Little flower 4








 滅多にしないネクタイを締め、手にした荷物を確認する。
 そして、傍らにいた幼い娘を振り返った。
「行こうか、邑姜」








 良く晴れた気持ちのいい日だった。
 風はまだ冷たいが、陽射しは光に溢れて世界を輝かせている。
 梢の蕾はまだ堅いが、それでも一ヶ月前に比べれば大きく膨らみ、近いうちに鮮やかに花開くだろうことが予想できる。
「あ、お父さん、タンポポ」
 手を繋いで歩く道の途中、歩道の端に黄色い花を見つけて、邑姜が可愛らしい歓声をあげた。
「摘んでゆくか?」
「うん!」
 立ち止まり、しゃがみこんで小さな手で春の花を手折る。その様子を呂望は優しい目で見守った。
「ツクシは、まだ見当たらぬのう」
「ツクシのたまごとじ、大好き」
「うむ。どこかで見つけたら、摘んで帰ろうな」
「うん。たまごとじ、作ってね」
「もちろん。甘い奴な」
「うん」
 空いている方の手に、2輪のタンポポを持った邑姜と再び手を繋いで、呂望は歩き出す。
「本当にいい天気だのう。邑姜、暑くないか?」
「へいき」
 今日の邑姜は、風除けにとフェイクボアに縁取られたフード付きの赤いジャケットを着ている。歩いているうちに暑くなっては来ないかと気遣った呂望だったが、繋いだ小さな手にも前髪の間から覗く額にも、汗が滲んでいる様子はない。
 ならば良いかと、娘に合わせてのんびりした歩調で歩いた。
 今日の邑姜は、いつになく上機嫌で楽しそうだった。
 おそらくは、ここ十日ほど、呂望が自分の作品である絵本のゲラ刷りのチェックなどで忙しくしていたことに原因があるだろう。
 自宅での仕事であるし、三食とおやつは手作りにして、できる限り時間を作って構ってやるようにはしていたが、それでも仕事にかかっている時は、思考の大半をそちらに奪われてしまい、邑姜もまた、それを敏感に感じ取ってしまうようなのである。
 だからといって邑姜は、拗ねたり、構ってくれと泣いたりするような子供ではなかったが、かえってその分別が、呂望にしてみれば可哀想な性分だとも感じられた。
 泣いて我儘を言えば、こちらも仕事の手を止めて、娘のことを構ってやれる。
 だが、聞き分けよくされると、ついついそれに甘えてしまい、仕事に没頭してしまうことになる。
 自分を仕事人間だと思ったことはないが、それでも仕事について妥協することは絶対にしたくない性分であることは自覚しており、それが邑姜に寂しい思いをさせているのだと思うと、少しばかり申し訳なく、辛かった。
(そうやって子供は寂しさを我慢して、成長するのかもしれぬが……)
 幼児教育については、それなりに本も読んだりしたが、理屈と感情は別物である。
 呂望にとって、邑姜は唯一の家族であり、何物にも変えがたい宝物だ。
 かなうことならば父性本能のままに、常に娘の傍らにいてお姫様のように甘やかし、溺愛して可愛がってやりたいのである。
 それが子供にとって良くないなどという理屈は、そこに入る余地は微塵もない。
 逆に言えば、呂望に仕事があり、そちらに娘と過ごすはずの時間をかなり奪われていることは、教育上、親子にとって良い事ということになるのだろうが、感情の上では手放しに歓迎できることではなかった。
(まぁ、亦も居ってくれるしな)
 自分が仕事で忙しくしている間、いつもにも増して頻繁に我が家に入り浸り、邑姜を構っていてくれた従兄のことを呂望は思い浮かべる。
 不遜かつ他人には冷淡な性格を隠そうともせず、我が道を行く性質の従兄であるが、邑姜にだけは飛び切り甘い顔を見せ、そして邑姜もまた、彼には父親に次いで懐き、甘えることができる存在となっている。
 そして案外に細やかな王亦が、何かと邑姜の精神状態を気遣っては、呂望の及ばぬところでフォローしてくれていることは、呂望も気付いていた。
 小さな赤ん坊だった邑姜をこの腕に抱いてから三年余り、男手一つで娘を育てることを、負担と感じたことは一度もない。
 だが、自分だけでは足りないものが多々あることは事実であり、そんな日常の中で常にさりげない助けの手を差し伸べてくれている従兄の存在は、何にも増して心強く、ありがたいものだった。
「邑姜、疲れたら言うのだぞ」
「へいきー」
 目的地は、もう近くだった。
 自宅のマンションからは1kmちょっとの距離であるから、子供の足にとっては少しばかり遠い。行きはよくとも、帰りはおんぶしてやることになるかな、と思いながら呂望は娘に声をかける。
「あとちょっとだからな」
「うん」
 父親の手をぎゅっと握り締め、疲れなど知らぬげに楽しそうに歩く邑姜の様子に、自然と呂望の口元にも笑みがこぼれる。
 娘に甘いと言われようと、この幸福な一時は何にも変えがたく、決して譲れないものだった。







 線香の煙が、淡く霞んだ空に雅やかな螺旋を描いて立ちのぼり、消えてゆく。
 彼岸の中日だけあって、墓地には花があふれていた。
 呂望もまた、娘と共に墓石を丁寧に水で洗ってから蝋燭に火を灯し、花と邑姜が摘んだタンポポ、それから線香を供える。
 そして、ゆっくりと手を合わせて目を閉じた。
 ───邑姜以外の呂望の家族は全員、ここに居る。
 本当ならば毎月、祥月命日に訪れたいのだが、日常に取り紛れて盆と正月、春秋の彼岸、そして命日に参るのが精一杯となっているのが、家族としては少しばかり心苦しい。
 申し訳ない、と心の中で詫びてから、呂望は黒御影の墓標を静かに見つめる。
 その傍らで、邑姜もじっと父親と同じものを見つめていた。
「……邑姜は正月から、また少し背が伸びたよ。あと二週間で幼稚園の入園式だ」
 呟くように語り掛け、傍らの娘の頭を優しく撫でる。
 おそらく、邑姜は本当の意味では、この行為を理解していないだろう。三歳という年齢は、墓と墓参の意味を理解するには幼すぎる。
 ましてや、本当の両親はここに眠っているのだ、と言ったところでどれほどの意味が伝わるか。
 だが、それでも呂望は彼女がまだ乳飲み子であった頃から、繰り返し言わずにはいられなかった。
 邑姜の本当の両親が──兄夫婦が、どれほど彼女の誕生を待ち望み、愛していたかを間近に見ていたから。
 そして呂望自身、そう言葉にして繰り返さなければ……兄夫婦の想いはまだ自分たちの傍らにあるのだと思わなければ、大切な家族を失った悲嘆の中で自分を支えることができなかったから。
 おそらくは全てが呂望の弱さであり、エゴだった。
 だが、邑姜に、大好きな父親は本当の父親ではないという大きな不安を抱かせる可能性を分かっていても、彼女のことを愛して見守っているのは自分だけではないことを知っていて欲しかった。
 兄と、義姉と。
 そして十数年前に亡くなった両親もまた、孫娘を愛しく見つめているに違いなく、たとえ身近に感じられなくとも……抱きしめてくれる腕はなくとも、彼女に繋がるすべての人々が、彼女を愛していることを知って欲しかった。
 ただ愛していると、大切に思っているとそればかりを繰り返した、その言葉を邑姜がどれほど理解し、どう受け止めたのかは分からない。
 だが、自分がそうやって自分を支えたように、いつか自分が沢山の愛に包まれていることを知って、生きてゆく上での支えとしてくれたらいい。そう願うしかなかった。
「やっぱり、ここだったか」
「お兄ちゃん!」
 じゃり、と砂を踏む音と共にかけられた声に振り返ると、そこには従兄が立っていた。
 墓参りにきたとは到底思えない、いつものレザーとシルバーに全身を包んだ姿で、足早に歩み寄ってくる。
「お前たちのマンションに寄ったら留守だったからよ。こっちだろうと踏んで追いかけてきた」
「そうなのか。連絡してくれれば良かったのに」
 呂望がそう言った途端、王亦は細く整えた眉をしかめた。
「したっつーの。お前、携帯忘れてるだろ」
「え?」
 慌ててサイドバッグやポケットの中を探るが、確かに小さな文明の機器はどこにも入っていない。
 もともと滅多に着ないスーツと、滅多に持たないバッグをクローゼットから引っ張り出してきたのである。つい忘れても仕方のない状況であったとはいえた。
「……すまぬ」
「いーよ。どうせ行き先の見当はついてたんだしな。それより俺にも墓参りさせろや」
「うむ」
 呂望が邑姜を促して、立ち位置を譲ると、王亦は遠慮なく墓石の正面に立った。
 そして、ぞんざいな仕草で両手を合わせ、ほんの二三秒、目を閉じただけで黙祷を終える。
 いかにも彼らしい、だが仕草とは裏腹な、黙祷する横顔を掠めた真摯さに呂望は目を細める。
 ───子供の頃から家族と折り合いのよくなかった王亦は、呂望の両親が健在だった頃から、呂望の家に入り浸っていた。
 呂望の両親は鷹揚な性質で、自分たちの子供と同様に王亦のことも可愛がったから、余計に居心地が良かったのだろう。年の離れた呂望の兄を含め、まるで三人兄弟のようにして育ったのだ。
 やがて考古学者だった呂望の両親が、南米の遺跡で起きた落盤事故のために亡くなった時も、王亦は呂望たちと同じくらいに嘆き、悲しんでいた。
 その後、両親に代わって二人の保護者的存在となった兄が結婚した時も、口の悪い王亦が兄嫁をけなすことは一度もなく、兄貴には勿体ない、と憎まれ口を叩きながら祝福していた。
 それから数年経って、兄夫婦に子供が生まれた時にも、意外なほどに赤ん坊を可愛がった。
 そして。
 知人の結婚祝いのために、贈り物を買いに行った兄夫婦が交通事故に遭った時も。
 呂望が連絡した誰よりも早く、王亦は病院へと駆けつけた。
 乳飲み子の邑姜を抱きしめ、呆然としていた呂望に、しっかりしろ、と声をかけ、それからしばらくの間、立ち上げたばかりの自分の工房すら放って、呂望と邑姜の側に居てくれた。否、離れられなかったと言っていいのかもしれない。
 あの時、王亦が居なかったら、正直、どうなっていたか分からない、と呂望は思う。
 逆に、王亦もまた、呂望と邑姜が居なかったら、どうなっていたか分からないだろう。
 葬儀が済んだ後、呂望は、乳飲み子の邑姜の世話をすることで自分を支え、王亦は、そんな呂望を支えることで自分を支えた。そんな共生状態は、二ヶ月ほども続いただろうか。
 最終的に呂望も王亦も、その間、放りっぱなしにしていた仕事に、それぞれ強制的に引き戻される形で日常へと復帰した。
 そして今も、二人の関係は変わらないまま、邑姜を間に挟んで、より緊密なものとなっている。
 娘と、従兄と。
 愛しい家族を見つめて、呂望は微笑んだ。
「よし、そんじゃメシでも食いに行くか」
 墓石を見つめていた視線を逸らして、王亦が振り返る。
 その強いまなざしを受けて、呂望はうなずいた。
「車で来てっからよ。駐車場のあるところなら、どこでも行けるぜ」
「おぬしの車、って……。チャイルドシートが付いておらぬだろうが」
「当たり前だろ。アストンマーチンにチャイルドシートなんざ、付けられっかよ」
「亦〜〜」
「気に入らねぇんなら、お前は歩いて来い。邑姜、行くぞ」
「うん、お兄ちゃん」
「おい、邑姜」
「? お父さん、行かないの?」
「…………」
「お前の負けだろ、望。おら、とっとと行くぜ」
 仲良く手を繋いだ、まるで親子のような二人に見つめられては、どうしようもない。
 溜息をついて、呂望は歩き出す。
 それを見届けて、前を行く二人も手を繋いだまま歩き出した。
「チビ姫、何が食いたい」
「んーとね。ツクシのたまごとじ!」
「……それは夜に望に作ってもらえ。昼飯食ったら、どっかの堤防にでも連れてってやるからよ」
「お兄ちゃんも一緒に食べる?」
「当たり前だろ。山程ツクシ摘んでやる」
「うん!」
「で、その前に何を食いたい?」
「えーっとねぇ……」
 春風と呼ぶには少しばかり早いそよ風に乗って聞こえてくる二人の会話に、太公望は小さく笑んで。
 二人に追いつくべく足を速めた。






to be continued...?










一年遅れの3月編。
これで呂望たちの設定は、ほぼ出揃いました。
……なんだかまるで王亦×呂望のようですが、違います。あくまで兄弟愛。世間一般とは桁違いで、溺愛の部類には入りますが。
王亦の車は、シルバーアクセ→ロンドン→英車→アストンマーチン、という感じで決定。
多分、最新モデルじゃなくて少し古いの(でもヴィンテージ車ほど古くない)を、四六時中、修理に出しながら乗っているのではないかと。きっと1年のうち3ヶ月くらいはディーラーのガレージに家出してるんですよ……。

次は4月なわけですが、果たして間に合いますかどうか。
次回のコンセプトは、「激突! コブラVSマングース!!」です。どうぞお楽しみに(笑)






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