであろう! どこへ行く気じゃ!!」
「どうしてお祖父様のお客様に、わしが会わねばならぬのだ!? どこぞの年寄りの茶飲み話のお相手なんぞまっぴらじゃ!!」
 後ろを振り返って言い返し、少女は青年を見上げる。
「早く! 馬車は門のところに停めてあるのだろう?」
「ああ」
 事情を悟ったらしい青年は、腕を掴んでいた少女の手をほどき、代わりに彼女の細い手首をとった。
「行くぞ」
「これ、誰ぞ二人を捕まえよ!!」
 老人の声を背に受けて、二人は走り出す。
 そしてそのまま門を駆け抜けて、扉を開けて待っていた王天君の馬車に飛び乗った。



「まったくもう……」
 走り出した馬車の中で、少女──呂望は可愛らしく唇を尖らせた。
「どうして毎度毎度、お祖父様はわしを茶飲み話の席に引っ張り出そうとするのだ」
「そりゃ仕方ねぇだろ。おまえはジジィの自慢の孫娘なんだから」
「迷惑じゃ!」
 ぷん、とむくれて呂望はそっぽを向く。
「それに、客の方もおまえを見たがるんだろうよ。なにしろ、王国に名高い奇跡の姫君なんだからな」
「だーかーらー、それが迷惑だというのだ。好きで持って生まれた力ではないのだぞ」
 不機嫌な色を可愛い顔に浮かべて、呂望は向かい側に座る王天君と呼んだ青年を睨みつけた。

 古い歴史を持つこの王国は、魔術師の王国でもある。
 民は皆、多かれ少なかれ魔法力を持っているが、とりわけ王家と貴族は強大な魔法力を持っており、その力と知恵をもって国を平和に治めているのだ。
 魔法力はいくつもの系統に別れて、どこそこの伯爵家は星占が得意、どこそこの男爵は風使いとして有名、といった感じでそれぞれの家系に遺伝されている。
 だが、その中で一つだけ、遺伝によることなく突然変異で発生する魔法力があるのである。

 それは、癒しの魔法力、だった。

 失われた命を取り戻すことはできないが、とりあえず生きてさえいればどんな病でも怪我でも癒すことができる。そんな奇跡のような力を持つ者は滅多に生まれず、非常に尊ばれる。
 たとえ平民の生まれであっても、男なら貴族の養子に、女なら貴族の妻に望まれることも珍しくない。それこそ、貧しい職人の子として生まれながら王妃となり、国民に愛し愛されて幸せな一生を送った女性もいるのである。
 そして現在。
 そんな稀な力を国内でただ一人持っているのが、奇跡の姫君、癒しの姫君と名高い、この元始伯爵家の一人娘・呂望なのだった。

「こんな力、迷惑なだけじゃ」
「なーに言ってやがる。嬉々として館中をケモノだらけにしてるのは誰だ?」
「だって可愛そうではないか! 動物を弓矢と犬で追い回して、あげく食べてしまうなんて野蛮人のやることじゃ!」
「阿呆。狩猟は貴族の下らねえたしなみだ。それくらい分かってんだろう。おまえの鹿やウサギが庭をメチャクチャにしてしまうと、何度も庭師のオヤジにぼやかれたんだぞ、オレは」
「だから、今は東の森から出ぬように言い聞かせてあるではないか。それにウサギが食べたハーブ園も、わしはちゃんと手当てしたぞ」
「リスが厨房から盗っていったクルミはどうした?」
「あれは仕方なかろう! リスは冬眠するのだ!」
 頬を可愛らしくふくれさせて、またもやそっぽを向いた少女を向かい側の座席から見つめ、王天君は苦笑する。

 王天君は、伯爵家の縁戚に当たる侯爵家の跡取だった。
 が、その立場にもかかわらず貴族らしからぬ言動は、少々複雑な生い立ちに起因している。
 彼の母親は美貌で知られていたが、舅に当たる伯爵と反りが合わず、彼が幼い頃に離縁状を取って伯爵家を出た。そして王天君自身も、厳格な老侯爵や侯爵に支配されがちな父親とは反りが合わず、学院の初等部に入学と同時にから寄宿舎に入って、卒業後も実家には戻らずに、王都にある伯爵家の別宅で気ままな一人暮らしを続けていた。
 ───頭脳は切れるが、あらゆる権威や規則を嫌い、皮肉屋で冷笑家。
 そんな彼を伯爵家で唯一可愛がったのが彼の祖母の侯爵夫人であり、彼女は元始老伯爵の死んだ妻の妹にあたる。
 その縁で子供の頃から伯爵家には出入りしており、早くに両親を失くした呂望は、4歳年上の王天君を兄のように慕っていた。

 なんやかやと二人が他愛ない口論を交わすうちに、軽快に街道を走りぬけた馬車が速度を緩め、やがて停止する。
「着いたようだのう」
 外からざわめきのような活気がそこはかとなく伝わってきて、扉が開くのを待ちきれない呂望は、嬉々とした表情で小窓のカーテンをめくり、その隙間から外を覗いた。
「そーいう真似はやめろって。おまえ、もう十五だろう?」
「あと一月で十六じゃ!」
「余計悪い。そら、降りるぞ」
 従者の手で開かれた扉から先に立って、王天君は馬車を降りる。そして、彼がさしのべた手に掴まって呂望も身軽にステップを降りた。
「一月ぶりの市場だのう」
「こら、待て。勝手に行くんじゃない。──おい、一刻くらいで戻るからその間、おまえらも好きにしてていいぞ」
 従者たちに声をかけ、うきうきと雑踏に向かって歩き出す呂望の後を王天君は足早に追う。
 王都の市場には、国中からありとあらゆるものが集まってくる。
 美味しいもの、美しいもの、珍しいもの、何でも並んでいるそこが呂望はお気に入りで、時々こうして物見遊山に出かけるのだ。
「こら、勝手に行くなと言っただろうが」
 先を行く呂望に追いついて、肩を並べた王天君は頭半分ほど小柄な少女を軽く叱りつける。
 だが、少女の方は気にする様子もなかった。
「平気じゃ。何度も来て勝手は分かっておるし……」
「馬鹿。だからって安全とは限らねぇんだ。おまえはもう少し伯爵令嬢の自覚を持つようにしろ。端から見りゃ、おまえはいかにも世間知らずっぽくて、いいカモなんだからな」
「失礼だのう」
「どこがだ。痛い目に遭う前に、もう少し身を守ることを覚えろ。──まぁ、オレに付き合わせるだけいいけどな。絶対に一人では来るなよ」
「分かっておるよ。いい加減、耳タコじゃ」
 べーっと舌を出して、呂望は綺麗な飾り紐を売っている露天商に歩み寄っていく。
 色とりどりの美しい紐を見比べつつ、店主と言葉を交わしている様子を後から見つめて、王天君は溜息をついた。


 王天君が少女とはぐれたのは、それから間もなくだった。
 呂望が欲しがった小さな銀細工のブローチの値段交渉をし、折り合ったところで代金を払って、振り返ったら既に小柄な少女の姿は視界から消えていた。
「嘘だろ……」
 昼下がりの市場は、これでもかというくらいに混みあっている。
 慌てて辺りを見回しても、薄い水色のドレスはどこにも見えない。
「どこに行きやがった……!?」
 とりあえず手近なところから、と買ったばかりのブローチを懐に押し込み、隣りの露天商に少女がどちらに行ったか見なかったかと尋ねる。
「あっちの方へ行ったようでしたよ」
「分かった、助かる」
 露天商に銀貨を一枚放り投げ、王天君は雑踏をかき分けるように走り出した。


「ほら、もうこれで痛くはないだろう?」
「うん。ありがとう、お姉ちゃん!」
 人ごみに押されて転び、泣いていた小さな男の子は、涙で濡れたままの瞳でにっこりと笑う。
 綺麗に傷のふさがった膝を撫で、呂望はドレスの裾を払って立ち上がった。
「おぬしはまだ小さいのだから、気をつけるのだぞ」
「うん」
 バイバイと手を振って走ってゆく男の子を見つめ、呂望は小さく溜息をついた。
 まだ十歳になるかならずやの小さな男の子だったが、きっとどこかの使い走りか何かで働いているのだろう。
 この国は確かに豊かだが、貧しい人々もいることを呂望は知っている。
 だが、男の子の着ていた服は粗末だが清潔だったし、表情も明るく可愛らしかった。きっと貧しいながらも温かい家庭に育っているのだろうと想像して、呂望は来た方へと足を向ける。
 先程、王天君が露天商とブローチの値段を交渉している最中に、離れたところから子供の泣き声が聞こえてきて、つい慌てて彼には一言も言わずに傍を離れてしまったのだ。
「心配しておるだろうな……」
 自分にだけはひどく甘くて心配性な、再従兄の顔を思い浮かべて、呂望は急ぎ戻ろうとする。
 が、その時。
「あの、すいません」
 横合いから声をかけられた。
 見れば、まだ若い男がおずおずとした様子で立っている。
「いま見ていたのですが……あなた様は癒しの姫君なのでしょうか」
 すばやく上から下まで目を配ったが、きちんとした格好をした、ごく普通の青年に見えた。
「そうだが……」
「ああ良かった!」
 呂望がうなずいた途端、男は嬉しげな感極まったような表情になる。
「実は私の妻をあなた様に見ていただきたいのです。身重なのですが、良くない病に罹ってしまって……。ご迷惑だということは承知しておりますし、何の御礼もできません。でも、どうしても妻と子を助けていただきたいのです」
 切々と訴える男の様子に、呂望は迷う。
 いつも王天君には、人前で力を使うなと戒められていた。
 癒しの力はどんな怪我でも病でも治してしまう。そんな力の持ち主を欲しがらない人間はいない、と。
 ましてや、呂望は伯爵家の一人娘なのだ。
 どんな悪人が目をつけるか分からないから、極力素性は隠すようにと、いつも言われている。
 それに、力の行使は呂望自身の体力に負担をかける。先程のような小さな怪我を治すだけならなんということはないが、瀕死の重傷や、死に至る病などを一気に治そうとした場合、消耗が激しすぎて寝込んでしまうほどなのだ。
 けれど、実際に病人があると聞くと、呂望は放っておけなかった。
 しかも、身重の女性だと聞いては。
「奥方はどちらに? 連れの者に伝えておかないと……」
「ああ、ありがとうございます! 家はここから直ぐ近くです。その通りを一本入って……」
「姫様、よけりゃ俺が伝えますよ」
 説明を聞いている呂望に、すぐ傍の小間物を扱う屋台から店番をしている若い男が声をかけた。
「いつも一緒にいらっしゃってる、侯爵家の若様でしょう? 黒い服を着た……」
「おぬし、王天君を知っておるのか?」
「ええ。お二人は目立ちますからね」
「そうか」
 少々考えて、呂望はうなずいた。
 その職人風の男に、雑踏の向こうを指し示す。
「ちょっと遠いが、あそこに赤い布を雨避けにしている露天商があるであろう? あの辺りにさっきは居ったのだが……」
「分かりました。隣りに店番を頼んで、すぐに行ってきますよ」
「うむ。すぐ戻るから心配せぬように伝えてくれ」
 伝言を請け負ってくれた男の背中がまたたく間に雑踏に紛れるのを見送って、待っていた青年の方に向き直る。
「さて、奥方のところに案内してもらえるかのう」
「はい、ありがとうございます」
 涙を浮かべんばかりの喜びの表情で青年は深々と頭を下げ、こちらです、と先に立って人ごみの中を歩き出した。


「奥方の容態はどんな感じなのだ?」
「はい、最初はただの風邪だと思っていたのですが、いつまでたっても熱が下がる様子がなくて……。熱は大したことはないんですが、もう一月も寝たきりなんです。食欲もないみたいで、すっかり弱ってしまって……。このままじゃ、赤ん坊も危ないと……」
 かといって、腕のいい医者にかかるだけの金もない。
 途方にくれていたところで偶然今日、奇跡を起こすと評判の癒しの姫君に出会った、これは神様のお導きだろう、と歩きながら語る男の声を聞きながら、呂望は辺りの風景にまなざしを向ける。
 とはいえ、風景といっても4、5階建てのアパルトマンが延々と続く裏通りには目印になりそうなものもなく、それほどの距離を歩いているわけではないが、既に一人では市場まで戻れそうになかった。
 王都は王国で一番大きな都市だが、それでも市場のある大通りから1本裏通りへ踏み込むと、途端に人通りは少なくなる。
 先程からすれ違う人もなくなり、何となく呂望は不安を感じて、前を行く青年に声をかけた。
「のう、どこまで行くのだ?」
「もうすぐそこですよ。すみません、姫様をこんな所まで歩かせて……」
「いや、それは構わぬが……」
 貴族の姫君である以上、運動らしい運動はしたことがないが、呂望は幼い頃から花や小動物が好きで、館の周囲に広がる森の中をよく散策していたため、多少の距離を歩くことは別に苦にならない。
 それよりも、自分を心配しているだろう王天君のことが気になった。
 やはり彼を呼びに戻って、一緒に来てもらった方が良かったのではないか、と少し後悔した時。
「こちらです」
 青年に呼ばれて、慌てて角を曲がり横小路へと足を踏み入れる。
 そして、数歩歩み、ふと前方を見て。
 呂望は足を止めた。
「え……?」
 普通、アパルトマンの裏には井戸のある小さな空間が塀で囲まれ、前後左右のアパルトマンとの境界をなしている。そのため、隣り合ったアパルトマンの大きさに差があったりすると、その間には壁で囲まれた何もない空間が生まれることがある。
 今、呂望の目の前にあるのは、まさにそれだった。
 三方を壁に囲まれているだけで、そこには何もない。
「行き止まりでは……」
 ないのか、と言いかけて。

 振り返った青年の顔に、言葉が途切れる。

 妻の身を案じる若い夫の表情は、もうどこにもなかった。
 うっすらと笑みを浮かべたその顔は、少女の警戒心を強く刺激するには充分で、呂望は思わず一、二歩後じさり、くるりと背を向けて逃げ出そうとする。
 が、行く手──袋小路の出口には、二つの人影があった。
「あ……」
 若い男が二人、狭い道を塞ぐように立っている。
 助けを求めても意味がないことは一目で分かり、呂望はその場に立ち尽くした。
 血の気の失せた顔で、ゆっくりと近付いて来る三人の男たちを見つめる。
 そして、新しく現れた男の一人に見覚えがあることに気付いた。
「おぬし……」
 右側の男は間違いなく、さきほど王天君への伝言を請け負ってくれた屋台商だった。
 すべてが茶番劇であったことを悟って、呂望は唇を噛みしめる。
 この分では今頃、王天君は何も知らないまま、市場で自分を探し続けているのだろう。
 たとえ一連のやりとりに目撃者があって、自分が市場を離れたことを知ることができたとしても、ここへ辿り着く術が果たしてあり得るかどうか。
「──何が、目的だ?」
 震えそうになる声を抑えて、静かに問いかける。
 すると、呂望をここまで案内してきた男──おそらくリーダー格なのだろう──が、にやりと口元を歪ませた。
「さすがに度胸が据わっていらっしゃるようだな」
「────」
「しかし、ここまで巧く引っかかって下さるとは思いませんでしたよ、姫君。もう少し、自分の価値を分かっておられるかと思いましたがね」
「──おぬしらの、目的は」
「お分かりでしょう、奇跡の姫君」
 その声に、他の男たちの声が重なる。
「死に至る病を癒してもらえるなら、いくら金を積んでもいいという連中は山のようにいるんだよ」
「おまけに、あんたは元始伯爵令嬢で、しかもそれだけ可愛い顔をしてれば、いくらでも金儲けの方法はあるのさ」
 笑いをにじませた男たちの言葉に、眩暈がするほどの憤りを呂望は覚えた。
 つまり、彼らは身代金を請求した上で、この力と身体を利用して大金を得るつもりなのだ。
 冗談ではない、と身体の奥からふつふつと怒りが沸いてくる。
 そして。
 左端の男がじり、と近付こうとした瞬間。
「寄るでない!!」
 呂望はドレスの幾重にも重ねられた絹の間に隠してあった短剣を抜き、身構えた。
 剣の扱いに自信があるわけではない。護身用として短剣の使い方だけは教わったが、大した腕ではないことは自分でも良く承知している。
 けれど、無抵抗なまま、彼らのいいようにされるのだけは我慢がならなかった。
 細身の短剣を構えて、深く澄んだ大きな緑の瞳できっと睨みつける呂望に、男たちは冷やかすような口笛を吹く。
「さすがだなぁ。指一本触らせねぇってか」
「だが、慣れない獲物を持つと怪我するぜ? ──そら!」
 不意に足を踏み出してきた左端の男の手を避け、短剣で払う。
「──っ! このアマっ!!」
「きゃぁっっ!!」
 男の腕を刃がかすめる軽い手ごたえを感じたが、直後、左頬への強い衝撃と痛みと共に、呂望は壁へと叩きつけられる。
「ぅ……」
 平手でぶたれたということは、かろうじて認識できた。
 誰かに叩かれるという経験は初めてで、じんじんするような頬の痛みに、思わず涙が浮かんでしまう。
 こんな連中に泣き顔など見せたくないのに、と唇を噛みしめるが、それもわずかな間のことだった。
「痛い目に遭わねぇと、立場が分からねぇみたいだな」
 自己防衛本能を刺激される獰猛な声に、はっと顔を上げると同時に左腕を掴み上げられた。護身用の短剣は、叩かれた衝撃に手放してしまい、離れた所で銀色に鈍く輝いている。
 痛い、という小さな悲鳴を、呂望はかろうじて飲み込む。
 少女の細い腕をつかんだまま、男は背後に立つリーダー格らしい男を振り返った。
「いいか?」
「処女になら大枚払う金持ちはいくらでもいるが……まぁいい、好きにしろ。どうやら姫君はお転婆らしいからな。抵抗したらどうなるか、最初に教えておくのもいい」
 その冷ややかな声に、呂望の背筋をぞくりとしたものが這い上がる。
 そろそろ年頃の娘として、男女のことも一通り婉曲な表現で教えられている。だから、これから自分の身に何が起きるのかは、予想がついた。
「好きなだけ悲鳴をあげていいぜ。この辺に住んでる連中は、厄介事には巻き込まれたくねぇって奴ばかりだ」
「あっ」
 左腕を掴まれたまま右手も捕らえられ、細い両手首をひとまとめに男の片手で頭の上で壁に押さえつけられる。
「い…や……」
 抵抗しなければ、と思っても、すくんでしまった身体はがくがくと震えるばかりで身動き一つできない。
 男の手でぐいと顎をつかまれ、顔を上げさせられる。
 怯えた涙が零れ落ちる美しい緑の瞳を見つめ、男はにやりと笑った。
「大人しくしてな」
 男の手が、ドレスの胸元へと伸びる。
 やわらかなふくらみに触れられ、呂望は悲鳴を上げた。
「やっ、いやあぁっ!!」
 ようやく抵抗することを思い出した手足を懸命に動かそうとするが、がっちりと押さえつけられて、男の手を振り払うこともできない。
 いやらしい手に胸を玩ばれて、恐怖と嫌悪感に涙が零れる。
「やめて……っ!!」
「いいぜ、もっと鳴きな」
 必死に不自由な身体をよじり、逃れようとしても、それは男を悦ばせ、煽ることにしかならないようだった。
「おい、あんまり遊んでないでさっさとしろよ。後からいくらでも楽しめるんだからな」
「分かってるよ」
 言葉と共に、胸に触れていた手がドレスの絹の上を滑り、脇腹へ、そして腰へと下りてくる。
「いやっ! 離して…っ!!」
 ───誰か…!!
 絶望に染まりかけながらも、呂望はせめてもの抵抗に、押さえつけられた両手首に力を込め、悲鳴を上げる。
 なかなか諦めようとしないことに苛立ったのか、
「いい加減、大人しくしろよ!」
 男が手を振り上げる。
 咄嗟に呂望は目をきつく閉じた。
 その時。

「その人を離せ!!」

 鋭い声が、袋小路に響いた。
「何だ、てめぇは!?」
 男たちがさっと気色ばむのが肌で感じられる。
 ───誰?
 王天君ではない。
 聞き覚えのない声に、呂望はおそるおそる目をあけ、そちらに顔を向ける。
「……え?」
 二人の男と向き合っているのは、背の高い青年。
 長い癖のない髪を一つに束ね、長剣を手にしている。
「もう一度言う。すぐにその汚い手を姫君から離せ」
 涼やかな美声は、凛と裏通りに響いた。
 ───あれは……。
 何故、その人が現れたのか分からず、呆然とする間に、二人の男は青年に叩き伏せられた。
「てめぇっ!!」
 呂望を押さえつけていた男が、立ち上がり、腰から抜いたナイフを手に飛びかかる。
 が、それさえも青年はあっさりと避け、首筋に長剣の柄を叩きつけられた男は、低い呻き声をあげながら、路地に崩れ落ちた。
 そして、
「お怪我はありませんか?」
 そう尋ねられた時。
 呂望はまだ呆然としたままだった。
 青年は見知らぬ相手ではなかった。
 これまでにも王宮の舞踏会や、どこぞの屋敷のお茶会で何度か顔を合わせている。
「通天公爵家の……楊ゼン様?」
「覚えていて下さいましたか」
 しかし、優しく微笑む青年が、いま何故、目の前にいるのか。
「間に合ってよかった。市場であなたがこの男たちと行くのをを見かけて、すぐに後を追ったのですが、途中で見失ってしまって……。
 病人を見過ごせないのはしかたありませんが、姫君がお一人で見知らぬ相手についていってはいけませんよ?」
 穏やかな言葉でたしなめながら、楊ゼンは手をさしのべる。
「立てますか?」
「あ、はい」
 慌てて呂望は差し出された手に自分の手を重ねる。
 心臓がまだ早鐘のように鼓動を打っているせいか、足元が少々ふらついたが、それでも何とか青年の腕に支えられて立ち上がることができた。
 とにかく助けてもらった礼を言わなければ、と頬の涙を手でぬぐおうとすると、白い絹の手布を差し出された。
「こすってはいけませんよ。綺麗な肌が傷つきます」
「あ…、ありがとうございます」
 ありがたくその手布を受け取り、言われた通りにそっと涙を押さえてから顔を上げると、ふと楊ゼンの眉がひそめられ、形のいい指が左頬に触れてくる。
「……痛むでしょう?」
「いいえ、平気です」
 そういえば、頬をぶたれたのだった、と呂望は思い出したが、緊張しているせいか、本当に痛みは感じない。
 それよりも、ドキドキと音を立てて脈打っている心臓の方が、よほど問題だった。
 何せ、公爵家の楊ゼンといえば、数多の貴族のなかでも最も美しい貴公子として有名なのである。
 そういう青年にこんな風に間近で顔を覗き込まれ、しかも頬を触れられたりしては、少女に緊張するなという方が無理だった。
「あの、危ないところを助けていただいてありがとうございました。でも、どうして楊ゼン様がこちらに……?」
 頬を薄紅に染めながらも、懸命に呂望は唇を開く。
 すると、楊ゼンは優しく微笑した。
「僕は、あなたを捜しに市場に来ていたんですよ」
「え?」
「とりあえず、戻りましょうか。あなたの連れも心配してることでしょうし」
 ゆっくりと呂望を促して、楊ゼンは袋小路を出る。
 路上に転がったまま、ぴくりとも動かない男たちを気にしながらも、呂望は素直に従った。
 だがしかし、
「大丈夫ですよ。別に怪我はさせてませんから数時間もすれば、動けるようになるはずです」
 心配を見透かされて、呂望は赤面する。
「本当は腕の1本や2本折ってやっても良かったんですが、そんなことをしたら、あなたは治してあげようとするでしょう?」
 だから手加減したんですよ、と苦笑を含んだ声で言われ、呂望はきまり悪そうな表情で青年を見上げた。
 男たちがしようとしたことは許せるものではない。
 しかし、彼らがもし怪我をしたりしたら、見て見ぬふりをできないのは指摘されたとおりで、反論のしようがなかった。
 困惑したような表情の少女を見つめ、楊ゼンは微笑する。
「それで……僕がここにいる理由ですが、あなたのお祖父様に頼まれて、というか、伯爵が困っておられる様子だったので、おつかいを買って出たんですよ」
 その言葉に、呂望はきょとんと小首をかしげた。
「──では、今日のお客様というのは通天公爵様だったのですか?」
 王家ともつながりのある大貴族は元始伯爵のチェス友達で、ごくごくたまにではあるが、館に赴いてくることもある。
 呂望もお茶の席で何度か言葉を交わしたことがあり、いかめしい顔つきで、いかにも貴族らしく情に不器用そうではあるが、芯は優しい老紳士という印象があった。
 しかし、その子息である楊ゼンが伯爵邸を訪れたことはなく、しかも、その本人がわざわざこうして自分を迎えにくるというのは、どういうことだろう、と呂僕は首をひねる。
 本人の自覚はなかったが、その様子はひどく無邪気で可愛らしく、楊ゼンは小さく微笑した。
「まぁ詳しいことは帰ってからにしましょう。──ほら、あなたのお連れが目を三角にしてますよ」
「え?」
 その言葉に顔を上げ、前方を見ると。
 驚いたような顔で、王天君が立っていた。



「楊ゼンっ!!」
 つかつかと歩み寄り、王天君は語気荒く青年の名を呼ぶ。
「てめぇ、こいつに何しやがった!?」
「王天君!」
 そのつかみかからんばかりの勢いに、驚いた呂望は慌てて間に割って入った。
「違うのだ、王天君。楊ゼン様は、わしを助けて下さっただけで……」
「助けてって……」
 腕に細い手をかけて自分を押しとどめる少女を、王天君は見下ろす。
「変な野郎に連れてかれたってのは市場で聞いた。大丈夫だったのか?」
「うむ。ちょっと危なかったが、楊ゼン様が助けて下さったから」
「───だから、勝手に行くなと言ったのに……。もう二度と、こんなのは許さねぇからな」
「分かっておるよ。心配かけてすまなかった」
「謝ってすむのなら警察はいらねぇよ。 ったく、寿命が10年は縮まったぜ」
 それから忌々しげに王天君は一つ息をつき、楊ゼンに向き直った。
「言いたかねぇが……、キサマに礼を言わなきゃならねぇみたいだな」
「君に礼を言われる筋合いではないよ。それより、こんな場所で姫君から離れる方が問題なんじゃないのか?」
「何だと?」
「王天君!」
 またもや喧嘩腰になりかけた再従兄の名を呼んで制し、呂望は楊ゼンを見上げる。
「わしが勝手に王天君の傍を離れたのです。一人で行くなといつも言われていたのに……。悪いのはわしなのですから、王天君を悪く言わないで下さいませ」
 きっとした表情で告げる呂望に、楊ゼンも少しきまり悪げな表情を浮かべた。
「──すみません。よく知りもせずに……」
「いいえ、悪いのはわしなのですから、気になさらないで下さい。──王天君も。一体何なのだ、わしの恩人に対して。失礼だとは思わぬのか?」
 今度は再従兄の方に向き直って、呂望は叱る。
「……おまえな、一体誰のせいだと思って……」
「楊ゼン様に、ごめんなさいは?」
「───…」
 深い緑に澄んだ大きな瞳で睨まれて、王天君は溜息をつく。
 そして、楊ゼンの方に顔を向けた。
「──こいつが急に消えたもんで、オレも気が立ってた。……悪かったな」
 いかにも渋々といった謝罪に、楊ゼンも口元に微苦笑を浮かべてうなずく。
 その様子を見つめて、呂望は一人満足したようにうなずいた。
 そんな少女の肩を、疲れたような表情で王天君は引き寄せる。
「──じゃ、オレはこいつを連れて帰るから、てめぇもさっさと帰れ、楊ゼン」
「あ、それはダメじゃ、王天君」
「は?」
「楊ゼン様はわしを迎えに来て下さったらしいのだ。それに、わしも助けていただいた御礼をしたいしのう」
「───つまり、こいつと一緒に帰るってのか?」
「うむ」
 こっくりと無邪気にうなずく少女を見つめ、王天君は唖然とした表情になった。
「悪いね、王天君。僕も姫君を連れて帰ると伯爵に約束した手前、一緒に戻らないわけにはいかないんだ」
 追い討ちをかけるような、青年の言葉に。
「───勘弁してくれ…」
 王天君はげっそりと呟いた。



「このじゃじゃ馬娘が!! 今日は大事なお客人が来ると、あれほどわしが言うたのに!!」
 館に入るなり、待ち構えていた祖父の雷が落ちて、呂望はきゅっと肩をすくめる。
「楊ゼン殿にまで御迷惑をおかけして……。もう少し由緒ある元始伯爵家の令嬢としての自覚を持たぬか!!」
「まぁ伯爵、こうして姫君は無事に戻ってこられたのですから、そうお怒りにならなくとも……」
「いいや、この娘はこりるということを知らぬのです。いくら言い聞かせても、ちっとも年頃の娘らしい振る舞いを身につけてくれず……」
 よよよ、と泣き真似をするジジィに、慣れっこの呂望はつーんとそっぽを向く。
 確かにその様子は、叱られてしょげている神妙さとは程遠かった。
「楊ゼン殿、本当にこんな娘でもよろしいと申されるのですか」
「ええ」
「───おい」
 ふと、老伯爵と客の会話に、なりゆき上、その場にいた王天君が割り込む。
「一体キサマは何の用で、今日ここへ来たんだ?」
 低いその声に、王天君の隣りのソファーに腰を下ろしていた呂望は首をかしげる。
 確かに不思議な気はしていたのだ。
 てっきり呂望は通天公爵が来ていると思っていたのに、客人はどうやら楊ゼン一人らしいのである。
 しかし、祖父と直接的な付き合いはないはずの楊ゼンが、何故突然訪ねてきたのか、そして、どうしてわざわざ自分を迎えに出向いたのか、その辺りの理由が皆目見当つかない。
 それに加えて、何故、この再従兄がこんなにけわしい声を出すのかも分からなくて、ただ大きな瞳をまばたかせながら小首をかしげる呂望の前で、楊ゼンが老伯爵に軽く目配せし、ソファーを立ち上がる。
「おい、……」
 ───え?
 木目の美しいテーブルを回り込み、自分の前へとやってきた楊ゼンに、呂望は  目を見開いた。
 そんな呂望を、楊ゼンは優しい微笑を浮かべて見つめる。
「僕は今日、あなたへ結婚の申し込みをするために来たんですよ」
「え……」
 低い美声が告げた言葉の内容を理解できず、きょとんとした表情になる呂望の足元に楊ゼンは片膝をつく。
 そして、優雅な仕草でドレスの裾を手に取り、口接けた。
「あなたを愛しています。どうか私の妻になって下さい、奇跡の姫君」
 一瞬の沈黙の後。
「ええ──っっ!?」
「何だと──っっ!?」
 広大な伯爵邸に、驚愕の悲鳴が二重奏で響き渡った。






to be continued...










というわけで、このパラレルファンタジーは4000キリ番を踏まれた苑名深智さまのリクエストです。
リクの内容はとりあえず伏せますが、メールをいただいた時から「少女まんがよ〜vv」「ラブコメよ〜vv」と、うはうは状態でした^^
こういう正統派(?)恋愛小説って一度も書いたことがないので、ものすごく新鮮でメチャクチャ楽しいです(>▽<) (なお、リク内容に「師叔が襲われる」というのはありません。これは古瀬の趣味ですので、念のため。)
それで、今回タイトルはいいのを思いつかなくて、大昔の少女マンガから借りました。かれこれ・・・15年前、の作品ですかね。昨年あたりに文庫化で復刊したような気もしますが。
少年マンガばかりを読んで大きくなったような私ですが、根っこのところでは少女マンガもラブストーリーも大好きですvv
それでは、待て次回、ということで再見^^





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