辺り一帯に、激しく雪崩(なだれ)落ちる水音は響いていた。
 長く続く切り立った岩壁から幅広く流れ落ちる大瀑布は、白い水飛沫(しぶき)を上げ、どうどうと勢いよく逆巻きながら地を流れ下ってゆく。
 その天と地を揺るがす轟音の只中で、太公望はゆっくりと目を開いた。
 そして、渓流の中に立つ細い石柱の頂上で結跏趺坐(けっかふざ)したまま、細く息を吐き出した。
「そうか……。わしはあの時、英鈴の姿を見たのだったな。自分の仕組んだ暗示とはいえ、すっかり忘れておった」
 呟いた声は、きんと冷えきった大気に消える。
 この地は大陸においては南方に位置していたが、それでも標高が高いため、冬ともなれば一面の雪に閉ざされる。
 今はまだ、白いものは見えないが、それでも周囲の木立は葉を落とし、延々と聳(そび)える巨大な岩壁を下り落ちる大瀑布から幾筋にも別れて流れてゆく渓流は、冷たく澄み切っていた。
 その風景を……空を流れてゆく雲の速い動きを見るともなしにまなざしをむけたまま、太公望はたった今、思い出した記憶の面影をたどる。
 数十年も前に一度だけ垣間見た、成人した妹の姿は、亡き母の姿にも、彼女の子孫である少女にも似ていた。
 彼女たちとの血の繋がりは所詮、器(うつわ)のみのことであり、中に宿っていた魂魄は『呂望』とは似ても似つかぬ異形の偽者だったという己の現実は、鉛の楔のように重く胸に穿(うが)たれている。
 だが、これも条件反射と呼ぶべきなのか、遠い面影に胸が熱くなる感覚は、自分が『太公望』だという認識しか持っていなかった頃と、何一つ変わらない。
 あるいは、これも──この星の生物としての情を覚えたこともまた、罪悪の一つだったのだろうか、と太公望は唇に淡い自嘲の笑みを滲ませる。
 遥かに遠いあの日、初めてこの惑星を目にした時、なんと美しい星なのかと思わず感嘆の息を洩らした。
 だが、その感覚は、あくまでも未開の地の発見者としてのものでしかなかった。
 たとえるなら、地中から掘り出した美しい宝石に対するような『物』に対する認識は、女禍を封印してこの星に同化してからも変わらず、長い長い時を経て封神計画が始まっても、己の感覚はこの星の生物以外の……超越者としての感覚でしか、物事を捕らえようとはしなかった。
 その来訪者としての自然な傲慢が悪かったのか、それとも、計画のためとはいえ己の意識を封印して人間に擬態したことが悪かったのか。
 すべての設定が整い、動きだしてしまってから、封神計画に重大な欠陥が最初から存在していたことに気付いてしまったのだ。
 もはや修正する術も見つからない段階で。
 気付かなければそのまま済んだだろう。しかし気付いてしまったからには、計画の発案者としてどうにかしなければならない。
 だが、『太公望』に擬態していた自分にはその機会がなかった。それ以前に、封神計画に関するあらゆる知識も記憶も封じられていたのだ。
 そうして何も知らないまま、己ではない己が想定した通りの道程を歩んで。
 瀬戸際で真実の己を取り戻しても、結局、なす術が無いまま、最期の時を迎えて。
 すべてを諦めて消えかけた。
 けれど。
「────」
 深い山の冷気を、太公望は静かに吸い込む。
 辺りからは激しく轟く水音以外、何も聞こえない。
 その中で、静かにまばたきをして。
「──覗き見は趣味がいいとは思わぬが……」
 太公望は凛と声を響かせた。
「いい加減出てきてはどうだ、妲己よ」
 決して大声を出したわけではない。
 だが、大瀑布の水音にもまぎれることなく、殷々と声は冬枯れの木立の間をどこまでも透ってゆき。
 それが余韻をもって消えた時。
 笑い声が生じた。
「───」
 くすくす、くすくすと千の銀の鈴を振るような、冬の星々がさざめくように軽やかな笑い声がかすかに、だが何重にも渓流に響き渡る。
 声の波紋は生まれては広がり、消えてゆく。
 そして、最も大きく広がった波紋が弾けた時。
 どこからともなく流れ込んできた光の粒が、太公望の目の前にざあっと押し寄せ、うねり、広がって、一つの形を作った。
「相変わらず派手好みだのう」
 だが、初冬の雲の隙間からわずかに差す陽光にきらめいた美しい光景にも、太公望は何の感慨をも抱くことなく、冷めた表情で感想を洩らす。 「太公望ちゃんこそ、相変わらず素っ気ないのねん」
 答える笑いに彩られたあでやかな声は、鼓膜を震わせる音ではない。
 直接意識に届く声に、太公望はしかし、表情を動かすこともしなかった。
「お久しぶりねん。この前に会った時はいつだったかしらん?」
 石柱に座している太公望の目の前に浮かび上がってあでやかに微笑み、指折り数える女の身体は、半ば宙に透けていた。
 彼女はもう、実体を持ってはいないのだ。
 が、細身でありながら胸や腰に豊かな膨らみを帯びた見事な体つきは変わっておらず、薄布の一枚も身に付けていない姿は、実体でないにもかかわらず以前と同じ妖婉さを漂わせている。
 だが、
「いつも何も無かろうよ。どさくさにまぎれて人の体を勝手に造っておきながら、雲隠れしおって」
 太公望の声は、冷えきった大気と同じ温度で辺りを震わせた。
「あれきり、呼べど叫べど姿を現さぬし……。おかげで今日までの五年間、文句も言えんかったわ」
 倦(う)みきった不機嫌な声に、妲己は意外と言わんばかりに長いまつげに彩られた美しい瞳をみはる。
「あら、あの時は大変だったのよん。太公望ちゃんたら身体も魂魄も粉々になっちゃうんですものん。それを変なものが混じらないように拾い集めて、形を作って……。太公望ちゃんのためを思ってあんなに一杯苦労したのに、文句言われたら、妲己、泣いちゃうん」
「泣き真似なんぞするでないわ、鬱陶しい」
「まぁ、ひどいわねん」
 うつむいた口元に手を当てて、よよと泣く素振りをしていた妲己は、けろっと顔を上げる。
 そんな彼女の態度に、太公望は溜息をついた。
「力を得て太母になってはみても、傍迷惑な性格は変わらぬようだのう、妲己」
「失礼ねん」
 だが、無礼な物言いを咎める妲己の声は笑っていた。
「だって、これがわらわですものん。ずっとなりたかったものになれたのよん。ちょこっとくらい嬉しくてはしゃいでもいいでしょん」
「それが迷惑だと言っておるのだ」
「あら、今のわらわが見えるのも呼べるのも、この世には太公望ちゃんだけなのよん。太公望ちゃんが呼んだから、わらわは来てあげたのん。迷惑だなんて言われる筋合いはないのよん」
 にっこり微笑む妲己に、太公望はもう一度、溜息をつく。
 これまで呼べども一向に姿を現さなかったのは、どこの誰だ、と言ったところで無駄なことは分かっている。
 今や時間は有り余っている身ではあるが、だからといって不毛な問答で気力の浪費をするつもりはない。
 仇敵を目の前にしてわずかながらも揺らいだ意識の水面を鎮めるため、一瞬、辺りを揺るがせる大瀑布の轟音に意識を向けてから、太公望は改めて目の前に浮んでいる女を正面から見つめ直した。
「まぁ良いわ。それよりも、おぬしには幾つか訊きたいことがある。おぬしの答えたい範囲で構わぬから答えよ」
「わらわの答えたい範囲でいいのん?」
「全部話せと言って応じるおぬしではなかろう」
「わらわが嘘をついていたらどうするのん?」
 揶揄するような妲己の問いかけに、しかし太公望は冷ややかなほどあっさりと答える。
「今のおぬしが嘘をつく必要性がどこにある? おぬしは己の野望にしか興味のない徹底した利己主義者だが、だからこそ、意味の無い嘘をつく趣味は、あの頃にもなかった」
 敵も味方も欺(あざむ)く──否、味方を味方とも思っていない妲己は、自分の真の目的に到達するためならば、いかなる手段も厭わなかった。
 甘言を弄(ろう)し、邪魔者を悪辣な罠に嵌めることも、己の手で敵を引き裂くことも。
 それがどれほど残虐な行為であっても、彼女が躊躇うことはなかったのだ。
 そして、真に求めるものを間違いなく得るためには、迂遠ではあっても確実な策を選び、待つことを厭わぬ反面、目的に叶わぬことはしない絶対的な合理主義者でもあった。
 退屈していると言いつつも、その『遊び』は常に目的を実現するための手段の範囲を越えることはなかったのである。
 すべてが終わって振り返ってみれば、妲己はいつでも最終的に目的までの最短距離を歩んでいた。
 己が立案した封神計画を徹頭徹尾利用され、目的を達成されてしまった太公望としては、妲己の身勝手さに呆れ、憤りを覚えつつも、そんな彼女の執念と老獪さに少なからぬ感嘆を感じずにはいられない。
 女禍と伏羲という始祖二人をも欺き、太母となることに成功した彼女の策謀は、確かに見事としか言えないものだったのだ。
 淡々とした太公望の返答に、妲己は珍しくもきょとんと目を見開き、ついで大輪の華が開くような笑みを見せた。
「いいわねん。だから、わらわは太公望ちゃんが好きなのよん」
「わしは好かれても嬉しくない。まさか、わしの体を再生したのもそれが理由だなどとは言うでないぞ」
「あら、他に理由がいるのん」
「あるはずだ」
 くすくすと笑う妲己に、石柱の頂点に座したまま、太公望はまっすぐに告げる。
 その感情の色を消した声は、凛と初冬の大気に響いた。
「おぬしは只の女怪ではない。感情に任せて好き嫌いで行動しているように見せかけているが、その裏には常に必ず、好き嫌い以外の目的に基づいた明確な理由がある。違うか?」
「───」
 太公望の深い色の瞳が、妲己を見据える。
 向けられた冬の夜空のような色合いに、妲己は微笑を浮かべたまま、愛らしいほどの仕草で軽く首を傾けた。
「そうねぇん」
 実体はないはずなのに、さらりとかすかな音を立てて長い髪がすべやかな肩を流れ落ちる。
 そして、一旦瞳を伏せた後、妲己はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「わらわは見たかったのよん。太公望ちゃんが、封神計画をどんな風に決着をつけるのか」
「計画の……決着?」
「そうよん。わらわは知っている……いいえ、分かってしまったのよん。最初はわらわを、その後は女禍を封じるためにと名目をつけて、太公望ちゃんたちが必死になっていた封神計画とは何だったのか。本当は、何を目的としていたのか」
 銀の鈴を振るような甘い声が、歌うようになめらかに響く。
「わらわは伏羲のことは知らないけれど、太公望ちゃんと王天ちゃんのことはよく分かってるわん。そして、この姿になって初めて封神計画の実体にも気付いたのん。だから、見たいと思ったのよん」
「……そのために?」
「そうよん」
 ふわり、と妲己の髪が内部から発せられる力を受けて広がる。
 ほのかに光を帯びたその姿を、太公望は無言で見つめた。
 半ば宙に透けた肢体が放つ光は、黄金。
 もともとの女神めいた圧倒的な美貌と相まって、どこまでも優雅で力に満ち、美しい。
「封神計画は、まだ終わってはいない。そして、この時点で計画が終わりを迎えない限り、わらわは真の意味で太母とはなれない。そうでしょうん?」
 意識野に広がる妲己の声が、玲瓏とした金属の触れあう音とも玉の触れあう音ともつかない響きを帯びる。
「封神計画を立てたのは、伏羲、あなただわん。ならば、あなたの手で最後まで決着をつけて。女禍のみからではなく、封神計画からをもこの星を解放して欲しいのん」
「───…」
「この惑星に監視者は必要ないのよん。わらわも、この星の支配者になりたいわけではないわん。それを夢見たのは、ずっと昔の話。今は、いつかわらわという存在が形を失っても、永遠にこの星の一部としてあることが願い」
 その日……いつか自己としての意識を失う日を夢見るように、妲己は目を閉じる。
「虫として、草木として、魚として、鳥として……、あるいは岩として、雨として、風として、わらわは何度でも、この星が死ぬ日まで世界に生まれ続ける。もう何をすることもなく、ただ存在は永遠に続く。
 たとえ、いつかこの星が死んで砕け散っても、そうして粉々になったわらわは、また宇宙のどこかで新しい星を形作る礎(いしずえ)となる。──それが、わらわの望んだ永遠」
 そして、ゆっくりと妲己は目を開いた。
 ──金瞳。
 肉体を持ち、人間の姿を取っていた頃は甘い色合いの薄茶だった瞳は、金色と化していた。
 だが、同じ金瞳といっても、彼女が妖怪の本性を出した時に見せた獣の瞳とは、まったく異なる。
 太上老君と良く似た……しかし、いっそう深く落ち着いた色合いは、大地の峻烈さと慈愛を合わせ持って、静かに輝いている。
「どれほど歪められていようと今の姿が、この星のあるべき姿。封神計画など、もう必要はないのん。だから解放してちょうだいん。この星を……今、この世界の生物無生物、ありとあらゆるものを少しでも愛しいと思うのならば」
 底知れない深さを持った人ならぬ瞳で太公望を──始祖を見つめ、玲瓏たる声で妲己は告げる。
「──太母、か」
 わずかに目を細めるようにしてその瞳を見つめ、太公望は小さく呟いた。
 そして、ゆっくりと静かに息を吐き出し、目を伏せる。
「おぬしに言われずとも……分かっておるよ」
 先程までの憮然とも取れた無表情とは異なる、静かな表情で太公望は告げる。
「だから、わしはおぬしが現れるのを待っておった」
 ゆっくりと紡ぐ声は、大瀑布の水音の中、不思議な深みを持って静かに広がってゆく。
 その音の波紋が消えてゆくのを待つようにしてから、太公望は伏せていた目をゆっくりと上げた。
「わしはあの時、女禍と共に消滅するつもりだった。封神計画は最初からそこまでしかなかったからだ。わしも女禍も力を使い果たして、始祖という存在は完全に消滅して計画は終わる、そこから先は最初から想定していなかった。
 ……だが、人の世で生き、数多(あまた)の人と交わったがために、わしの中には『人間』としての欲が生まれたのだ。未練といっても良い」
 淡々と語る太公望の言葉を、妲己は変わらずほのかな黄金の光をまとったまま、無言で聞く。
「始祖としてではなく『人間』としての意識で見た時、遥かな昔に立案した時は十分だと思っていた計画に、重大な欠陥があることに気付いてしまった。だが、計画が絶対的な隙のないものである以上、わしでももう修正することは叶わないと分かっていたから、あの時は、仕方がないと……この星にすまないと思いながらも諦めた。
 計画そのものは成功したのだから、このまま流れに乗せていけば、いつか彼らが自分たちの手で修正することもできるだろうとな」
 妲己を見つめる太公望の瞳は、深い色合いのまま変わらない。
 だが、妲己の放つ光を映しているためか、ほのかな黄金の輝きを奥底に帯びているように見えて。
 まるで深くどこまでも澄みきった昏い淵の底に黄金の太陽が眠っているような、遥かな宇宙の根源を映したような瞳に、相対する妲己は無意識にか、美しい口元にかすかな憧憬の微笑みを浮かべた。
「しかし、おぬしが土壇場でお節介な手を伸ばしてくれたおかげで、わしは存在を取り留めた。そうして今、ここで計画に最後の決着をつけるための時を待つことができている」
 太公望の表情に笑みは浮かばなかった。
 根元を冷たい渓流に洗われる石柱の上に座したまま、ただ静かに妲己を見つめ、言葉を紡ぐ。
「『太公望』としてのわしは、おぬしが人界に対してなした所業を許すつもりはない。だが、おぬしが野望を抱いて災厄を撒き散らした挙げ句、女禍を欺かねば、計画が失敗した可能性は高い。……そして、おぬしが手を差し伸べなければ、わしは間違いなく、女禍と共に消滅していた」
 そこまで言って、太公望は一度、言葉を切った。
 どうどうと大瀑布を流れ落ちる水音が、おそらく何千年も前から変わらぬ響きで、人ならぬ二つの存在を包む。
「わしは、おぬしに礼を言わねばならぬ。封神計画の真実に気付き、その結末を見たいと望んでくれたことに……わしに、その機会を与えてくれたことに」
 そして。
 太公望は、座したままゆっくりと頭を下げる。
 その様を無言のうちに見つめて。
 くすり、と妲己は微笑った。
「おかしな気分ねん。太公望ちゃんに頭を下げられるなんてん」
 口元に優美な手を当てて、くすくすと笑う。
「あいにく、頭を下げておるのは『太公望』ではない。『伏羲』としてのわしだ、妲己」
 その笑みに皮肉げに応じながら、太公望は顔を上げた。
 だが、妲己は取り合わない。
「あらん、だって一緒でしょうん? 『伏羲』=太公望ちゃんだってことくらい、今のわらわにはお見通しよん」
 面白げに微笑みながら、太公望の胸の辺りを細い指で示す。
「そこに眠ってる王天ちゃんは、あくまでも『伏羲』の小さな小さな欠片にすぎないわん。封神計画に必要な裏工作だったとはいえ、大量の魂魄を歪めることをあなたは好まなかったでしょうん?
 だって、そんなことをしたら本当の姿に戻った時に、『伏羲』が狂気を引きずってしまう可能性もあったんですものん。狂い変質することを前提として分離した魂魄に、大容量が与えられるわけがないわん」
「───…」
「それに、王天ちゃんはずっと本能的に元の姿に戻りたがっていたけれど、太公望ちゃんは全然、そんな渇(かつ)えは感じていなかったわん。それだけでも、太公望ちゃんの方が『本体』だったことの証拠にはなるのよん」
「……まったく性質(たち)の悪い女が太母になったものだのう」
 微苦笑というにはいささか苦味の強い声で、太公望は溜息まじりにこぼした。
「迂闊だったよ。一旦、この星に同化してしまえば、この星のありとあらゆる歴史はすべて自分のものとなる。封神計画の真実に気付いたことといい、おぬしは『過去』を視(み)たな?」
 鋭すぎる頭脳から紡ぎ出される推論だけでも十分厄介だったのに、とうんざりした調子で言う太公望に、妲己は美しい弧を描く眉をしかめてみせた。
 かつて、人間に変化した彼女がひとたびこんな拗ねた表情を見せれば、いかなる男も必死になって彼女の機嫌を取ろうとしたに違いない。
 そして、その結果、どれほどの血と涙が流されたことか、と太公望は表情には出さないまま考える。
「いいじゃないのん。今はもう、わらわは何にもできないのよん。この星に同化してすべてを手に入れたけれど、だからといって地震の一つも起こせないんですものん。せめて、それくらいの特典はあって然(しか)るべきものよん」
「……というより、それも目的の一つだったのであろうが」
 浅い溜息をついて、太公望は額に落ち掛かる前髪をかき上げた。
「おぬしはよく言えば知識欲、悪く言えば好奇心が桁外れに強い。この星に同化すればこの星のすべてが、その後、宇宙に同化すれば宇宙のすべてが労せずに手に入る。
 もちろん、一番の目的は永遠の存在となることだっただろうが、それに付属してくる世界そのものの膨大な知識にも魅力を感じなかったとは言わせぬぞ」
「あらん、今頃気付いたのん? 太公望ちゃんたら始祖のくせに駄目駄目ねん」
「うるさいわ」
 楽しげににっこりと笑う妲己に、太公望はもう一度、溜息をつく。
 王天君と融合して記憶が完全となり、封神計画の全貌を把握した今、妲己の存在は必要悪であったことも分かっている。
 だが、この百年近い時間の中で刻み込まれてしまった人間としての感情が、まだ時折、強くせめぐのだ。
 あの憤りと哀しみを思い出せ、と。
 許せるものでも忘れられるものでもないだろう、と。
 けれど、と太公望は思う。
 他者の苦痛を顧みず、すべてを利用し尽くした妲己の所業は許されるべきものではない。
 だが、王を意のままに操る血塗られた傾国の美女という立場は女禍が与えた役回りであり、それを容認していたのは封神計画なのだ。
 最初から脚本が定められていた以上、たとえ妲己ではなくとも、誰かが──おそらく彼女以上の適任者はいなかっただろうが、残虐な気性を持つ美しい女が紂王を狂わせる役割を担い、民に流血を強いたことだろう。
 結局のところ、根源までさかのぼってしまえば、始祖がこの惑星に降り立ったことにすべての悲劇の原因が集約されるのである。
 そのことを理解しているからこそ、太公望は妲己を憎み、糾弾することをやめた。出来なかった、といっても良い。
 真実を知り、それでなお他者の罪科のみを糾弾するような無神経な真似は、少なくとも太公望にとっては容認できるものではなかった。
「……それよりも、おぬしにはもう一つだけ、聞きたいことがある」
 気分を鎮めるように深く息を吸い込むと、気温が先程よりもいっそう下がってきているのを感じた。
 上空は濃い灰色を帯びた雲に覆われたままであり、そろそろ、この冬最初の雪が散らついてくるのだろうかと思いながら、太公望は目の前の相手に問いかける。
「おぬしは紂王をどう思っておった?」
「────」
 よほど意外だったのだろう。
 妲己は軽く目をみはり、即答しなかった。
 その表情を太公望は無言のまま見つめる。
「……太公望ちゃんがそんなことを気にするなんて、意外だわん」
「紂王の最期の言葉を聞いたのは、わしだからな」
 動じることなく、太公望は答える。
「あやつが誘惑術に関係なく、本心からおぬしを愛しておったことは知っておっただろう。それでも、あやつにかけてやる憐れみはなかったのか?」
「──ええ、なかったわん」
 沈黙をはさみ、ゆっくりと妲己は微笑んでみせた。
 その笑みは、これ以上ないというほどの至高の美しさと残酷さに満ち、超越者となった彼女を艶(あで)やかに彩って。
「わらわも紂王のことは愛していたわん。人間の男としては最高レベルだったものん。身体も精神力も……。あれだけの力を持つ人間は千年に一人よん」
「……それでも、野心の方が上回ったか」
「比べ物になるわけがないでしょうん」
 くすくすと妲己は笑う。
「わらわにとって大切だったのは、女禍の肉体を奪ってこの星に同化することだけ。貴人や嬉媚だって可愛い存在ではあったけれど、わらわを引き止めるには値しなかったわん」
「───…」
「紂王を愛してはいたけれど、だからといって、たかが人間の男にかけてあげる憐れみなどないわん。──太公望ちゃんだって、そうではないのん?」
「なに?」
「太公望ちゃんにとって、封神計画より大切なものなんてあるのん? それ以上に愛せるものなんて存在するのん?」
 揶揄するような妲己の笑い声が波紋を描き、広がってゆく。
「所詮、エゴイストなのよん。わらわも、太公望ちゃんも」
 太公望は瞳に険しいものを浮かべて、それを受け止めた。
「誰を裏切ることができても、自分の心を裏切ることだけはできない。そうでしょうん?」
「……おぬしと一緒にはされたくないがのう」
 冷ややかなものを滲ませたまま、太公望は低く告げる。
「わしも確かに自分の望みが一番大切だ。だが、誰かを裏切る時、失う時に平静でいられたことは一度もない」
「あらん、裏切ったのは間違いないのに悔やむのは、偽善だとは思わないのん?」
「思うに決まっておるだろう」
 太公望は即答した。
 深い色の瞳が鋭く妲己を見据える。
「理由がどうあれ、結果的に裏切ってしまったもの、死なせてしまったものを悔やむのは偽善でしかない。だが、誰一人傷つけたくなかったのも事実なのに、どうして後悔せずにいられると思う」
「それは我儘というものよん」
 だが、太公望のまなざしに対し、妲己はあくまでも動じる様子を見せなかった。
「生きている限り、常に選択をし続けなければならないのよん。どれほどの力があろうと、複数の願望を同時に叶えようとするのは無理だわん。
 現に始祖のあなただって数え切れないほど沢山のものを失って、信頼してくれていた仲間を裏切って、挙句、唯一の同胞である女禍まで抹殺したわん。それを分かっていて感傷に浸るのは無駄なことよん」
「あいにく、わしは無駄と思わぬのでな」
 笑いの滲んだ妲己の言葉を、太公望は冷ややかに切り捨てる。
「『太公望』として生きた短い年月の中で覚えた人間の情は、計算外の産物だが、それを否定して捨てる気は微塵もない。矛盾と言われようが偽善と言われようが、すべての後悔を引きずったまま、この先もわしは生きる。それが、わしだ」
「──そうなのん」
 きっぱりと言い切った太公望に、金瞳のまま、妲己は甘やかに微笑んだ。
 同時に、彼女を包むほのかな黄金の輝きが強さを増す。
「ならば、見せてちょうだいん。そもそも封神計画自体が、あなたにとってはただの贖罪でしかなかったはず。
 そして、封神計画の決着をつけることは、かつての仲間に対する最期で最大の裏切り。一番裏切りたくなかった相手に、これ以上どうやって裏切りを重ねるのか……」
 みるみるうちに妲己の半ば透けた肢体は光の塊となり。
 その目映さに太公望も耐えきれず目を閉じた時。
「楽しみにしているわん……」
 最後の声と共に、光の塊が弾けて四散する。
「既に期は熟していてよん、太公望ちゃん……」
 ……でも、と。
 波紋だけになった声が太公望の脳裏にささやく。
 ──わらわが太公望ちゃんを好きだったのは本当よん。だから、チャンスをあげたのん。
 ──もう一度やり直す、最初で最後のねん……。
「……っ」
 押し寄せた膨大なエネルギーが太公望の髪を揺らし、そのまま拡散して消えて。
 顔を上げた、次の瞬間。
 ───!
 太公望は鋭く上空に視線を走らせた。
「結界が……」
 刹那のうちに張り巡らせてあった精神の糸をたどる。
「──同調して侵入したのか。このわずかな期間に、大したものだ」
 一帯を包む見えない繭を構成する細い糸は、一本も切れてはいなかった。
 他者が造った結界……それも始祖のものを破壊することなく内部に侵入するのは、この上なく高度な技術と能力を必要とする。
 そしてまた、そんな面倒な手段を選ぶ侵入者の心当たりは、太公望には一人しかなかった。
「妲己の言った通りか」
 思ったより早かったな、と小さく呟く。
 その顔には、妲己相手にも老子相手にも決して見せなかった微笑が──そのまま崩れ落ちてしまいそうな危うい、淡い笑みが滲んで。
 そして、一瞬目を閉じ、再び開いた時には、太公望の顔からすべての表情が消え失せていた。
 背筋を伸ばして結跏趺坐の姿勢を正し、底知れぬ深さで澄み切った瞳でまっすぐに前を見据える。
 きんと張りつめた空気の中、なだれ落ちる大瀑布の水音だけが激しく響き渡り、天地を揺るがせる。
 と、目の錯覚かと思うような速さで影が宙を走って。
「────」
 太公望の目の前に──先程まで妲己が居た位置よりは遥かに離れてはいたが、黒い人影が浮かんだ。
 いつ雪が降ってきてもおかしくない冷えきった大気に身を浸し、無言のまま、正面からまなざしを交わし合って。
 数秒だったのか、もっと長い時間だったのか分からない沈黙が降りる。
 それを破ったのは。
 大瀑布の轟きを圧して静かに響く、青年の声だった。
「お久しぶりです、太公望師叔」












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opening text by 「ボーダーライン」 遊佐未森